20話
実際のところ、あの公園から両者の家までの距離は大して変わらなかった。
家に帰すよりも話を聞いてあげた方がいいと判断した綾の嘘だった。
それが果たして正しい行いなのかは分からなかったが――入浴を済ませて新品の肌着の上に綾の部屋着に袖を通し、暖房の効いたリビングのソファに座す穏やかな有季の様子を見ると、そう悪い選択ではなったはずだと思えた。
順番で入浴を済ませた綾は、髪にタオルをかけたままリビングへ。ボーっとした様子でソファからテレビを眺める有季の左腕を見て、蕁麻疹と引っ掻いた痕に目を細める。
「今日、親父は帰ってこないんだけど。泊まっていく?」
家が悪いとは思わないが、彼女にとっては勉強できてしまう空間は好ましくないだろう。
そう思っての提案に、有季は呆けた目を返す。そしてその意味に気付いて微かに目を見開くと、緊張の面持ちで「いや」と呟いた。そして何かを思い出すように虚空を見た後、首を左右に振ろうとする。
だが、電池切れの玩具のように錆び付いて動きを止めること数秒、遂には完全に黙り込む。
泊まりたいけど遠慮している、と解釈した綾は強硬策を講じることにした。
「じゃあ決まりだね。家族に連絡しておいてね。あと、一応、私も話しておきたい」
そう言うと有季は困り果てた表情で黙るが、やがて観念して「うん」と頷いた。
綾がキッチンで温かいお茶の準備をしていると、やがてソファで有季が家族と電話を始めた。「……うん、そう、この前話した水城さんの家。向こうからいいよって言ってくれて」チラリと彼女がこちらを見るから、その認識で間違いないと返すように綾は首肯を返した。
「あ、えっとご家族は家に居ないみたいで……代わりに水城さんが挨拶をしたいって」
そういう話になったから、綾はヤカンの火を弱めて彼女のスマートフォンを受け取りに行く。
そしてそれを耳に当て、微かな緊張を胸の中で殺して挨拶した。
「お電話代わりました。水城です」
すると明るい元気な声が返ってきた。
「あら、水城さん! さっきぶり! 何から何まで、ありがとうございます」
「ああ、よしてください、そんな。友人として当然のことです。それより、既に有季さんからお話はあったかと思うのですが、本日、彼女を私の家に預からせていただければと」
「もう、そんな、こちらとしては本当にありがとうございます、って感じ。娘も最近、何かと詰め込み過ぎて苦しそうだったので、良い息抜きになればと。でも、迷惑じゃない?」
話している限り、やはり気の良い家族だ。有季の問題も――話せば解決することだろう。
だから問題は、環境ではなく有季自身。彼女がどう勇気を振り絞り、どんな道を選ぶかだ。
「ええ、寧ろ……家に親が居ないので、その点でご心配をおかけしていなければいいのですが」
「もう、全然。こっちのことは気にしないで! 水城さんなら安心できるから!」
「恐れ入ります。では……その後のことは有季さん本人からご連絡させていただくと思いますが、全部こちらが承知の上だということを、予めお伝えさせていただきます」
「はい、よろしくお願いします~!」
そんな挨拶を繰り返し合った後、有季を見て電話を続行するか視線で尋ねる。
彼女から「大丈夫」と小さな声を受け、そして通話を打ち切った。気付けばヤカンから蒸気が吹き出していたので、火を止めて二つの紙コップに紅茶を淹れた。
紙コップ二つとスマートフォンを持ってソファに戻った綾は、「お待たせ」とローテーブルにコップを置いてスマートフォンを彼女に返す。「ありがとう、色々と」と彼女は紙コップを持って温かいお茶に口を付けた。ホッと温かい吐息が零れ落ちた。
しばらく黙ってテレビのバラエティ番組を眺めていると、有季が恥ずかしそうに笑う。
「その、ごめんね。色々と迷惑をかけちゃって」
綾はこの期に及んで謝罪から入る彼女に呆れつつ、「ん」とだけ相槌を打った。
「まあ、こっちが好きでお節介を焼いているだけだから。気にしないでいいよ」
「気にするよ」
「だろうね。そういう奴だ」
綾は食い下がらずに頷いて認め、ソファの肘掛けに頬杖を突いた。
「ここで全部吐き出していきな。全部、聞くから」
それは聞かせてほしいという依願ではなく、しかし、好きに話せという投げやりな言葉でもない。しっかりと聞き入れるが、徹頭徹尾、有季の主体性を尊重するために彼女が捻出した言葉だった。有季は全身から力が抜けるのを感じながら、自然と口を開いていた。
「何かがあった訳じゃないの」
綾は相槌の代わりに視線を向ける。有季は自嘲気味に嗤って腕を掻くように手を伸ばす。
だが、綾は手を伸ばしてそれを止め、怯んだ彼女に「蕁麻疹?」と尋ねる。自分よりは詳しいだろうと尋ねると「そう、だと思う」と自信の無い声が返ってきたから、ソファを立つ。
そしてリビングに置いてある薬箱から蕁麻疹用の薬を取り出して有季に押し付けた。
「放っておけば治るよ」「いいから」「大丈夫」「塗れ」「気にしないで」
話にならないと感じた綾は、投げやりにソファに座って彼女の腕を強引に引っ手繰った。目を白黒させて数秒ほど抵抗した彼女だが、やがてされるまま、綾に薬を塗られる。
恥ずかしそうにする彼女を上目に見て、綾は露骨な溜息を吐き捨てる。
――これは友人としての心配なのか、それとも単なるお節介なのか。自分で自分の行動の線引きが分からなくなりながらも、しかし、どうしても破滅的な道を選ぶ人間を黙って見送るのは難しいと感じながら、綾は静かに、腕に薬を塗り込んでいく。
「私は……色々な人に医者になることを期待されている」
ぽつりと続けた有季に、綾は視線を合わせぬまま頷いた。
「まあ、そうだろうね。その人達の気持ちは分かるよ」
「私も理解できる。そういう家庭に生まれたし、それを実現できる成績を持ってるから。でも、私は……成り行きで人の命を預かりたくない。誰かの意思に自分の人生を捧げたくはない」
その独白のような告白には重い熱が宿っていた。
「それでもやっぱり、家族に言うのが怖いの」
「……優しそうなお母さんだけどね」
「私もそう思う。というか、実際、凄く優しい家族だよ。でも――分かんない。分からないけど、優しいのは私の成績が良いからで、私が両親の思い通りの人生を歩いているからで、道を変えたら失望されるんじゃないかって。いざとなると、そんな風に考えちゃう。そうでなくても、あの優しい期待を裏切ることになるって思って……」
それは、一概に否定していい恐怖ではないだろうと綾は考えていた。
実際、失望されるかは分からないが、期待を裏切る決断である可能性は高いだろう。
もしも綾が彼女の家族として生まれていたとして、何も知らずに彼女の家族で居続けたら、きっと同じように名門大学への進学を期待して、或いは周囲に誇ってしまうかもしれない。
だから、周囲が彼女に向ける感情も否定はできなかった。
「私は……色んな人の期待を受けて生きて、その期待の裏側で、日陰で苦しむ誰かの夢を踏み潰して生きている。だったら『茅野有季』は、友達と遊ばず、恋愛もせず、真面目に勉強をして、立派な大学に行って、医者になって、色んな人を助けて、誰かの期待と嫉妬の中で、そういう風に生きていくべきなんじゃないかって、そう思う」
話を聞き終えた綾は、少し考えた後にこう尋ねた。
「誰かに、文句でも言われた? 羨ましいって?」
すると図星を突かれたように有季は顔を歪め、自罰的に応じる。
「…………人より、恵まれた環境だと思う」
「恵まれた環境に生きる人間が相応の生き方をしなければならないって理屈が通るなら。恵まれない人間は身の丈を弁えて生きろってこと?」
間隙を置かずにそう詰問のように質問をすると「そんなことは……」と、有季は返答に窮して黙り込む。少し意地の悪い訊き方だったかと反省した綾は、こう思惑を語った。
「誰にでも、生き方を選ぶ権利はあると思う」
最初に綾の膝の件を知った時も、彼女は自ら優れた環境を手放すことへの罪悪感を口にしていた。相対的に見て恵まれた環境に居ることは間違いないだろう。そして、その理屈が通るなら、相対的に恵まれない環境に居る者だって確かに存在する。
だが、綾に言わせればそれらは全く別の問題だ。
どれだけ優れた環境で立派なレールを敷いてもらったって、誰かが揶揄する道にハンドルを切ってもいい。同様に、どれだけ恵まれない環境に居たって、誰かの『身の丈を弁えろ』などという言葉に耳を傾ける理由はない。
環境により、できることに大きな幅の差があることは事実だと思う。
恵まれている人間への羨望や嫉妬の感情はどうしたって生まれてしまうものだろう。
だが、誰にだって自分の道を自分で決める権利はある筈だ。誰に何を言われようとも。
「でも……皆に、失望されるかもしれない」
悲痛に歪めた顔でそうこぼした有季に、続く言葉を失って押し黙る。
瞑目し、どうにか彼女を励ますための言葉を模索する。聞き心地の良い言葉を取り繕って彼女を励ますことは簡単だ。だが、それは根本的な解決にならないし、彼女もそれを理解している。必要な言葉は――無意味な励ましではなく、地に足を付けた状況整理だろう。
『失望される可能性はゼロではない。だが、それでも前に進まなければいけない』。
しかし、綾がそれを言おうとするより早く、彼女は吹っ切れたように笑った。
「……お医者さんって、立派だもんね」
綾は脳を掴んで揺らされたような衝撃を感じ、眩暈を覚えた。用意していた言葉が全てすっ飛んで、呆けた顔で絶句したまま押し黙る。寂しそうに有季が笑った。
――馬鹿か。私は。
医者。改めてその職の名を訊くと、膝の古傷が疼くような感覚を覚えた。二度と走れないのではないかと絶望し覚悟した少女に、再び走り出せる足を与えるのが、医者という存在だ。そういう、『立派』な仕事だ。
そして有季は、その道を外れようとしている。綾はその背中を押そうとしていた。
――押した背中が正しい方向に進むとは限らないだろう。
綾のスタンスは、有季が自分の道を自分で選べるようになってほしいというもの。
だが、咲良の時と明確に違うのは――社会的に見て、有季の進む道は大勢が肯定するものであるということ。『色恋で自尊心を満たす』と言えばそれは大勢が眉を顰めるだろうが、『医者になる』という理想を抱く人間を人は応援する筈だ。
職に貴賤は無いと語る者も居るが、それは嘘だ。欺瞞だ。
大抵の仕事より、人の命を救う仕事の方が社会的には尊いモノと扱われる。誰でもできる仕事より、特定の技術が無いとできない仕事の方が立派だと語られる。そういう実情がある。
何となく彼女の背中を押そうとしていたが、改めて――その行為は、立派な道から外れることへの助力だと再認識し、綾は言葉に窮した。
そんな葛藤に苦悶していると、ヴー、という振動音がテーブルに置いた有季のスマートフォンから聞こえる。画面には『常磐咲良』の文字。一瞬、顔を見合せた。
「もう引っ掻かないようにね」
丁寧に薬を塗り終えた腕を軽く叩くと、有季は愛おしそうに腕を見詰めて頷いた。
「……ごめん、ありがとね。何から何まで」
「いいから。電話に出てやりな」
綾は薬を持ってソファを立ち、それを薬箱に放り込んで私室の方へ向かった。その背後で「もしもし、遅くなってごめん」と有季の声。――二人の間に電話をするような接点があったのは驚きだが、果たして何の用件だったのだろうか。
そんな具合に廊下で腕を組んで電話の終了を待とうとすると、偶然にも、綾のスマートフォンも軽快な音を鳴らし始めた。画面を確かめると『八重畑真昼』の文字。途端に現実に帰ってきたような気分になりながら苦笑をした綾は、「はいはい、もしもし」と着信に応じた。




