23話
放課後。有季がサガラ書店を訪れると、店の前には既に先客が居た。
スマートフォンを弄りながら沈む夕日を眺めるのは、常磐咲良だった。
こちらに気付いた咲良は目を丸くした後、「ども」と目を細めて笑う。「やっほ」と有季は気の抜けた返事をしながら、コートのポケットに手を突っ込んで彼女の隣に並んで立つ。
「もしかして水城さんは居ないの?」
「そうなんですよぉ。今日行くって言ったんですけどね――どうやら少し寄り道してから来るみたいで。もう間もなくだとは思うので、この辺で時間を潰してます。先輩は?」
「私は久々に何の気負いも無く水城さんと話したくて」
それを嬉しそうに聞いた咲良は、少し黙って考えた後、徐に切り出した。
「風の噂で聞きましたよ、有季先輩。どうやらお医者さんの道を諦めたとか」
その目に宿る色は有季の門出を祝福するようで、有季は少しむず痒くなりながら目を逸らす。
――結局、有季の告白を聞いた両親は、それを微かも否定することなく了承し、それどころか自分達の行いを謝罪してきた。流石にそれは筋が通らないだろうと思い、寧ろ有季の方が深く謝罪を返し続け、そんな馬鹿馬鹿しい親子のやり取りを、姉は笑いながら眺めていた。
敵なんてどこにも居なかった。ただ、無知でありながら思い込んだ末に、あり得ない幻想に怯え続けていたのだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとは言うが、今はもう、馬鹿馬鹿しいと思える。
「咲良ちゃんのお陰かな」
そう微笑を浮かべると、彼女は頬を歪めて笑い返す。指で輪を作った。
「おや、まだ世間知らずは治っていないご様子で。謝意とは言葉ではなくお金です」
「あはは! ……いいよ、何か奢ろうか? 結構、本気で咲良ちゃんには感謝してるもの」
「……いや、そういう風に受け止められると私が悪者になっちゃうと言いますか。まあでも、貰えるものは貰うのがモットーです。ココアを買ってください」
咲良が自販機を指して言うから、有季は「はいはい」と小銭を投入する。「バイトを始めたからね、気兼ねなく使えるよ」と言いながらボタンを押すと、ガタンと缶が落ちてくる音に合わせて咲良の丸い目が有季を見た。「バイト」「うん」「何のですか?」
有季は自分のココアも買いながら答えた。
「登録系の日雇いと、短期で近所のパン屋さん。色々なことをやってみたくてさ」
何食わぬ顔でそう答えると、ココアを受け取った咲良は「ども」と言いながら唖然とした顔をする。「行動力ありますね」「そうかな? 自覚は無いけど」と有季は虚空を見る。
そういう部分は、半月前の綾と過ごした陶芸体験に大きな影響を受けているのかもしれない。
「……そっちはどう? お洋服の方は順調?」
有季が缶のタブを引いて尋ねると、同じように彼女もタブを引いた。そして、どこか不敵な笑みを浮かべてココアを一口。勿体ぶりながら堂々と答えた。
「お仕事用のSNSを始めたんですけど、作品がバズりまして」
「おお!」
「一件、仕事を貰いました」
堂々とブイサインを作る咲良を、有季は絶句したまま眺める。
自分のアルバイトの話など些末なものではないかと思わせられるほどの躍進だ。しばらく動揺が消えぬまま眺めていると「ま」と少し自嘲気味に咲良は笑って吐き捨てる。
「めちゃくちゃ大手って訳じゃないですし、金払いもあんまりでしたけど」
「ありゃ……でも、凄いよ。自分のやりたいことを見付けて、それを行動に移せるんだから」
「そうですね。私も、何だかんだ自分は大した奴なのかもって思い始めてます」
咲良はふふんと笑った後、「次は先輩の番ですね」と有季を見て目を細めた。有季はとぼけた笑みを浮かべて視線を逸らし「頑張る」と気負いなくあっけらかんと答えた。
すっかり身体が軽い。まるで羽でも生えているような感覚だった。
きっと――失敗続きの粘土のように、水を吸い過ぎていたのかもしれない。
物思いに耽りながら夕焼け空を眺めていると、有季はふと半月前のことを思い出した。
そして、唐突に「あー! 思い出しちゃった!」と目を瞑って叫ぶ。急な奇行に走る有季を咲良は「な、何ですか」と狼狽と共に訊くも、有季は苦い顔で黙り始めた。
だが、いつまでも黙っていても仕方が無いだろうと自分に発破を掛け、両頬を叩いた。
「実は、咲良ちゃんに言うことがあって」
すると咲良は目を丸くし、茶化すように犬歯を見せる。
「なんですか、改まって。もしや私に惚れちゃいました?」
「うーん、惜しい。惚れたの部分は合ってる。相手が違う」
有季もその冗談に乗っかって答えると、咲良はしばし笑みを引っ込ませて瞬きを繰り返す。
やがてその意味を理解したのだろう。ストン、と音でもしそうなほど一気に納得の表情を見せると、今度は敵を目の当たりにしたような不敵な表情を見せる。どうやら伝わった上で認めてもらったらしいということに気付き、有季は堂々と伝えた。
「私も水城さんが好き」
咲良はにやりと唇を曲げ、顔を持ち上げて細めた目を試すように向ける。そして、その覚悟が揺るぎないものだと分かったから、番外戦術を放棄して彼女と向き合った。
「そうですか、そうですか。まあ、私は有季先輩が相手でも負ける気はありませんけどね」
「お、言うね? 確かに咲良ちゃんは可愛いけど、私はこれでも美人で通ってるんだから」
「あー、駄目駄目。容姿で戦おうとしているのが既に浅はか。そこじゃないんだなぁ」
「そうは言っても。咲良ちゃんが私に勝ってるのって口の悪さだけじゃない?」
すっかり打ち解けた有季のクリティカルな一撃を食らった咲良は、怒りに頬をぼっと染め、狂犬のように歯を食い縛って今にも噛み付かん素振りを見せる。第一回戦の勝者は決まった。勝者は勝利の美酒に酔いしれたいところだったが、可笑しくて笑ってしまう。腹に手を当てて声を上げながら笑うと、それを見た咲良も少し楽しそうに有季を睨んだ。
「……癪ですけど、こういうの、ちょっと楽しいですね」
素直に言うものだから、そんな咲良が可愛らしくて有季も破顔する。
「うん。私も咲良ちゃんが相手で良かった。楽しい。こればかりは水城さんに感謝しないとね」
彼女のようなお節介が居なければ、こうして二人が巡り合うこともなかっただろう。そんな彼女は何をしているのかと有季が駅の方を見ると、「後は、あれですね」と咲良が補足した。
「ほら、お二人が交際しているって噂。アレで巡り会えた感じはあります」
すっかり忘れていた有季は少し呆けた顔で黙った後、「あー!」と思い出して声を上げた。
「やあ」
橋本茉奈が普段通りに誰もいない図書室で期末テストの勉強をしていると、いつの間にか入室して真横に立った誰かが、そう声を掛けてきた。
「ひ」と上擦った声を上げた橋本は仰け反って相手を見る。
奇妙な女だった。三年生だろうか。まったく見たことのない顔だ。もしや不登校だろうかと疑る。だが、引きこもりにしては体形はスレンダーだ。何より目立つのは、その金色に染まった無造作なショートヘアだろう。頭髪検査に引っ掛かる色で、引っ込み思案には見えない。
「な……何ですか」
橋本は警戒心を剥き出しにしながら身構えて答えると、女は笑う。
「君とお話がしたくて」
「……勉強しないといけないんですが」
「中間考査で二位だったのに。まだ頑張るんだ? 偉い!」
どうして自分の順位を知っているのだと、橋本は困惑しながら睨みつける。
だが、軽薄な笑みを浮かべてそれを流した女は、橋本の抵抗をまるで意に介さず隣の椅子を引いて座る。何だか蛇に絡まれているような気分で、極めて居心地が悪かった。
「何で、私の順位を知ってるんですか」
「聞いたから。その辺に居た二年生に」
「……わ、私の順位を聞いたんですか? どうして」
「違う違う、逆。学年二位は誰かって聞いたの。そしたら橋本茉奈だって」
何だか底知れぬ闇を覗いている気がして、橋本は背筋が冷たくて仕方が無い。膝が震えたから、そっと踵を床に付けて目を合わせることもできずに俯く。
「ところで話は変わるけど、君のクラスに水城綾と茅野有季って女の子が居るよね?」
心臓を撫でられたような気がした。バクバクと心臓が跳ね、脳が酸素を求める。嫌な汗が全身から吹き出て、呼吸が否応なしに乱れる。何で、と言いたくて仕方が無かった。
「綾は私の大事な後輩でね。有季ちゃんは、綾の大事なお友達。だからまあ、私にとっては二人とも凄く大切な後輩なんだけど――最近、どうやら二人に悪い噂が流れたらしい」
バクバクと心臓が早鐘を打つ。指先が酷く冷え、奥歯がカチカチと鳴る。
女の綺麗な唇が三日月を描くと、二人きりの図書室に致命的な確信が呟かれた。
「君でしょ。噂、流したの」
肺が怯えるように小刻みに拡縮し、不安定に酸素を出し入れする。肺がただの器に成り下がったのではないかと思えるほど荒い呼吸は意味を為さず、滲んだ手汗がスカートに染みを作る。
対照的に乾いた口を辛うじて動かし、橋本は目も合わせずに答えた。
「ち、違います」
下手な嘘だったが、橋本はそれを押し通すことにする。
「何か、証拠でもあるんですか」
噂を一つずつ丁寧に辿れば根源に辿り着くかもしれないが、そんなことをしている人間が居れば橋本が気付かない道理が無い。それに、万が一そうしたところで完璧な出元を探ることなど殆ど不可能だろう。だから、自分だと断定する証拠は掴んでいない。そういう打算があった。
「無いよ。ただの推測だ。でも、君の反応で確信した」
ここは法廷じゃない。私刑に証拠は要らない。
ドクドクと心臓が早まる。変な場所から血が出てきそうなくらい血圧が高まった。どうしてこんなことに、と思うと目の奥に熱が溜まり、不覚にも泣き出しそうになった。このまま白を切ったところで、向こうは自分がやったと確信している。だったら、言い負かす方がマシだ。
「別に――もし、私だったとして、じゃあ何ですか、犯罪なんですか? 二人で映画を観てたから付き合ってるって思っただけですけど、そんなに言われなきゃいけないことですか⁉」
「そこに何の悪意も無かったなら、ね」
冷たく笑って言うから、橋本は背筋に冷たいものが走る。罪悪感が胸をぐしゃぐしゃに塗り潰すから、それを誤魔化すように、烈火の如く感情を昂らせて怒鳴り返した。
「だって……だって、狡いじゃないですか! 私だってこんな頑張ってるのに、彼女ばかり褒められて、誰も私のことなんて見てくれない! 親だってずっと一位を取れ一位一位一位一位ってそればっかり! 挙句、指定校推薦⁉ 馬鹿げてる! あんな遊び惚けてる人に!」
顔を真っ赤にして息を切らしながら叫ぶ。気付けば双眸を熱い涙が伝っていた。
そんな橋本を黙って眺めた女は、口を押さえて考える。そして、無表情にこう答えた。
「なるほど。それで、有季ちゃんが医者を諦めた今が頑張り時だと」
「……それの何が悪いんですか」
「どうして彼女が医者の夢を諦めたか知ってる? 小さい頃からずっと、夢に見続けて、血の滲む努力を繰り返して、厳しい親の躾にも耐えて死に物狂いで一位を取った彼女が、何で。今になって医者を諦めたか。君は、まるで自分に心当たりが無いんだね?」
心臓が少しずつ万力で締め付けられるような、そんな罪悪感。
唐突な吐き気が橋本を襲う。脳を支配していたルサンチマンが全部、悔恨に置き換わった。「え」とどうにか零れ落ちた言葉を掬い取るように、女はこう言った。
「知らないならそれでいいんだ。彼女が居なくなって手に入れた玉座に堂々と座って安穏と過ごしていればいい。君は悪くない。何も知らない。彼女のことなんて忘れて、健やかに」
そう優しい微笑を浮かべるから、橋本は首を左右に振った。
「私の……せい、なんですか?」
噂のせいか。それとも、職員室前で言ったあの嫌味か。
思い当たる節はある。途端に、酷い自己嫌悪が橋本を襲った。――勝手に、彼女は恵まれた立場の人間だと思い込んでいた。だが、知恵は先天的なものであっても、知識は絶対的に後天的なものなのだ。彼女の豊富な知識は他ならぬ彼女の努力で、それに目を瞑っていた。
今更になって、途方もない罪悪感に蝕まれる。
しかし、女は橋本の質問をあっけらかんと笑い飛ばした。
「いや、別に。彼女が医者を辞めたのは君と全く無関係」
「――え」
「何なら医者になりたかったっていうのも全部嘘。私の捏造」
殴り倒してしまいたいくらいの脱力。橋本は呆けた顔で女の憎らしい笑顔を見詰めた。
「でも、彼女だって努力をしていたのは本当。君と同じようにね」
そう続くと、安堵しようとしていた胸が再び罪悪感に刺激される。胸が剣山のように暗い感情に突き刺され、橋本は歪めた顔で俯いた。女はそれを見下ろして笑う。
「――私がここに来たのは、犯人を特定して釘を刺すのが目的。だから、君に再犯の意思が無い時点でもう目的は達した。君が同じ真似をしないなら、私ももう君には関与しない」
嫌に跳ねていた心臓が、少しずつ平静を取り戻していく。心が日常に帰ってきた。
だが――どこかが引っ掛かったまま戻ってこない。ぽっかりと穴が開いていた。橋本は膝に手を置いたまま、浮かない顔で俯き続ける。それを見た女は腰に手を置いた。
「ところで」
顔を上げた橋本に、女は微かな笑みを向ける。
「この後、その子達に会いに行くけど。君はどうする?」
丸く目を見張った橋本は、即決しかねて視線を逸らし、葛藤に暮れる。
罪悪感が謝りに行けと橋本の背中を突き飛ばすが、恐怖が胸を突き飛ばして座らせる。こんなに性格の悪い事をして、何を思われて何を言われるだろうか。クラスメイトに言いふらされたらどうなる。友人の多い彼女と違って、こちらは孤独だ。
しかし、なら、この罪悪感を抱えたまま生きるのか。
そう葛藤する橋本の肩に、ぽんと女の手が乗った。
「大丈夫。二人とも優しいから」
考えを見透かされたのが恥ずかしくて頭に血が上り、気付けば双眸から大粒の涙が溢れ出していた。引き攣るような嗚咽を上げると、堰を切ったように泣き出してしまう。
何度か空気を出し入れした後、やがて、小さな謝罪の言葉が零れ落ちた。
「ごめん、なさい……」
嗚咽と共に女に泣きつくと、女は優しく身体を抱き返しながら背中を叩いた。
「おー、よしよし」
女は――八重畑真昼は小さな溜息を吐いて、微かに口元を緩めた。
「まあ……君のしたことは悪いけれど、君だって頑張ってる。一人くらい、味方が居ていいはずだ。そう思うよ」
――帰り支度を済ませ、鞄を担いで一階まで降りてきた綾は、生徒や職員が行き交う廊下に立ち尽くし、しばらく職員室を眺める。出入口は前後に一つずつの引き戸。それらの間には緑色の掲示板が設置されており、進路用の無数の資料が画鋲で留められている。
進学・就職・資格・試験・面談――現実がそっと背中に触れる感覚を味わう。
学生とは、まだ何者でもない粘土だ。
これから何にだってなれるし、何かに成った後に道を引き返すことだってできるだろう。道は無数に広がっていて、その道は遥か遠くまで伸びている。かつて――水城綾は、自身を陸上界に名を残す人間だと夢見た。結果はご存知の通り、膝の怪我で引退。今や過去の人だ。
一時期はそれに苦心した。
あっという間に立ち直ったが、それでもしばらく、自分の輪郭を見失った。
自分は何者になりたいのだろうという自問自答を繰り返していた。咲良や有季の進路にお節介を焼いている間、人の人生に口を出しておきながら、綾自身は自分の進路が見えなかった。
何も無いのだ。この短い人生にあるのは少しの陸上経験と、多少はマシな知能程度。
武器は何も無いと思っていた。
その認識が変わったのは、半月前の晩。有季を家に泊めたあの日、真昼と電話をした時だ。彼女から人と向き合う際の軸を尋ねられ、綾は自らの干渉領域の明確な線引きをした。
迷っている人間の手を引く。悪い方に行こうとする人間には別の選択肢を提示する。
そして、何かを目指す人間の背中を押せるようになりたい。
少しだけ――その願望の先を見てみたくなったのだ。
綾は深呼吸をすると、腹を括って職員室の扉をノックする。そして扉を開け、もうすっかり顔馴染みになった担任の席を見た。「相澤先生」と呼びながら向かう。
彼は意外そうに眉を上げつつも穏やかな表情で「どうした」と迎えてくれた。
「進路希望調査なんですけど、少し変更をしたくて」
「ほう! なんだ、何かやってみたいことが見つかったか?」
言いながら彼は束になった調査票を取り出して、出席番号順に並んだそれらから綾の物を素早く取り出す。先日提出した進路希望調査に、綾は具体性も無く『進学』の二文字を書いた。
綾はそれを見て少し目を細めた後、少々照れくさそうにこう言った。
「心理学を学べる大学に行きたくて」
――了




