19話
目を覚ますと、部屋が真っ暗だった。口の中が少し乾いている。
有季はボーっとした頭でぼんやり天井を眺めた後、慌てて起き上がって遅刻を確信。少し遅れて寝る間際の姉の言葉を思い出し、今日は学校を欠席したのだと気付く。寝た時間を覚えていない上、今が何時かも分からない。だが、慢性的に脳を包んでいた錆が落ちている気がして、どうやら随分と長く眠っていたのだろうと思われた。
有季は徐に身体を起こすと、カーテンを開ける。空は既に薄暗い。曇天だ。道路の様子を見る限りでは昼過ぎ、夕方頃だろうか。枕元のスマートフォンを見ると十六時半だった。
乾いた口に水が欲しくてリビングに向かおうとすると、勉強机にビニール袋が置かれている。
中にはお茶とサンドイッチ、それから栄養ドリンクの類が大量に入っていた。下敷き代わりにメモ帳が置かれており、『学校には病欠の連絡をしてある。パパとママにも話は通してあるから、ちゃんと休むこと! 勉強道具は没収! 返してほしい時は私に言うこと!』と。
有季は慌てて勉強机を漁ると、ノートや参考資料、筆記用具の類が全部撤去されていた。
唖然としつつ、しかし、言えば返してもらえるなら構わないかとお茶を口に含んだ。
立ったままぼんやりとサンドイッチを食べて栄養ドリンクを飲んだ有季は、取り敢えず階下に降りて御手洗いへ向かう。
そして済ませてリビングに顔を出すと、有季に気付いていた母が心配そうな目を向けてきた。
「有季。もう大丈夫なの?」
「別に、病気って訳じゃないし、大丈夫だよ。でも、心配かけてごめんね?」
そう謝罪すると、母は安心したようにほっと息を吐く。
「ところで、私の勉強道具ってどこに置いてあるか分かる? お姉ちゃんの部屋かな」
訊くと、母は再び心配そうに顔を曇らせた後、視線を泳がせた後に目を瞑る。
「……志保から、少なくとも一日は勉強しないで息抜きさせてって言われてる」
有季は無機質な目を何度か瞬きさせて母親を見詰めた後、「でも」と言い訳をしようとする。
だが、言葉が続かない。そんな有季を見た母は、穏やかに笑って説得するように言った。
「大丈夫。貴女が頑張ってるのはちゃんと分かってるから……ゆっくり休んで」
そう言われても、ここ最近、まともに休んだ記憶が無いせいで何をすればいいか分からない。
勉強をしたい訳ではない。だが、周囲の期待に応える為には、まだ勉強が足りていない。親族や教員が言うような立派な医者になるためにはもっと医学の知識が必要だろう。橋本が嫉妬しなくて済むように、自他共に認めるストイックな在り方をしなければならないだろう。
有季はぐちゃぐちゃに絡まった思考をどうにか整理し、瞑目してから呟いた。
「じゃあ、ちょっと……散歩に行ってくるね」
すると彼女は嬉しそうに頬を綻ばせた後、リビングから見える曇天を一瞥した。
「え、ええ! 分かった、雨が降るかもしれないから、傘を持って行くのよ」
「うん。その……ごめんね、心配かけて」
「ううん」と穏やかに微笑んだ母は「そんなことない」と力強く言った。
着替えてから言われた通りに傘を持って、母に見送られながら玄関を後にした有季は、すっかり薄暗くなった秋の夕方過ぎの曇天を仰ぎ見て呆けた吐息をこぼす。もう数週間もすれば、この時間帯には真っ暗になっていることだろう。そんなことを想いながら歩き出す。
目的地は無い。ただ、何となく足が駅の方へと向かう。
サラリーマンや学生を乗せて忙しなく行き交う電車を眺めた有季は、半ば無意識にスマートフォンを取り出してメッセージアプリを開く。連絡相手は水城綾。最後の連絡が随分と前のまま終わっているそれを眺めた後、一文字ずつ打ち込んでいく。『お店に行ってもいい?』と。しかし黙ってそれを眺めた有季は、脳裏に咲良のことを思い出し、文字を消す。
そしてポケットに戻すと、逃げるように駅から足を背けて目的地もなく歩き出した。
闇雲に歩くこと一時間と少し。気付けば随分遠い場所まで来て、空は真っ暗になっていた。見上げると、それを待っていたように鼻先に雫が落ちてくる。有季は街灯に照らされた夜道にそっとビニール傘を差し、少しずつ色濃く染まるアスファルトをスニーカーで踏んで歩いた。
それから更に一時間も歩くと、気付けば靴やカーゴパンツもすっかり濡れてしまった。
それでも足を止める理由が思い浮かばなかったから徐に歩き続けると、街灯が立ち並ぶ大通りで、シャッターを下ろした店に紛れてコンビニがその明かりを雨の夜に滲ませているのが見えた。傘を持つ冷たい指をもう片手で確かめた有季は、傘を畳んで傘立てに刺し、店内へ。
そして適当に温かいお茶を見繕ってレジにて料金を支払い外に出ると、傘立てから傘が消えていた。僅か一分での犯行に驚いて言葉を失い、有季はその場に立ち尽くす。
空を見上げると雨雲の尽きる気配はない。ネットで天気予報を確かめると、雨がやむのは明日の午前三時頃の推定。降水量は時間三ミリとやや強く、傘を捨てて歩くには覚悟が必要だ。
有季は踵を返して店内に戻って中を見回した後、
「すみません、傘って売ってますか?」
談笑する二名の店員にそう尋ねると、露骨に面倒そうな顔を見合せて「あー」と示し合わせたような目配せをすると「在庫が無くて」と言った。有季は少し粘ろうかとも思ったが、何だか面倒くさくなって「分かりました。ありがとうございます」とだけ言って、外に出る。
そして、雨の降る道を適当に歩き出した。
十分も歩いて全身がずぶ濡れになる頃、ようやく少し大きめの公園へ到着する。そこは大通りからそこまで離れておらず、付近に住宅はあり、明かりもあって治安は悪くなさそうだ。それでいてベンチには雨を遮る屋根が設置されているため、お邪魔することにした。
ベンチに座り込んだ有季はようやくペットボトルのキャップを捻ることができた。すっかりぬるくなってしまったそれに口を付けると、雨雲を眺めながら無為な時間を過ごす。
数分ほどぼんやりした後、スマートフォンを取り出して家族に迎えに来てもらおうかと考える。しかし、自分でこんな場所に来て傘まで盗まれておいて、そんな迷惑もかけられない。
少し天気がマシになったら駅まで歩いて、電車を使って帰ろうか。
気付けば、自然と溜息をこぼしていた。
「何やってんだ、私」
呟くと自己嫌悪の中に色濃く惨めな感情が浮かび始め、有季は濡れた膝に手を置いて俯く。
涙のように髪から雫が滴り、屋根の下に水たまりを作る。
――これからどうしようか。有季はまだ少し錆び付いた頭で考える。どうにかして家に帰るまでは良い。帰った後は、また勉強に戻ろうか。考えると手が左腕に伸びる。袖を捲るとそこは真っ赤で、有季は袖を戻して黙り、もう考えるのも苦痛になって思考から逃避した。
雨の滴る街を眺める。信号は濡れ、雨の夜に明かりを滲ませている。
道路標識は車の往来に合わせて明滅するようにくっきりと浮き上がっては消えてを繰り返す。
過ぎ去る車の中や、傘を差して並び歩く家族や友人同士は羨ましくて仕方が無かった。
有季は誰も入ってくる気配の無い公園から外側を眺め、ただそんな感想を抱き続ける。
数分が経った頃だろうか。大きな黒い傘を差した何者かが公園の前を歩く。そして何かを探すようにひょっこりと公園の中を覗き込むと、薄暗くて判然としない顔がこちらを見た。
有季は面倒事に巻き込まれないようにひょいと視線を逸らすも、こちらに気付いた黒い傘の人物はしばらく立ち尽くした後、公園に入って真っ直ぐにベンチの方へと歩いてくる。
ベンチを空けようかと足に力を込めようとしたが、立ち去るよりも早く傍に立ったその人物は、少し可笑しそうにこう言った。
「まさか本当に見つかるとは思わなかった」
聞き覚えのある声だったから、有季は目を見開いて傘の人物を凝視する。
薄暗い闇の中でも、これだけ近付けばその顔はハッキリと視認できた。少し湿気を帯びた癖のあるロングボブと落ち着いた表情。エプロンを幻視してしまうようなその風貌。
水城綾だった。
言葉を失って丸い目を向け続けるだけだった有季は、辛うじて掠れた「どうして」という疑問を言葉にする。それは、どうしてここに居るのか。どうしてここが分かったのか。どうして私を探していたのか。そんな幾つもの疑問を内包している。
綾は傘を差したまま薄っすらと笑うと、推理パートの探偵のように語る。
「最近、どうも様子がおかしかったからね。欠席を口実に先生経由で茅野の家の連絡先を聞いて。で、お母さんとお話をしたら散歩に出ているってことだったんで――探した」
だとしても、こんな広い世界でどうして言ってもいない場所が。
「家や学校の近くは嫌がるだろうし、私の店の付近も避けている感じだったからね。でもそんな遠くは行かないだろうと思ったし……そうやって場所を絞り込んだ後は、足。ほら、元陸上部だから。歩くのは苦手じゃないんだ、手術した膝でも」
綾は何も言えない有季を眺めた後、ふと、その手のペットボトルを見る。
そして傘も持たずに全身がずぶ濡れなのを見て、納得したように苦笑する。
「傘、盗まれた?」
「……うん」
綾は、頷いた有季に黒い傘を差し出して中に入るよう促す。
「入りな、家まで送っていくから。そのままじゃ風邪ひくよ」
本当は申し訳ないと拒むべきだったのかもしれないし、彼女に合わせる顔も無かった。だが、どうしてか首を横に振ることはできなくて、有季は何も言わずにベンチを立って綾の隣へ。
中に入ったのを確かめた綾は、静かに、緩やかな足取りで駅の方へと歩き出す。
「ありがとね、助かった」
有季は先ず礼を言うべきだと思い直し、自分の表情も分からなくなりながら言う。
「おう。でもまあ、見つかったのは運が良かったよ」
そう朗らかに綾が笑うから、有季も微かに頬を綻ばせて首肯し同意した。
そのまま少し歩いて公園を出るも、綾は有季に何も聞かない。少し前なら、或いは単に自分に興味が無いのかもしれないと不安になる気持ちを持ったかもしれない。しかし、今まで過ごした時間や咲良の問題との接し方で彼女を理解した今、この沈黙は有季を守るためのものだと理解できて、途端、今まで張り詰めていた何かが溶けるように緩んでしまうのを知覚する。
体表は冷たいのに、目の奥が熱くなった。誤魔化すように俯いて目を細める。
臓腑が震えた。寒さかもしれないと自分に言い訳をしたが、喉から詰まった空気が押し出され、それはやがて嗚咽のように震えだす。必死に堪えようとして唇を噛み締めるも、熱を帯びた目が濡れていき、やがて雨とは明確に区別できる雫が双眸から落ちた。ぽろぽろと、粒の涙をこぼした有季はどうにか取り繕おうと濡れた手で目を拭うも、涙は止まる気配が無い。
それに気付いた綾は少し驚き、そして悩むように視線を揺らす。
しかし、間もなく据わった目で有季を見詰めると、その背中に手を伸ばして撫でた。それを知覚した有季は、堪えきれぬ様子で綾に縋り付くように抱き着き、肩を震わせて嗚咽を繰り返す。その身体を、綾は立ち止まって抱き締めながら言葉を探し続けた。
「ありがとう……来てくれて。本当に。ほんとは、会いたかった」
嗚咽混じりにくぐもった声がそう謝意を告げたから、綾は「私もだよ」と笑って続けた。
「……ここからなら、私の家の方が近い。一旦ウチにおいで。話なら幾らでも聞く」




