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4話

「今日の私は昨日と少し違います。何が違うでしょーうかっ?」


 夜の二十一時。誰も居ないサガラ書店のアダルトコーナーにやってきた茅野有季が、挨拶する間もなく開口一番にそう言って手を広げた。レジから腰を浮かして迎えようとしていた綾は、唖然としながら彼女を眺める。どんな顔をして言っているのか確かめるように吊り下げられた不透明パネルをめくると、少し恥ずかしそうな有季の顔が見えた。


 間もなく彼女は頬を染めると、照れながらパネルを下ろして隠れた。


 綾は我に返ってスイングドアから外に出ると、無言で有季の全身を観察する。


「……え、服じゃなくて?」


 昨日の夜とはまるで服装が違う。今日はラフなパーカーに紺のズボンを穿いたパンツスタイルだった。厚手のパーカーで骨格が隠れているせいかボーイッシュな印象を受けるものの、それらはコントラストを作り出すように、彼女の長い髪や睫毛、細い指先といった生物学的女性の特徴を強調している。昨日はスカートを穿いていた筈だが、どちらもよく似合う。


 綾の返答が不服だったのか、有季は照れたような顔に少しの不満を覗かせる。


「や、服はそうだけど。そんなの問題に出さないよ。そうじゃなくて、もっと身体の方」

「じゃあ髪型? ハーフアップも似合うね。自分でやってるの?」


 普段はストレートを真っ直ぐ下ろしているのが目立つ印象だが、今日はハーフアップで結んでいる。稀にヘアアレンジしている様子を見かけるが、改めて見るとやはり綺麗だ。


 綾が率直に称えると、彼女は複雑そうに髪を撫でながら目を瞑る。


「確かにハーフアップにしたけどもぉ……褒めてくれるのは嬉しいけどもぉ……」

「違うんだ」

「そんな、見るだけで分かる問題を出すと思う?」

「見るだけで分からない問題を見せるなよ」


 思わず唖然としながら呆れた声で正論を言い返すと、有季は教室では見せないような不貞腐れた顔を見せる。やれやれ。思わず口の中で呟きながら腕を組んでレジカウンターに腰を預け、拗ねる彼女の顔をやや至近距離からジッと見詰める。数秒唸るも、分からない。


 しかし、お手上げと言うと彼女が傷付いてしまいそうだ。


 森下からあんな具合に褒められた以上はここで軽々しく回答を投げだすなんて真似はできない。と、気合を入れ直した綾はふと、頭の中にその森下の顔を思い浮かべる。


 有季が開口一番でこうして問題を出してきたということは、きっと森下とのやり取りを盗み聞きしていたのだろう。そうなると、同じくらいの問題なら解いてもらえると思った可能性が高い。そう考えた綾は、微かな不安と共に一度きりの回答権を行使した。


「もしかして、リップ?」


 すると彼女はいっそう不満そうに頬を膨らませて顔を背ける。頬がやや赤い。不正解か。


「森下さんの時はすぐに分かったのに」


 どうやら正解だったらしい。綾は腕を組んだまま呆れた溜息を吐き出す。


「そりゃ森下は席が近いしほぼ毎日話してるからね。流石に茅野は分からないって。まともに話したのは昨日が初めてだよ? しかも、無色のリップなんて……匂いとか触感を確かめないと変化なんて普通気付けない。森下のは光沢が違ったから分かったくらいで」

「そっか、そうだよね。私なんて知り合ったばかりの知人だもんね」


 ぶすー、という擬音がとてもよく似合う不貞腐れ方で有季はそっぽを向く。が、少し頬が緩んでいるのが見えた。薄っすらと察してはいたが、やはり本当に不機嫌な訳ではないらしい。どうやら、こういう冗談も言うタイプのようだ。綾は苦笑をして腰に手を置き、詫びる。


「悪かったよ、ごめんね。次はすぐ当てるから――代わりに、ちゃんと店に顔を出してよ? 元を知らなきゃ何が変わったかなんて分からないんだから」


 有季はちらりと綾の方を盗み見ると、それから堪えきれない様子で「ふふっ」と息を吐き出すと、上機嫌で綾の方を向いてくすぐったそうに目を瞑る。


「うん。そんなにいっぱい買えるようなお金は無いけど」

「いいよ、冷やかしで。勿論、何かお目当ての物があれば相談には乗るよ」


 すると彼女は「うん」と満更でもなさそうに頷く。


 それから数秒、二人揃って黙る。綾が話題を探すように腕を組んで考え込むと、有季は何を探すでもなくその場に立って、落ち着かない様子で視線を泳がせていた。


 居心地が良いのか悪いのか分からない沈黙を可笑しく受け止めながら、綾はいつまでも彼女を立たせているのも悪い、とレジ台に手を置く。


「椅子あるけど、中入る?」


 スイングドアを膝で蹴ると、有季は弾かれたように「あ、うん!」と続いて入った。


 レジカウンターの中は細い通路になっていた。両脇には狭いスペースを最大限に活用するべく大量の荷物や備品が置かれている。店側には客と視線を合わせずに済むよう様々な目隠しが施されつつ、脇にはモニターが置かれ、死角を潰し切った監視カメラの映像が映し出されていた。「わぁ」と興奮した様子で雑多な書類の山々をきょろきょろと眺め回す。


「一応表に出てるものは見て大丈夫だけど、引き出しの中とかは契約書とか機密情報があるから触らないでね。下手したらこの店が潰れちゃうので。まあ、鍵は掛かってるけど」

「あ、それはもう。はい!」


 そんな狭い通路には綾が使っていたパイプ椅子が一つ。その隣にもう一つ広げた。


 「どうぞ」と綾が促すと、有季は「お邪魔します」と嬉しそうに腰を下ろした。


 綾も座り込むと、数秒の沈黙が横並びの二人に漂う。奇妙な気分になった有季が可笑しそうに笑い、綾もクラスメイトを中に招き入れて不思議な気分になりつつ話を切り出す。


「今朝、篠崎とかと中間考査の話をしてたじゃん」

「あ、聞いてたんだ。してたね、そろそろ勉強しないと」


 少し嬉しそうに有季が頷くから、綾は彼女の顔色を見つつ慎重に本題に入った。


「……確かに、ストレスが溜まりそうだなぁって思ったよ」


 すると有季の表情が微かに色褪せ、動揺を隠すようにその目がそっぽを向く。


 「ぅん」と咳払いを含んだ相槌を言ったきり彼女は無表情に口を噤んだ。


 それを見た綾はセーフラインを見誤ったのと気付いて殊勝に詫びようとしたが、口を開くより微かに早く、「まあ、その」と曇った有季の顔が綾を見た。


「二人は悪くないんだよ?」


 と誤魔化すような笑みを浮かべたから、綾は彼女の表情が曇った理由を悟る。


 ストレスを感じていたのは事実なのだろう。だが、あの会話の最中にストレスを抱いたのだとすれば、それは篠崎と遠藤、また、その周囲に居た友人達が原因ではないか――そんな風に綾の理論が展開していくのを恐れたのだろう。綾は思わず笑って、軽く頷いた。


「分かってる。どっちかというと、私もあの二人側の認識を持ってた。陰口は言わない」


 ハッキリと綾の会話が描くだろう波打ち際を言語化すると、有季は疑った罪悪感と拭えない安堵を表情に胸を撫で下ろすと、「ごめん、ありがとう」と笑った。そして続ける。


「――その、何て言うのかな。皆、私に凄く期待をするんだ」


 有季は遠い目をしながら、パイプ椅子に座ったまま踵を一回上げ下げし、膝を閉じたまま足を開く。手慰みをするように膝の上でトントンと指を動かし、膝の皿を叩いた。


「家族が……というか、一族が基本的にお医者さんでね。大体皆、凄い大学に行って凄い病院で凄いことをしていて、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、今は名門医大に通ってる。お兄ちゃんは研修医だったかな。で、私はどんな医者を目指すのかって家族全員が期待してる」


 想像するだけでうんざりするような重圧を感じ、綾はすっかり言葉を失って静聴していた。


「医大に行くなら好成績じゃないと、って言われるから頑張って勉強して――良い成績を出したら先生も友達も期待をし始めて、今や私は医者の卵扱い。もうね、期待が重いんだぁ」


 泣き言を冗談めかして呟くから、綾も微かに笑って軽口を挟む。少し呼吸が楽になった。


「記憶が正しければ、ずっと学年一位でしょ? 凄いね」

「良い記憶力してるね。どう? 水城さんも医者を目指してみない?」

「馬鹿言え。……でも、そういう人ってもっと進学校的なのに行くと思ってた。ウチは普通の公立高校だけど。そんなもん?」

「平均的な高校レベルの授業はどこで受けても私には大差ないから。代わりに通学時間を短縮して家で勉強する方が効率的だと思ったの。実際、模試は良い感じだよ」


 どうにも綾の尺度で話す度に認識の齟齬が露呈しているような気がして仕方がない。


 綾は呆然としつつもどうにか驚きを表情で表現し、何度か頷いて「なるほど」と呟いた。漠然と優れた大学に行きたい、という人間ならばともかく、明確な進路が決まっている人間ならこういう進学手順もアリなのだろう。感心しつつ、綾はこう続けた。


「でも、医者になりたくないんでしょ?」


 憶測を確かめるように尋ねると、有季の動きが止まった。彼女は口を微かに開けたまま丸い目で綾を見て、それを見た綾はその反応で自分の推測が正しかったことを悟る。


「……あれ、私、水城さんに言ったっけ? それ」

「聞いてないけど、何となく口ぶりから分かるよ。強い志を持って医者を目指してる人の言葉に感じられなかった。少し――根腐れしたような、そんな感じ」


 感覚の話だったが故に確かめるような言葉になった訳だが、どうやら合っていたようだ。


 有季は綾の言葉に驚きを隠せないまま黙った後、もう隠す話も理由も無いと悟り、観念したように目を瞑って苦笑する。パイプ椅子の足の間に手を置いて前のめりに項垂れる。


「『なりたくない』とまで言うと語弊があるけど……少なくとも、なりたい訳じゃないかな」


 言葉の上では大した違いは無いかもしれないが、些末ながらも大事な話だ。


「一応、バランスを取っておくけど。立派な仕事だとは思うよ」

「うん、私もそう思う。たまに、お父さんが診た患者さんからの手紙を読ませてもらうんだ。嬉しそうなお父さんの顔と、感謝を隠し切れない筆跡。眩しくて憧れた」


 微かに目を細める彼女の双眸には確かな憧憬。だが、その奥には自己嫌悪。


「でも、人の命って、凄く重いと思うんだ。軽い気持ちじゃ、持てないくらい」


 医者になりたくない訳ではないが、なりたい訳でもない。そんな志の医者が患者とどう向き合うのかという信念の話をしているのだろう。であれば、何も知らぬ若造に言えることは無い。


「動機の伴わない自分にできる仕事じゃない、って思うんだ?」

「間違ってるかな」

「どうだろう。正誤は君のご家族に訊くのが手っ取り早そうだけどね」


 その答えをハッキリと回答できる身近な人間は、きっと彼女の親族くらいだろう。


 だが、有季は難しそうな表情で視線を泳がせた後、自嘲気味に唇を曲げる。


「訊けない――だって、家族は皆、私が真っ直ぐ医者を志してると思ってるし、それを期待してる。弱気なことを言ったらさ、期待を裏切っちゃうじゃん?」

「それはそうだけど、自分の人生を親の期待で捻じ曲げるの?」


 綾が率直な疑問を投げると、一瞬、有季の顔が歪む。綾も吐き出してから己の言葉の強さを感じ入り、反射的に口を押さえた。自分自身、真っ当な家庭環境ではないと自認しているが、それでも父親との仲が良好であり、かつ彼に自由意思を尊重されているから履き違えた。


「……悪い、今のは忘れて」

「いや、水城さんの言う通りだとは思う。私も、自分で何してんだろうとは思うよ」


 有季は遠い目で店の中のアダルトグッズを眺め、サンプル映像の女優を俯瞰する。


「でもさ、怖いものは怖いの。優しい両親だから、言えばきっと理解してくれる。だけど――明後日の方向へ飛ばすためにロケットを開発する人は居ないでしょ? こうなってほしいって願望があって設計され、組み立てられる。十六年間、こうなってほしいと思いながら私を育ててくれた二人の気持ちを想うとね、期待を裏切るのが怖いんだ。失望が、怖い」


 冷めた目が薄桃色に照らされたアダルトコーナーの床を見る。


「本当は、誰かの決めた何者かじゃなくて――自分で自分の進路を決めたい」


 持ち上げられた目が胡乱に虚空を眺め、その唇が自嘲を宿す。


「でも、期待で舗装された道を外れて迷ったら、誰も助けてくれないんじゃないか、とか」


 そこまで言った有季は、ふと我に返り、ぎゅっと目を瞑って一度強く己の頬を叩いた。


 直後、仮面を被り直したように人当たりの良い笑みを浮かべてこちらを見る。


「って、ごめん! 愚痴を言って。全部忘れて」


 流石にここまで話されて『分かりました』と忘却できる人間はそう多くないだろう。


 綾は『善処する』と言おうとした口を思い直して閉ざし、貼り付けた笑みの向こう側にある、先ほどの彼女の苦しそうな顔を思い出す。溜息を吐いて腕を組んだ。


「私の人生経験は茅野と大差ないから、意味のあるアドバイスとかはできない。ただ、」


 不思議そうな顔をする有季にこう言った。


「吐き出して楽になるなら聞くよ。言いたくなったらいつでもおいで」


 有季は暫し呆然とした様子で綾の顔を見詰める。言葉を理解するのに時間を要し、ようやく咀嚼してからも尚、動揺の収まらない様子で半笑いを浮かべて目を泳がす。そして、少しおどけたような表情と声色を作ると、取り繕ったように明るい声を上げた。


「なんでそこまでしてくれるの? 好きになっちゃうよ?」


 同性愛者と知って言うその冗談は、少しばかり意地が悪い気がした。或いは本気なのだとしたら、勘弁してほしい。こちらも少し本気にしてしまう。綾は肩を竦めて言い返す。


「私だって暗い話ばかり聞きたくはないって。たださ――ここまで聞いたらもう、忘れるのは無理でしょ。全部忘れて生きたとしても、十年後、病院に立ち寄った時に、ふと喉に引っ掛かる。私、魚は骨が無い奴しか食べたくないの。美味しいものは元気よく一口で行きたい」


 綾は組んだ腕を解いて、片手で己の首をトントンと小突く。


「茅野の悩みは私にとって魚の小骨。感謝の前に匂わせの反省をしてくれると助かるね」


 有季は何度か口を開閉して言葉を選び直す。やがて、適切な言葉を見付けた。


「ありがとう」


 話を聞いていたか。尋ねようとする軽口を抑えて綾は頷いた。


「どういたしまして。さ、暗い話はこれくらいにしよう。気分転換にならないでしょ」


 そう言ってパイプ椅子を立つと、有季は自然に柔らかい微笑を浮かべ「うん」と立った。


 だからといって行く場所も無いのだが、リフレッシュするためには仕方がない。綾はスイングドアを蹴って店内に出て、有季と一緒にアダルトグッズを見て回る。


「で、昨日買ったやつは使った? どうだった?」


 当然、話題はそちらに転換する。


 唐突なフックを食らった有季は目を白黒させて頭を揺らし、「ゃ」と甲高く上擦った声を上げて話題を逸らそうと試みた。顔が段々と熱く染まって冷や汗が浮かび始める。悪い事を訊いたかと気の毒になった綾が話題を変えようかとも考えるが――今更だと思い直したか。


 有季はぐっと生唾を呑んだ後、恥を曝け出す道を選んだ。


「と…………とても、良かったです。はい」

「それはよかった。紹介者の冥利に尽きるよ」


 邪な考えが過りそうになった綾はどうにかそれを追い払い、誠実に応対する。


「昨日も軽く言ったけど、親父がアレを作ってる会社の開発さんと懇意でさ。度々試供品とか貰って知り合いに配ってるの。私も何度か顔を合わせたことあるんだけど、実際に使った上での感想を重視する人でね。伝えとくよ。好評だったって」

「わー……それはちょっと恥ずかしいけど……まあでも、匿名なら」


 世話になっている手前は無下にできないと思ったか、有季は悩ましそうにそう言う。「勿論」と綾は頷きつつ他におすすめの商品は無いかとラインナップを見回し、ふと目を留める。


「あ、そうだ」


 ポンと手を打って有季の方を見る。有季はやや頬を染めたまま綾を向いた。だが、何かを言おうとした綾は何かに思い至ったように硬直し、約五秒の沈黙が二人の間を抜ける。有季が無言で不思議そうに首を傾げると、綾は悩ましそうに顔を歪めて首を傾げ、首を横に振った。


「ごめん、忘れて」

「え、待って凄く気になる。私、そういうの駄目なの」

「いや、ちょっと不適切な話だった。忘れてほしい」

「話の流れ的にえっちな話題でしょ? 今更じゃない?」


 有季がもどかしそうに食い下がるから、綾は唸りながら腕を組んで悩み、葛藤。


 確かに性的な話題で、そしてそれはこの場所を考えると今更遠慮するほどのものではないかもしれない。しかし、綾が女性愛者であること等々を踏まえると避けるべきでは――「まあいいか」と綾は思考を打ち切って吹っ切れ、そして自分の胸を軽く叩く。


「茅野って、一人でするとき、上も触る?」


 一瞬、有季は質問の意図どころか意味も理解できない様子で首を傾げた。


 だが、『するとき』という言葉が指し示す行為と綾が叩いた胸、そして上という言葉。最後に、綾が先程視線を留めた先にあるグッズを見てそれらを紐づけ、顔が爆発した。有季は顔を茹で上げ、慌ててパーカーの下の小さなふくらみを腕で隠し、もう片方の手をパーカーの袖の中に潜めて、それで顔の一部を隠す。そして、目を泳がせながら逸らした。


「なんのはなし?」


 声が上擦っていた。気の毒なくらい顔が赤い。どうやら触るようだった。


 綾は努めて冷静に、店員として営業を仕掛けるように商品の一つを手に取る。それは、女性用のアダルトグッズ。胸に装着して性感帯をフリーハンドで刺激する器具だった。


「実はさっき言った業者さんってこのシリーズも開発してるんだけどさ。まだ出回ってない新作の試作品が届いていてね。もちろん、安全は保障されてるやつ。いつもは親父が仲のいい人に渡して、その人が恋人とか奥さんとの行為に使ってるらしいんだけど――興味ある?」


 比較的真面目な話だったからか、少々面食らった様子で有季は目を白黒させる。


 そして、そんな目を綾の手元の箱に向け、そこに記載された謳い文句に固唾を飲む。どうやら悩んでいるらしい。察した綾は彼女のためにもう一押しを提供する。


「シリーズ屈指の静音性らしい。あとはコンパクト」


 身を捩りながら有季が葛藤する。目が忙しなくあちこちに飛んでいた。もう一押し。


「試供品と違って試作だからね、少しでも興味があるならフィードバックしてあげてほしい」


 そういう大義名分を与えると、非常に賢い彼女のことだ。そこで靡くのが最もふしだらではないと思ったことだろう。「あー」と白々しい声を上げて斜め上を見ると、仕方がないという調子を装って「じゃあ、まあ」と胸や顔を隠していた腕を下ろし、お腹の前で組む。


「そういうことなら是非。お手伝いさせてもらえればとは、思うけど」

「オッケー。業者さんも喜ぶと思うよ、ありがとう」


 そう言って綾はカウンターの奥に戻ってプラ袋に梱包された試作品のグッズを取り出す。付箋に父親へのメッセージを軽く書いた後、それを店の紙袋に入れる。


 カウンターの向こう、店側に立ってそれを眺めていた有季は恥ずかしそうに俯く。


「変かな。そっちも触るの」

「……別に? 極端にマイノリティだったらこういうグッズも販売されてないでしょ。私だって彼女とシた時は触ったり触られたり。まあ、おかしいことじゃないとは思う」


 「そっかぁ」と安堵したような意外そうな表情で納得した様子だった。


 綾は意図的に紙袋への封入を遅らせ、彼女が落ち着いた頃合いを見計らって「落とさないようにね」と念押しをして彼女に差し出した。「勿論です」と恭しく受け取る。


 そして、商品の受け渡しが終わった二人は黙って顔を見合わせる。


 普段は商品を渡したら客は帰るのだが、有季はまだもう少し居たいとでも言うように申し訳なさそうな顔で言葉を探している。「えっと」と小さく呟いた言葉でそれを察した綾は、彼女が気を遣わないようにカウンターに肘を置いて軽い口調を心掛けた。


「まさか、もう帰るなんて言わないよね? 客が来なくてこっちは暇なのに」


 頬を歪めるように笑って言うと、有季は花を咲かすように笑みを返す。


「いやっ、全然! こちらも暇ですけども」


 本人は隠しているつもりなのかも分からないが、有季は上機嫌に鼻歌でも歌いそうな調子で何度か踵でリズムを刻む。望んでいる言葉を選べたようで何より。


「あ、でも終電とかは気を付けてよ? まあ、大丈夫だとは思うけど」


 終電まではまだ数時間はあるだろうから杞憂かもしれないが、念のため。そう思って言った綾だが、有季は紙袋を持っていない方の手でブイサインを作る。


「大丈夫だよ。私の家、ここから二駅くらいだし。最悪は歩ける」

「あ、そんな近いんだ? なんだよ、そういうのは早く言ってほしいな。気楽に呼べる」


 それくらいの距離なら、もっと気軽に彼女を呼び出せる。暇な時の話し相手になるだろう。


 しかし、距離的に楽だとは言っても、彼女には勉強がある。


「……でもアレか、普段は勉強で忙しいか」


 気楽に呼べるとまで言うのは些か彼女の気持ちを蔑ろにし過ぎていたかもしれない。そう思って撤回する綾だったが、有季はそんな配慮の心中を察したように頬を綻ばせる。


「机に齧りつくだけが勉強じゃないよ。休憩も睡眠も効率化のために大事だもの。まあ――代わりに、家に居る間はずっと勉強漬けだけども」


 想像したくもない生活を同情するような目で思い浮かべると、有季が綾の瞳を覗く。


「そっちこそ、大変なんじゃない? バイトばっかで」

「私は自分がやりたくてやってるからね。部活を辞めてからは他に予定も無いし、バイト代は貰ってるし、シフトにはかなり融通が利く。非常時には私の判断でコーナーを閉めてもいい」

「そこまで裁量が大きいんだ。お父さんに信頼されてるんだね」

「見る人によっては放任に近いけどね。まあ、仲は良い方だと思う」


 そう語る綾を有季は微笑ましそうに眺めて目を細め、それから話題を探し始める。


 ふと、何かを思い出したように視線を一点で止めたかと思うと、スマートフォンを取り出して視線を落とす。どうかしたのだろうか。綾が何も言わずに眺めていると、彼女は悩ましそうに紙袋を持った手で口を隠しながら、もう片方の手で何かを検索し、やがて顔を上げる。


 視線を合わせて数秒、彼女は道にでも迷ったように何度か画面と綾を視線で往復する。


 固唾を飲む音が聞こえた。有季は不安そうに視線を逸らして数秒黙ったかと思うと「あのさ」と、ようやく簡単な言葉を口にした。「うん」綾は取り敢えず相槌を打つ。


「気になってる映画があって」


 そこで、彼女の言いたいことは九割程度把握した。だが、ここまで覚悟を決めた人間の言葉を波のように攫って行くのも感じが悪いだろうか。綾は気付かないフリをして「へえ」と頷く。


「お小遣い余ってるし、お金なら出すから……その、一緒に。観に行かない?」


 予想はしていたが、改めて聞くと意外の感が勝る。綾は少々呆けた顔で有季を見詰めた後、「映画か」と軽く口ずさんでからカウンターに預けていた身体を起こす。


「まあ、嫌いじゃないし全然いいよ」


 露骨に安堵の表情を浮かべて胸を撫で下ろした有季は「よかった」と破顔して頷いた。


「でも。お代は自分で出すから」

「あ、うん。そうだよね、ごめん。ちょっと変な提案だった」

「それより日程は? 今日はこの後、予定があるから難しいんだけど」


 レイトショーならまだ最後の上映に間に合いそうだが、生憎と先約が居る。綾がスマートフォンのカレンダーを確かめながら尋ねると、有季はその話に少々興味深そうにする。


「もしかして。その人が例の?」


 随分と察しが良いらしい。綾は頷く。


「そ、元カノ。今はただの友達。だから何も気にしなくていい」


 同性愛者であるが故に同性の友人との行楽は色々と配慮が必要なケースもあるが、少なくとも彼女との映画鑑賞にそれを持ち込む必要はない。今は完全に独り身なのだから。


「そっか、分かった。じゃあ――また予定を立てたら改めて連絡させてもらうね」


 有季はスケジュールを確かめた後、ワクワクを隠さずそう言った。


「二日前までに入れてくれるとこっちも予定を空けやすい。よろしく」

「うん。――それじゃ、良い頃合いだから私はこれで」


 有季は取り付けた約束を大事にしまいこむようにスマホをポケットに戻すと、微笑して小さく手を振った。綾は少し寂しくなりながらも小さく手を振り返して「またのお越しを」とそれらしく伝えてみる。有季はその言葉を嬉しそうに聞き遂げ、少し大きく手を振った。


「またね」


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