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21話

「あ、もしもし。あの――その、今、水城先輩の家に居るって聞いたんですけど」


 電話が繋がったかと思うと、咲良は開口一番に有季へとそう尋ねた。


 ぎく、と身体のどこかから音が鳴った。


 有季は冷や汗を浮かべてどうにか弁明の言葉を探すも言い訳の余地はなく、どうして綾からその情報が伝達されたのか考える余裕もなく、殊勝に詫びようとした。


 だが、有季が「その」と話し始めると、同タイミングで咲良が不安そうに言った。


「まあ、それは別にいいんですけど」


 いいのか。口があんぐりと開いて有季は首を傾げると、彼女は不安そうに本題に入った。


「実はお尋ねしたいことがあって……あの、最近書店の方に顔を出してなかったのって、もしかして私に気を遣っているとかじゃないですよね?」


 有季は呆けた顔で口を開けたまま黙り、困惑が消えぬまま辛うじて答えた。


「えっと、一応……そのつもりで。だから今日、申し訳なくて」


 そう答えると、電話の向こうから、深い、本当に露骨なくらい深い嘆息が聞こえた。


 怒られると思って身を竦ませて覚悟を決める有季。「あの!」と力強い切り出しに肩を窄ませて固く目を瞑ると、まるで予想もしていない言葉が続いた。


「すみません。私の伝え方が全面的に悪かったです。誤解がありました」


 怒られると思って身構えていた有季は、一瞬、言葉の意味が分からずに思考が止まる。


「私が――茅野先輩に事情を話したのは、『私が惚れたんだからお前は近付くなよ』って釘刺しじゃなくて。もしかしたら先輩も多少は意識してるんじゃないかと思ったから、念のため、筋を通すために宣言しただけです。だから別に、茅野先輩にどうこうしろってつもりは無くて」


 ガツン、と鎚に頭を横殴りにされたような気分で有季は目を丸く見開いて絶句した。


 ――落ち込む自分を励ますための方便だろうか、そう考えたものの、思い返すと確かに咲良は一度もそういった要求をしていないし、そもそも、こちらの事情を彼女がそこまで知っているかも怪しい。何より、電話越しに感じるその声色は、罪悪感と焦燥に満たされていた。


「ああ、もう……なんか、本当にごめんなさい! もっと早く気付くべきだったのに、先輩の大事な居場所を奪うような真似をして……ちょっと気が収まらないので、顔を合わせて詫びます! 今書店ですか⁉ すぐ向かうんでちょっと待っててください!」

「いっ、いや、大丈夫、大丈夫だから! もうけっこういい時間になるし!」


 ハッと我に返った有季がどうにか制止の声を紡ぐと、咲良は渋々納得の意思を聞かせてくれた。どうにか宥められたことに胸を撫で下ろしつつ、有季は少し呆然としていた。


 ――勝手に彼女の言いたいことを考えて、勝手に不安になって、勝手に相手の為になると思って行動して、勝手に傷付いて、挙句に、後輩から謝罪をされている。そう整理すると途端に自分が情けなくて仕方が無くて、顔に熱が上るのを感じた。不覚にも涙腺が緩んで、唇を噛む。


「そっかぁ……ごめん、私。勝手に常磐さんの為になると思って、迷走してた」


 電話の向こうで数秒、沈黙が続く。


「気持ちは嬉しいです。凄く。でも、それは私の中で筋が通りません」


 そう言うと咲良は、少し照れくさそうにこう続けた。


「確かに私は水城先輩のことが好きですし、応援してくれるのも、その為に協力してくれるのもとても嬉しい。でも、その為に茅野先輩が割を食うのは御免です。私は――自分だって大変なのに、あの日、ちゃんと私の相談に乗ってくれた茅野先輩に感謝してますから」


 有季は目に涙を溜めて俯き、懸命に咲良の言葉に耳を傾けた。


「だからもう、そういうのはやめてください」


 ぽた、と涙が膝に落ちる。堪えきれぬ嗚咽が漏れ出ると、ぎょっとした声が返ってきた。


「な、泣いてるんですか⁉ あの、すみませ、ちょっと言い過ぎ……」

「……いや、違うの。ごめん、色々とあって」


 有季は懸命に涙を拭って言い訳がましく語る。


「私……ずっと、思い込んで、勝手に傷付いて。人に迷惑をかけてばかりなんだって思って。でも、皆が優しいから、情けないのに嬉しくなっちゃって、なんか情緒が滅茶苦茶に……」


 すると、咲良は「んー」と悩ましそうに唸る。そして笑いながら言った。


「まあでも、私もこの前、結構な迷惑をかけましたからね。今更そういうの、気にしないでくださいよ。お互い、言いたいことがあったらハッキリと言えるくらいが健全だと思います」


 迷惑とは、彼女の進路の相談に乗ったことだろうか。


 だが、アレは綾がお節介にも首を突っ込んで、あの場に居合わせたから成り行きで有季も応えただけに過ぎない。確かに、双方共に内情を打ち明けて距離は縮まったと思っている。だが、それはこちら側の勝手な思い込みであり、彼女からそこまで言ってもらう理由は無い筈だ。


 そう思って黙り込む有季に、咲良はやや恥ずかしそうに上擦った声で言った。


「いやぁ……個人的には結構、勝手に友達のつもりだったり……私だけですかね?」


 有季は黙ったまま俯かせていた顔を強張らせる。


 ――大切な後輩だとは認識していた。そう、あくまでも先輩と後輩で、相互を知ったが故の配慮をし合える関係だと。だが、友を冠するその関係はつまり、立場などは関係なく、思うことを素直に打ち明け合って過ごせる仲のことで。口の中で呟くと、その響きがあんまりにも綺麗で澄んでいたから、憧憬の突き動かすままに有季は頷いて涙を落とす。


「ううん、私も。気を遣わせてごめ――」


 有季は一度、そこで言葉を選び直す。


 思い込みで自分自身の人生に蓋をしていた。自ら視野を狭め、自らの苦境を呪っていた。


 だが、少し顔を上げて前を見れば驚くほど視野は広がるし、そこには、いつの間にか友人が立っていた。


 だというのに、自分は彼女が望まないことを勝手に想像して苦しんで、馬鹿みたいだ。


 だが、そんな馬鹿を友達と呼んでくれたから、有季は言葉を選び直すことができた。


「――電話してくれて、ありがとう」


 言い直すと、嬉しそうな吐息が向こうから聞こえた。


「どういたしまして!」


 堪えきれない喜びをだらしない笑みにすると、向こうからも上機嫌な声が飛んでくる。


「なんか、恥ずかしいけど嬉しいですね。今度、二人でどこか遊びに行きましょうよ」

「……うん。でも私、約束にうるさいから。言ったなら、絶対だよ? 破ったら怒るから」


 有季は目元の涙を指で拭ってそう宣告する。「善処しまーす」と茶化すような相槌が笑いながら返ってきて、有季は可笑しくなりながら口を押さえた。


 それから綾が戻ってくる少しの間、二人はとりとめのない会話を続けた。




「――――やあ、今日暇?」


 綾との通話に出た真昼は、開口一番にこちらの事情も知らず呑気なことを言う。


 綾は苦笑し、脱力しながら薄暗い廊下の壁に背を預け、腕を組んで答える。


「すみませんが、ちょっと忙しくて。今日は難しいかもしれません」

「あらら、珍しいね。何、もしかして電話する時間も無い?」

「いや、それくらいの余裕はありますけど――ほら、この前話した医者の子の件で」


 綾が有季のプライバシーを損なわない範囲で打ち明けると「ああ! 例の!」と興奮したような得心が向こうから返ってきた。


「なるほど、それはそっちを優先するべきだね。気にしなくていいよ」

「ご配慮に感謝します。こういう時の真昼先輩は話が早くて好きです」

「――それで? 相談に乗った方が良さそうな雰囲気だけど。どうする」


 やっぱり彼女は話が早い。綾は感謝の念を抱きつつも、彼女に倣って話を早く済ませる為に賛辞の言葉を割愛。率直に本題から話すことにした。


「…………正直、迷ってるんです」


 「ほう?」と真昼の相槌。綾はリビングに続く扉の曇りガラスの明かりに目を細めた。


「彼女は親が敷いた医者への道に対して疑念を抱いています。自分で道を選びたいとも。本来であれば彼女の意思を肯定するべきだと思っています。でも――現実はさておき、社会通念として医者は成功者と呼ばれることが多いでしょう」

「確かに、それを否定するのは苦しいかもね」

「つまり、それに背を向けたいと願う彼女を肯定することは、彼女の人生で大きくマイナスに作用することだと考えています。私自身、医者にはとても世話になったので、特に」


 身体を少し折って膝に手を置くと、まるで違和感が無い。


 体育の授業も、無意識に手を抜いているという部分はあれども、殆ど問題なくこなせる程度には回復している。酷い怪我をした時、脳裏を過ったのは陸上の問題以前に日常生活への支障だった。今やその時の絶望も忘れてしまうくらいには問題なく機能を取り戻している。


 その謝意は医者という職への憧憬へと転換され、合理性を損なう。


「被服の後輩の時は……十中八九、プラスに作用するだろうという傲りと慢心がありました。だから、お節介だと自覚しながらも彼女の背中を押すことができた。でも、今回は……誰かが人生を転落する手助けをするようなもので、その癖、責任も取れない人間に何ができるのかと」


 語るにつれて自分の醜さを痛感し、綾の顔が歪んでいく。絞り出す声が掠れていった。


「綾」


 短いのに、心を惹き付けて仕方が無い響きで真昼が綾の名を呼んだ。


「マイナスを選ぶのも、その人の選択であり、人生だよ」


 目を丸くして床を見詰めた綾は、しかし、その言葉を咀嚼できずに目を細めた。どうにか自分なりに納得をしようと目を泳がすも、やがて頭を掻いた。無意識に口調が荒くなってしまう。


「でも、じゃあ、それを看過するべきだって言うんですか? 後押しが正解だと?」

「悪い方向へと進もうとする身内が居れば、止めるよ。それが愛というものの作用だと思う。だけどね、悪い方向へと進む権利そのものを剥奪するのは、過干渉で傲慢だ」


 淀みなく用意された回答に、綾は今度こそ理解が及んで口を噤んだ。


 胸の中で、どこか外れかけていた歯車が直ったような感覚。


 ストン、と理屈が臓腑に落ちてきて、綾は吐息をこぼす。


 望みを相手に伝える行為と、望むことを強制する行為は本質が違う。後者は言わずもがな許容されないものであり、前者も確かに無責任に人の人生をマイナスに作用させるかもしれない。


 だが、選択権は確かに相手に帰属する。


「大事なのは線引きだ。誰だって大切な人には自由に生きてもらいたい。でも、その自由の行く末が破滅だと知っていれば止めるし、不安なら口を挟む。望んで落ちている人間の無理な抑止は疎ましい越権行為だと思うけれど、望まずに落下している人間を強引に助けるのは肯定されるべき救助だ。つまり、肝要なのはどこまでの状況に、どこまでの干渉をするか。人はそれを無意識に線引きするからこそ、間違えるし、後悔する」


 頭で理屈を理解するのに精一杯で、綾は返答もできぬまま伝わる道理も無い首肯を繰り返す。しかし、それを察したかのように真昼は気分を害することもなく、淀みない言葉を続けた。


「意識して、自分で線を引くんだ。そんな性格をしている君は、これからの人生でもっと多くの困った人を見付けることになると思う。選択を間違えると、お互いに深く傷付く結末を迎えるだろう。だから、これだけは絶対的に正しいという自分の中の軸を作るんだ」


 絶対的な正しさなどこの世には存在しないだろう。


 だが、この世には存在しなくても、それは自分の中には存在できるかもしれない。


「君は自分の行いについて言及するとき、決まって悪い側面ばかりを露悪的に言葉にする。確かに君のすることはお節介だ。余計なお世話とも言える。でも、それに救われた人間が居るのなら、少しは胸を張ったっていい。答えはちゃんとある筈だよ」


 綾はスマートフォンを耳に当てて黙したまま身体を起こし、目を瞑って思考に耽る。


 前提として、有季はさておき、咲良に対して様々な言葉を掛けたのは間違っていなかったと思う。無論、結果として彼女が前向きになったという結果論があっての確信ではあるが。


 話は戻して有季。彼女の現状をどうにかしてやりたいと思う気持ちも確かだ。


 親の決定に人生を捧げるのではなく、自分で道を決めたいという彼女の意思も尊重したい。


 だが、それと同じくらい、医者という道から彼女を逸らすことへの懐疑もある。


 それらは極めて不規則で、ガタガタの、始点と終点が曖昧で感情論丸出しの『線』だ。


 だから綾は、自分の感情と向き合って、その『交点』を探す。


 自分が今までの行動で間違いではなかったと確信できること、これからしたいこと、そして、決して容認できないこと。それらが成立する自分の中での正義を模索し、理屈を組み立てる。


 ふと――正義について考えると、頭の中にアンパンマンの顔が浮かんだ。懐かしい顔だ。有季と一緒に映画を観たのも随分と昔のように感じられる。彼は、お腹を空かせた相手に自らのパンを差し出し、そして問題の元凶が居れば自分の能力でそれを除去する。


 彼の中での絶対的な正義は、人のお腹を満たし、困っている人を助けること。


 では、自分の中では? 自問した綾は、そっと目を開けて苦笑する。そして答えた。


「迷子を、迷子センターに連れていくのは。多分、正しいと思うんです」


 電話の向こうで小さな笑い声が聞こえ、綾も笑う。


「――立ち往生する人が居れば、傲慢でも、手を引いて私が正しいと思う道に連れ戻します。崖に進もうとしている人が居れば、死ぬ気で呼び戻します。でも、その人が、どうしても進みたい道があるというのなら、できる限り良い形になるよう、その夢を応援します」


 それが綾の結論だ。数秒の沈黙の末、真昼はこう試してくる。


「巡り巡ってその終着点が破滅になるとしても?」


 綾は据わった目でリビングの扉を見詰めて答えた。


「私の手の届く場所に居る間は、そうならないように死力を尽くし続けます。誰かの人生に口を出すというのはそういうことだと、今、理解しました」


 それは、傍から聞けば酷く稚拙な責任の取り方かもしれない。


 だが、どうしても目の前の理不尽に納得ができないなら、そういう風にするしかない。それが綾の中にある無数の線のたった一つの交点だったのだから。


 しばらくの沈黙の後、真昼はそれが正解とも不正解とも言わずに小さく笑った。


「なら、それが君の選択だね。君に倣って、私もそれを応援するよ」


 綾は面食らったように顔を仰け反らせ、不覚にも、微かに頬を紅潮させながら額を押さえる。こういう時の、彼女のこういう立ち回りは本当に卑怯だ。


「頑張っておいで。ちゃんとやるんだよ」


 まるで保護者のようなことを言ってくるから、綾は息を吐いて意識を切り替え、頷いた。


「ありがとうございました」


 ――そうして通話を終了した綾は、一度その場で深呼吸をする。


 そして扉を開けて薄暗い廊下からリビングへと戻ると、ちょうど電話を終えたらしい有季が、微かに目元を濡らしてこちらを見た。心なしか、その表情は明るい。もう自分の言葉なんて必要ないのではないかと思えるくらいに。或いは彼女の目から見た自分も、似たような印象を覚えるものになっているのかもしれない。


「茅野」


 綾は、有季が何かを言う前に先んじて用件を伝えることにした。


「明日、学校を休んで一緒に出掛けよう」


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