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2話

「どうか、が、学校と親には内緒にしてください……」


 一分後。客の居ないアダルトコーナーのレジ横に佇んだ有季は、羞恥に耳まで真っ赤に染めながら処刑を待つ罪人の如く項垂れて綾にそう懇願した。


 まさか、あの茅野有季がこんな裏の顔を持っているとも思わなかった綾はその顔を眺め、熟慮と共に唸る。彼女との接点は殆ど無いと言っていいだろう。


 高校で同じクラスではあるし、双方共に交友範囲は広い方だ。数か月も同じクラスで過ごせば当然、会話をする機会もあった。だが、その内容は軽い談笑と必要最低限の事務連絡程度。双方への認識は普段の言動から推し量れる表面的なものだけである。


 そんな目で見た茅野有季は、頭一つ抜けた学年トップの成績を誇る優等生だった。


 曰く、医者の娘。医大を目指しているとのこと。


 特に彼女の成績を気にしたことはないが、それでも度々耳にする程度には日頃から彼女の学力は噂されている。テスト返却の際には彼女の周辺が騒がしくなり、満点という単語を度々耳にするような、そんな具合。性格も良好で社交的かつ温厚。つまり、大勢に頼られる優等生だ。


 綾は腕を組んで有季の顔を盗み見た。


「いやまあ、守秘義務とかあるし。誰にも言わないけどさ」


 すると、有季は露骨に安堵した顔で「ほんと?」と確かめる。


 どこか浮世離れした印象のあった優等生の人間らしい側面に苦笑しながら、綾は床を指す。


「ここ、親父が経営する店だから。お客さんに訴えられたら家族揃って路頭に迷うもん。下手なことはしないよ」


 有季は目を丸くして綾の顔を見詰めた後、胸元で五指を合わせ、店内をぐるりと見回す。


「……水城さん家のお店だったんだ。店名、『サガラ書店』じゃなかった? 先代とか?」

「親父の旧姓だよ。婿入りして水城になったの。ま、母親とはもう離婚したけどね」


 そう言うと有季は気まずそうな顔で「そっかぁ」と同情の目を向けてくる。


 続けて「なんかごめん」と詫びられるから、綾は「謝らなくていいよ。慰謝料で裕福な暮らしをしてるから」と本音をぶっちゃけて吐露した。


「――しかし、まさか茅野がこういうのに興味あるとは思わなかった。予想外過ぎて、数か月顔を見てきたのに、気付くのが遅れたよ」


 そういうタイプとはつまり、この桃色の空間に似合うようなそれのこと。綾の言わんとすることを理解した有季は、再び茹で上がるように顔を赤くして半笑いで目を逸らす。


「興味ならあるよ、そりゃ。人間だもの」

「それもそうか。無意識にバイアスがかかってたかもしれない――優等生だってエロサイトの十八歳未満閲覧禁止の画面で平然と『YES』を押すよね」

「待って痛い、胸が痛い。ごめんなさいってば」


 性興味は持って当然ではあるが、それとは別に十八歳に満たない少女がこういう空間に侵入するのは問題である。そういった問題行動をするとは思っていなかった、という意外もあった。


 すっかり意気消沈した有季は「でもさぁ」「だってぇ」とキムチ鍋に放り込まれて萎れた葉物野菜のような様子で、顔が赤いまましょぼしょぼと言い訳を試みようとしている。


「……守秘義務があるから学校に言いふらしたりはしない。でも、店員の義務的に本来は追い出す必要がある。こちらのスタンスは理解しておいてほしいな」

「……やっぱり、警察には言う?」

「いや、『万が一があれば尻尾を切るからね』ってこと。私は悪い店員だから何も言わないよ」


 すると有季はパッと明かりを灯すように笑顔を浮かべ、だらしなく頬を緩ませた。


「あ、ありがとう!」


 犬が尻尾を振るように少し身体が揺れた。踵が踊る。


 やはり愛嬌のある少女だ。綾は微かに相好を崩してそれを眺め、穏やかに目を瞑る。


「で、どうする? 買ってく? 静かなローター。相談に乗るけど」


 努めて誠実に言ったつもりだったが、滲み出る少しの意地悪は許してほしいものだ。微かに口元を綻ばせて言った綾の顔を、有季は少し早い紅葉色の顔で苦々しく見詰める。「う」と唸りながら葛藤をして目を瞑り、摘まんだ自身の服の裾を下に伸ばしながら「お」と言う。


「お願い……します」

「はいはい。じゃ、ちょっと見ようか」


 誰も居ないアダルトコーナーを縦に並んで歩き、角にある女性向けグッズのエリアに立つ。壁に接着されたフックから吊り下げられる桃色のパッケージ群の前に立って綾は商品を物色。静音性と値段を基準としたコストパフォーマンスを重視して手頃なものを探す。


「やっぱり、こういうお店で働いていると詳しくなるの?」


 有季がそんな綾の横顔を盗み見ながら尋ねてくる。好奇心が瞳に宿っていた。


「んー、どうなんだろう。返答が少し難しいかな。働いていたら詳しくなる傾向にあるかどうかって質問なら、私には分からないかも。私はここしか経験してないからね。ただ、親父が業者さんと仲良くてさ。商品説明を聞く機会も多いから私個人は詳しい方だと思う」


 綾は商品を見て幾つか手に取っていく。


「一人部屋? 静音性はある程度確保されていればいい?」

「あ、うん。極端にうるさくなければいいかな。後は……程々の値段と、その、じ」


 歯切れ悪く言葉を詰まらせた有季を見る。続きを待つ綾の視線を受けた彼女はいっそう言いづらそうに言葉を詰まらせ、恥ずかしそうに顔を火照らせながらそっとこぼす。


「実用性、的な?」

「了解。だったらこの辺が王道だと思う」


 そう言って綾は手頃な値段で評判の良いグッズの箱を彼女に手渡す。有季は緊張の面持ちで恭しくそれを受け取ると、固唾を飲んでそれに視線を落とした。「これ?」「そう」


「人気ブランドの準新作でコストパフォーマンスを意識した開発されたものみたい。今のところ口コミの類は概ね良い。数パターンの振動とリモコンの遠隔操作が可能。値段は二千円。私が元カノに使った時はウケが良かったよ。興奮しながら企業努力を称えていた」


 綾が過去を懐かしむようにレビューを語ると、有季の丸い目がこちらに向いていた。


「元カノ」


 と、思わずと言った様子で意外そうに呟いたから「ああ」と綾は彼女の驚きの原因を察する。そして勘違いではないと伝えるべく頷いた。


「そう、女性。ちょっと前に別れたけど」

「あー……なるほど」


 彼女はそれ以上綾の性的指向に言及することなく、微かに目を泳がせながらも「そっかぁ」とパッケージに視線を落とした。少し気まずそうに唇を引き結んでいる。突然の話で面食らって反応に困っている様子だ。悪い事をしたか。――とはいえ彼女は、それを極度に尊重も否定もせず、単なる交際履歴の一つとして受理して話を軌道修正し、悩ましそうに箱を見る。


「い、良いんだ。コレ」


 再び固唾を飲む音。小さく、それはサンプル映像の女優の嬌声に掻き消される。


「もう少し安いのにする?」


 綾が他の商品に目を向けながら尋ねると、ううんと唸りながら悩み抜いた末に、有季は「いや」と決意を含んだ震える声で言った。


「これにするよ。あの、箱って開けてもらってもいいかな?」

「ああ、そっか。箱の処理も大変だよね。いいよ、サービス。ここで装備していくかい?」

「お馬鹿。それセクハラだからね」


 国民的ロールプレイングゲームの有名台詞を拾ってくると、頬を染めた有季が呆れたように釘を刺す。綾は肩を竦めながらレジに戻ってバーコードを読み取り、以前にも一度開封したことのあるその箱を手際よく開けた。そして、中の商品を紙袋に入れて丁重に折り畳んでいく。


 有季は緊張の面持ちで財布からお小遣いを取り出してカルトンに乗せた。


 綾は手際よくレジを操作し、レシートはゴミ箱へ、お釣りを素早く置いて返す。そして商品の入った小さな紙袋を彼女に差し出し、「またのご利用を」と軽く挨拶した。


 しかし、級友同士の買い物で用件が済んで即解散というのも寂しい話か。


 受け取った有季は何も言わずその場からも動かず、暫し緊張の面持ちでそれを眺めていた。やがて、少しの逡巡が透ける目を綾に向けた。


「あ、あの……また来てもいいかな」


 腰に手を置いて少し考える。


 結論から言えば構わない。今日を見逃した時点で、あと何回彼女を招き入れようと大した違いも無いだろう。というのが綾の思うところであるが、こんな恥ずかしい目に遭っておきながらまだ来ようというのは随分と肝が据わっているとも感心する。だから、


「そんなに溜まってるの?」


 思わず、純粋な疑問から、そう尋ねた。何をとは言わないが、つまりそれのことである。


 有季は痛いところを突かれたように頭を揺らし、赤い顔を俯かせた。


 「いやぁ」だとか「うーん」とか、そんな意味の無い相槌を幾つか挟んだ後、火照った顔をパタパタと仰ぎながら顔を上げつつも、有季は目を逸らして言う。


「あんまり、他の人には言わないでほしいんだけど……その、」


 他人の秘密を暴露する悪癖は無い。「うん」と綾が相槌を打つと、彼女は言葉を紡ぐ。


「ストレス的な? 感じのアレがちょっと」


 思ったより深刻な話だったから、綾は再び口を噤んで真っ直ぐ有季の顔を見詰めてしまった。


 状況が状況だけに。真っ直ぐな綾の視線を受け止めかねた有季は逃げるように顔を背ける。だが、そんな恥ずかしそう表情の裏側に、疲弊にも似た色濃い何かが見て取れた。――そこでようやく、綾は有季の顔を見てすぐに彼女だと気付けなかった理由を悟る。


 表情に、教室で見るような活力が無いのだ。


 何を言えばいいのか分からず、綾は暫し押し黙ってしまった。労いを言うべきか、それとも励ましをするべきか分からず考え込んでいると、沈黙が漂う。そうしていると不安そうに有季の顔がこちらを見るから、綾は軽い咳払いをして話題を掘り下げることにした。


「勉強とか?」


 深掘りするのが正しかったのかは分からないが、有季は気まずそうにしつつ応じてくれた。


「……うん。大体、そんな感じかな」


 自分の苦労話を率先してするタイプではないらしく、彼女はそれ以上何かを言うつもりはなさそうだった。だが、被害者のように振る舞って悦に浸る性格でもないとは分かっているため、綾はそれ以上、何かを尋ねる気も無かった。ストレス――比較的自由に生きさせてもらっている自分にはあまり縁のないものだが、成績最上位、将来有望で多くの期待を背負う彼女には馴染み深いものなのだろうか。そして、それを発散する手段に性欲解消を選んだのだとすれば、余計、彼女の来訪を誰かに言う気になどなれず、むしろ、同情と協力の念が浮かんでくる。


 綾は、できることなら彼女の力になってやりたいと思い、もう少し話を聞き出しそうになる。


 だが、本人が言いたくないことを無理に聞き出すのも気が引ける。


 少し悩んだ末、綾は腰に置いていた手を下ろし、微かに笑う。


「いいよ、またおいで。でもひっそりとね」


 すると有季は強張りつつあった表情を温和に緩ませ、途方もなく嬉しそうに笑う。


 しかし、それがあんまりにも緩み切っていたから、彼女も自分の頬に手を当てて顔を捏ねる。少しだけ真っ当に穏やかな表情を作ると、「うん」と小さく、跳ねるように頷いた。


「……水城さんって、あんま話したことなかったけど。良い人だね」


 真正面から褒められた綾は驚きに目を丸くし、少々照れくさくなりながら目を逸らす。


「そう? まあ、別に――悪い人なだけだよ。店員としての義務を果たしてないからね」

「そこはほら、善悪は立場で変わるから。私にとっては良い人だよ。勿論、『都合の良い人』なんかじゃないよ? ちゃんと、人柄が素敵な人だと思った」


 この女はこういうことをハッキリと言うから大勢に慕われているのだろうなあ、と今更ながら感じ入った綾は、むず痒くなりながら曖昧に笑って目を背けた後、閉ざし、唇に弧を描く。


「ありがとう。悪い気はしない」

「よかった。色々迷惑をかけるから、そのお礼的な感じで」

「気にしなくていいよ。私は何にもしていない。仕事をしただけ」


 そう言って綾は帰るよう促すべく手を振り、澄まし顔で彼女に別れを告げた。


「じゃ、何かあったら言いなよ? 悩んでるなら相談に乗る」


 有季は微かな逡巡を目に滲ませる。


 『何かあったら言いなよ』という言葉を。どの程度受け入れていいのか測りかねた様子だ。だが、浅い呼吸と葛藤の末に頷くと、何かを決意するようにもう一度頷き、笑った。


「うん。また」

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