8話
常磐咲良の意向を無視し、綾は半ば引っ張るように彼女を中庭のベンチへと連れて行った。ただでさえ敏感なその話題を、今の教室の前でしようなどという気持ちにはなれなかった。
煉瓦の道がカーブを描きながら校舎の内側を東西に伸び、描いたカーブの内側に芝生と樹木が鬱蒼と茂る――が、秋も中頃、それらは葉を落とし始めている。芝生にはベンチが数基置かれており、幾つかは仲睦まじい友人カップルに占拠されている。幸いにも、空きはあった。
常磐はちょこんと可愛らしくベンチに腰掛け、綾はその目の前で腕を組んで立つ。
「――私達、初対面だったと思うんだけど。どうして私なんかに?」
綾が困惑から脱せないまま尋ねると、常磐は微笑む。
「それは、その――度々、先輩のことを学校内で見かけて」
「ほう?」
取り分けて目立つ行動をする方ではないし、目立つ容姿をしている部類でもない。整った顔立ちに区分されることは自他共に認めるところではあるが、彼女や有季のような雑誌モデルにスカウトされそうなほど図抜けた美形ではないだろう。何に目を留めたというのか。
「クラスメイトの人達に優しく接したり、学校を楽しそうに過ごしているのを見て、いつの間にか惹かれている自分が居ました。それに先輩が、その、女性が好きだということは度々耳にしていて……だから私でもチャンスはあるのかとか思ってたんですけど、自信が出せず」
綾は少し目を細めて咲良の顔をジッと見詰めた。
「そんな折、茅野先輩との噂話を聞きまして」
「……あー、あれね。根も葉もない噂話だよ」
流石に根はある気がしないこともなかったが、細かい話は置いておく。
「分かっています。でも、こんな素敵な先輩がずっと他の誰かのものにならないなんて保証は無いんだってその時に気付いて。だから私、勇気を出すことにしたんです」
緊張したような顔でジッと綾を見詰め返す咲良。綾は小さく頷き、そしてこう尋ねた。
「――――で、本音は? 何が目的?」
す、っと。彼女の体温が微かに下がったのを表情から感じた。
彼女の丹精を込めて作り上げた緊張の表情が何故か更に強張り、その頬が一瞬引き攣る。そして間もなく、咲良は動揺を示すように目を泳がせて「え?」と悲しそうな顔を作る。
だが、綾は薄っすらと笑いながら、細めた目で真っ直ぐに咲良を見詰める。
「私はパッと見て分かるくらいクラスメイトに優しく接することなんて滅多にしないよ。それに、廊下なんて移動をするための場所だから、君が見える場所で楽しそうに過ごしている記憶も無い。学校では大抵、教室でスマホを弄って欠伸して……君は私のどこに惚れた?」
「沈黙は金。君は銀を取った」と冷めた目で続けると、咲良は慌てて首を横に振る。
「う、嘘じゃないです。私、本当に先輩のそういうところが好きで……」
「流石に分かるよ。君、別に私のこと好きじゃないでしょ」
実を言うと、強い確証を持ってこの話を切り出した訳ではなかった。だから、鎌を掛けた。
唐突に核心をぶつけた際の表情の機微で、綾はこの仮説が正しかったことを確信している。
「なんでそんな、酷い……」
咲良はまだ眉尻を下げて食い下がるから、綾は駄目押しにもう一つの疑問点をぶつけた。
「極めつけは告白のタイミング。普通、教室の目の前で、扉を開けっぱなしにしてやるか? 大方、そのパフォーマンスを見せることに意味があったんだろ。罰ゲームとか。違う?」
「どうして、信じてくれないんですか? 私は本当に先輩が――」
その言葉は綾の心には届いていないと感じたか、咲良は途中で悲しそうに口を閉ざす。
綾は彼女に余計な反論材料を与えないよう、真顔で口を噤んだまま見詰め合うことを選ぶ。
咲良はしばらく悲しそうな表情で言葉を探していた。だが、ちらりと盗み見た綾が強い意思を持っていることを察すると、悲しそうに微笑む。それでも綾の表情が変わらないと見ると、間もなく肩の力を抜いて脱力した。薄い、薄い溜息がそこに零れ落ちる。
更に数秒の沈黙で、咲良は浮かべていた表情を全部消して真顔で綾を見る。
そこに至ってようやく、彼女の素顔が見えた気がした。
咲良は憎らしそうに目を細めて露骨な溜息を吐き出し、呆れ果てた表情で吐き捨てた。
「あーあ、外れを引きましたか。時間の無駄でした」
腕を組んだ咲良からそんな言葉が吐き出され、綾は頬を歪めた。
「ようやく本性出したな。初めまして、と言おうか?」
「ご自由にどうぞ。……先輩、好意は素直に受け取った方がお得だと思いますよ?」
「詐欺師の言葉に耳を傾ける気はないね」
綾がブレザーのポケットに手を突っ込んで言い返すと、咲良は反論できずに唇を尖らせ、退屈そうに自分の膝で頬杖を突く。ふぅ、と再び溜息が吐き出された。
「女の人が好きだって聞いたんですけどね、こんな可愛い後輩に告白されて靡かないなんて」
咲良が自信に溢れた不遜な笑みで自らの胸に手を当てる。
「女性は好きだけどお前を好きだとは限らないよ。あくまで性的指向の話だからね」
「でもクラスの男子の大半は私のことを好きだと思いますよ? 可愛いので」
「お前じゃなくてお前の顔と下半身が好きなだけだよ」
「何言ってるんです? 同義じゃないですか」
「辞書を引き直せ」
「愛と引いたら肉欲と出てきました」
「焚書しろ、そんな辞書」
どうにも、常磐咲良とは、自らの容姿に自信を持ち、かつそれを武器として扱うことに躊躇の無い生意気な後輩だったらしい。彼女は先ほど『外れを引いた』と言っていたが、その意味はさておいて、それはこちらの台詞である。折角の昼休みが台無しだ。
「――で? なんでこんなことをした」
綾が腕を組んで詰問するも、咲良は曖昧に笑ってのらりくらりと立ち上がる。
「あ、もう私から先輩に用はないので。ここで解散しましょうか。さよなら」
「おい嘘だろ、説明くらいしてよ。解決編なしの推理ドラマがあるか? ………………うわ、凄い嫌そうな顔。お前それクラスメイトに見せられるの?」
綾が呼び止めた途端、彼女は心底嫌そうに顔を歪めて無言で綾を見た。
「もういいじゃないですか、先輩はこんな可愛くて愛くるしい後輩と交際できるんじゃないかって夢を見られた。私は挑戦権を一枚貰った。等価交換ですよ」
「夢なんかベッドの上で幾らでも見られるよ。不等価だ。少なくとも説明を要求する」
「なら私はジュースを一本要求します。果物系で。これで等価ですね」
「ねえ、話聞いてた?」
とはいえ、彼女の失礼な諸々の行動を一旦頭から外して考えると、秋も折り返しに迫ろうという季節に本人の望まないまま中庭まで連れ出した先輩として、多少の融通は利かせるべきか。
綾は情けない気持ちになりながら校舎に戻り、滅多に使う機会の無いバイト代を自販機に投入してココアとリンゴジュースを購入。急ぎ足に戻ると、咲良は意外にも大人しく座って待っていた。ゲインロス効果をひしひしと感じながら「ん」とリンゴジュースを差し出す。
すると咲良は、無言で綾の手の中の温かいココアをジッと見詰める。
綾は静かにそれを背中に隠す。これは自分で飲みたいから買ったのだ。
「お前、果物系がいいって言ってたろ」
「カカオは果物ですよ? 知らないんですか?」
「いや…………カカオは……――ああ、くそ! 分かったよ、私の負け。ほら!」
綾はココアを彼女の手に押し付け、ベンチにドサリと座り込む。脚を組み、自棄になりながらリンゴジュースのペットボトルの蓋を捻って一気に飲んだ。
「で? なんでしょーもない嘘告白なんてした?」
「言いたくないですけど、言わなきゃダメですか?」
「ここまでさせといて? いいけど、私は普通に悪評とかばら撒く女だよ」
「うわ、性格終わってますね」
「お前にだけは言われたくない」
「やっぱりお似合いじゃないですか? 付き合っときます?」
「リアルじゃマイナス×マイナスはマイナスなんだよ」
「マイナス。上等じゃないですか」と笑って肩を竦めた咲良は、受け取ったココアのキャップを捻り、立ち上る湯気をふぅと吹いて楽しんだ後に口に含む。
「あったかいです」と無邪気に呟くその様は外見相応に可愛らしく、本当に、性格さえどうにかなればと思わざるを得なかった。
「茅野先輩って有名人じゃないですか」
咲良は唐突に語り出す。少しの間、それが何の話か理解できなかった綾は呆けた顔で彼女を眺めるが、間もなくそれが動機の告白であることを察して「まあ、そうだね」と頷いた。
有季は非凡な人間だ。容姿は極めて端正な部類に属するだろう。それだけでなく身体能力は並以上。学力に関しては言うまでもなく学年最高峰で、学校の歴史上においても類を見ない、全教科満点などという成績を残した傑物だ。誰も彼もが知るほどの有名人とまでは言わないが、ある程度、学校で色々な場所に交流を持つ人間なら名前くらいは知っているだろう。
「特に男子からは凄い人気で、一年生でも既に告白した人が何人か居るみたいです」
「へえ、それは知らなかったな。でも納得はできるね」
「で、そんな茅野先輩にどうやら恋人ができたという噂が流れたのが今朝の話です」
咲良の来訪はあまりにもタイミングが悪いと思っていたが、なるほど、どうやらそこに繋がってくるらしい。綾は複雑な表情で黙る。
「聞くところによるとお相手は同性で、更にその相手も以前は同性の交際相手が居たと。で、それに少し遅れて交際の噂は勘違いだったと情報が出回りました。それについても色々と尾ひれが付いている様子でしたけどね。相手が釣り合わなくて破局しただけー、とか」
「畑の害虫みたいなものだからね。根絶を目指す気は無いよ」
「人生、諦めが肝心ですもんね。現代日本じゃ人の口は止まりません」
自嘲を含んで小さく笑った咲良は、指を持ち上げてくるくると顔の横で回す。
「そう。噂は流れるんです。当事者の意思に関わらず、ぐるぐると」
「……何が言いたい?」
「学校の大勢が知る超有名人の茅野先輩に恋人ができた。それも同性。それは勘違いだったらしいが、実際のところは別の事実があるんじゃないか? もしかしたら、交際相手の方が茅野先輩を見限って破局を言い渡したのかもしれない。そこに! ――私が介入します」
綾が怪訝に目を細める中、咲良は朗々といやらしい笑みを浮かべた。
「あの茅野有季を拒んだ女が、今度は常磐咲良を選んだ! そんな噂が流れることでしょう」
咲良は狂気を帯びてぐるぐると回る目を綾に向ける。
「皆の私を見る目が羨望のそれに変わるんですよ! 私の自尊心と承認欲求が満たされます。カースト的なアレがムクムクと向上して、私が一躍人気者になれるんです!」
胸に手を当てて声を張る咲良の力説を目の当たりにした綾は、呆然とその言葉に聞き入っていた。しばらく絶句し、半開きになった口で中秋の空気を取り入れる。どうにか我に返ると、驚きから脱せずに瞬きを繰り返し、咀嚼するように頷いた。凄い女だ。
「………………お前、本当に性格が腐ってるね。いっそ感心したよ」
「お褒めに預かり光栄です。今からでも選択肢を選び直しますか?」
「馬鹿。茅野を引き立て役にしようってアイデアに賛同はできないよ」
だが――大したものだという感心させられる部分もある。
彼女のやり方は褒められたものではないだろう。交際を恋愛感情以外の目的の為に利用するのはきっと誰かの不興を買うだろうし、その動機は不純だと評されるのがお似合いだ。だが、大勢に認められたいという承認欲求は誰だって持ち合わせているし、そうした、誰かが認める何者かになるために努力を惜しまない姿勢には僅かながら見習う部分もある。のかもしれない。
綾が呆れた顔で言い放った言葉に、咲良は冷めた笑みで建前を話す。
「引き立て役だなんて、そんな。私達はあくまでも交際をするだけ。その他の噂の事象は周りの人が勝手に言いふらすものなんです。ほら、人の口に戸は立てられないですから」
そう不敵に笑う咲良の表情を見た綾は、ふと、ある考えが頭を過る。
「……あのさ、気を悪くしたら申し訳ないんだけど――噂流したの、常磐じゃないよね?」
少し躊躇いつつも意を決して尋ねると、真っ先に返ってきたのは唖然だった。
「はぁ? 私がそんな小さい真似すると思いますか?」
「お前、数秒前の自分の言動を思い出してみなよ。デカいのは態度だけだぞ」
「もし私が嘘の噂を流すなら『常磐咲良がアイドル事務所に声を掛けられていた』とかにしますよ。誰も真偽を確かめられないですからね」
言われてみるとその通りで、咲良が噂を利用して利益を得ようとしたのは事実だが、噂そのものが咲良の奸計だと解釈するには、あまりにも噂の内容が婉曲的だ。
「常磐の矮小さを見誤っていたよ、ごめん。私の負けだ」
綾が皮肉をたっぷり含んだ謝罪を吐き出すと、咲良は不満そうに半眼を向けてくる。
「……噂の出元は知りません、私はタダ乗りしただけなので。ただ、やり方が気を悪くするものだったことは謝ります。ごめんなさい。本当は、気付かれずにやる予定だったんで」
「気付かないまま交際してフラれた可能性があるってこと? 可哀想だろ、私が」
「そこはほら、付き合うまでに至って私を振り向かせられなかったってことなので。他責しないで自分の言動を見直した方がいいですよ。そういうの、社会で通用しませんから」
「なんで私が怒られてるんだ?」
しかし、事の経緯は概ね把握した。結局、噂を流した人物は分からないし、彼女はあくまでもそれを利用して承認欲求を満たそうとしただけ。
それも頓挫に終わった今、もはやお互いに用は無いだろう。
「とにかく、常磐が噂を流した訳じゃないならいいんだ。どうしてこんなことをしたのかも理解した。こっちからの用はもう無いし、常磐がよければ話は終わりにしよう」
「私は最初から話を終わらせようとしていましたが」
綾が話を打ち切ろうとすると、咲良はふてぶてしく憎まれ口を叩いて腰を浮かせた。
最後までこの調子だ。苦笑をした綾は、ふと思い直して、去ろうとする彼女を呼び止めた。
「余計なお世話を焼くけど、誰かに認めてほしいならもっと別のやり方をしなよ。人気者と付き合ったって、君自身が人気者になる訳じゃない」
率直に事実を突きつけると、彼女の瞳孔がきゅっと狭まった。
軽口を湯水の如く流していた唇が一文字に閉ざされ、嫌味を装っていた顔が表情を失う。やがて彼女はブレザーとカーディガンから覗く手で小さな拳を握り、ぐっと奥歯を噛む。
「……本当に余計なお世話ですね。先輩、風俗で説教をするタイプの人になりそう」
頬が仄かな怒りに染まっていた。
「善意を押し付ける気はない。反論も文句も甘んじて受け入れる」
「じゃあ黙ってください」
強い怒りが彼女の言葉に滲んでいたが、割を食った側として最低限のことは言わせてもらう。破滅的なやり方を敢行する彼女に、綾も気付けば少しだけ腹を立てていた。
「でも意見を変える気は無いよ。お前――君以外の誰も幸せにならないやり方で、君自身も心から満足できそうにない欲求の満たし方だもの。もっと健全にやった方がいい」
「偉そうに。先輩はさぞ高尚なお方なんでしょうね」
「承認欲求のために好きでもない相手と交際しようとした君よりはね」
冷めた笑みで反論すると、咲良はぐっと唇を噛んで憎そうに綾を睨みつける。ようやく彼女の底が見えた気がした。やはり、そういうやり方が似合わない少女だった。
しばらく肩で息をしながら怒りを堪えていた彼女は、やがて開き直ったように笑う。
「はっ……別に、下劣で結構ですけど。高尚なまま、誰の記憶にも残らないよりはずっと上等です」
咲良はそう吐き捨てると、綾の反論から逃げるように背を向けてその場を歩き去って行った。
綾は喉元まで上がっていた言葉を呑み込み、溜息を吐き出す。――少し、ムキになってしまったかもしれない。ベンチに背を預け、自省をするべく秋の風に頭を冷やす。
去り際の彼女は酷い苦悶の顔を浮かべていた。
瞳には動揺と葛藤。アレは強い信念を宿す人間の者ではなく、自らのロジックが弱いと理解している人間が、改善と続行の狭間で揺れる時の目だ。綾にはそれがよく分かる。
だって、膝を負傷した時、鏡の中でそれを見たのだから。
綾はベンチに座して物思いに耽りながら、小さくなる咲良の背を眺める。
すると、不意に彼女が立ち止まった。綾が眉を上げると、間もなく彼女は振り返ってずかずかと足早に戻ってきた。少々気まずそうな表情で綾の前に来ると、速やかにポケットから予め用意していたらしき小銭を取り出し、それを綾の手に押し付けた。
「これ、ココア代です」
「あ、うん」
綾が生返事を返すと、今度こそ彼女は去って行った。
常磐咲良という後輩をどのように認識すればいいのか分からなくなりながら、綾はやけに小さく見えるその背中を静かに見送った。貰った小銭は、少し多かった。