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今日は二人の記念日だ。
いつもより服装に気を使い、いつもより多めにワックスを手に取った。
いつもと大して変わらないはずなのに、なぜか髪型がおかしな気がして、何回も髪の毛を洗い直し、気づけば5回目のワックスを手に取っていた。
家を出るとき、結局僕は帽子をかぶっていた。
約束の時間までまだ一時間近くあった。
霜の降りた道端の草が、朝日に輝き、柄にもなく思わず見入ってしまった。
一つ、大きく深呼吸をした。
冬の朝の冷気を帯びた空気が肺いっぱいに拡がった。
「よし!」
僕は小さく拳を握りしめ、歩き始めようと足を上げたとき、近所のおばさんと犬が不思議なものを見る目で僕を見ていた。
約束の公園に着いたのは、待ち合わせ時間の三十分くらい前だ。
僕はかばんの中に入っているそれを、何度も見て、そのたびに緊張が増し、それでもまた見て……気づけば彼女が僕の前に立っていた。
「おはよ~。待たせちゃった?」
「おはよう。全然。今来たところだから」
「三十分も前に来たのに?」
彼女はクスッと笑った。
最近彼女は僕を困らせるのが好きなようで、今日もおそらく近くで一時間くらい前から隠れていたのだろう。
やることがまるで子どもだ。
「じゃあ、行こうか」
僕は彼女の質問には答えず、彼女を置いて歩き始めた。
「ちょっと待ってよ~!」
急いで後ろから追いかけてくる彼女と同じ距離を保つように、僕も走った。
まったく、いったい僕たちはいくつなんだろうか……。
僕たちは電車に乗って町から街へ出かけた。
休日の朝とあって比較的空いていた。
窓の外の茶色や緑色の風景の中に、所々無機質な灰色の建物や道があって、空の青が余計に映えて見えた。
キレイな青色だった。
自分では決して作り出せない、頭の中のパレットでも上手く表すことができない、そんな青だった。
隣で同じように窓の外を眺める彼女は、いったい何を思っているのだろうか。
「ねぇ拓也。あの雲、ベーグルみたい」
なぜベーグルなのだろうか。
ドーナツとかタイヤとかいろいろあるだろうに。
そういえば最近、巷ではベーグルがブームなようで、毎日のようにテレビでベーグルを見た。
おそらく彼女はそのとき、それを思い出してベーグルが食べたくなったのだろう。
僕と彼女の思考はまるで違う。
彼女はとても感覚的だ。
僕は今まで彼女のこういうところに、何度も救われた。
苦しかったり、つらかったりしたとき、僕の思いもよらぬ視点から、その気持ちを和らげてくれた。
「お昼はベーグルにしようか。」
「え? ……べ、別にそういうわけで言ったわけじゃ……」
彼女は少しすねた表情を見せた。
僕は彼女の笑っている顔を見るのも好きだが、少し俯いた、この無防備な幼さのある表情がすごく好きだった。
駅について、改札を出て、ウィンドウショッピングをしながら街中を歩いた。
「ねぇ、あれ着てみない?」
「あ、あの帽子似合いそう」
彼女はなぜか、自分のものそっちのけで、僕に着させる服を選んでいた。
そんなに僕のファッションに問題があるのだろうか?
彼女曰く、「自分のいいと思ったものを着てもらいたい」そうだ。
まぁ僕もそれなら次回は服装に困らないわけで、彼女の薦めるまま二着の服と帽子を買った。
「何か選びなよ。プレゼントするから。」
「ほんと!? じゃあねぇ~……」
僕としては、たまには何万もする服をプレゼントしたいのだが、彼女は決まっていつも、そんなものでいいの? というようなものを選ぶ。
一度サプライズでプレゼントしたことがあるのだが、喜ぶというよりは、困っているといった表情だった。
「じゃあ、これ!」
結局この日も彼女が選んだのは、薄いピンクのニット帽だった。
彼女はそれを買って外に出ると、さっそく被って一回転して僕に見せた。
「どう? 似合う?」
昔僕は彼女に麦藁帽子をプレゼントしたことがあったが、そのときと同じような懐かしい感情がこみ上げてきた。
「うん。すごく似合ってるよ」
彼女はぱたぱたしながら嬉しそうに僕の手を握った。
お昼は約束どおりベーグルの専門店に入った。
彼女は念願のそれを口にし、満足気だった。
「やっぱり食べたかったんだ。」
「……昨日テレビで見たから。」
あの表情が見られて、僕は満足だった。
「次、どこ行こっか?」
彼女は聞いた。
「映画でも見ない?」
たまたま見たい映画があったので、彼女に付き合ってもらうことにした。
ファンタジー系の映画で最後のオチで思わず涙腺が緩んだが、なんとかこらえた。
劇場を出たとき、彼女の目は少し腫れていたが、あえて突っ込まないでおいた。
さすがにそこまで子どもではない。
見上げると空は夕焼けに染まり始めていた。
その後僕たちは、もう一度ショッピングを楽しんで、夜はちょっとおしゃれなイタリアンレストランに入った。
彼女はカルボナーラをいつも頼むのだが、今日はボンゴレロッソなんていう小洒落たものを頼んだ。
「カルボナーラじゃないの?」
「カルボナーラは卒業。ちょっと大人になったの」
「じゃあ、今日は僕がカルボナーラにしようかな」
別にカルボナーラを子どもっぽいとは全然思わないが、彼女的に少し気にしていたのだろう。
数分後。
料理が運ばれてきて一口食べた彼女は、トマトの酸味が強かったらしく、一瞬静止し、僕のカルボナーラは彼女の前に移動した。
「無理するから」
「……無理じゃないもん」
僕たちは夕食を済ませた後、電車に乗って帰ろうと改札まで来たが、なんとなく彼女は寂しい表情だった。
いつもなら僕もそうだ。
しかしこの日はそれよりも、かばんの中に入っているもののせいで、緊張が勝っていた。
「行こうか」
「うん」
電車の中で今自分が何を話しているのか、彼女が何の話をしているのか全く分からなかった。
暖房の効いた車内は真夏よりもはるかに暑く感じた。
「顔、赤いよ?」
「え、……あ~、ちょっと暖房効きすぎかな。はは」
「?」
彼女は怪訝な顔をしたが、また元の話に戻った。
駅に着くまでの時間はあっという間だった。
僕はさりげなく、
「ちょっと歩かない? 暑いからさ」
と言って、公園まで歩いた。
公園に着くと情けないことに、ブランコに座って一時間近く世間話をした。
切り出すタイミングは何回もあったが、口は動けど声が出なかった。
「あ、雪だ」
神は応援しているのだろうか?それとも急かしているのだろうか?
どんどん胸の鼓動は速くなった。
手がゆっくりとかばんの中に入っていった。
お目当てのそれに指の先が触れたとき、バラエティー番組の箱の中身を当てるクイズのように、ビクッと体が震えた。
彼女は空を見上げながら、言った。
「ねぇ、雪が降るなんて久しぶりだね」
僕はもう一度、今度はしっかりとそれをつかんで、
「明日積もるかなぁ」
ゆっくりとかばんから手を抜いて、
「もっといっぱい降ったら、明日会社行かなくて済むかもしれないのにね」
それを目でしっかりと確認してから、一つ小さく深呼吸をして、そして、彼女の言葉をさえぎって、僕は言った。
「結婚しよ!」
時間が止まったような感覚とはまさにこのことだと思った。
一切の物音は消え、舞い降りる雪だけが、この世界に時が流れているのを感じさせた。
彼女は虚を突かれたような表情をしていた。
けれど、その表情にはだんだんと喜色が表れ、半分泣きそうな顔になりながら言った。
「うん!」
その澄んだ声は、真っ暗な田舎の公園から波状に拡がり、田畑は実り、草木は生い茂って、花が咲き乱れ……るようなイメージが僕の中に拡がった。
彼女は僕に飛びつき、その勢いに押されてブランコから落ちてしまった。
それでも彼女はお構いなしに抱きしめてきたので、そのままの格好で僕も彼女を抱きしめた。
今日は僕たちの十年目の記念日だ。
読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
もう少し細かく改編しようかなと考えていますので、参考のため、よろしければ感想や評価などなどよろしくおねがいします。