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9話

 その日の夜。いつものようにスマートフォンを触りながらアダルトコーナーで店番をしていると、すっかり顔馴染みになった少女が緊張の薄れた顔で垂れ幕を捲った。


「いらっしゃい、今は誰も居ないよ」


 若い女性の衣服を見て客の正体に気付いた綾は、不透明パネルを覗き込んでそう声を掛けた。


 その声にほっと胸を撫で下ろした彼女は、レジカウンターに腕を置いてパネルの下から顔を覗かせる。そして綾と視線を交えると嬉しそうに破顔した。


「こんばんは」

「うん、こんばんは。こっち入る?」

「えへ、お邪魔します」


 綾がスイングドアを引くと、有季はするりと脇を抜けて綾が広げたパイプ椅子に座った。


 隣に掛けた綾は不思議な居心地の良さを感じた。今朝から強烈な出来事で注目の的になった挙句、昼休みには癖の強い後輩と口喧嘩をして、更に放課後にはその出来事でクラスメイトから更なる質問を受けて、そして今宵だ。


 高木や有季のような気が置けない相手と静かに過ごす時間が臓腑に沁みた。


「勉強は順調?」

「程々に。可もなく不可もなく普段通りだよ」

「……今朝は悪かったね。私のせいで。君の気掛かりが増えたら申し訳ない」


 考えてみると例の噂は、綾と有季が一緒に居る姿を目撃したが故に流れたもの。勉強に専念すべき彼女の足を引っ張る出来事になり得る訳だ。


 だが、有季は苦笑を浮かべで両肘を抱くように腕を組んだ。


「あのね、私も人のことばかり言えないけどさ。どっちのせいでもないじゃん? 気分が楽になるならそれでもいいけど、別に私は気にしてないから。お互い、謝るのはもうやめよ。噂もすぐに消えていくだろうし、そんな困らないんだから」


 綾は悩ましそうに後ろ髪を掻いてその言葉を反芻し、やがて頷いた。


「……そうだね。了解」


 有季は返事を聞いて微笑み、組んでいた腕を解いて膝に手を置いた。


 すると、何かを思い出したように「あ、そうだ」と手を叩く。


「噂と言えばなんだけど……その」


 すると有季は歯切れ悪くうなじに手を回して目を泳がせた。どうにも言いづらそうだ。


 何か気がかりでもあるのだろうか。綾は彼女が言い易いように柔和な表情を繕って首を傾げる。有季はそんな綾の顔を暫し眺めた後、「んん」と唸りながら口を押さえる。


 やがて、唇を巻き込むようにして湿らせ、緊張を誤魔化すように五指を胸元で合わせた。


「あの、つ……付き合うの? あの子と」


 一瞬、綾は言葉の意味が理解できずに首を傾げた。虚空を眺めて思考を辿る。


 何の話だろうか。そう考えること数秒、ふっと脳裏に舞い戻るのは昼休みの出来事。すっかり癖の強い後輩との言い争いばかり覚えてしまっていた綾は、「ああ!」と声を上げた。


「常磐の件か。そういや最初はそんな話だったね。忘れてたよ」

「最初は……?」


 含むような単語を目敏く見付けた有季が疑問符を浮かべ、綾はそれに応じる。


「そ――結論から言えば、交際はしないよ。細かい話は省くけど、別に向こうは私のことを好きでもなんでもないし、廊下のアレはただの方便。気にしなくていい」


 脳裏に去り際の彼女の顔を思い浮かべながらもあっさりと言い切ると、有季は少々不思議そうな顔をしながらも一先ず納得を見せた。心なしか安堵に近い表情を見せている。


「そっかぁ……でも、方便っていうのもよく分からないね? 嫌がらせとかされたの?」


 幾らか心配そうな声を上げるから、綾はそれを払拭するべく少し内情を明かす。


「どの程度まで話していいか分からないから、何か変なことを聞いたら忘れてほしい」

「無茶言うなあ」

「答えから言うと、色々と話題になっている私と付き合うことで有名人になろうっていう寸法だったみたい。――…………分かるよ、分かる。私も聞いた時はそんな顔だった」


 有季は心底理解できない様子で目を泳がせ、それでもどうにか理解しようと無理に頷いて、思考を行動に付随させていった。彼女は唇を湿らせ、悩ましそうに言う。


「なんか、色々と気になるけど。そもそも、それくらいでそんなに有名になれる?」

「どうだろうね。芸能人みたいなのを目指してる訳じゃなくて、ただ、茅野みたいに学校でそれなりに名前を知られているくらいの立場を目指してたのかも」

「……そんな、憧れるようなものでもないと思うけどなぁ」

「私もそう思うよ。でもそれはさ、持ってる側の考えでもあると思う。だから私は、多少。極々一部だけど、少しは彼女の考えも理解できる。失った人間特有の焦燥をね」


 綾が賛同を示すと、有季は難しそうな顔で首を捻った。


 綾は少し言葉を選んだ後、自分の見解を語った。


「ステータスになるような恋人が欲しいだとか、人気者になりたいとかじゃなくて、あの時の口ぶりから察するに、多分、何か誇れるもの……自分の輪郭が欲しいんじゃないかな。彼女は」

「輪郭……自我に具体性を持ちたいとか、そういう話?」


 綾は「んん」と前かがみになって膝に頬杖を突く。


「いや、何と言おうか……例えば、茅野は『とても勉強ができる医者の子供』だ。去年の私は『陸上全国三位』。篠崎なら『サッカー部エース』とか? 誰かがその人物を見た時、表面に見える顔。その人物が何者であるかを形作る輪郭というものが存在すると思うんだ」


 綾が常々考えている自らの持論を語ると、彼女は神妙にそれを傾聴してくれた。


「……理解できるかも。確かに、人は他人を自分の尺度に落とし込むよね」

「そう。そして、一度輪郭に気付いてしまった人間は、その後ずっと――自分自身をそういう尺度で測り続けると思う。私がそうだった。陸上を辞めて分かりやすい輪郭を失った時、私は、私がどういう人間なのか分からなくなった。……誰かに言わせれば、人間に輪郭なんてものは必要ないらしいけどね。一度は輪郭を得た上でそう思える人間は、そう多くないと思う」


 八重畑真昼のように自由を恐れない人間などというのは極めて稀だ。


「あの一年生――常磐が私に告白をしてきたのは、何でもなくなってしまった自分に『あの茅野有季を拒ませてまで選ばれた人間』っていう枠組みを与えてやりたかったのかも」


 自分の中でも曖昧だった認識を言語化して具体化した綾は、抱いていた感覚がしっくりと胸にハマったのを感じた。顎に手を添え、細めた瞳を伏せて思考を深掘りする。――そう、常磐咲良は何らかの輪郭を求めた末、その果てに自分の武器を使うことにしたのだろう。


 『脚』が潰れた水城綾は周囲に恵まれ、緩やかに新たな道を探して歩くことを決められた。


 だが、咲良は。どのような経緯でその結論に至ったかは分からないものの、彼女は道標も無いまま闇雲に新しい軸を追い求めて迷走している。誰かが、正しい道を示さなければいけないのではないか。そう思う反面、自分の示すそれが正しいと嘯くのは傲慢ではないかと自省も抱く。果たして彼女に関して何をするのが正しいのか、綾には分からなかった。


「水城さんって」


 綾は水面から急浮上するように顔を上げた。有季の真剣な顔が目の前にあった。


「凄く人を見てるよね。私の時もそう思ったけど」


 予想外な誉め言葉に、暫し呆然とする。そして我が身を振り返った。


 そういう自覚は無かったが、言われてみると確かに、余計な首を突っ込んで余計なお世話を焼いては疎まれている気がする。「お節介なんだよ」と言うと「面倒見が良いんだと思う」と間髪を挟まずに言い返され、鼻白んで照れ隠しに顔を背ける。


 自分の短所と認識している性情を肯定されると、どうにもむず痒くて仕方がない。


「……そんな面倒見が良い私に言わせると、茅野も茅野で心配だけどね」


 このまま褒め殺しにされるのも嫌だったので、綾は矛先を彼女に逸らす。


 すると有季は苦虫を噛み潰したような表情できゅっと目を瞑り「聞こえない」と誤魔化した。


「まあ、今はそれでいいと思う。でも、少し真面目な話になっちゃうけど――逃げても追い駆けてくるものだってある。未来はその中の一つ。変化を恐れて立ち止まっても、いつかは大人になるってことは忘れちゃ駄目だよ」


 半分ほど自分にも言い聞かせるように綾が言うと、有季は観念して嘆息をこぼした。


「分かってる。うん――分かってるよ、それは」

「ごめんね、息抜きに来てる君に言うことじゃなかったか」

「いや、そんなことないよ。君と話していると自分の考えが整理されていく。正直、助かる」


 やや自虐的なその言葉には、普段のような綾を安心させるための明るさはなく、ただ、自分の中で確かに紡ぎ出されていた真実を吐露しているだけのような、そんな感情が宿っていた。


 しかし、これは夢を見に来た人間に現実を説くような、冷や水をぶつける行為だ。彼女の為になれば、などと耳障りの良いことを言っているが、結局、見ていて不安になるから自分が安心したいだけではないかという葛藤もある。


 ――水城綾も自分自身の輪郭を見失ったままだった。

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