其ノ壱
宵闇を流れる微風の中を、ひとひらの蝶が優雅に舞う。その鱗粉は白い光の粒子となり、雪のように煌めきながら落下していく。風を孕む薄い羽は鮮やかな薄花桜を放ち、しとやかな冬の青空を彷彿とさせた。
「ほお。まことに美しい。闇の中を舞うとは、稀有な胡蝶だな」
そんな美しい蝶に魅了されてか、一人の男がその羽を追う。
若い男だった。目を引く透き通るような銀髪と、光沢を帯びた同色の瞳。闇の中で発光するように輝くそれは、虚空から静かに地上を照らす月を思わせる。
低空を揺蕩う蝶を追っていた彼は、視界の隅を泳いだ淡い紅色にふと顔を上げる。薄紅のそれは、小さな花弁であった。微笑むように柔らかな色をしたそれは、そここの闇を鮮やかに染め上げる。男は花弁を視線で辿り、その先にそそり立っていた明媚な桜の木に感嘆の吐息を漏らす。
「あら、このような時刻に客人とは珍しいわね」
桜の根本に歩みよった男へ、唐突に若い女の声が落ちてくる。
「……その声は、木花咲耶姫か」
「そうよ。久しいわね、月読命」
満開の桜を見上げる男の前に、桜色の衣を纏った女性が微かな鈴の音と共に霧のように姿を現す。
漆細工のような艶のある黒髪を持つ、優艶な美女であった。彼女の桜の花に彩られた頭の上へ、薄花桜の蝶が羽を休める。
「その胡蝶に導かれここまで来たのだが、咲耶姫の使いであったか」
月読命は白くすらりとした指で蝶を示し、咲耶姫はうっすらと笑みを浮かべる。
「ええ。美しいでしょう?」
彼女の声に促されるように、蝶は闇へと身を躍らせる。二人が見つめる中、蝶は桜の木の枝に結ばれた鈴に止まり静止する。よく見ると、まちまちの色と形をした数多の鈴が、桜の枝に結ばれていた。
「咲耶姫、これらの鈴は何だ?」
「それは、人間たちが願掛けをしているのよ。私に願いを叶えて貰おうと、鈴を結んでいくの」
咲耶姫の言葉に、鈴を仰いでいた月読命は嘲笑するように喉を震わせる。
「咲耶姫はこの木の守り神であって、願いを叶えられる訳ではないというのに。全く、人間というのは愚かしい生き物だ」
月読命の笑いに気分を害したのか、咲耶姫は頬を膨らませる。
「笑ってはなりません。願を掛けに来る人間は皆、心の底から私を信じ、信仰しているのよ。それを馬鹿にするそなたの方が、よほど愚かしいわ」
彼女はふいと余所を向き、憂愁な面持ちで言葉を続ける。
「それに、人間が叶わぬ願いを私に語りかける度、自分の無力さに苛まされてしまうの。仮にも女神である私が、人間一人の願いさえまともに叶えられないなんて」
自嘲するように、咲耶姫は片頬をつり上げる。月読命は僅かに頭を振りながら、瞼を伏せる彼女の横顔を見つめる。
「仕方のないことだ。たとえ神であろうと、万能ではないのだから」
月読命の言葉に、咲耶姫は顔を上げ彼を振り向く。烏の濡れ羽色をした瞳が、真っ直ぐに月読命を見上げた。
「月読命は――」