6話
ある日の三時間目は物理の授業だった。
教室移動があるため、生徒は疎らに筆記用具を抱えて教室を出ていく。教室からの距離は近いのでゆっくりと仕度をする者も多い。
有季はいつものように筆記用具を抱えて集まってきた友人達と他愛のない世間話をしつつ、頃合いを見計らって教科書とノートを抱えて教室移動を始めようとした。
それとほぼ同時だった。綾や高木、森下といった友人グループが談笑しながら教室を出ていく様が見えた。特に何かを意識した訳ではないものの、有季は無意識にそれを目で追い――有季と一緒に移動しようとしていた遠藤がその様子に気付いて声を上げる。
「何見てんの?」
有季は反射的に誤魔化すように視線を逸らして遠藤の方へと向けるも間に合わず、遠藤は有季の視線を辿って綾達の後ろ姿を見つけた。「水城と高木?」それと森下、渡辺。
有季は動揺を笑みの中に隠し、それらしい言葉を取り繕った。
「そろそろ移動した方がいいかな、って」
「あー、ね。行こうか」
有季と遠藤が移動を始めると、少し遅れて篠崎や、飯田、岡部といった普段から仲のいい男女が付いてくる。後ろは後ろで何やら楽しそうに話しているが、内容はよく分からない。
何となくクラスでも影響力のある面々が何となく集まったグループで、特別に全員の仲が良いという訳でもないのが何とも不思議な居心地だった。過干渉でない点は有季にとってとても居心地が良かったが、これはこれで友人関係としては特殊な部類かもしれないとも思う。
「そういや水城って、今年の大会はどうだったのかな」
ふと、遠藤がそんなことを言った。
「え?」
勿論、唐突に綾の名前が出てきたことにも驚いたが、有季が疑問の声を上げたのはその内容。『大会』。何の話かまるで理解できずに素っ頓狂な声が出てしまった。少し恥ずかしくなって口を押さえると、遠藤は水城のそんな疑問符を理解できない様子で首を傾げ返してきた。
だが、そんな遠藤の言葉を聞いた篠崎は意味を理解したのか、後方で呆れた声を上げる。
「お前それ、マジで言ってんの? 遠藤」
有季と遠藤が反射的に振り返ると、篠崎は呆れたような、驚いたような表情をしている。
隣に並んでいる屈強な野球部男子の岡部や眼鏡女子の飯田も近しい表情だ。
「え、何の話?」
遠藤は理解できない様子で眉を顰めるが、有季も同じ気分だった。
「……ごめん、私はそもそも『大会』が何の話か分からないんだけど……部活? 水城さんって部活に入って――あ、いや。確かにそんな感じのことを言ってた気がするけど」
自分で疑問を上げて自分で解決する有季をよそに、篠崎は溜息をこぼす。
「お前ら全然クラスメイトのこと興味無いのな。……ああ、そうか。去年は別クラスか」
どうやら篠崎は去年も同じクラスだったらしい。だから知っているのだろうか?
そんな有季の疑問をよそに、彼は微かな同情と憧憬を宿した目を瞑り、開き、虚空を一瞥しながら有季の先刻の問いに対する答えを言う。
「アイツ、元陸上部だよ。一年の頃に全国まで行って七種競技で三位を取ってる。去年は校舎に垂れ幕までかかってたけど、まあ……興味ないよな」
有季は表情と言葉を失って、見開いた目を篠崎に向けていた。だが、瞳には彼が映っていても、頭が視界から来る情報を処理しない。何も視認しない。
全国三位。元陸上部。クラスメイトの誰も知らないだろう彼女の裏事情を知った気でいた有季は、いっそ恥ずかしくなりながらその単語を黙って噛み締める。
「私は知ってたけど。で、今年はどうなんだって話をしてんの」
「だから、『元陸上部』って言っただろ。辞めたよ」
遠藤は怪訝そうに眉を顰める。「どうして」理解が及ばない様子だった。
当然だろう。個人競技で全国三位ともなれば飛び抜けた成績と言ってもいい。それがどうして、今は終業後に即時帰宅をして家業に勤しむようになってしまったのか。
二人の視線が向けられる中、篠崎は遠くに行った綾達の背中を見て小さく言った。
「膝の怪我。完治に一年を要するって」
映画の約束を取り付けたのはその日の夜だった。
時刻は二十一時。初秋の夜空は眩しく澄んで、郊外に差し掛かろうという地域のその時間帯は、優越感と特別感を与えるくらいに静かで人気が少ない。二人は家の最寄り駅から少し離れた駅まで移動し、その近くにある大型商業施設に併設された映画館に足を運んだ。
自動ドアを抜け、丁寧に清掃された黒基調の絨毯を踏むと塩とバター、ポップコーンの香りがした。夜と映画を愛する物好きがちらほらと見える程度で、客の数は多くない。売店の近くには大型モニターが設置されており、上映中映画の予告編が矢継ぎ早に映し出されている。
「私、映画館のこの瞬間が一番好きかも」
普段より少しだけお洒落な格好をした有季がそう笑う。綾は腰に手を置いて苦笑した。
「映画のエンドロールとかじゃなくて?」
「それはほら、映画の出来次第じゃない?」
「確かに。――予約はしてないよね? 券売機はあっちか」
綾が券売機らしき方へと歩を進めると、有季が「あ」と呼び止めた。
「そっちはカードしか使えないの。学生はあっちだね」
ベルトパーテーションの迷路を抜けてチケット売り場へ。慇懃に腰を折って出迎えてくれる女性店員へ、有季が目当ての作品を言う。
「あの、アンパンマンの映画ってまだやってますか?」
少し恥ずかしそうにそう確かめると、店員は微笑ましそうに笑う。そして確かめることもせず「はい、上映しております」と頷いた。事前に上映作品は確かめていたが、念の為である。
「学生二名様でお間違いはないでしょうか?」
「あ、はい!」
「こちら学生証のご提示が必要となるのですが――本日ですとペア割の方が少々お安くなっておりまして、こちらにいたしますか?」
カウンターに置かれたラミネート加工の料金表を示しながら丁寧に案内をしてくれる。
綾と有季は顔を見合わせ、無言で『どうする』と尋ね合うような視線をやり取りする。後ろに並んでいる人は居ないとはいえ、あんまり時間を掛けるのも悪いので綾が率直に訊く。
「ペア割ってカップルじゃなくても大丈夫なんですか?」
すると先程まで淀みなく受け答えしていた女性は、少し自信なさそうに視線を泳がせると、
「ええと――すみません、ちょっと確かめます。えっと、たしか」
カウンター内の資料を確かめ始めた。
どうやら問題にならない範囲で適当に、できる限り安く済ませようとしてくれていたのだろうと向こうの配慮に今更気付いて、綾と有季は口を揃えるようにして嘘を吐き出した。
「あ、カップルです」
大嘘が完全に異口同音で重なって、二人で可笑しくなる。こちらに気遣いをされたと気付いた女性店員は「ありがとうございます」と申し訳なさそうに笑った。
シアタールームに入ると、大型スクリーンに知らない映画の予告編が流れていた。
眠気が迫るような暗闇と目覚めるような高揚の狭間に揺れながら視線を巡らせると、座席を選んだ時に確認した通り、他に客は一人も居なかった。有季が楽しそうに目を輝かせる。
「本当に貸し切り状態だ」
「平日夜の子供向け作品だからね。それも郊外の劇場。こんなもんなのかも」
最後列中央の二席に並んで座り、それぞれのホルダーに飲み物を刺す。
「ペア割で四百円お得か――帰りに飲み物が買えるね。お得だ」
貸し切り状態の上映前なら多少は良いだろう、と、綾が知らない映画の予告を眺めながら浮いた出費を思い出して語ると、有季はこちらを見る。
「毎週木曜日にやってるんだって。観たい映画があったら誘ってよ」
「――まあ、滅多に映画を観ようなんて思わないから期待はしないでほしいけどね。ただ、基本は暇だから何かあったら誘うよ」
綾がそう約束をすると、有季は何か言いたげな顔でしばらく綾を見詰めた。
綾が首を傾げて意図を尋ねると、彼女は微笑を浮かべて誤魔化すようにスクリーンに向き直り、そして背もたれに背中を預ける。有季は微睡みに身を委ねるように目を瞑って数秒黙り、そして他愛のない談笑の延長線上を歩いていくように、綾を見ぬまま口を開いた。
「ねえ、ダーリン」
結局、ペア割はカップルでなくても使えるのか否か分からないままだった。
映画館を出るまでは建前的に交際関係なのだろうかと考えつつ、綾は軽口で応じる。
「なんだい、ハニー」
「陸上部だったんだね」
綾は見張った目で有季の横顔を見詰める。
知っていたのか。という疑問は微かにあるが、とはいえ、おかしな話ではない。昨年は学校に名前付きで垂れ幕まで掛かっていたのだから。むしろ先日まで知らなかった彼女が今になってその話を知ったこと、そしてここでそれを持ち出してきたことに驚いた。
「隠してた――訳じゃないとは思うけど、勝手に聞いてごめん」
「いや、まあ。その通りで隠してた訳じゃないし、謝る必要は無いよ」
「怪我のことまで聞いちゃった。そっちは、あまり知られたくないんじゃないかと思って。ごめん、今まで全然知らなかったし、気付けなかった」
綾は有季の罪悪感と複雑な葛藤に蝕まれた横顔を観察した後、視線をスクリーンに戻す。
そこまで知っているのなら、元より隠してはいなかったが、もはや隠す理由もない。
綾は黒のカーゴパンツ越しに自身の右膝に手を置き、去年の苦痛を思い起こす。
「気付けないのも無理はないよ、執刀医の腕が良かったんだ。比較的良い状態に戻してもらえて、運動が一切できない状態でもない。日常生活に支障は無いし、体育も出てるからね」
有季はちらりと綾の膝を盗み見ると、ぐっと唇を巻き込んで視線を忙しなく揺らす。
その横顔と無言から彼女が何か言葉を呑んだことに気付いた綾は、気兼ねなく言えるよう明るい声を出した。
「何か聞きたいことがあるなら言いなよ。言いたくないことは言わないから、安心して」
すると有季は少し躊躇いがちにしつつ、飲み込んだ言葉をそっと紡いだ。
「陸上部には、戻らないの?」
有季がその質問をどのような意図から発したのかは分からない。
だが、その疑問に対する答えは既に存在するから、考える間もなく、何度も自問自答を繰り返して紡ぎ上げられた後悔の無い決断を彼女に伝えた。
「戻らないね。もう、陸上はやらない」
綾が気負うことなくハッキリと伝えると、有季は眉尻を下げて瞳を伏せた。
どうして。と、その表情が疑問を呈していたから、綾は聞かれる前に答えた。
「完全な機能回復にはリハビリ込みで最短一年。最長で二年。ブランクが長過ぎる。全国三位――私の上に居た二人の二年生はその期間でもっと遠くに行くだろうし、まあ、良い頃合いだった。いつか身の程を弁えたいと思っていたからね、潮時だったんだろう」
微笑を浮かべ、力の抜けた声色で綾はそう言った。それが強がりであるか否かは、きっと本人にしか分からない。だが、心の底からそう思っているとは到底思えず、有季は絞り出すように謝意を言葉にした。
「ごめんなさい」
綾は眉を顰めて苦笑を浮かべる。
「どうしたのさ、さっきから。何の謝罪?」
膝に手を置いて俯いた有季は、自己嫌悪に苛まれながら口を何度か開閉して空虚な息を出し入れした後、それに己の心の膿を混ぜて吐き出した。
「君の事情も知らずに――私は、恵まれた環境に文句を言ってた」
呆れて言葉も出なかった綾は腕を組んで押し黙り、彼女に聞こえないよう小さな溜息を吐き出す。先日、プールバーで真昼が言った言葉には、少なからず図星に思う部分もあった。
だが、まったくもって的確という話でもなく、綾自身は有季の境遇と自らのそれを完全に分けて考えているつもりだった。
だからこそ、他でもない彼女がそんなことを言い始めるとは思わずに面食らった。
綾は言葉に重みを含ませるように沈黙を挟んで、それからそっと語る。
「――転んで膝を擦りむいた人が、骨折した人の前で泣くのは悪い事だと思う?」
綾がそう尋ねると、有季は少し泣きそうな顔を上げて質問を考えて返答を出そうとする。
だが、その情景を想像し、そしてその返答が否であると導き出したのだろう。「いや、そんなことは」とまで呟いてから、その話が今の自分の謝罪と繋がることに気付いて黙る。
直ちに自分を許せないながらも、しかし自分を責め続けることもできない葛藤に苛まれた表情を見せる有季。ふと、劇場の照明が落ちた。スクリーンがくっきりと闇に浮き上がる。
綾はもう間もなく上映が始まりそうな気配を感じながら、こう言う。
「もっと苦しい人が居るから我慢しろ、なんて理屈は通らないと思うよ。そりゃ、相手の事情に対する配慮は交流の上であって然るべきだけど、私がどんな事情に居ても、君の苦しさは消えない。痛覚の感度も許容量も人によってまるで違うんだから、比較に意味は無いんじゃない?」
有季が瞳を伏せて押し黙る。瞳の向こう側に微かな逡巡が見えた。
「親が不倫で離婚した友人に、朝のパンが八枚切りだったことを愚痴ったっていいと思う。勿論、時と場合とその人の精神状況と――色々考慮するべきことはあるけどね。少なくとも私は、そういう話をしてくる馬鹿みたいな友達に救われたよ」
綾は努めて能天気な声を装って、まるで真昼のように飄々と笑った。
「私は平気。だから安心して泣き付いてきな」
すると有季は自分を恥じ入るように両手で顔を覆い、呻くように詫びた。
「……気まで遣わせてごめん」
「だから、気にしなくていいんだって。話を聞かないな」
流石に可笑しくなって苦笑すると、彼女は少し元気を取り戻した様子で顔を上げ、何度か頬を叩いた。溜息を一度挟んだ後、すっかり元通りになって「ありがとう」と告げた。
そうして劇場暗転後の予告番組が何度か流れた後、映画鑑賞のマナーに関する映像が流れる。
他に誰が居る訳でもないが、二人は声を潜めてスクリーンに向き合った。
「アンパンマンなんて保育園時代に観たのが最後だよ。まだジャムおじさんはパンを投げてるの?」
綾が映画を待ちながら小さな声で訊くと、有季はむっと答える。
「焼いてるって言ってほしいな。投げるのはやむを得ずだから」
「……茅野はけっこう見てるんだ、アンパンマン」
綾が少し意外そうに尋ねると、有季はスクリーンからの照り返しを浴びた青白い肌を微かに赤く染め、視線を逸らす。
「まあ、その――映画はね? 流石に全部は追えてないけど、学校の昼休みとかの隙間時間で少しずつって感じ。実はクオリティが高いから、大人でも比較的楽しめるんだよ」
「へえ、言っちゃアレだけど子供向けの映画じゃない?」
「だからいいの。露悪とか善か悪かの複雑で印象的なテーマじゃなくて、『困っている人が居るから助ける』『間違いに気付いたら直す』『必要であれば最小限の暴力で事を解決しよう』という話で、シリーズを通して軸となる作者のやなせたかしさんの理屈があって、だから、それに共感できる人は作品テーマをすんなりと飲み込んだ上で素直に応援ができるの」
熱く語る有季の熱量に押されて仰け反った綾は「おぉ……」と温度差を感じながら頷く。
「見たら印象が変わるから」有季がそう念押しするから、綾はそこまで期待をしないながらも円滑なコミュニケーションのために「そこまで言うなら」と期待する素振りを見せた。
綾が口を覆ってハンカチを取り出したのは、それから数十分後のことだった。
頑張れ、アンパンマン。それ行け、アンパンマン。
――事件が起きたのはその翌日の朝だった。正確には、その朝に発覚した。
有季と一緒に観た映画の内容と、その帰り道にペア割で浮いた分で購入した飲み物の味を思い出しながら綾が欠伸混じりに教室のドアを開けると、一斉に好奇の視線が突き刺さった。
登校時刻は始業寸前。大半の生徒が既に教室に居たが、その大半が綾を好奇心と興味に溢れた目で見ている。噂好きの女子は興奮した様子で何かを友人に耳打ちし、声の大きな男子はニヤニヤと笑っている。綾は自分を敵が少ない方だと自覚しているが、それでもたかだか登校した程度でこんな反応を貰う方だとは思えず、その場に立ち尽くして眉を顰めた。
「……何、この空気」
綾が静寂を縫うように率直に訊く頃、視界の端に同様に困り果てた人間を見付けた。
有季だった。ニヤニヤと笑う友人達に囲まれて愛想笑いを浮かべていた彼女は、綾と視線を交えると申し訳なさそうな、それでいて困惑した表情で視線を泳がせる。「水城さん」どうやら彼女も何か関係しているらしい。一体、何だと言うのか。
すると、流石は長々と友人をしているだけはある。高木が見かねた様子で席を立った。そして綾を手招きしようとするが、しんと静まり返った教室で何を言っても筒抜けだと思い直したか、やや懐疑を隠せないながらも、驚きと祝福を込めた表情で言った。
「綾、茅野と付き合ってるんだって? ――おめでとう」
一瞬、思考が完全に停止した。綾は意味が分からずに呆けた顔で高木を見る。
そして、その言葉の意味を少しずつ齧るように咀嚼して飲み込み、理解した綾は顔を強張らせ、ぎこちない笑みを浮かべながら呆然と疑問の声を上げた。上げようとした。
「は――」
だが、言い切るよりも早く教室中に歓声が上がり、疑問の声はかき消された。
囃し立てるようにクラスメイト達が、存在もしない綾と有季の交際を祝福し始め、噂好きの女子は「いつから付き合ってたの? ねえ」と有季に詰め寄り、綾と比較的仲の良い男子生徒が「言ってくれよぉ」と称えるような嫉妬するような顔で言ってくる。
綾は自分が女性愛者であることを言いふらしこそしないものの、女性と交際していた経験があることを隠さないし、知った人が第三者に公言することも許容している。事実上、教室中のほぼ全員が性的指向を知っていたはずだ。それ故に疑うこともしなかったのだろう。
だが、まるで身に覚えのない話である。
交際の事実は無いし、それを匂わせるような真似を誰かにした覚えもない。
何がどうなっている。綾は困惑を隠せぬまま周囲の喧騒を無視して有季に目を向けると、彼女も取り囲んでくる友人達へ否定の言葉を繰り返していた。
しかし、そんな言葉も照れ隠しだと解釈され、言葉は一向に届かない。
何故こうなった。誰がこうした。この状況をどうするべきか。一つの事件で一気に降り注いできた幾つもの問題を困惑と共に受け止めた綾は、小さな溜息をこぼした。
「どうなってんだ、これ」