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その美少女、説明書つき 〜万能支援スキル【攻略本】で陰キャ聖女は今日もパーティをクビになる〜

掲載日:2026/04/28

「リリエル・エーデルシュタイン。お前をパーティから追放する」

 アレク・ブライトハルトの声は、宿屋の食堂に静かに落ちた。

 私の心臓が、一拍遅れて跳ねた。

 跳ねた理由は——恐怖でも、悲しみでも、怒りでもない。

 (やった)

 純粋な、喜びだった。

 引きこもれる。今日から引きこもれる。七回目の追放だけれど、いちばん嬉しいかもしれない。なぜなら今回は財布にまだ金貨が三枚ある。干し果物の袋もある。日記帳も新しいのを買ったばかりだ。引きこもり環境としては、過去最高の状態だ。

 ところが。

 なぜか顔は勝手に上がっていた。顎が、意志と無関係に持ち上がる。これが問題の顔だ。プラチナブロンドの縦ロール、青い瞳、陶器みたいな白い肌——客観的に見ると「高飛車な貴族令嬢が怒っている」という絵面になる。

 口が開いた。

「——結構ですわ。むしろクビにして差し上げますわ」

 ぱん、と扉が閉まった。

 廊下に出た瞬間、私は膝から崩れ落ちそうになった。

(……違うの。そうじゃないの。帰りたかっただけなの)

 壁に背をつけて、ゆっくり息を吐く。食堂の中からエリーゼ・ランの「あんな言い方しなくても……」という声が漏れてきた。ドラン・ヴォルフが「彼女なりの表現だったのかもしれないが、結果的に我々が傷ついている事実は変わらない」と続ける。

 私の口は、心と逆のことしか言わない。

 生まれつきだ。緊張すると声が裏返るし、何も思っていないのに睨んでいる顔になるし、話しかけたいのに「構いませんわ」と言う。

 十五年間、ずっとそうだ。


 固有スキルの話をしよう。

 私の【攻略本パーフェクトガイド】は、対象の全情報を視認する。好物、弱点、悩み、直近三日間の夕食まで、ゲームの攻略サイトみたいに頭の中に流れ込んでくる。

 止められない。コントロールできない。

 アレクを見れば「昨夜、エリーゼのことを考えて眠れなかった(照れ)」が見える。エリーゼを見れば「アレクが告白してくれないので業を煮やしている(戦略的待機中)」が見える。二人の間でこちらを向くたびに両方の情報がどっと押し寄せてくる。

 それが原因で、最初のパーティを追放された。

 二回目は「相手の秘密を言い当てすぎて不気味」。三回目は「戦闘の前に敵に同情して剣が振れない」。四回目は「仲間の悩みが見えすぎて距離を置いた結果、冷たいと思われた」。五回目と六回目は合算して「とにかく不思議ちゃんすぎて集団行動が無理」。

 今回は「スキルが戦闘に役に立たない」。

 七回目。


 翌朝、王都を出た。

 目的地はない。リュックに詰め込んだのは、ポーション三本、携帯食料五日分、干し果物の袋(イチジク・アプリコット・ブドウの三種混合)、そして日記帳。

 日記帳を開くと、最後のページにこう書いてあった。

「今日も誰とも話せなかった(自分から話したかったけど無理だった)」

 その前のページ。

「また失言した。怒ってないのに怒ったことになっていた」

 更に前。

「一人で食べたパンが美味しかった」

 三種類のローテーションで五年分のページが埋まっている。

 地図を見ながら歩いた。

 三時間後、気がつくと立っていたのは「呪われた魔境・灰霧の迷宮」の入口だった。

 ……地図を逆さに持っていたらしい。

 入口の看板には、手書きで「入るな、死ぬぞ」とあり、その下に小さく「マジで」と補足されていた。

 私はずいずい入った。静かだったから。


 五分で、六体のゴブリンと遭遇した。

 【攻略本】が瞬時に展開する。

《ゴブリン・A(通称・ガンク。彼らの中での序列一位)。好物:干し肉。弱点:大きな音と火。トラウマ:三年前、ドラゴンに巣を焼かれた。現在の悩み:腰痛(慢性)。原因:重い棍棒の持ち方が悪い。家族:妻マルナ、子三匹。長女のゴブ子は最近反抗期。二日目の夕食:ドングリ(不本意)》

 ガンク、腰痛がひどい。

 前傾姿勢で棍棒を振り上げているのを見ると、確かに右腰への負担が尋常ではない。三年間そのフォームで戦ってきたなら、むしろよく動けているほうだ。

「腰、痛いでしょう」

 ガンクが止まった。

「…………ガ?」

「右側だけ傾いていますわ。棍棒を右手ばかりで振っている。フォームが悪いんですの」

 六体のゴブリンが互いの顔を見合わせた。

 私は荷物を漁り、携帯ホカホカシートとポーション一本を取り出した。非常用だが、今が非常だ。

「腰に当てるといいですわ。ポーションは奥さんに飲ませてあげてくださいまし。子育て中は体に負担がかかるものですわ」

《マルナ(ガンクの妻):産後の疲労蓄積、鉄分不足》

 情報は見えている。でもマルナは今ここにいないので、あえて言わない。ガンクが自分で気づいてあげるほうがいい。

「……ガ」

 ガンクがゆっくりと棍棒を下ろした。

「ガ!!!!!」

 感謝の叫びだと思う。六体が四方八方に散っていった。


 次はスライムの群れだった。二十体ほど。

《リーダー個体・ゼリー。好物:水分全般。悩み:群れが増えすぎて食料が足りない。この地域の地下水脈は枯渇しかけている》

「地下二層に豊かな湧き水の地帯があるはずですわ。そちらへ移ってみてはどうですの」

 全員でぷるぷると揺れた。それから左右に分かれ、道を開けてくれた。

 私は礼を言って通り抜けた。

 ——これが【攻略本】の使い道だ。戦わなくても、わかる。

 ただし、誰もその価値を認めない。


 大きな分かれ道に、オーク族長・グロムが立っていた。

 体長二メートル半。筋肉の鎧のような体格。でも表情が「残業続きの係長」に似ていた。

《グロム・オークバシュ。年齢:七十二歳。好物:バナナ。弱点:水責め。悩み:部下に舐められている(原因:優しすぎる)。三日目の夕食:焼き肉(部下の残飯)。深層の願望:誰かに「よくやっている」と言ってほしい。切実に。備考:部下に食事を渡すために自分は毎日残飯を食べているが、気づかれていないと思っている》

 気づかれていないわけがない、と私は思った。七十二年間生きてきた族長の献身が、周囲に見えていないはずがない。ただ、不器用な部下たちは言葉にする方法を知らないだけだ。

「よくやっていますわよ、グロム族長」

 族長が固まった。

「……なぜ名を知っている」

「スキルですわ。——それより。部下のために食事を減らしているでしょう。ばれていないと思っているかもしれませんが、部下たちはちゃんと見ていますわよ。ただ言い方がわからないだけですわ」

 大きな緑色の目が、じわりと潤んだ。

 グロムはしばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。

「……なぜ一人で来た。危ないぞ」

「追放されましたの。だから最高ですわ」

「…………」

「この先に何がいますの」

「龍だ。邪龍・ヴァルムドラク。深部に封じられている。——三百年間、誰も帰ってこない」

「ありがとうございますわ」

 私は歩き出した。

「待て」グロムが呼び止めた。「帰り道、飯を食っていけ。部下が腕を振るう」

 その言葉の重さが、胸の奥にじんわり沁みた。

 よくやっている、と言われた者が、今度は「来い」と言う。連鎖が生まれる。

「……必ず帰ってきますわ」


 最深部への通路は、濃い霧に包まれていた。

 巨大な扉があった。縦五メートル。刻まれた文字を【攻略本】が自動翻訳する。

「『この先は邪龍ヴァルムドラクの領域。入りし者に救済なし』」

 私は扉を押した。

 なぜ押したのか。正直に言うと、龍なら話しかけてこないと思ったからだ。というより、龍は大きすぎて、むしろ一人でいるには広すぎる部屋に一人で住んでいるイメージがあった。大きい部屋は寂しい。

 中は広大だった。天井は見えない。床には金色に塗られた石が敷き詰められている。

 その中央に、いた。

 体長三十メートル以上。黒い鱗。赤い目。四肢で体を支え、翼を背に畳んで、うずくまっている。

 ——スネていた。

 体の角度でわかる。尾の先がぴくぴく動いている。壁の方を向いて、頭を低くしている。これは完全に「拗ねている生き物」の姿勢だ。三十メートルの龍が、子犬のように丸まっている。

 【攻略本】が展開する。

《ヴァルムドラク。推定三千歳以上。好物:甘いもの全般——特に干し果物。イチジク、アプリコット、ブドウの順に好き。弱点:孤独(致命的)。トラウマ:三百年前、勇者の一行に「話しかけるな、化け物」と言われた。ずっと根に持っている。三日目の食事:食べていない(二百九十七日連続)。隠れた願望:友達が欲しい。切実に》

 二百九十七日。

 胸の奥で、何かがずきりと痛んだ。

 孤独に慣れると思っていた。私は人に会わなくても平気だと思っていた。でも二百九十七日、食事を誰かと共にしない——それは、慣れることではなく、ただ削れていくことだ。

「……こんにちはですわ」

 声が少し震えた。

 赤い目が、ゆっくりとこちらを向いた。

「……人間か」

 低い声だった。でも、怒りがなかった。

「……久しぶりに、誰かが来た」

 その一言の重さを、私は知っていた。


「三百年前——勇者が来た。私は話しかけた」

 ヴァルムドラクが、初めて自分から話し始めた。

「あいつらは言った。『話しかけるな、化け物』。——それから誰も来なかった。来ても戦うだけだ。戦えない相手には逃げていく。私が何かを言えば、奇声を上げて逃げる」

「……怖かったから、ですわよ」

「わかっている」

 彼の目がもう一度こちらを向いた。

「だが——怖がられるのと、相手にされないのは、違う」

 ものすごく。

 ものすごく、わかった。

「……私も」と私は言った。「誤解されるんですわ。高飛車だと思われる。冷たいと思われる。実際は話しかけたくて、ぜんぜん話せないだけなんですけど」

「お前は、化け物ではないだろう」

「でも」私は自分の顔を指さした。「見た目だけで判断されるんですの。この顔が大嫌いなんですわ。完璧すぎて近づきにくいって言われる。だから誰も本当のことを話してくれなくて——」

 言葉が途切れた。

 ヴァルムドラクが、静かに言った。

「私はお前の顔が怖くない」

 ——予想していなかった言葉だった。

「三千年生きて、初めて人間と話している。お前の顔がどうかなど、私にはどうでもいい。お前自身が、ここにいる。それだけだ」

 胸の奥が、かっと熱くなった。

(なんでこんなに、龍に刺さるんですの……)


 荷物から干し果物を取り出した。

「食べますか」

「……人間の食べ物など」

「干しイチジクですわ」

 三秒の沈黙。

 ヴァルムドラクの舌が、そっと一粒を掬った。

「……甘い」

「でしょう」

 もう一粒。もう一粒。あっという間になくなった。

「……これは干しアプリコットか」

「そうですわ。お好きですの?」

「三百年前は好きだった。今も好きだった」

 文法は気にしないことにした。

「あと干しブドウも——」

「出せ」

「お行儀が悪いですわ。『ください』ですわ」

 沈黙。長い沈黙。

「……くれ」

 ちょっと悩んで渡した。まあいい、と思って。


 三時間、話した。

 ヴァルムドラクは話し好きだった。三千年分のネタがある。古代魔法の話、「リアン・モル王国」という忘れ去られた文明の話、竜王会議での議題の話(主に「人間の寿命が短すぎて友達が作れない問題」について全員が同意したらしい)、星が落ちた夜の話。

 私は岩の上に腰かけて、干し果物をつまみながら聞いた。

 こんなに長く誰かと話したのは、いつぶりだろう。

「お前のスキルは——怖くないか」とヴァルムドラクは途中で聞いた。「相手の全てが見える。それは、孤独ではないか」

「孤独ですわ」と私は答えた。「私の情報は、私には見えませんの。だから他人から見た自分がどう映るか、いつもわからない。誰かが笑っていても、私のことが好きなのか嫌いなのか、判断できないんですの」

「……それは、怖い」

「でも」私は少し考えた。「あなたのことは、わかりましたわ。全部見えた。見えた上で——怖くなかった。だから来たんですわ」

 ヴァルムドラクが、首を低くした。うつむく仕草に近かった。

「お前は——変な人間だ」

「そう言われ慣れていますわ」

「褒めている」

「……それは、知っていますわ」

《ヴァルムドラク。現在の感情:温かさ(種類不明)。本音:この娘が来てよかった》


 一時間後、轟音と共に扉が開いた。

「リリエル!!!」

 アレク・ブライトハルトが剣を抜いて駆け込んできた。後ろに四人——エリーゼ・ラン、ドラン・ヴォルフ、カイル・ターナー、ベアト・ローゼン。

 全員が、私とヴァルムドラクを見た。

 私が岩の上に座って干し果物の袋を整理していて、ヴァルムドラクが横でうずくまっている。極めて平和な絵面だった。

「え」とアレクが言った。

「え」とエリーゼが言った。

「え?」とドランが言った。

「……え」とカイルが言った。

「え」とベアトが言った。

「邪龍を……懐柔したのか……!?」アレクの声が震えていた。

「懐柔は人聞きが悪いですわ。おしゃべりしていただけですわ」

「おしゃべり!?」

「お前たちが私を追放したから、ここに来たんですわ。文句ありますの」

 全員固まった。


 ヴァルムドラクがゆっくりと顔を上げた。それだけでアレクたちが三歩退いた。

「……この者たちが、お前を追い出した一団か」

「そうですわ」

「なぜ追い出したのか、聞いていいか」

「スキルが戦闘の役に立たないと言われたんですわ」

 ヴァルムドラクが、赤い目でアレクたちを見た。ゆっくりと。

「この娘が私と三時間話した。その間、私は誰も傷つけなかった。三百年ぶりのことだ」

 剣を持ったままアレクが固まった。

「私は——三百年間、誰かと話したかっただけだ。勇者が来るたびに話しかけた。話しかけるたびに戦いになった。この娘だけが、私の話を聞いた。それだけのことだ」

 エリーゼが小さく言った。「……つまり、邪龍の暴走って……」

「追いかければ逃げるから、追いかけていたんだ。それだけだ」

 ドランが「論理的帰結としてあり得る、確かに……」とつぶやいた。

 カイルが「すごいな、リリエル」と言ったのでリュックを投げつけた。

 アレクが深呼吸した。「……リリエル。戻ってくるか」

「条件がありますわ」

「聞こう」

「週二回は引きこもる時間をくださいまし。スキルを使った情報は必ず尊重してくださいまし」

「……それだけか」

「あとヴァルムドラク様に友達を作る機会を与えてくださいまし。この方、お友達いないんですの」

「俺は友達などと言っていない」とヴァルムドラクが言った。

「でもほしいでしょう」

 しばらくの沈黙。

「…………否定はしない」

 アレクが、今度こそ剣を収めた。「わかった。——俺たちが間違っていた。お前のスキルは戦闘に向いてないかもしれない。でも戦闘以外のことが、こんなにある。俺が見ていなかった」

 耳が赤くなった気がした。

「……別に、認められたくて言ったわけじゃないですわ」

「でも俺は認める」

「……余計なことを言いますわね」


 帰り道。

 グロム族長が待っていた。テーブルに簡素な焼き肉が並んでいる。部下のゴブリンが二十匹ほど、距離を置きながらこちらをうかがっていた。ガンクも来ていて、腰に私が渡したホカホカシートを当てていた。

「飯を食っていけ」

「いただきますわ」

 アレクたちも、戸惑いながら座った。

「……前例がない」とドランが言った。

「前例を作れ」とグロムが言った。

 ベアトがおずおずと肉を取った。「……美味しい」

「当然だ」とグロムが少しだけ胸を張った。

 ごちゃごちゃした食事だった。人間と魔物が同じテーブルで。うるさかった。

 私は端っこで静かに干しブドウをつまんでいた。

 それで、十分だった。


 翌々日。

 王城の謁見室。

 国王ルドルフ四世が玉座に座っていた。宰相ヴィセント伯爵、第一騎士団長ラミア将軍、国家神官長シルウィア大司祭、侍従長ブルクハルト、記録官ターシャ、外務卿オットー・ゲルハルト、財務官クラウス、宮廷魔術師長ザイード。他に貴族十数人。

 全員が私を見ていた。

《ルドルフ四世。好物:チーズ全般。弱点:寒い場所。悩み:髪が薄くなってきた(就寝前に鏡を見る時間が年々長くなっている)。思っていること:この娘の話、実は信じている》

《ヴィセント伯爵。好物:ブランデー。隠れた懸念:この謁見、筋書き通りに進まない気がする》

《ラミア将軍。好物:コーヒー(砂糖なし)。本音:正直に感謝を言いたいが立場上難しい》

 流れ込む情報を頭の奥に押し込んで、前に出た。

「邪龍ヴァルムドラクとの交渉、完了いたしましたわ」

「うむ」と国王が言った。「討伐ではなく……和解、と聞いているが」

「正確に言えば——元々、討伐する必要がなかったんですわ」

 ざわめき。

「ヴァルムドラク様は三百年間、誰かと話したかっただけです。ところが誰も話を聞かなかった。それが全ての発端ですわ」

「話しかけても逃げるから、追いかけていたというわけか」

「そうですわ。相手を知れば、戦わずに済むことがある。私のスキルが、それを証明しましたわ」

 国王がゆっくりと言った。「お前のスキルは——この国にとって、相当に有用かもしれんな」

「使い方次第ですわ。でも私は引きこもりたい日もあるので、週二回はお断りしますわ」

 謁見室が静まり返った。

 ヴィセント伯爵が小さく「……筋書き通りに進まなかった」とつぶやいた。


 廊下で振り返ると、シルウィア大司祭が立っていた。白髪の老婆。目だけが若い。

《シルウィア・アルベルティーナ大司祭。好物:麦茶。知識:ヴァルムドラクに関する古文書を所持している。懸念:この娘は、もしかすると「呪いの真実」に気づくかもしれない》

 呪い。

「……大司祭様。ヴァルムドラク様に関する古文書が、どこかにありますわね」

 シルウィアが止まった。

「……なぜ、わかった」

「見えるんですの」

 老婆は廊下の隅に手招きした。


 古文書室。

 羊皮紙の束の中から、一枚が取り出された。

「三百年前——ヴァルムドラクに呪いがかけられた。人間の魔術師、レグナス・ヴァーンによるものだ」

「呪い……」

「接触した者から、彼の印象を薄れさせる呪いだ。会ったことを忘れ、怖いとも感じなくなり、しかし理由もなく近づくことを避ける。だから——」

「……だから、誰も彼の話を聞けなかった」

「そうだ。三百年間の孤独は、彼の性格だけの問題ではない。呪いが接触を不可能にしていた」

 私の手が、きゅっと握られた。

「でも——私には効きませんでしたわ」

「お前の【攻略本】は、対象の情報を直接視認する。呪いによる認知の歪みを、スキルが貫通したのだろう。つまり——」

「——私のスキルは、認知の壁を越えられる」

「そうだ」

 シルウィアが一瞬、目を細めた。

「呪いを解くことは、今の私にはできない。お前にも、今はできない」

「勉強すれば、できるようになりますの?」

「……勉強次第だ。ただし、今すぐではない。時間がかかる」

「わかりましたわ」

 古文書を一枚借りた。シルウィアが止めなかった。


 その夜。

 私は迷宮の最深部に戻った。

 ヴァルムドラクは、昼よりも少し丸くなってうずくまっていた。

「また来たのか」

「ええ」

「なぜ」

「伝えることがありますわ」

 話した。全部。呪いのことも、三百年間の孤独の本当の理由も。

 ヴァルムドラクはずっと黙って聞いていた。

 言い終わると、長い沈黙があった。

「……つまり」と彼はゆっくり言った。「私は三百年間、呪われていたのか」

「そうですわ」

「誰も悪くなかったのか」

「完全にそうとは言えないですわ。でも——あなたを拒絶しようとした人ばかりじゃなかったかもしれない。怖かっただけかもしれない。呪いがあったから、近づけなかっただけかもしれない」

 ヴァルムドラクが天井を見上げた。黒い岩の天井。見えない星空。

「……三百年間、人間を恨んでいた」

「はい」

「でも」と彼の声が少しかすれた。「本当は——誰かと話したかっただけだ」

「知っていますわ」

「お前は知っていたな。最初から」

「はい」

「……なぜ逃げなかった」

 私は少し考えた。

「逃げる理由がありませんでしたわ。情報を見て——悪い方じゃないってわかりましたから」

「悪い龍ではないのか、だろう」

「そうですわね。失礼いたしましたわ」

 ヴァルムドラクが——小さく笑った。龍の表情はよくわからないが、口元の筋肉が確かに緩んだ。

「……お前は変な人間だ」

「そう言われ慣れていますわ」

「褒めている」

「……それは、知っていますわ」

《ヴァルムドラク。現在の感情:温かさ(種類確定。これは友情だ)。本音:この娘が来てよかった。二百九十七日が、今夜で終わった》

 私の声が、少し震えた。

 見えているから。


 帰り道、迷宮の外に出ると夜空が広がっていた。

 田舎の空気は澄んでいる。星が多かった。

 【攻略本】のことを、ずっと嫌いだと思っていた。

 情報が多すぎて人が怖い。知りすぎて疲れる。見えすぎるから、見られることが怖い。自分の情報は、自分には見えない。だから他人からどう見られているか、いつもわからなくて不安だった。

 でも。

 ヴァルムドラクに言われた言葉が、まだ耳に残っていた。

「お前自身が、ここにいる。それだけだ」

 見た目じゃない。スキルじゃない。

 私がそこにいた。

 それだけで——三百年分の孤独を、少し溶かせた。

(……案外、役に立ちますわね。私)

 自分のことをそう思ったのは、もしかすると初めてかもしれない。


 一ヶ月後。

 ヴァルムドラクのもとには、月に一度、干し果物が届くようになった。差出人の欄には「とある人間」とだけ書かれていた。

 国王の勅命により「邪龍との交渉役」という前例のない役職が新設された。担当者はリリエル・エーデルシュタイン。報酬は良かった。週二回の引きこもりも保証された。

 呪いを解く研究も始まった。シルウィア大司祭が師匠になった。初日に「資料整理が下手だ」と叱られた。「人の整理された内面は読めるのに、自分の机は整理できないのか」とも言われた。反論できなかった。

 アレクたちのパーティへは、条件付きで戻った。

 エリーゼは毎日スープを作ってくれた。ドランは「リリエルの情報精度は理論値を超えている可能性があり、スキルの仕組みが未解明である以上、研究対象として非常に有望だ」という趣旨の論文を書き始めた(本人に無断で)。カイルはまた何か言ったので今度は靴を投げた。ベアトは黙って頷くだけだったが、それが一番嬉しかった。

 グロムの族長は月に一度、手紙を寄越すようになった。内容は毎回「飯を食いに来い」の五文字だった。部下のゴブリンたちが手紙を書くのを手伝っていると、【攻略本】で見えていた。

 アレクは——たまに、こう言った。

「お前がいてよかった」

 そのたびに「うるさいですわ」と言った。

 でも、耳が赤くなっているのは自分でわかった。


 ある日の日記帳。最後の一行だけが、いつもと違った。

「今日は誰かと話せた。気がする」

 (自分の顔は、まだ好きじゃない)

 (でも——まあ。それはおいおい、考えますわ)

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