婚約破棄を脅しに使った婚約者様、残念ですが本当に終わりです――もうあなたのためのお菓子は作りません
「あはは……、また、いらっしゃらないですね……。でも……もう少しだけ、待ってみます」
使用人にそう答えたのは、今月だけで五度目だった。
バーナード様の屋敷の食堂。
私の前には、二人分の皿が並んでいる。紅茶はまだ淹れていない。お菓子も、来てから仕上げればいいように準備していた。
夕食後の二人だけのお茶会。
それは私達の習慣であり、互いの両親から勧められたものだった。同じ時間を過ごすことによって、絆が深まり、より良い結婚生活になる、と。
……約束の時刻から、もう一時間以上過ぎている。
お忙しいのはわかっているけど……ここ数年はこんな感じだった。
わかっていても、鈍感なふりをする。
時計から目を逸らした。
私は、このお茶会の時間が好きだった。
幼馴染の婚約者、バーナード様は、昔から甘いものが好きだった。
私が初めて作ったお菓子は、ちょっとだけ焦げていた。家の職人に教えてもらったのに、全然うまく出来なかった。
でも、彼は美味しそうに食べてくれた。
『美味しい。また作ってくれよ、リゼル』
その時のバーナード様の笑顔が、すごく素敵だった。
今でも、はっきりと思い出せる。
その日から、私はお菓子を作るのが趣味になった。
お屋敷の職人から教わったり、街の有名店にだってお手伝いをしにいったりした。美味しいお菓子を作ることに、令嬢だからという理由は関係ない。
私は職人さん達と一緒にお菓子を作った。
初めは職人さん達も、私の道楽だと思って馬鹿にしていた。けど、私が本気でお菓子を好きだとわかると、色々なことを教えてくれた。
何年もかけて、少しずつ出来ることが増えていった。
バーナード様とのお茶会のことを考えながら作る時間も、好きだった。
と、その時、扉が開いた。
「……悪い。なんだ? まだ待っていたのか」
バーナード様が入ってくる。私は立ち上がった。
「お疲れ様です。すぐに準備を――」
「……もう食えん。今日は少し休みたい。……下げてくれ」
彼の視線が、テーブルの上を通り過ぎる。
「……そうですか。では、お茶だけでも」
「くどいぞ。今日は甘い物を食べる気分じゃない。……全く、こんなくだらないお茶会なんて……」
「あ、あの……」
「いや、なんでもない。親から決められたことだからな。……もういい、下がれ」
彼は食堂を出ていった。
私は一人、部屋に残された。
……大丈夫、いつものこと。
きっと、機嫌が悪かっただけ。それとも、私の態度が悪かったのかもしれない。謝った方がいいのかもしれない……。
そんなことを考えながら、私は自分の分の紅茶を淹れた。
バーナード様に出そうと思っていた『クレープ・シュゼット』。
クレープ生地を焼き上げる。
お砂糖をフライパンで香ばしい香りのするキャラメル状になるまで煮詰め、そこにバターと、オレンジの皮、オレンジジュースを加える。
それだけで、部屋中にオレンジの良い匂いが充満した。
クレープをソースに入れて、鍋肌でオレンジのリキュールをフランベさせる。炎が鍋を覆い、幻想的な光景になる。思わず声が漏れた。
出来上がったクレープはとろとろのソースと絡まって、すごく美味しそうだった。
そこに自家製アイスと生クリームをのせ、スプーンで一口――。
「……美味しい」
オレンジの香りが口の中で爆発する。
甘みと苦味とコクが、暴力的に広がった。
でも、だけど……美味しいのに……。
「一人だと……寂しいです」
そんなに美味しくなく感じるのは、なんでだろう……。
***
お茶会だけじゃない。
バーナード様への手土産のお菓子は、いつも手つかずのままだった。
「ちっ、忘れていたんだ。小姑みたいにいちいちうるさいぞ。忘れていただけだ」
私は「は、はい」と頷いた。
機嫌が悪いバーナード様に、余計なことを聞いてしまった。
こういう時のバーナード様は、人に当たり散らす。
……それでも、機嫌が良い時のバーナード様は優しいの。
だから、どっちが本当かわからない。
バーナード様は舌打ちしながら、お土産のお菓子の包装を雑に破って、一口で食べた。
「ど、どうですか? こ、今回のマドレーヌにはレーヌ産のキャロ蜂蜜を加えて、レモンの皮と――」
彼が私の口元に手を近づける。
うるさい、という合図だった。バーナード様のいつもの仕草。……あまり好きじゃなかった。
「……ふんっ、確かにうまいが、説明などどうだっていい」
「……ごめんなさい」
先に、謝る言葉が出ていた。
バーナード様は、もう一つマドレーヌを取った。
さっきまでの不機嫌が嘘みたいに、口元が緩んだ。
「まあなんだ、これは結構好きだ。また作ってくれ」
昔と同じ顔だった。
それを見たら、胸の苦しさが少しだけ薄くなった。
でも、胸に嫌な感じが残る。
不機嫌と上機嫌の繰り返し。それに振り回されているような気がする。
それでも私は「はい」と頷いた。
嫌われているわけじゃない。
私のお菓子は、好きでいてくれる。
だから、私が余計なことを言わなければいいんだ。
楽しく食べているところへ、長い説明をしたからいけなかった。
そう考えると……また作ってもいいのかな、と思えた。
***
夕食後、お茶会の時刻になると落ち着かなくなった。
今日は来てくださるだろうか。
どんな機嫌でいらっしゃるだろうか。
足音が近づくと顔を上げた。扉が開く前に、笑う準備をした。
両親に婚約の様子を聞かれれば、順調ですと答えていた。
彼が優しかった日のことを話せば、嘘ではなかったから。
それでも、なぜか罪悪感を覚えるのはなんでだろう?
前回もそうだったけど、今回も、用意するお菓子を減らした。
自分が食べきれる分だけにしようと思った。
でも、二人分の皿を並べるのはやめなかった。
来てくださった時、席がなければ寂しい思いをさせてしまう。
……もしも、自分がそうだったら……寂しくて悲しいから……。
***
『僕の誕生日なのに、お金もかけない、こんなしみったれた菓子だけなの?』
バーナード様の誕生日が近づいた。
随分前に言われた言葉が、心に刺さっていた。
大丈夫。その後は上機嫌になったから。
誕生日だけは、一緒に食べたかった。
子供の頃、毎年作ってくれと言われたデザートがある。
グラスに入った、パフェというものだ。アイスや生クリームやスポンジを入れて、見た目も美しいデザート。
バーナード様には、誕生日の都合を何度も聞いた。
「今年も、二人でお祝いしてよろしいですか?」
「分かっている。何度も確認しなくていい。……大丈夫って言っているだろ! しつこいぞ」
約束してくれた。
なら、きっと大丈夫。
当日は早くから準備をした。
私の持てる力を出し切ったパフェを作るために。
最後の仕上げは、バーナード様のお顔を見てから。
「うん、きっと喜んでくれるよ。だって、バーナード様は……昔は優しかったから」
ふと、気がついた。
私、自分で昔って言っていた……。
でも、鈍感なふりをして、気がつかないようにした。
期待していないことにすれば、来てくださらなくても平気でいられる。
そう思おうとしていた。
――約束の時刻は過ぎた。
使用人がお伺いを立ててくれたけれど、帰宅は遅れるとしか分からなかった。
私は見慣れた時計を見つめていた。
自分の中の器から、何かが零れ落ちそうな気がした。
そして、夜遅く、ようやくバーナード様が帰ってきた。
隣には、知らない令嬢がいた。
「ふん、商会で話が長引いてな。彼女を送る途中なんだ。なんだ、その目は。俺は仕事が忙しかったんだ。お前みたいに暇じゃない」
令嬢は、二人分の席を見て足を止める。
「あ、あの……何か、お約束があったのでは……」
「大丈夫。菓子を食べるだけだ。君も甘いものが好きだと言っていただろう?」
私は立ち上がった。
「……どうぞ」
「あら、ありがとう。えっと、甘い物が出てくるの?」
自分が座るはずだった椅子を引く。
もう一つ椅子を運んでもらい、私は裏へ下がって、手早く三人分のパフェを用意した。
「うわぁ、すごいパフェですわ! バーナード様、帝都で流行っていますのよ! 私、魔力板でいつもチェックしていますわ」
令嬢は、お菓子を一口食べて私を見た。
「うぅ〜ん、すごく美味しいです! 今まで食べたパフェの中でも、かなり好きですわ。これ、もしかしてリゼル様がお作りになったのですか?」
色々聞きたいことがあったけど、こんなに喜んでいる姿を見ていたら、私も嬉しくなった。
「はい。これは――」
バーナード様の手が、私の口元へ近づいた。
言葉が止まる。
黙れ、という合図だった。
私の心がざわつく。嬉しい気持ちなんて、しぼんでしまう。
「ふんっ、こいつに作り方を聞くと長いぞ。趣味に付き合わされる方も大変なんだ」
彼は笑っていた。馬鹿にしたような笑い方だった。
令嬢は戸惑った顔をしてから、もう一度、美味しいですと言ってくれた。
その言葉は嬉しかった。
でも、バーナード様の前では、喜び方まで分からなくなっていた。
私は床を見つめ……自分のドレスの裾を強く握りしめた。
***
客人を見送った後、私は皿を片づけていた。
バーナード様が、自分の食べ残しを厨房へ運んでくる。
食べ残しというよりも、ほとんど手をつけられていなかった。
「これも下げておけ」
「はい。残りは私が――」
彼は残飯用の容器を開け、グラスを傾けかけた。
「待って。捨てないでください。私が食べますから」
「はっ? 口答えするのか? 俺がわざわざ片づけているのに?」
お菓子が、容器の中へ落ちた。
聞こえなかったのだろうか。
「……待ってくださいと、言いました。私が食べると……」
「はんっ、貧乏くさい貴族だ。はぁ……もういいだろう。どうせまたお前が作ればいい。好きでやっているんだから」
私は容器の中を見つめた。
あの頃よりも、ずっとずっと上手に出来たはずだった。
何かがひび割れる音が聞こえた。
グラスが割れた音だと思ったけど、違う。
私の心にヒビが入った音だった。
「食べろと何度も言われるのも疲れるんだ。少しは、こちらのことも考えてくれ。本当に気が利かない女だ。それでも俺の婚約者か?」
私は何も言えなかった。
食べきれないなら、それでよかった。
それでも、捨てないでと言った。
その言葉すら、聞いてもらえない。
「分かったのか?」
謝らなければと思った。
そうすれば、彼の機嫌は直る。いつものように、これで終わる。
でも、口が動かなかった。
「ちっ、拗ねて泣けば許されると思っている甘い女だ」
バーナード様は舌打ちして、厨房を出ていった。
その舌打ちが――。
我慢できなくて、私は自分の胸を押さえた……。
何もかもがどうでもよくなった瞬間だった――。
***
帰ろうとする私を、バーナード様が呼び止めた。
「なあ、彼女が菓子を気に入っていたぞ。水晶通信で連絡があった。贈り物にするから、また作ってくれ」
私は道具の入った鞄を握った。
もう心は、シャーベットのように冷たくなっていた。
「……もう、お作りしません」
「なぜだ? 俺がケーキを捨てたからか? そんなことくらいで……これだから女は……。まあいい、俺は心が広い男だ。次のお茶会までには機嫌を――」
「もう、お茶会にも伺いません」
彼の顔から笑みが消えた。
「両親が決めたことだぞ。勝手な真似をするな」
彼の眉間には皺が寄っていた。本気で怒っている証拠。
でも、私はもう我慢の限界だった。
「だから、私から両親にもお話しします」
自分の声が震えていた。
怖かった。
彼の機嫌を損ねることに、慣れたことなんてなかった。
きっと、また泣いていると思われている。
それでも私は戦う。
「……リゼル。お前は自分が何を言っているかわかっているのか? この俺に逆らうのか? 菓子を捨てた程度で」
「はい。私はあなたの人形でも、おもちゃでもありません」
彼の顔が、一瞬で怒りに染まった。
右頬が熱くなった。
私は床に倒れていた。頬を殴られた。
「貴様が謝るまで、結婚は取り消しだ。俺に惚れているだろう? 泣いて謝るなら許してやる」
その言葉を聞いて、涙が一筋頬を伝った。
好きでいようと努力した。
昔のように、また笑い合えると思った。
両親にも喜んでもらいたかった。
私が作ったお菓子を食べてもらえる日を、楽しみにしていた。
いつか、昔のように話せると思っていた。
テーブルをひっくり返す、大きな音がした。
身体がすくむ。
バーナード様は物を壊しながら、部屋を出ていった。
私は涙を拭った。
そして、しっかりと前を見つめて屋敷を出た。
帰りの馬車で泣いた。
私も婚約を解消したかったのに、なぜか涙が止まらなかった。
***
婚約の解消は、両親を通して進めてもらった。
何があったのかを話すと、母はしばらく黙っていた。
それから私の頬の腫れに目を留め、使用人に医師を呼ぶよう頼んだ。
「どうして、もっと早く……。そんなモラハラは絶対に許せません」
母はそれ以上何も言わず、私の話を最後まで聞いてくれた。
両親は婚約解消に向けて話を進めてくれた。
やがて正式な手続きも済み、私は、自分のために使える時間を取り戻した。
なのに、夕食が終わると時計を見てしまう。
今日は、行かなくていい。
彼の機嫌を確かめなくてもいい。
そう思うと楽になった。
でも、何をすればいいのか分からなかった。
私に出来ることは、お菓子を作ることだけだった。
***
レシピ帳を開くと、職人さんに注意されたことが沢山書いてあった。
失敗した日付。
初めてうまく出来た日の印。
私が面白がって試した、彼の好みとは関係のないお菓子。
ページをめくるうちに、厨房で皆と笑った日を思い出した。
全部が、バーナード様のためだったわけじゃない。
好きでやっていた。
その言葉は、本当だった。
「……お菓子、作りたい」
ぼそりと呟いた。
私は昔なじみの職人さんのところへ向かい、毎日のように仕事を手伝った。
充実した毎日だった。
仕事はとても貴族の令嬢がするような内容じゃないけど、私は幸せだった。
そんな様子を見ていた両親が、ある日、話を持ってきた。
「あのね、知り合いがお店を閉めちゃうのよ。……あなた、そこでお菓子屋さんをやってみる?」
すぐには頷けなかった。
私はお菓子が好きだ。
でも、商売となると違う。職人さん達のそばで、嫌というほどそれを見ていた。
一週間悩んだ。
職人さん達にも相談した。背中を押してくれた。
だから――。
「うん。私、やってみる」
***
私はお店を何度も見に行き、蓄えと、毎月必要になるお金を計算した。
事業計画書を作り、両親に見せた。
自分の貯金で足りない分を、両親から借りるために。
内装修繕費、立地条件、食材原価、人件費、メニュー構成――。
甘く見積もらないよう、何度も計算し直した。
テイクアウトとイートイン。どちらか一方の売上に頼り切らないように考えた。
小さなショーケースと、カウンターデザート。
たった六席の、小さな店にした。
一人で来た人も、向かいの空席を気にせず座れる。
気軽にデザートを食べられる。
そんな場所にしたかった。
***
「えっと、ここが工房かな?」
むせ返るような、コーヒーの匂いが漂ってきた。
飲み物の仕入れ先は、昔教わった職人さんに紹介してもらった。
コーヒーを焙煎し、お茶も扱う工房。
一人の男性が、黙々と仕事をしていた。
彼の名前はヒスイ。
気難しいけど、とても美味しいコーヒーとお茶を取り扱っているという。
「……紹介じゃなかったら、貴族のお遊びに付き合うつもりはなかった」
ヒスイさんは、嫌そうな顔で言った。
そう思われても仕方ない。
だって私は貴族の令嬢。お遊びに見えるのだと思う。
でも――お菓子にかける情熱だけは、誰にも負けない自信がある。
ヒスイさんの工房に通うたびに、彼の態度が変わっていったような気がした。
「それでですね、卵と砂糖は味だけじゃなく、特性というものがあります。卵の起泡性や、砂糖を加えた時の変化、それに保湿性や、蜂蜜の働きが――」
話しながら、途中で口を閉じる。
「……あっ、すみません。その、面白くないですよね……。美味しければ、それでいいですよね」
ヒスイさんが首を傾げた。
「俺は菓子のことは詳しくない。だが、コーヒーに似ている部分もある。興味深いぞ。続けてくれ」
私は顔を上げた。
「は、はい! あ、あの、砂糖にも色々な種類があって、糖度と甘味度が――特殊な砂糖も、帝都で最近売り出されていて――」
彼は急かさず、私の話を聞いてくれた。
私は楽しくなって、色々なお話をした。
試作品を一緒に食べながら、説明する。
ヒスイさんは質問をしたり、奥へ行って、色々な種類のコーヒー豆や茶葉を持ってきてくれたりした。
「その焼き菓子には、この豆が合う」
「パフェか……初めて食べたが、美味しいものだな。優しい香りのお茶が合うだろうな」
一緒に確かめながら、店で出すものを決めた。
充実した時間だった。
帰り際、ヒスイさんが私を呼び止めた。
「最初は決めつけて悪かった。君の話を聞く前に、遊びだと判断すべきじゃなかったな」
一瞬、返事を忘れた。
彼は自分から、間違っていたと言ってくれた。
「……ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
手元には、お茶とコーヒーの請求書が残った。
適正な金額だった。
なんだろう。
ヒスイさんに仕事相手として認められたような気がして、それが少し嬉しかった。
***
「あ、あはは、仕方ないよね……今日は平日だから」
開店した日は大盛況だった。
これで一安心と思った次の日。お客さんが全く来なかった。
イートインには誰もいない。
私は黙々とケーキの仕込みをする。
お客さんが来なくて焦ったけど、お菓子を作っていると嫌なことも忘れられた。
そのうち、テイクアウトのお客さんがやってきた。
自分のお菓子が売れていく。それがとても嬉しかった。
相変わらず、イートインには誰も来ない。
夕方を少し過ぎた頃、扉の鈴が鳴った。
「一人だけれど、大丈夫かしら?」
老婦人が立っていた。
私は慌てて頷く。
「……もちろんです。お好きなお席へどうぞ」
老婦人が注文したのは『クレープ・シュゼット』。
大昔、帝都で流行った懐かしいデザートだと、彼女は言っていた。
目の前で、シュゼットを仕上げた。
老婦人は一口食べ、少し目を丸くする。
「美味しい。こちらは温かくて、こっちは冷たいのね。懐かしいわ……あの頃を思い出すわ。……あのね、旦那と一緒にホテルで食べたのよ。本当に懐かしいわ」
老婦人は優しい笑顔を浮かべていた。
彼女の顔が、とても若々しく綺麗に見えた。
「ありがとう。こんなに美味しいものは久しぶりよ。……今度、孫を連れてくるわ」
「……ありがとうございます」
自分のデザートで、こんなにも喜んでくれる。
私は、涙が出そうだった……。
***
少しずつ、お客さんが来る日が増えた。
老婦人が友人を連れてきてくれた。
看板を見て入った人が、次の予約をしてくれた。
ヒスイさんも、納品や相談で訪ねてきた。
彼にも工房の仕事があるから、話が終われば帰っていく。
なんだろう。
ヒスイさんとは年が近いこともあり、同年代の友人みたいな感じがする。
お菓子屋さんの職人さんと似ているから、話しやすいのかな?
話し始めると、二人とも止まらない。
だから、ヒスイさんが来る日を、少しだけ楽しみにしている自分がいた。
順調に進んでいると思っていた。
新しい人間関係が出来て、お店にも常連さんがついてくれて――。
バーナード様を思い出さずに過ごせる日が、少しずつ増えていた。
でも――。
その日の午後、聞き慣れた嫌な声がした。
「はっ、狭い店だな。リゼル。随分、忙しそうじゃないか。なんだ、俺の席を用意していないのか?」
バーナード様だった。
六席は全部埋まっている。
私は、仕上げの途中で手を止めかけた。
彼を見て、自分の手が震えていた。
「少し話そう。庶民の客には待ってもらえばいいだろう? なにせ、俺は大貴族だからな」
目の前のお客様が、遠慮するように私を見る。
私は目を閉じ、深呼吸をした。
違う。
私はもう、言いなりになんてならない。
もうバーナード様の婚約者じゃないのだから。
「今は、お客様のお菓子を仕上げています。お話は、閉店後にお願いします。……これ以上無理を言うのならば、営業妨害ですので、衛兵を呼びますわ」
震える声で、私は答えた――。
*** バーナード ***
「……衛兵?」
聞き間違いかと思った。
リゼルは俺を見ていなかった。
客の前で手を動かし、作りかけていた菓子を仕上げている。
あいつの身体は、さっきまで震えていたはずだ。
なのに、止まらずに動いていた。
「お待たせいたしました! ベリーチョコレートパフェです。こちらのソースを途中で加えると味が変わりますので、お試しください。それでは、ごゆっくり――」
客へ向けた声は、俺に話す時と違った。
さっきまでの怒りが、少しだけ引いた。
「リゼ――」
その先の言葉が出てこなかった。
店にいる人間が、皆こちらを見ている。
ここで声を荒らげれば、本当に衛兵を呼ばれるかもしれない。
「……ふん、外で待つ」
リゼルは目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
俺は店を出て、通りの向かいにあるベンチへ腰を下ろした。
秋の風が少し冷たかった。
――こんなはずではなかった。
結婚を取り消すと言ったのは、本当に別れるためではない。
怒っていると分からせれば、彼女は謝ると思った。
俺に嫌われたくなくて、泣きながら許しを求める。
そこまでしなくても、翌日にはまた菓子を持ってくる。
リゼルの愛を、確かめられると思っていたんだ。
――俺はリゼルを愛している。誰よりも。
そう思っていた。
両親を通して婚約解消の話が届いた時も、意地を張っているだけだと思った。
こちらが折れなければ、最後にはリゼルが戻ってくる。
だって――俺のことが好きだっただろう?
俺に会うだけで笑っていた。
美味しいと言えば、次も頑張りますと嬉しそうに頷いた。
初めて菓子を持ってきた日のことを覚えている。
少し焦げていて、形も揃っていなかった。それでも、自分のために作ったと聞いた時、胸が熱くなった。
俺が一口食べる間、彼女は息を止めているみたいだった。
美味しいと言うと、顔いっぱいに笑った。
あの笑顔を、もう一度見たくて、また作ってくれと言った。
また会いに来てほしかったんだ。
それが、いつから当然になった?
屋敷の食堂へ行けば、リゼルがいる。
遅れても待っている。機嫌が悪ければ、気を遣ってくれる。
いつからか、面倒になったんだ。
愛しているのに、他の令嬢が気になってしまった。
好きだったはずの笑顔より、自分の機嫌を直すことを優先させるようになった。
黙らせれば、黙った。
怒れば、謝った。
だから、今回もそうなると思った。
窓の向こうで、客が何かを尋ねていた。
リゼルが少し身を乗り出して答える。
言葉が次々に出てくる。客も楽しそうに頷いていた。
あんなに、喋る女だっただろうか。
俺の前では、寡黙な女だったはずだ。
いや――昔は、俺にも話していた。
新しく覚えた菓子のこと。職人に褒められたこと。次に一緒に食べたいもの。
俺が、その口を閉じさせた。
自分の手を見る。
この手を近づけるだけで、彼女は言葉を止めた。
たいしたことではないと思っていた。
それが当然だと思っていた。
あの日、彼女が初めてはっきり逆らった時。
俺は、その手で頬を殴った。
あの時のリゼルの顔を思い出した瞬間、後悔が押し寄せた。
何をしていたんだ、俺は。
窓の向こうで、リゼルが笑う。
大好きな顔だった。
あの顔を見るために、昔は俺も、会う日を楽しみにしていたのに――。
俺は、とんでもないことをしでかしたのではないか?
もう二度と、あんな日々は戻らないのか?
***
最後の客が帰り、リゼルが俺を呼んだ。
店へ入る。
入口には、リゼルの実家の使用人が控えていた。俺が中に入っても、その場を離れようとはしなかった。
リゼルはカウンターの向こう側に立ったまま、俺に椅子を勧めなかった。
「……店を続けたいなら、続ければいい」
最初に出たのは、そんな言葉だった。
「お茶会も、遅れない。だから――」
リゼルが首を横に振る。
「いえ。もう、その相談をする関係ではありません」
「俺は、やり直そうと……」
「婚約は解消されました。両家でのお話も、終わっています」
分かっている。
書面も見た。家からの説明も聞いた。
でも、そんなものはリゼルが戻ってくれば、どうにかなると思っていた。
「ほ、本当に、別れるつもりじゃなかった」
彼女が俺を見る。
「謝るまでだと言っただろう。お前が、あんなふうに言い返すから……」
そこまで言って、口を閉じた。
また、彼女のせいにしようとした。
リゼルは、カウンターの縁に置いた手を握っていた。
「私は、謝ればよかったのですか?」
「……いや」
「そうすれば、また今までどおりに、お菓子を作って、お茶会へ伺えたのですね」
俺は頷けなかった。
そのつもりだった。
俺にとっては、元に戻るだけだった。
リゼルが俯く。
「私は、もう怖かったんです」
小さな声だった。
「殴られたことも、物を壊されたことも、忘れられません。でも……その前から、お会いするのが怖くなっていました」
胸が痛んだ。
俺に会うのが、怖かった?
「今日は機嫌が良いだろうか。何を言ったら怒らせてしまうだろうか。そんなことばかり考えていました」
「俺は、そんなつもりでは――」
「分かっています。バーナード様にとっては、いつものことだったのでしょう?」
返す言葉がなかった。
リゼルは俺を責め立てなかった。
怒鳴りもしない。自分の声を確かめるように、少しずつ話した。
「でも、私はつらかったんです」
俺は、その言葉を聞かなければならなかった。
今までなら、考えすぎだと言った。
そんな顔をするなと、黙らせた。
彼女が、つらかったと話しているだけなのに。
「……リゼル。俺は、お前が好きなんだ」
彼女が顔を上げる。
「ずっと好きだった。昔も、今も。だから、こんなふうに終わるなんて……」
言葉がうまく続かなかった。
好きだと言えば、笑ってくれると思っていた。
自分も好きですと、答えてくれると思っていた。
でも、リゼルは困った顔をした。
「昔、お菓子を美味しいと言ってくださった時、私も嬉しかったです」
少しだけ、目が潤んでいた。
「そのことを何度も思い出しました。優しくしてくださる日もあったから……まだ、大丈夫だと思おうとしていました」
俺は彼女へ手を伸ばしかけた。
リゼルが、半歩下がった。
反射的な動きだった。
俺が何をするのか、確かめるより早く。
伸ばしかけた手を、下ろした。
「……殴って、悪かった」
謝ると、彼女は小さく息を吐いた。
「俺が間違っていた。もう二度としない。君の話も、ちゃんと聞く。だから――」
「今、聞いてください」
リゼルの声が震えた。
「私は、もう戻りたくないんです」
俺は口を閉じた。
彼女の話を聞くと言いながら、俺が聞きたい返事を求めていた。
やり直したい。
許してほしい。
俺を好きなリゼルに戻ってほしい。
そればかりだった。
「捨てないでと、言いました。私が食べるから、待ってくださいと。あの時も、聞いていただけませんでした」
あの夜の厨房を思い出す。
俺には、聞こえていた。
聞こえていて、それでも捨てた。
「美味しく作れるようになれば、また喜んでいただけると思っていました。でも、お菓子の出来が悪かったわけではなかったんですね」
リゼルは涙を拭った。
「もう、あなたの席はありません」
俺は、六つの椅子を見た。
屋敷の食堂には、俺のための席があった。
俺が来ても来なくても、用意されていた。
もう――その席がない。
「このお店は、私がやりたいと思って始めた仕事です。お客様にも、怖い思いをしてほしくありません」
リゼルが、俺を見つめる。
「お店へいらっしゃるのは、もうやめてください。必要なお話は、両親を通していただけますか」
何か言わなければと思った。
でも、何を言っても、彼女の答えを変えようとする言葉にしかならなかった。
俺は頭を下げた。
そして、店をあとにした。
リゼルは、引き止めなかった。
もう、次に会う約束さえしてくれなかった。
本当に、失ったんだ。
涙で道がよく見えない。
どこへ帰ればいいのかも考えられず、俺は街を歩いた。
彼女が泣いて戻ってくる姿ばかりを、思い描いていた。
泣きながら一人で歩いているのは、俺だった。
*** リゼル ***
「気持ちを入れ替えなきゃ!」
店を休みにした日、私は自分のためにクレープ・シュゼットを作った。
一人分を仕上げて、カウンターへ運ぶ。
最初の一口で、オレンジの香りが広がった。
「……美味しい」
昔、このお菓子を一人で食べて、寂しいと思った。
今も、あの日のことを思い出せば胸が痛む。
一人でいるのが、いつでも楽しいわけでもない。
でも、それとは別に、美味しかった。
今日は、誰かに食べてもらえなかった残りではない。
私が食べたくて作った、私の分だった。
もう一口食べる。
今度お店で出す時に、少し変えてみたいところを思いついた。
「うん。デコール果実の皮を使うと、もっとコクが出るかも」
レシピ帳を引き寄せて、書き留める。
食べ終わるまで、時計を見ていなかった。
***
次の営業日の閉店後、ヒスイさんが新しい茶葉を持ってきた。
いつものように仕事の話をする。
試してみたい組み合わせを伝えると、彼は少し考えてから頷いた。
「面白いかもしれないな。俺も、別の淹れ方を試してみる」
「ありがとうございます。では、次に――」
彼が荷物をまとめ始める。
私はその手元を見て、少しためらった。
仕事が終わったのだから、帰るのは当たり前だ。
でも、今日はもう少し一緒にいたかった。
いつもはささっと帰るヒスイさんが、今日は店を見回しながら、何か考えていた。
「……あ、あの、ヒスイさん」
彼が振り向く。
「よかったら、お菓子を食べていきませんか? そ、そうです、試食です! お、お時間がよろしければ」
ヒスイさんは即答した。
「ああ。俺もそんな気分だった。――とびきりのコーヒーを淹れよう。厨房を借りるぞ」
「は、はい! 私はデザートの準備をしますね」
私は二枚の皿を出す。
作りながら、休みの日の話をした。
そして、出来上がったお茶会の準備。
六席のカウンターに、二人分の皿とカップ。
今日は、どちらか一人が機嫌を窺いながら座っているのではなかった。
「いただきます」
一口食べて、ヒスイさんが私を見る。
私も彼の淹れたコーヒーを飲んで、顔を上げた。
伝えたいことが浮かんだ。
彼も、何か話そうとしていた。
同時に口を開いてしまって、二人で少し笑った。




