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18話

 気付けば時刻は零時を迎えていた。ハッと顔を上げた有季は瞬きを繰り返しながら勉強机の小型時計で時刻を確かめた後、酷い頭痛と共に視線を手元に落とす。


 ペンは握ったまま、ノートには覚えのない文字列。参考書と見比べるとそれは意味のある文章で、半ば気絶しながら勉強をしていたことに気付いた。


 次いで部屋着の半袖から覗く左腕に酷い蕁麻疹が見え、有季は意識した途端に更に酷い頭痛を感じた。ペンを置いてガリガリと腕を掻いた後、半分ほどしか開かない目を時計に向け、今日はこの程度にしておこうかと机を立つ。


 ――良い家に生まれて、恵まれてる。本当に羨ましい。


 ――気を抜くとあっという間に落ちていく。


 しかしそんな言葉を思い出して、取り憑かれたように椅子に座り直し、再びペンを握った。


 それから二時間休憩もなく頭に知識を詰め込んだ有季は、限界を迎えて抜け殻のように椅子を立って、そのまま吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んだ。


 電気を消すような余力もなく、身体を引きずるようにして枕に顔を置く。


 毛布の中に身体を入れることもできなかった。


 肉体は疲れ果て、精神は摩耗していた。頭痛や吐き気と腕の痒みが悪化している。


 今すぐに気絶するように眠ってしまいたいのに、どうしようもないくらいに身体が火照った。溜め込んだストレスを発散する手段に自慰を繰り返したせいか、条件反射のように身体の芯が疼く。有季は枕に顔を埋めたまま寝間着のズボンをショーツごと下ろし、そっと手を伸ばす。


「はぁ……はぁ………………っ……ぁ…………」


 口許を枕に埋めたまま、亡霊のように虚ろな目をヘッドボードに注いで自分を慰める。


 快感が少しずつ、侵食するようにストレスを犯していき、頭痛が快楽に置き換わっていく。しかし、快感が上っていくにつれて脳にノイズが走り、余計なことを思い出す。橋本の嫉妬。叔父の激励。クラスメイトの期待と疎外感。咲良の宣言。綾への憧れ。忘れる為に空いた手で枕を抱き締め、更に激しく手を動かす。「水城さん」呟くと、どこか寒さを覚えるくらい顔に熱が上り、ストレスが吹き飛んだ。「水城さん…………水城さ……」と、余計なことを忘れる為に大切な友人を使いながら耽ること数分、そろそろ満足できそうだと思った、その時だ。




「――よ! まだ勉強してん、の……?」




 血の気が引いた。快感が苦痛に変わって、有季は青褪めた顔で部屋の入り口を振り返る。


 するとそこには、同様に青褪めて口を押さえる姉の姿があった。


 大学進学で早々に実家を出た兄と違い、進学後もしばらく一緒に暮らしている姉だ。仲は良い方だろうと自認しているし、勉強漬けの有季を心配してくれることも度々。だが、夜に、ノックも無しに入ってくるのは初めての出来事で、頭が真っ白になる。


 有季は顔が熱いのか冷たいのかも分からなくなりながら、辛うじて徐にズボンを引き上げて、股に不快感を覚えながらティッシュを取って指を拭く。


 すると、姉は我に返って「マジでごめん、本当に」と震える声で部屋を出ていこうとするから、「大丈夫」と有季は答える。その声は自分でも驚くほど能天気に明るかった。


 気付けば、仮面のような笑みが顔に貼り付いていた。脳が熱いのに体表は冷たくて、まるで死後硬直のように顔が固まっている。


 申し訳なさそうに止まった姉に、有季は重ねて言った。


「大丈夫。私の方こそ、ごめん。変なもの見せて」


 笑顔は貼り付いたままだった。




 ――それから数日で中間考査を迎え、全四日間のテストを終えて学生達に平穏が戻る。


 翌週には全ての教科で答案が返却され、有季はその大半で満点を取るという相変わらずの成績を残した。だが――大半だ。現代文だけ、些細なミスをして二点落としてしまった。


 答案が返却されてクラスメイトが騒々しく何かを言い合い、友人達が答案を覗いては口々に賛辞や慰めの言葉を掛けてくるが、それらを中身の無い返事で聞き流した有季は、目の奥がズキズキと痛むのを感じ、すぐにでも気絶してしまいそうな頭痛と倦怠感に襲われた。


 それからのことはあまり、記憶にない。


 クラスメイトは何かを言っていたような気がするが、有季はそれが失望の言葉ではないかと恐れ、逃げるように帰宅した。中間考査が終わった打ち上げのような話をしていた気がするが、あまり深くは考えないことにした。


 家に帰り、夕食の際に両親に報告すると、二人は開口一番に褒めてくれた。


 そして、些細なミスは誰にでもあるから、今後は見直しを強化するといいかもしれない――その程度の助言で話は終わりだ。


 私室に戻った有季は、現代文の答案を一枚勉強机に置いて、しばらく真上から見下ろす。


 九十八の数字を眼精疲労に霞む目でジッと眺め続け、頻りに左腕の内側を掻き続ける。掻く度に少しずつ頭痛が引いていく。不整脈のように時々心音が頭の中に響いて、何の脈絡もなく体温が乱高下して、じわりと部屋着の内側に汗を滲ませたり、喉が渇いたりを繰り返す。


 ふと、リビングの方から笑い声が聞こえて、有季は部屋の外にあるだろう階段の下の方を一瞥する。そして答案に視線を戻すと、頻りに左腕を掻いた後、勉強道具を取り出して着座した。




 時刻は早朝の四時。珍しく早く起床した姉はカーテンを開けて薄明未満の空に見惚れると、欠伸をしながら廊下に出て階下に降り、手洗いに向かう。


 済ませて部屋に戻ろうとして、ふと有季の部屋から明かりが漏れ出していることに気付いた。脳裏を過るのは先日の事件。ノックをせずに踏み込んだ結果、妹の痴態を見てしまったという最低な行為への罪悪感に胸を締め付けられながらも、しかし同じく医大を受験した立場として少々心配になる気持ちはあるので、念のため、姉として心配することにした。


 勿論、今度はノックをして。


 姉はコンコン、と階下で寝る両親を起こさないように戸を叩く。


「はい」


 と、無機質ながらも明瞭な声が返ってきたから、姉は何度か瞬きをして、持ったままトイレに向かったスマートフォンの時刻を一瞥した後、「入るね」と確かめてから中に入る。


 すると、酷い目に酷い隈を付けた有季が机でノートと向き合っていた。


 信じられない光景に絶句した姉がしばらくその場に立ち尽くして呆けていると、有季は早く勉強に戻りたいとでも言うように視線を参考書へと戻した。思わず言葉を失ったまま、乾く口をどうにか唾液で湿らせ、「まだやってたの? もう朝の四時だよ」と中に入る。


「うん」


 それだけ呟いて、有季はペン先をノートに置いてブツブツと呟き始める。姉は目の前の光景が信じられなくて頭を痛めると、机に置かれた有季の左腕の酷い蕁麻疹を見て目を見開き、そして、それについて何かを言おうとして、机の上に置かれた九十八点の答案用紙に気付く。


 それらを全て見た姉は寝起きで錆び付いていた脳細胞を総動員させ、何がどうなっているかを概ね把握して、落胆の吐息をこぼした。自分への落胆だ。呆れて言葉が出なかった。


 けれども、どうにかしなければならないと分かっているから、姉は息を吸う。


「――良いじゃん、勉強頑張ってんね。気合は充分だ!」


 そんな風に明るい声を出すと、有季は幾らか穏やかな顔でこちらを見る。


「うん、頑張る」

「いいね、大事なことだよ。でも、流石に根を詰めすぎかもね。効率的な勉強をしたいならちゃんと寝た方がいいよ。ほら、そろそろ勉強は終わりにして、ちゃんと寝よ? ね?」


 そんな風にベッドの方を促すと、途端に有季は不満そうに顔を歪めて時計を見た。


「でもそろそろ学校だし、寝たら起きられないかも。だから、このままやるよ」


 そう言ってペンをノートに立てようとするから、姉は有無を言わせぬようにその手に手を被せて止め、こちらを見る有季に穏やかで真剣な目を向けた。


「学校には欠席の連絡しておくから。今日はもう学校を休んで寝な」

「でも……」

「大丈夫。有季、大丈夫だから」


 姉はそう言うと、どうしようもない自分に嫌気が差しながらそっと有季を抱き締める。


 有季は眠そうな目を何度か瞬きさせると、一瞬、泣きそうに顔を歪めた。しかし辛うじて留まると、「うん、分かった」と素直に頷いてノートを閉じ、徐に立ち上がってベッドへ向かう。


 姉は安堵に胸を撫で下ろした後、先回りして毛布を剥ぎ、そこに有季が寝たのを確かめてから肩まで毛布をかける。幼い頃のように純粋な目でこちらを見詰める有季に「おやすみ」と微笑んだ後、部屋の照明を落とし、カーテンを閉め直して、最後に照明のリモコンと筆記用具を奪っていく。これで勉強を再開することは無いだろう。


 それから足音を殺して部屋を出て扉を閉めると、腰に手を置いて嘆息した。


 蕁麻疹。――強迫性障害にも近いような過剰な勉強への執着。


 過剰なストレスが蓄積した結果だろう。思い当たる節としてこの前の痴態の目撃があるが、思い返すと、あの時にも既に様子がおかしかったようにも思われる。そして、それを裏付けるように、現代文のあの点数。詰め込み過ぎた勉強のストレスか、それとも何か別の悩みがあるのか。姉として解決してやりたい気持ちは強かったが、干渉していい領域が分からなかった。


 頭を抱えて嘆息し、姉は一先ず原因療法の道を保留し、対症療法を優先することにした。


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