22話
翌日に二人が向かったのは、都内近郊にある陶芸体験施設だった。
「はーい、では、本日は体験にご参加いただきありがとうございます。今回は電動ろくろでの陶芸体験ということで、まあ――初心者の方にはちょっとだけ難しいので、私の方でちょくちょく手を加える部分もあるかとは思いますが、えー、是非楽しんでいただけたらと思います」
エプロンを付けた若い女性がそう挨拶をしたから、綾と有季は小さく拍手して会釈した。
「お願いします」「よろしくお願いします」――ずる休みをした平日の昼間、他に客は居ない。
その施設は、建築されてからまだ新しいようだった。
陶芸と言えば伝統的な技術という印象があり、古き良き和風建築の木調空間をイメージしていた。だが、実際にはフロアタイルの綺麗な床が敷き詰められており、設備も丁寧に清掃されている。そんな空間に体験用の綺麗な電動ろくろが横並びに五つ置かれており、それと対面するような形で指導用のものが一つという具合だった。
指導役の女性はその椅子に座って、早速見本の準備を始める。それを尻目に辺りを見回して「思ったよりも綺麗」と綾が呟くと、慌てて有季が「こら!」と叱る。
しかし、体験の先生は愉快そうに「でしょ」と笑う。
「売り物用の部屋は別にあってね、そっちは製作に支障が無い必要最小限の清掃しかしないよ。気になるなら後で見ていく? 何かの取材だったり?」
「単なる興味本位ですね。でも、滅茶苦茶汚いならちょっと見てみたいかもしれません」
「あはは、勿論いいよ。――いいね、若い子は話が弾む。学生? サボり?」
指導役の女性が濡れた手でペタペタと粘土に触れながら訊いてくるから、有季が答えた。
「えっと、はい――お恥ずかしながら、サボりです」
「良いじゃん、恥ずかしくなんてないよ。授業が学生の内しか受けられないって言うなら、授業をサボって特別感に浸るのも学生の特権なんだから。さ、始めようか!」
ポンと手を叩いた女性に、綾と有季は「お願いします」と口を揃えて応じた。
それから数分、簡単な説明を受けながら二人は実際に手を動かし、電動ろくろで粘土を形成していく。これがまた随分と難しく、回転が遅かったり手の力や位置が不安定だとあっという間に形が崩れてしまう。店で見るような、細く綺麗な器は非常に難しい。
ある程度の指導が終わって二人の動きが様になってくると、女性は微笑ましそうに眺めて黙り始める。二人は粘土で濡れた手を懸命に動かして形を揃えていく。
「そういえばさ、君達学生って言ってたけど、なんで陶芸なんかをやりに来たの?」
ふと、女性がそう疑問の声を上げた。「『なんか』」と綾が苦笑をする。
有季が返答をしようとするが、しかし、昨夜の内に遊びに行こうと誘われ、良い息抜きになるだろうと思って綾のプランに従って同行しただけ。
それがいざ現地に行ってみれば陶芸体験だったから驚きだ。
「実は私も知らなくて。どうして?」
有季が綾を見るから、綾は唇を舌で湿らせ、粘土を楽しそうに眺めながら答える。
「陶芸というものを体験したことが無かったので。知見として」
「良いねぇ、知的好奇心が旺盛だ。学習意欲の高さは出世能力に比例するって私の祖父ちゃんが言ってた。万年平社員だったけど」
有季はどう反応すればいいのか分からなくて愛想笑いを浮かべるが、綾と女性は「反面教師!」「そう、マジで何にも興味を示さない人だったから!」と笑い合っている。凄い社交力だ。自分の方が友人が多い印象だったが――ここ最近の会話で分かった。
彼女は心を開き、開いてもらう技術に長けているのだろう。だから、様々な人と距離を縮められる。その中から取り分けて友人と呼ぶほどに関係を縮める相手が少ないというだけで、例えば悩み事を放っておけなかったり、席が近かったり、成り行きだったり。
傍に居る時間が長くなるにつれ、彼女への友愛の情が高まるのだろう。
ふと、よそ見をしていると有季の手元の粘土が一気に形を崩した。「あ!」と慌てるも虚しく、修正不可能なくらいに歪み切って、有季は助けを求めて女性を見る。
だが、女性は全く危機感を感じさせない飄々とした様子で「ほいほい、ちょっと貸してね」とこちらに近付いて、慣れた手付きで粘土を練り直して再設置、元通りに修復した。
あっという間の早業に、有季は開いた口が塞がらない。輝く目が女性を見た。
「プロ……!」
「わはは、そう褒めるな。ま、幾らでもやり直しは利くから、好きなだけ失敗しな」
有季は「ありがとうございます」と再び粘土と向き直って、ふと気になって顔を上げる。
「そういえば、テレビとかだと失敗した粘土を投げ捨ててるイメージがあるのですが……」
「ああ、あれね。まあ、あながち嘘って訳でもないよ。あんまり練り直しを繰り返してると硬くなったり水が入り過ぎたりするし、後、ゴミが入ったりとかするともう駄目だね」
粘土に濡れた手も構わずに腕を組む女性に、有季は怯んだように手元の粘土を見る。
つまり、何度でもやり直せる訳ではないのかと固唾を飲んだ。「そうなると使えないんですね」と気を引き締め直すが、「いや?」と女性は呆けた顔でそれを否定した。
「別に水が足りなきゃ足せばいいし、多いなら乾かせばいいもん。ゴミが入り過ぎると売り物とかには使えないけど、練習用とかに幾らでも転用できる。最近だと、どうにか掃除して使い回せる技術もあるみたいだしね。そのまま続けてもどうしようもないってだけで、ちゃんと調整してやれば大体再利用できるよ。だから、気にしなくてだいじょーぶ」
今度は有季が呆けた顔をする番だった。
黙って手元の粘土を見詰め、数秒、その言葉の意味をしっかりと噛み締める。だからといって無意味に壊したりなどはできないが、それでも、肩の荷が降りたような気がする。
「……はい。ありがとうございます」
有季は手を水で濡らし、粘土の滑りを良くしてから手で覆って形成していく。
目当ての形を作り出すには力を加えて変形をさせる必要がある。しかし、塩梅を間違えたら一気に台無しだ。形が崩れることもあれば、思い通りに変形しないこともある。
それが味になることもあれば、それが気に食わないから作り直したいと思う者も居る。
素人だからか、或いは、達人でもそうなのだろうか。頭で思い描いた通りの形に粘土を形作るのは途方もなく難しく、上手くいかないことばかりだった。シンプルな茶碗を作りたかった有季は、あっという間にそれが平皿のような形になってしまって可笑しくなる。
ふと、綾の方を見た。人生初のカンニングだ。
何事も器用にこなす彼女も、今回ばかりは苦心している様子だった。出来上がった綺麗な皿を見て悩ましそうに唸って腕を組み、エプロンで防げない服の袖の部分に濡れた粘土が付いて「あ”」と濁点の付いた声を出す。ゲラゲラと声を出す女性。苦笑する綾。釣られるように有季も口に手を当てそうになりながら笑って、少しずつ、肩の荷が消えていくのを感じた。
そして、再び粘土と向き合った。
まるで思い通りの形にならない。何度も間違えた。どうして、と苛立つことだってある。
その度に、やり直した。――こちらでできる範囲なら問題ないが、それでもあまり繰り返すと粘土を交換することもあった。申し訳なかったがが、女性は「金貰ってるし」と言ってあっけらかんと粘土を入れ替え、楽しそうに綾と有季が次々に作る様々な粘土を眺めていた。
――昨日、あんな話をして。どうして今日、急にこんな場所に連れてこられたのか。
綾は先ほど、知見を得る為にとそれらしい言葉を言った。最初はそれを信じた。だが、何度もやり直している内に、次第に別の答えが出てくるような気がし始めていた。
綾を盗み見ていると、視線に気付いた彼女がこちらを見た。ひらひらと手を振って「調子は」と尋ねてくる。有季は「上々」と応じると、綾は薄く笑った。
その笑顔があまりにも綺麗だったから、有季はしばらくそれに見惚れて、胸に熱を感じる。
段々と――それが伝播するように顔に上っていく。有季の身体に異変が生じていた。
思い返すと、水城綾という人間との出会いは最悪の部類に入るだろう。彼女からすれば最悪の第二印象だろうし、こちらからすれば最悪のエンカウントである。何せ、アダルトグッズを吟味している現場を目撃されたのだから。
先日も自慰行為を姉に見られて最悪の気分だったが、同級生にそういったグッズ購入の現場を見られるのも、有季の価値観からすれば似たようなものである。
実を言うと、あんな出会いをした後は会うのも恐ろしかった。
しかし、彼女は約束通りにそれを公言せず、蓄積したストレスに理解を示し、そして発散に協力し、有季の苦悩に寄り添ってくれた。それに対して抱いた感情を言語化するのは怖いが、明確に、彼女は有季の人生の中で特別に区分される人間だった。そして、それは今も。
お節介で、それを疎ましく思う人間も居るかもしれない。
けれども、きっとそのお節介に救われる人間だって居る筈だ。
まだ学生で、誰もが何度も様々な方向に道を誤るだろう。何者にもなれるからこそ、まだ何者にもなれず、ずっと道を探し続ける。或いは、一人では逃げ出せない沼に足を踏み入れてしまうことだってあるかもしれない。導を失って立往生する者も居るかもしれない。
それらは大抵、心の問題だ。だからこそ、心に向き合って、背中を押してくれるだけの人をこの上なく大切に思うべきなのだろう。
今ならはっきりと言語化できるような気がした。
――綾が好きだ。彼女に抱いている感情は、恋愛感情だ。
そう自覚した有季は、暖房の設定温度を間違えているのではないかと思うくらいの熱を感じる。そして、少し遅れて自分の顔が真っ赤なのだろうことを察した。誰にも見られたくないから黙々と作業をしているフリをして、ちらりと、綾を盗み見た。
微かに緩みそうになる頬を、唇を噛んで押し留めた。
「それじゃあ、出来上がったら送るから。楽しみに待ってな」
そう言って見送ってくれた女性に手を振り返し、綾と有季は建物を後にした。
焼き上がりから配送までは二か月ほど時間が掛かるとのことだった。
「楽しかったね。初めてやったけど、凄く勉強になった」
有季は眩しい夕陽に目を細めながら、すっかり気の抜けた声でそう言った。
そんなに長い時間製作をしていたつもりはなかったが、気付けば既に日は傾き始めていた。向こう側の空は焼けるようなオレンジに染まって、泳ぐ雲は鉄火の如く赤熱している。眩しくなって顔を上げれば、紺色の空に朱色の雲と白い星が点在し、こちらを見下ろしていた。
微かな橙を帯び始めた狭い一車線道路の、ガードレールで仕切られた歩道を並んで歩く。
「あんな感じなんだね。もっとこう、大胆かつ迅速に作る装置だと思ってた。電動ろくろ」
「電動の方は、難易度が高い代わりに形を綺麗に作りやすいらしいよ。得意分野があるみたい」
有季が先程調べたネットの知識を披露すると、綾はにやりと笑って「次は手びねりもいいな」と顎に手を添える。そんな彼女の紺色のパーカーに薄っすらと粘土が付いていたから、有季は思わず吹き出しながら「確かに」とそれに応じた。
「……誘ってくれてありがとね。とっても良い息抜きになった」
有季が、夕日に目を細める綾を横目に眺めてそう謝辞を伝える。すると綾は笑う。
「次は、泣く前に私を頼るんだよ」
夕日とは別の理由で顔を真っ赤に染めた有季は、唇を尖らせて黙る。
彼女に感謝をしているが、それはそれとして、あの時の自分はあんまりにも余裕はなかったのだなという現実を突きつけられて恥ずかしい。やはり、睡眠は大事だ。
「ねえ」
ふと思い至って有季がそう切り出すと「うん?」と綾の相槌が返ってくる。
「陶芸の粘土って、何度も使い回すんだってね」
彼女の思惑を見透かしたように微笑んで有季が言うと、今度は綾が小恥ずかしそうにおどけた笑みを見せ、半笑いで視線を泳がせた。何度か適当な軽口を紡ごうと息を吸うも、やがて彼女の口から出てきたのは、彼女の持論だった。
「若者はよく、真っ白なキャンバスに例えられると思うんだ」
有季が「可能性の象徴」と比喩の意図を汲んで呟くと、綾は頷いて遠くの夕陽に目を細めた。
「まだ若い私達の未来は決まっていないし、そこには何だって描ける。時間と可能性と吸収力に富んだ時期を、これから何かに成るキャンバスに例えてる。それは――付いた色が消せず、新しい絵の具を上に塗るしかないという事実を加味すると、とても現実に即していると思う」
綾は気恥ずかしくなりながらも、自分の理想を雰囲気に任せて言葉にした。
「でも私は、人生は気負わずに、もっと自由にやり直せるものであってほしかった」
その言葉に学ぶべき部分が多いのだと感じ入り、有季は深い呼吸をした。
「私達はまだ、何者でもない。でもそれは、裏を返せば、まだ何者にだってなれるってことだと思う。そしてそれは、学校を卒業したってしばらく続くし、或いは最期の最期――つまり、火葬という焼き入れが入るまで、何度だってやり直せるのかもしれない」
綾はそう言うが、しかし有季は、人生には不可逆の変化も存在すると思う。
例えば咲良が良い例だろう。彼女の両親は結婚して咲良を産み、そして父親が事業に失敗した結果として母親が割を食い、安定を最重視するようになった。そんな家庭を支える人間が、もしも新しい道に進みたいと思ったとしても――背負う家族が重りになるだろう。
そう思って、すぐ、有季は自身の間違いに気付く。
確かに重りになることもあるかもしれない。だが、母親が家族を支えた分だけ、今度は、やり直したい彼女を家族が支える番なのだ。或いはいつか、そういう日も来るかもしれない。
「『何度だって』」
「うん」
「そっか。それで、粘土――陶芸かぁ」
有季は自分に宛てられたメッセージをしっかりと受け取って、しかし、それを行動に移す約束ができない自分を情けなく、歯痒く思う。そんな有季の浮かない顔に、綾は微笑して続けた。
「これは君に何かを迫るような話じゃないんだけど。最近、気付いたことがあるんだ」
何だか勿体ぶって言うから身構えてしまいつつ「気付いたこと?」と話を促した。
「自分にとって不都合な存在だからといって、必ずしも『敵』って訳じゃないみたい」
有季は大きく目を見開くと、脳裏に彼女と同じ人物を思い浮かべる。
「ああ」と思わず呟きが漏れ出した。「そっか」と続けた有季は、自分の脳内に構築されていた、漠然とした固定観念のような印象を壊し、再構築する。彼女は――常磐咲良は、自らの夢の障害となった母親を、しかし、その気持ちを知っているから擁護し続けた。
対して有季は、無意識に――恐れるべき相手だと認識していた。違う。違ったのだ。姉は根を詰めた自分に気付いてくれて、自分だって忙しい筈なのに、有季の為に休むように言って、根回しまでしてくれた。母はそんな報告を受けて気付けなかった自分を恥じながら、できることをしてくれた。父や叔父、叔母だって、きっと、自分の味方だ。
自分を大切にしてくれているからこそ、不都合になることがある。
そんな小学生の内に気付くべきことに、有季は今更気付いて、思わず目を濡らす。
知らず知らずに医大に行くような話になっていたし、行くなら勉強が必要だと言っていた。だが、有季が嫌がることを強いたことは一度も無かったし、いつだって、味方で居てくれた。
有季は唇を噛んで涙を堪え、「確かに、そうだね」と頷いた。少し熱を帯びた呼吸を繰り返した後、涙を振り払うように両頬をぴしゃりと叩いた。ぎょっとした綾の目がこちらを見る。
有季はその場で立ち止まる。綾は首を傾げながらもそれに倣うように止まった。
「私、友達にここまでしてもらって――それでも、まだ、ビビってる」
すると綾は、責め立てることも呆れることもせずに笑う。
「そんなすぐに変わらないよ、人間は」
「でも、立ち止まっていたらあっという間に大人になる。でしょ?」
以前に綾から言われた言葉を伝え返すと、彼女は返答に窮して黙り込んだ。
「私は、変わりたい。でも、怖い――どうしようもない怖がりで、自意識過剰で、その癖、コミュニケーション能力は足りていないし、人をちゃんと見ていないから勘違いして思い込んで勝手に傷付いて、色んな人に迷惑をかけて、それでもまだ、怖い。どうしようもない馬鹿」
仲秋の夕方は短命だ。気付けば空は薄っすらと紫色になり始めている。
微かな影を帯びたお互いの顔を見詰め合うこと数秒。息苦しそうに語った有季は、息継ぎをするように大きく息を吸って肺を膨らませると、「でも!」と自分に気合を入れるように叫んだ。
目尻には、極まった感情が涙を作っていた。
「私、頑張るから。――頑張れって、言ってほしい」
綾が呆けたように丸い目を返すと、彼女は耳まで真っ赤に染めて固唾を飲む。
『そんなことか』と笑い飛ばしてあげるのがよかったのかもしれない。そうすれば彼女も、もっと早く気が楽になっただろう。しかし、綾はそれを笑い飛ばすことができなかった。
彼女は今までずっと、恐れ続けてきた。越えれば楽になれる目の前の線を越えられぬまま、挑むことすらできずに燻り続けてきた。だが、今、ようやく前に進むための第一歩を踏み出そうとしているのだ。頑張ると、単なる口約束を――けれども、今まで避け続けてきたことを。
綾はその言葉をしっかりと噛み締め、そして、微笑を浮かべる。
対面する有季の肩を掴むように叩くと、目を真っ直ぐに見詰めて言った。
「頑張れ」
有季は涙を堪えるように唇を噛む。だが、ぽろりと目尻からそれが落ちると、開き直ったように泣きながら笑って頷いた。
「うん」
人は人を愛する。それは恋愛に限らず、友愛や親愛においても。
そして愛とはその人間を支えたいと願うに足る感情である一方、その人物がマイナスに進んでいると思ったら口を挟ませてしまう感情でもある。
これからファッション業界に足を踏み入れようとする娘の進路を案じる母親も居れば、楽な道を敷いてあげられればと、無意識に選択肢を狭めてしまう親も居るだろう。
そして、それらに対してお節介を焼く友愛もある。
茅野有季にとって、家族とは大切な存在であると同時に、拒みたい選択肢を無意識に押し付けてくる人達であった。だが――嫌だという意思表示もしないまま、そんなレッテルを貼るべきではない。どれだけ親しい相手でも、思っていることは言わなければ伝わらないこともある。
すっかり日も暮れた時間。家の扉の前に立った有季はバクバクと跳ねる胸を押さえ、深呼吸を繰り返す。そして、覚悟を決めて扉を開けた。
「ただいま」
するとリビングからドタドタと両親が駆けてきた。血相を変えてこちらを覗く。
驚いていると、無事な有季を見て胸を撫で下ろした二人は、何事も無かったように「おかえり」と言ってくれる。だから有季は「ただいま」と笑って返し、「疲れた~!」と芝居がかった声を上げて背筋を伸ばした。二人は嬉しそうに笑い、だから、有季も嬉しかった。
ふと踵を玄関に着けると、家の空気に居心地の良さを思い出す。ずっと、肩肘を張っていたのだと気付かされた。そんな有季に母が顔を覗き込みながら尋ねてくる。
「夕飯は食べてきたの?」
「あ、ううん。家で食べようと思って。あ、もしかして無い?」
「そんなことないわ、ちゃんと作ってあるから。もう少ししたら晩御飯にしましょ」
有季は普段通りに接してくれる両親に「はーい」と軽い足取りで階段を上って自室に入る。そして手荷物の類をベッドに放り投げ、そのまますぐ部屋を出る。
そして姉の私室をノックすると「お」と声が返ってきた。
少し待つと「おかえり」と微笑を浮かべた姉が顔を覗かせた。
「ただいま。迷惑かけてごめんね」
「何のことだか忘れちゃった」
そう言ってポンポンと有季の頭を姉が叩くから、有季は思わず泣きそうになるのをぐっと堪え、そして佇まいを直す。心臓が嫌な跳ね方をした。酸素が足りなくて頭がぼーっとするような感覚。血が冷たくなったような違和感を固唾と共に飲み込む。姉が不思議そうに首を傾げた。
――頑張れ。綾のその言葉を思い出して、有季は口を開いた。
「皆に――伝えたいことがあるの。でも、いきなり言うのが怖いから、根回しに来た」
激励までされた人間が取る手段としては、少々狡いだろうか?
そう思わなくもない有季だったが、面食らったように目を丸くした姉が、次いで悪巧みをするように笑うから、案外、こういうやり方も悪くないらしいと思い直すことにした。
「何でも言いな。お姉ちゃんは有季の味方だから」
「たっだいまぁ!」
綾がキッチンでガスコンロにフライパンを置いていると、そんな声が玄関から飛んできた。
目を丸くしていると、軽い足取りでリビングに入ってくる大柄な男が一人。
屈強な肉体にトレンチコートを一枚羽織ったその人物の名前は、水城大悟。
綾の父親である。彼はキッチンに立つ綾を見てヘラヘラと笑い、対する綾は目を丸くした。
「――親父。おかえり。珍しいね、こんな時間に帰ってくるなんて」
すると大悟は、笑みを堪えきれない様子でコートを脱いでその辺のハンガーに通す。
「それがさぁ、行き付けのバーの店主がいきなり脱税で捕まってさぁ!」
ちょうどコップで水を飲もうとしていた綾は「ぶふっ」と勢いよく吹き出す。
「げほっ――う、嘘でしょ⁉ 何、その面白エピソード。ちょっと、ちゃんと聞かせてよ」
綾が気乗りして話を掘り下げると、彼は親指を立てる。
「勿論。っと、もしかして今から夕飯か?」
大悟がキッチンの綾の様子を見て尋ねてくる。
「そうだけど、何かオーダーが?」
「お前さえよければ今日は出前にしようぜ。楽に行こう、楽に」
少し考えた後、綾は微かに笑ってフライパンを戻し、エプロンを外す。
「ピザがいいな」
言いながらリビングのテーブルに向かうと、大悟は自身のスマートフォンにピザ屋のサイトを表示して、それを綾が見える形で置く。
「好きなやつ選びな、余ったらパパが全部食うから」
「オッケー、言ったね? まあ、そう悪いものは選ばないから安心してよ」
綾はテーブルに座ってスマートフォンを手早く操作し、親子二人で食べられそうな量を見繕う。防寒着を引っ掛けたハンガーをラックに掛け、手を洗って戻ってきた大悟は、部屋の様子や綾の横顔をしばらく黙って眺めた後、何気ない調子で言った。
「学校、楽しくやれてるか?」
スマートフォンから視線だけを上げて大悟を見た綾は、微笑と共に頷く。
「うん」




