7話
綾は喝采の如く送り続けられる祝福の言葉にうんざりしつつ、取り敢えずと声を上げた。
「いや、別に付き合ってはいないけど」
しかし、まったく思いもよらないカップル誕生に沸き立つ友人達は聞く耳を持たない。
「またまた」「照れちゃって」と滅多に話さないクラスメイトが小突いてくるのを冷めた笑みで眺めた綾は、どうにかしなければならない問題だと見詰め直し、頷きながら思考を巡らせた。そんな中、綾の言葉をしっかりと聞き遂げて「ああ、やっぱり?」と、高木だけが納得して満足そうに席へ戻っていく。誤解を解くのに協力する気はないらしい。薄情者め。
間もなく、半ば追いやられるように有季が綾の方へと歩いてきた。
「水城さん……その」
「まるで状況が掴めないんだけど、茅野が流した話じゃないよね?」
悪いとは思いつつも噂の内容から第一容疑者として浮上する彼女に確かめると、有季は眉尻を下げて左右に首を振った。
「私が来た時からこんな感じ。今日、ちょっと登校が遅れて」
「ああ、そっか。昨日は帰りが遅かったもんね」
声を潜めながら小さな言葉を交わし合う。有季は不安そうにしつつ、お人好しなのかクラスメイトの声に一々反応を示し、綾は対照的に腕を組んで全てを無視していた。
「どうしよう」「どうするかぁ」と困り果てて言い合うと「私なんかと噂になって……ごめん」と有季が心底申し訳なさそうに詫びる。それを見た綾は目を細め、小さな溜息を吐く。
綾個人としては誤解に困る要因は無い。少しずつ噂を払拭できればいいと思っている。
だが、彼女が罪悪感を抱いているのなら話は別だ。早急に解決するべきだと判断した。
それと同時に、集団の中から面白おかしそうに遠藤が出てきた。先程は有季に興味本位の質問を幾つも繰り出してはあしらわれていた。ターゲットを変えたらしく、今度は綾を見た。
「ねえねえ、二人はいつから付き合ってたの?」
どうやらこの手の恋愛話は大好物らしく、普段はまるで見ることもないような高揚の笑顔で尋ねてくる。友人である有季が疲れた様子で代わりに何かを言おうとするから、綾はそれを制し、努めて誠実に説明を試みようとした。
「遠藤。ちゃんと話を聞いてほしい。まず、交際の事実はないよ」
「そんなこと言って、もぉ、照れちゃってさぁ。別に減るもんじゃないんだから」
「だから、話を――」
「――そんなことより! 二人の馴れ初めを」
話を被せられた瞬間。綾はその場で、教室後方の黒板に思い切り手の平を叩きつけた。
まるで除夜の鐘のような鈍く大きな音が教室中に響く。乾いたチョークの粉が落ちた。
半笑いで軽口を叩こうとしていた遠藤は掠れる息を呑んで、怯えながら身を強張らせる。囃してていた友人達も口を閉ざし、丸い目で綾を見ていた。真横に居た有季が一番驚き、身を震わせながら綾を眺めている。申し訳ないとは思いつつ、ようやく静かになって安堵する。
綾は黙った友人達を順番に眺めていき、一人ずつと視線を合わせてこちらの言いたい感情を先に目で伝えた後、丁度いい場所に居る遠藤を見た。
「噂の出所は?」
遠藤は助けを求めるように他のクラスメイトを見て、代わりに篠崎が前に出てきた。
彼はどうにも賢いらしく、既に心底申し訳なさそうな表情で綾の問いに応じた。
「『二人が付き合ってるらしい』という話をB組の連中がしているのを、このクラスの誰かが聞いた。又聞きの又聞きで特定は難しい。その――悪かった。囃し立てて」
「誰か一人でも当事者からその話を聞いた人は居る?」
次いで綾が訊くも、名乗り出る者は居ない。乾く唇を濡らして綾は続けた。
「居ないよね、当然――事実無根だから。あのさ、気持ちは分かるんだよ。私もクラスメイト同士で付き合ったりなんて話を聞いたら気になる。でも、本人が違うって否定しているならそれを聞いてほしいし、嫌がっているのに囃し立てるのは度が過ぎる」
通夜のような空気だった。しかし、相手が嫌がる中でのああいった悪ノリはあまり好きじゃない。――面々が目を逸らす中、真っ先に篠崎が頭を下げ、代表して詫びる。
「申し訳ない。どうかしていた」
相変わらず立ち回りが上手くて助かる。良い落としどころをそれとなく誘導して貰えていることに感謝しながら、綾は溜息を以て肩の力を抜き、気の抜けた声を装って明るめに言った。
「もう一回言うけど、そんな事実はないよ。噂を広めた人はちゃんと訂正もしてね」
繰り返して言うと、篠崎が「ああ」と首肯を以て了承の意を告げた。そして立ち呆けて泣きそうな顔をしている遠藤の背中を軽く叩き、席に戻るよう促した。
綾がぐるりと視線を巡らせれば、もう囃し立てるような言葉は飛んでこない。申し訳なさそうな表情やバツが悪そうな表情をちらほらと見かけ、もう面倒な噂は広がらないだろうことを確信した。最後に割を食った遠藤の背中を見ると、普段よりもう少しだけ背中が小さく見える。
やり方が悪かった。それを痛感しつつ、綾は鞄を置く時間も無く廊下の方へ足を伸ばす。
「……乱暴なやり方をしてごめん。頭を冷やす」
言いながら有季を手招きすると、それに気付いた彼女は無言で綾に続いて廊下に出た。
廊下へ出て間もなく、教室に微かな喧騒が戻るのが聞こえた。それに一先ずの安堵をしつつ、始業が近付いて人気の減った廊下で、二人は顔を突き合わす。
「水城さん、怒ると怖いんだね」
まだ畏怖の消えぬ表情で半笑いをこぼす有季に、綾は肩を竦めて否定を口ずさむ。
「怒ってないよ。怒ったふりをしたの。火照りには冷や水が効果的でしょ。でも――良いやり方じゃなかった。ごめん、後で遠藤にフォローを入れてあげてほしい」
彼女だけの問題ではないのに、彼女が最も割を食う形になってしまった。
綾が罪悪感から紡いだ要求に、有季は徐に頷いて了承した。
「オッケー。でも、あんまり気にしなくていいと思うよ。実際のところ、私が何を言ってもあの場じゃどうしようもなかったと思うし、こっちの本気を示す必要はあったから」
「だとしても、暴力的な解決方法を選ぶべきじゃなかったと思う」
綾は肩を落として自己嫌悪を顔に滲ませ、懺悔する。
「――私さ、小学校の頃に生徒がうるさいって理由で教卓を蹴る先生が苦手だったんだよ。でも、さっきの私のやり方はそれと同じだった」
「はぁ……」と珍しく弱々しい溜息を吐く綾を有季は物珍しそうに眺め、そしてフォローを入れるように背中を軽く叩いた。
「大丈夫だよ、私の為にやってくれたのは分かるし、皆も反省してくれると思う。水城さんのことを悪く思う人は――多分、居ないと思うよ」
「居るよ、少なくとも、ここに一人」
「厳しいなあ、自分に。私は嬉しかったよ?」
「ありがとう。少し気が楽になる」
いつまでも落ち込んでいても仕方がないと思い直して両頬を軽く叩き、「さて」と綾は話を切り替える。その表情の変化を見た有季も気持ちを切り替えて問題に向き合った。
「――なんであんな噂が流れ始めたと思う?」
綾が問題提起をすると、有季は幾らか真剣な表情で指を立てた。
「そこなの。理由が分からない。悪い噂を流して貶める、っていう悪意的な行動なら理解できるんだけど、当事者が否定して終わりになる、たかだか交際程度の噂を流すことにメリットがあるとも思えない。――でも、例えばそう、私達どっちかに好意を抱いているAさんが居て、更にそのAさんを好いているBさんが自分を見てもらうために私達の交際の噂を流した?」
「仮説として筋は通るけど、現状は判断材料が無さ過ぎる。理論の飛躍に感じるね」
「だよね……うーん、でも、それくらいしか理由は思い浮かばないなあ」
有季はこの議題を今詰めるだけ無駄だと判断し、アプローチを変える。
「『何故』よりも『誰』の方が今は考えやすいかも?」
「十中八九、昨日の私達の映画鑑賞を知っている人間だろうね」
綾がそう仮説を立てると、同じ可能性に思い至っていた有季は頷いて同意する。
「私もそう思う。タイミングが完璧すぎるもの」
「そして、この学校の生徒――更に言うと二年生の中に居そう」
「どうして」
「普通の人が見たら、昨日の私達の映画鑑賞は実体通りに友人同士の遊びに見える筈。それを交際疑惑とでっちあげて流布させる判断ができるのは、私が同性愛者であると知る人だけ」
「あ、そっか」と有季は感心した様子で手を叩く。そして揺れる目で自身の教室の方を見た。
そして固唾を飲んだ後、疑うべきか否か迷いながら潜めた声を言葉にする。
「……どうする? 犯人捜し、する? 少しずつ出元を辿れば犯人に行き着くとは思うけど」
「私はそうするつもりだった。ただ――やり方を間違えた。茅野さえ文句ないなら、少なくともしばらくは犯人捜しを控えたいと思っている」
茅野は少々面食らった様子だ。
「……やり方?」
「私が表立って不快感を表明したせいで、あの噂は悪いものだって印象が根付いた。その上、囃し立てた連中には今、負い目がある。もしも犯人捜しをすればその経過も答えも皆が知るところになると思うし、そうなれば、その罪悪感が犯人への攻撃性に転換する恐れもある」
少々過剰な心配かもしれないが、綾は真剣な表情で己の危惧するところを語った。
過剰な正義による中傷や暴力に発展する恐れが必ず無いとは言い切れない。比較的平和な学年であるとはいえ、水面下での派閥争いのような敵対感情の類は確かに存在する。
そこに大義名分を与えるなどということになれば、誰かが傷付く。
「犯人は私達に強い憎悪を抱いている訳じゃないと思う。だから私も、向こうを傷付けるのは本意じゃない」
綾がそう言うと、有季は暫し真剣な眼差しで綾を眺めた後、微笑を浮かべる。
「同感。犯人捜しはやめておこう。でも――続くようなら抜本的な解決は必要だと思うし、目を瞑るのは今回だけ。次回以降は、極力穏便に犯人捜しをする。どうかな」
「文句なし。噂の相手が茅野でよかったよ。話が早くて助かる」
「そこはお互い様。こっちも水城さんでよかったよ。……ほんとだよ?」
冗談めかして首を傾げながら笑う有季に、綾は少し気が楽になりなる。
「どうだか。でも、リップサービスでも嬉しいよ」
すると有季は不本意だと言いたげに唇を尖らせると、表情に茶目っ気を滲ませた。
「――息抜きに付き合ってくれるのとか。例の件を内緒にしてくれたりとか、気を遣ってくれたり、そういうのを全部ひっくるめて本当に感謝してるし……噂で誤解されても困らないくらいには、水城さんのことを特別だと思ってる」
綾は動揺を押し殺して有季の言葉の真意を探るように顔を見るも、彼女は穏やかに微笑むばかり。「そういうことで」と貼り付けたような微笑のまま教室に戻っていく彼女を、綾は何も言えずに見送る。真っ直ぐに謝意を伝えられた照れくささに、綾は溜息を一度挟む。
そして、少し時間を置いてから教室へと戻った。
そして昼休み。綾は遠巻きに向けられる視線で針の筵になりながら、手作り弁当を高木と向き合って食べる。彼女は背もたれを前に座って、六枚切りの食パンで作ったサンドイッチを食べ、飲み込み、口の端のマヨネーズを舌で拭ってにやりと笑った。
「しばらくは気まずいぞ~」
他人事を可笑しそうに言うが、返す言葉も無い。恨みがましく思う前に反省すべきだ。
「……受け入れるよ。私のやり方が乱暴だった」
「殊勝なことで。とはいえ――囃し立てるにも限度はある。今朝の流れは悪ノリが過ぎたよ。皆そう思ってるだろうし、一週間もすれば落ち着くでしょ。そう、気にするな」
「そうだといいけどね――どうあれ、茅野に迷惑をかけた。申し訳ないよ」
綾が独り言ちると、それを聞いた高木は薄笑いを浮かべながら近くで聞き耳を立てるクラスメイトを見る。「だってさ」と伝えるとクラスメイト達は気まずそうに昼食に勤しんだ。
綾は何とも言い難い表情で弁当に箸を伸ばし、黙々と昼食を進めていく。
そんな時だった。教室後方の扉がノックされた。
喧騒の中でその音を聞くことができた教室後方の面々は、一様に視線を送る。
扉のガラスの奥に見えるのは、穏やかな微笑を浮かべる女子生徒だった。
見覚えが無い。三年生か一年生、制服の年季から察するに恐らく一年だろう。背丈は低めで、体格は比較的華奢な方に分類されるか。頭髪検査が緩い我が校でもなければ認められなさそうな栗色の髪が肩辺りまで伸ばされており、加えて制服は多少着崩している。しかし、極端にスカート丈が短いなどということもなく、総合的に見ると真っ当な生徒と言えるだろう。ブレザーの中には一枚、ベージュのカーディガンを着けている。
特筆すべきはその面立ちだろう。目鼻立ちは極めて端正で、唇もよく手入れされており艶がある。開けた口からは微かに犬歯が覗き、八重歯ではないながらも愛嬌のある表情と相まって小動物のような印象を見る者に与えた。そして、そんな自らの顔を熟知したが故の最低限の化粧はその印象を全体的に底上げし、総じて、可愛らしい女子生徒と言えるだろう。
餌に釣られる獲物のように、扉に最も近かった男子生徒が頬を緩めて応対しに行った。
綾は視線を打ち切って昼食に戻り、冷凍食品のほうれん草を一口に放り込む。そして、
「水城! 後輩が呼んでる!」
応対に行った男子生徒が、意外そうな顔をしながら綾へ手を振った。
渦中の人物である綾へと面々の視線が突き刺さる中、綾は箸を持ったまま呆けた顔をして来訪者の後輩女子を見詰める。彼女は綾の視線に気付くと、恥ずかしそうに笑いながら小さく胸元で手を振って、こちらに用件がある旨を伝える。綾はぐっと眉を顰めた。
――誰だ。何の用件だ?
まるで見覚えのない女子生徒だった。知り合いではない。
しばらく考えても答えが出なかったので、綾は箸を置いて席を立った。
「モテ期じゃん」
「な訳あるか。ちょっと行ってくる」
「おう」
軽口を叩く高木を背に置いて、綾は女子生徒の顔を見詰めながらそちらに寄る。
近付いてハッキリと顔を視認しても、やはり見覚えは無い。
目の前まで来た綾は、何を言えばいいかも分からず目の前で彼女を見下ろす。すると彼女は照れくさそうに視線を俯かせた後、まるで頬の火照りを隠すように顔を扇いだ。
「あの、初めまして……水城先輩。ですよね?」
こちらのことは知っているらしい。綾は戸惑いながら頷いた。
「そうだけど、どこかで会った? 初めましてだよね?」
「あ、はい! そうです、一方的に知っているだけで――自己紹介がまだでした。常磐って言います。あの、皿じゃなくて石の方の常磐。あは、説明が下手なんですけど、伝わりますかね?」
「あー、うん。その常磐ね。分かるよ」
「常磐咲良です。一年A組の」
話した限りでは、随分と愛想がよく物腰の柔らかい女子だった。今のところ、印象は良い。
綾は幾らか相好を崩しながら「よろしく、常磐」と軽く挨拶をする。そして、興味深そうに教室の面々が聞き耳を立てていることに気付いたから「場所を変えようか?」と言って扉を閉めようとするも「あ!」と咲良が声を上げて軽く手を振った。
「そんな、長々とお引止めするつもりはないので。お気になさらないでください」
「ああ、そう?」
そうまで言われてはわざわざ閉めるのも感じが悪いかと、綾は手を止めて咲良に向き直る。
本題に入ろう。視線でそう伝えると、彼女もそれに気付いた様子で恥ずかしそうに胸元で手を合わせ、長い睫毛を何度か上下させる。
「その、用件というのがですね。えっと、告白的なやつでして――」
『告白』。言葉の定義上は恋愛関係に限らず、隠していたことを相手に打ち明ける意を持つ。つまり彼女は、今まで隠していた何かを綾に言おうとしているのだろう。内容は?
まさかとは思うが、或いは――。
そんなことを考えて眉を顰めると、そんな思考を見透かしたように咲良は笑った。
「――ずっと、先輩のことが好きでした。私と付き合ってください」
しん、と教室の喧騒が静まり返った気がした。
盗み聞きしていた生徒は口を押さえ、微かに話が聞こえた者は耳を疑うように丸い目をこちらに向ける。その中には、教室前方の席で遠藤達と昼食を取っていた有季の姿もある。彼女は箸に掴んでいた総菜をぽろりと弁当箱に落とし、唖然と口を開いていた。
「へ?」
綾はただ、間抜けな声を上げることしかできなかった。