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17話

 段々と中間考査も近付いてきて授業の密度も濃くなってきたある朝の話だ。


 有季は普段通り、早朝の通学路を眠気に目を細めながら歩いていた。


 朝の空気に鈍い頭痛を覚える。ここ最近、勉強の密度が過熱し、反面、息抜きの頻度が減ってきた。大体は自慰行為でストレス解消を済ませるが、やはり誰かに吐き出すことでしか楽になれない部分もあって、心が綾を求めている。


 そろそろまた、会いに行ってもいいだろうか――と、昨晩遅くまで頭に叩き込んでいた英単語を、水漏れにシールを貼る如くブツブツと呟きながら登校していると。


「あれ、茅野先輩? おはようございます」


 知った声が聞こえ、有季はハッと丸くした目を声の方へと向ける。


 十字路を曲がってきたのは紺色のスクールコートに身を包んだ常磐咲良だった。彼女は珍しい人と会ったとばかりに驚いた顔でこちらに手を振り駆け寄ってくる。有季は少々驚きつつも「常磐さん」と頬を綻ばせ、少し気が楽になるのを感じながら、彼女が歩く隣を空ける。


「おはよう。早いね?」

「いつも朝はデザイン画を描いてるんですけど、描きかけのスケッチブックを被服室に置いてきちゃって。仕方が無いので今日は早めにーって感じです。先輩は?」

「私は大体いつもこの時間に登校。どこでも勉強の密度は変わらないし、気分転換も兼ねて」


 力なく笑って言うと、咲良は自身の目元に指を置いて心配そうな声を上げた。


「隈、ちょっと見えますね。ちゃんと寝てます?」

「昨日はどうしても集中できなくて、ちょっと睡眠不足かも。でも大丈夫。日常生活に支障が出るようなミスはしないから。心配してくれてありがとう」


 その謝意の言葉は驚くほど滑らかに出てきた。


 綾は出会いが出会いだけに咲良を少々悪く言う節があるが、実際の咲良は人を心配し、人に優しくできる良い子だと有季は知っている。綾は例外かもしれないが。


 咲良は少々照れくさそうにしつつ「いえ」と破顔した。やはり、良い子だ。


「そういえば、この前は相談に乗ってくれてありがとうございます。報告が遅れちゃったんですけど、一応、被服部には戻ることにしました。まだ、親には言えてないんですけど」

「あ、うん。水城さんから軽く話は聞いてるよ。頑張れ!」


 有季がポンと背中を叩くと、咲良は「どもです」とむず痒そうに後ろ髪を掻いた。それからふと、彼女は何かに気付いたように笑みを潜ませ、悩ましそうに唇を尖らせた。


「――そういえば、前回聞きそびれたんですけど、やっぱりお二人って度々会ったりしてるんですか? その、特別なアレな感じで……」


 もしもそうだったら、もう少し自分も気が楽だっただろう。有季は苦笑をこぼす。


「いや? 別に、そういう関係じゃないよ。ただ、私が相談に乗ってもらってるだけで」


 それを聞いた咲良は暫し真剣な表情で有季を見詰めて「じゃあ、いいか」と口を押さえながら呟いた後、足を止めた。有季が目を丸くして首を傾げながら同様に足を止めると、咲良は「あの」とやや緊張を含んだ面持ちで、しかし覚悟を持ってこう言った。




「私、水城先輩のこと狙ってますので。それだけ、お伝えしておきます」




 狙っている。とは、つまり、そういうことなのだろう。


 有季は剥いた目で咲良を凝視し、注がれる視線を受け止めた咲良は緊張に固唾を飲んだ。その音で我に返った有季は、目を泳がせながら口を隠して黙り込む。


 何か言わなければいけないと理解しつつも、先に思考が巡って言葉が出ない。


 ――羨ましかった。自分の感情を真っ直ぐ言語化して、その為に行動できる度胸が。もしも自分にもそれが備わっていれば、今頃、家族に自分の想いをハッキリと伝えられただろうし、綾へ抱いている憧れのような感情を言語化できただろう。


 だが、有季は変わるのが怖かった。失望が怖かった。失敗が怖かった。その癖、思い通りにならない人生が嫌だった。


 あまりにも愚かで我儘な臆病者だ。手で隠した口に自嘲気味な笑みを浮かべた有季は、ぐっと眉を顰める。酷い頭痛がした。脳の中に虫を飼うような鈍痛だ。目を瞑って一切の思考から視線を逸らした有季は、取り繕うように笑みを浮かべて手を口から離し、微笑を晒す。


「――応援する。大丈夫、私は味方だよ」


 そう言うと咲良はほっとした表情で胸を撫で下ろし、可愛らしい笑みを割かせた。


「ありがとうございます!」

「むしろ、こんな私に言ってくれてありがとね」


 わざわざ筋を通してくれたことへの本心からの感謝を返すと、咲良は歩き出して言う。


「私の中で茅野先輩は一応、恩人ですから。それにお二人の仲も知ってますし、筋は通しておこうと思って」


 茅野はそう言う咲良の背中を一歩遅れて追いながら「……筋かぁ」と呟いた。


 不思議そうに首を捻ってこちらを見てくる咲良に曖昧な笑みを返し、物思いに耽る。


 わざわざ有季にこういった宣言をしに来るということはつまり、『こちらは筋を通すから、お前も筋を通してくれ』という要求なのだろうと思われる。


 小学校時代から度々、そういった話は小耳に挟んだことがあるが、要は『私が好きな相手だから弁えてね』という釘刺しのようなものだ。


 その観念自体は好きではないものの、理解できる。


 だが、有季は綾に抱いた憧れと同じくらい、咲良に対しても羨望と親愛を抱いている。短い付き合いだが、感情を素直に表現してくれる彼女に救われる部分もあった。だから、そんな彼女が弁えることを望むのだとすれば、自身もそれに付き合うべきかもしれない。


 綾は友愛も恋愛と同じくらい尊重されるべきだと語っていたが、それはあくまでも綾の理屈だ。綾に恋をした女の子の理屈ではない。綾が何を望もうとも、綾に憧れた咲良までそれを望むとは限らず――そう自分の中で理屈を立てると、有季は乾いた笑みをこぼした。




 昨夜も真夜中まで勉強に耽ったせいで、今日は珍しく寝坊をしてしまった。


 瞼が嫌に重く、目の奥には熱を帯びた痛みがある。脳は錆び付いたように鈍くぎこちない。朝の空気を吸う度に重たくなっていく身体をどうにか動かし、有季は朝から直らない寝癖を手で押さえつけながら靴を履き替える。そんな時、背後から声が掛かった。


「あれ、珍しい」


 振り返るとそこには重役出勤常連の綾が居た。


 有季は「あ」と恥ずかしそうに直らない寝癖を隠そうとする。しかし、そんな不自然に気付いた綾は「寝坊した?」と意地悪な笑みをこぼし、綾は照れ笑いを浮かべて「お恥ずかしながら」と白状した。手を下ろすと、ぴょこんと寝癖が逆立って、綾は口を押さえて「可愛らしい枝毛が」と茶化してくれた。


 会話する度、眠気や頭痛が少しずつ楽になっていくのを感じる。自然と頬が綻んでいた。


 やはり、彼女と話す時間は好きだ。こちらの心の弱い場所を守って、辛い部分を包みながら乾いた部分に水を注ぐそんな言葉の数々がとても胸に沁みる。


 このまま――彼女の腕を引っ張って、校門を出て、映画館へ連れ込んだから彼女はどんな反応をするだろうか。抵抗するだろうか。そうできれば、この頭の奥の痛みは消えるか。左腕の内側を軽く掻きながら考え込んだ有季は、ふと我に返って、どうやら本当に睡眠が足りていないのだと気付き、自嘲気味に嗤って左腕に強く爪を立て、眠気覚ましに強めに引っ掻いた。


「あ、二人揃ってる!」


 そんな声にハッと我に返る。職員室側から被服部顧問の佐伯と共に咲良が歩いてきていた。彼女は綺麗に櫛を通された美しい栗色の髪を揺らし、こちらに手を振ってくる。「おう」と綾が手を振り返し、「おはよう」と有季もそれに続いた後、先日の会話を思い出す。


 ――私、水城先輩のこと狙ってますので。


 気付いた有季は早めにこの場を離脱しようとしたが、佐伯に別れを告げた咲良は小走りにこちらへ駆け寄って来たかと思うと、ふと有季の髪に目を留める。有季は微かに頬を火照らせた。その反応で自分の見間違いじゃないことを確信した咲良は、にやりと笑って手を伸ばす。


「寝癖~!」

「あー、言われると思った。嫌な予感したもん」


 恥ずかしくなって照れ笑いを浮かべつつ、有季は彼女の手を防ぐ。攻防を繰り広げていると、気付けば少し頭痛が楽になっていた。――咲良も、綾と同様に優しい少女だ。


 咲良がこちらをどう思っているかは別として、有季は彼女を大切な後輩だと認識している。


 だから、彼女の恋路は邪魔したくない。有季は心を冷まして意識を切り替える。


「茅野先輩でも寝癖は立つんですね」


 可笑しそうにつんつんと枝毛を突いて言う咲良に、有季は苦笑を帰して言い返す。


「私だって人間だからね、毛髪があれば寝癖も立つの」


 そう言って取って付けたようにスマートフォンの時刻を確かめた有季は、白々しく「あ」と声を出す。


「――っと、ごめん。実は朝の内に顔を出さないといけない場所があるんだ。悪いんだけど、私、先に行ってるね。じゃ!」


 矢継ぎ早にそう言うと、二人は「はーい」「了解」と見送ってくれる。そんな咲良と綾を置いて階段を駆け上がった有季は、二階に上がって二人の談笑を階下に聞き、歩調を緩めた。


 頭痛。倦怠感。眠気。医薬品の広告に使われそうな不調を一身に感じながらあっという間に呼吸を乱し、左腕の内側を掻く。普段は小まめに切っている爪も、気付けば少し伸びていた。真っ赤になってしまった左腕に目を落とした有季は目を細め、深い溜息を吐き出した。




「茅野。進路調査票、まだ出してないだろ?」


 昼休みに呼び出されて職員室に顔を出すと、開口一番、椅子に座ってチェックシートを眺めた担任が髭の無い顎を擦りながらそう言った。傍で棒立ちだった有季は「あ」と声を出して己の失念を思い出す。そんな反応に、担任は「おいおい」と苦笑をする。


「まあ……他の生徒と比べても今から勉強が忙しい身だっていうのは分かるからな。そう煩くは言わないよ。それに、一言に医大だ医学部だ、って言ったって場所によって全然違うんだろ? 家の人とちゃんと話し合って、よく考えて決めるようにな」


 ――もし、ここで、本当は医大に行きたくないなどと本心を打ち明けたらどうなるのだろうか。担任は認め、背中を押してくれるだろうか。それとも説得をするだろうか。無難なところで両親への相談を勧めてくるかもしれない。有季は暫し黙った後、汗ばんだ手で拳を握って何かを言おうと試みる。だが、


「ちゃんと良い場所を選ぶんだぞ。折角ご両親譲りの良い頭があるんだから」


 そう続いた担任の言葉に口を噤むしかなかった。笑って瞳を伏せ、有季は殊勝に頷いた。


「はい」

「用紙は持ってるか?」

「家にあるはずです。すみません、近日中に必ず提出します」

「ま、近況は分かってるし、別に急がなくてもいいよ。今日のこれも確認程度だから。それより――近々中間考査がある。頑張れよ? 先生たちは皆、お前に期待しているんだからな」


 激励するように担任は拳を握り、有季は愛想笑いを浮かべて「頑張ります」と頷いた。


 話が終わりなら、五時間目の準備をするために戻ろう。そう思って有季は頭を垂れて教室に戻ろうとするも「そうだ」と思い出したような担任の一声で足を止める。


「――ウチは決して進学校って訳じゃないが、極々例外的に名門医大の指定校推薦枠が一つある。まだ確定的なことは言えないが、今のお前の成績なら十分候補に入るだろう。立場上、だから何だとは具体的には言えないが、まあ、前回に引き続いて、今回も頑張れよ!」


 そんな担任の激励に続いて、近くで話を聞きながら弁当を食べていた教員も「期待しちゃうなぁ」だとか「頑張れ~」など口々に声が掛かる。有季はどうにか笑みを浮かべて彼らに会釈を返すと、重い足取りで職員室の出口へと向かう。


 すると、ちょうど別件で他の教師に呼ばれていたらしきクラスメイトも時を同じくして開放され、自然と並んで廊下に出ることになる。


 名前は橋本。天然パーマのロングボブが印象的な女子生徒だ。成績は学年順位の上から二つ目で、ずっと茅野の下に位置し続けている。成績を気にする生徒はよく二人のライバル関係を言及するが、面と向かって話をしたことはない。


 面識があるとも言えないような関係なので、有季は会釈をして彼女から離れようとした。


「聞いちゃった。いいな、指定校推薦。羨ましい」


 ふと橋本がそう呟くから、有季は足を止めて彼女を振り返った。


 目には羨望と嫉妬と不快感。彼我の力量差を理解した故の憧憬の中には、どうしようもない悪感情がはっきりと滲んでいた。有季は何か相槌をしようとするも、返す言葉が思い浮かばずに黙る。そんな有季の反応が不快だったか、彼女は頬を歪めて顔を背け、吐き捨てる。


「私なんて恋人も作らず、バイトしながら勉強漬けで頑張ってるのに――ずっと学年二位で親に文句を言われる始末。いいね、好きなことをやりながら勉強に集中できる環境で」


 単なる嫌味と片付けるには少しばかり悲痛な橋本の嘆きを、有季は黙って聴く。


「お医者さんの家系だっけ? 良い家に生まれて、恵まれてる。本当に羨ましい」


 尚も返答をしない有季を泣きそうな笑顔で見詰めた橋本は、自分と有季へ呆れたように吹き出して笑い、口を押さえながらこう呟いた。


「はは、ごめん、愚痴って。まあ、中間近いしさ。お互い頑張ろうよ」


 そう好き勝手に言い捨てて去って行く橋本の背中を、有季は腕を掻きながら見送った。




「いいなぁ、私も彼氏ほしー」


 全ての授業を終えて有季が帰宅の支度を済ませると、席の傍で談笑に耽っていた友人の中の一人がそうこぼした。眼鏡をかけた中背中肉の飯田という女子生徒だ。隣のクラスに医大に通う美形の男性と交際している女子が居るらしく、その話題の延長線上での一言だった。


「男ならその辺に居るだろ」

「あちゃー、篠崎は何も分かってないね。分かってない。女子の言う『彼氏が欲しい』は『イケメンで包容力があって高身長高学歴高収入の男子に溺愛されたい』の意だから」

「飯田も何も分かってないな。男子の言う『その辺に居るだろ』は『現実を見ろ』の意だ」


 篠崎と岡部のそんな煽り合いを聞いた岡部が野球部の練習に向かおうとしていた足を止めて「まあまあ」と苦笑しながら宥める。しかし飯田の口は止まらない。


「馬鹿だなぁ、夢なんて見るだけ得なのに。遠藤とか茅野だってそういうの、欲しいでしょ?」


 飯田が同意を求めるように二人を見ると、その場に居た友人達も視線を向けてくる。


 話を静聴していた遠藤は困ったように視線を泳がせた。


 有季は取り分けてリアクションも無く黙る。少し考えるも、脳裏からは綾の姿が消えない。彼女のように優しい人に憧れる気持ちは確かにあるし、そういう関係になりたいという欲求は――少なからず存在した。だが、彼女に好意を寄せる大事な後輩の顔を思い出すと、瞬く間にそんな欲求も消え失せ、適当な返事でこの場を誤魔化そうとする。だが、


「いや、茅野は勉強で忙しいし、そんな暇ないでしょ! だ、だよね?」


 遠藤がフォローを入れるようにどうにか笑顔を浮かべてそう口を挟む。どうやら少し前に綾から説教された事件が効いているらしく、精一杯有季の味方をしようとしてくれているようだ。有季が唇を引き結んで遠藤を見ると、彼女は不安そうに目を泳がせて有季を見た。


 他のクラスメイトも返答を求めるように有季を見る。


 彼女達は何を求めているのだろうか――医大を目指しているのだから、そんな低俗な関係を求めていない高潔な人間像を装えばいいだろうか。それとも、同調を示すのが正解か。


 しかし橋本は先刻、有季の噂を信じ込んでその寄り道を非難した。恋愛などするべきではないということだろうか。実情は自分だって恋愛をしたいし、興味が無い訳じゃない。それでも綾や咲良のことを考えると、思考が消し飛ぶ。有季は何だかもう考えるのに疲れ果ててしまい、余計な思考を拭い去るように笑った。


「うん。そうだね。そんな暇は無いかな」




 ――医者が嫌な訳ではない。ただ、医者になるという目標を自分で立てた訳ではないのに、知らず知らずのうちに他の選択肢が自分の人生から排除されているのが嫌だった。


 先祖代々医者になってきて、自分もきっとそういう風に道を歩いていくのだろうと幼い頃は思っていた。しかし、勉強を重ねていくにつれて自分の進路に対する疑念が滲出し、それは幾星霜を経て不満と懐疑と自己嫌悪の結晶へと昇華した。


 もしも医者になるのが嫌なら、それを家族に直接言えばいい。


 何度そう考えたかは分からない。だが、覚悟を決める度に目前で臆して口を噤んでしまう。両親が親戚から向けられる視線。兄と姉が辿ってきた道。両親が自身に注いでくれた養育費。それらは全て茅野有季という人間が歩む道のりへの期待と変貌し、泥となって靴に纏わりつく。


 こんな思いをし続けるくらいなら、甘えたことを言っていないで覚悟を決め、家族に思いの丈を打ち明けるべきなのではないか。自分で進路を決めたい。医学だけではない他の道も模索したい。その為の時間が欲しい。自分で決めた道の為に自分の時間を使いたい。


 ――今日こそ、ちゃんと伝えよう。


 そう固く決めた直後、腐った心が立てた芯を根元から折る。


 ――だが、医者の道から逃げて、他に自分に何が残されている?


 結局自分は、ただ自分で道を選べなかったことに対する不満を抱いているだけであり、それは果たして、多くの人が真っ当だと語る道を自分の足で踏み外すに足る理由なのだろうか。


 もしも咲良の母親のように、自身の家族がその観点から理屈で説いてきた時、自分には反論の材料があるだろうか。考えると、自身の中で一気に気勢が萎んでいくのを感じた。


 高校からの帰路を辿り終えた末、駅から徒歩数分の住宅街にある自宅に辿り着いた有季は、悶々とした葛藤と共に門扉を押し開けた。


 するとガレージには一家のものとは別の、少し見覚えのある車が置いてあった。


 有季が家の扉を開けると、案の定、玄関には見慣れぬ靴が二足置いてある。


「ただいま」


 リビングに顔を覗かせると、そこには六人掛けのテーブルに向き合って座る叔父夫婦と母の姿があった。三者は「おかえりなさい」と異口同音に有季を迎え入れた。


「あら有季ちゃん! お邪魔してます」

「大きくなったねぇ、もう高校生かぁ」


 義叔母と叔父が、久方ぶりの再会に久闊を叙する。


 叔父は有季の父の弟であり、年齢は今年で四十半ば。奥方もその程度の年齢だ。血縁である父親兄弟よりも母と義叔母の方が親しいようで、家族の知らない場所で度々お茶を飲むらしい。


 有季は叔父夫婦に「ご無沙汰しています。叔父さん、叔母さん」と緊張の面持ちで応じた。


 さて、どうしたものか。客を招いたのは母だが、しかしすぐに私室に向かうのも雰囲気が悪いだろう。一瞬視線を泳がす有季だったが、母は間髪を挟まずに微笑んで隣の椅子を示した。


「少し話していく? それともお部屋で休む? 疲れたでしょ」


 有季は色々な言葉を呑み込むと、脳を支配する眠気を懸命に堪えて笑った。


「ううん、大丈夫――久しぶりに会えたんだもん」


 そう言って着座すると、昔は見上げるようだった二人の背丈も驚くほど近付いていた。


「あらぁ……本当に大きくなったわね」

「そう、ですかね? 自分だとあんまり実感が湧かないです」


 叔母は感動したように口を押さえ、叔父は昔を懐かしむように感慨深そうな顔でマジマジと有季を見詰めた。有季は少々の居心地の悪さを感じつつ、どうにか愛想の良い顔を浮かべた。普段なら、もっと二人に気の利いた話でもできるのだろうが、寝不足で頭が回らない。


 前はどんな話をしていただろうか。こういう時、どんな話をすればいいだろうか。


「そういえば聞いたよ。有季ちゃんもお医者さんになるんだってね。勉強は順調?」


 少々配慮に欠いた叔父は「こら! プレッシャー!」と叔母から怒られていた。


 有季は返答に窮し、そして逡巡した。――今。今、この流れで。医者になりたい訳ではないと告白すれば、何かが変わるだろうか。いや、何かは絶対に変わるはずだ。


 脳は理性的にそんな結論を下しているのに、しかし、口は重たく閉ざされて開かない。


 怖かった。もしもここにある三対の目が一気に失望に染まったら。叔父夫婦も医療に携わる人間だ。母は父との結婚で最前線を退いたが、同様に今でも医療現場に出る人間である。彼らが有季の将来に期待をして投資をしたというのに、それを無下にしていいのか。


 背中に薄っすらと汗をかく。喉が緊張に震えて固唾を飲んだ。


 すると、そんな有季の様子に気付いた母が能天気な声を出して肩を組んできた。


「もう有季ったら凄いの! 一学期末のテストなんて全教科満点だって! 自慢の娘!」

「あら! あらあらあら! そんなに⁉」


 母が努めて明るい声色を出した理由を察したように叔母が共鳴し、叔父は少々申し訳なさそうな表情でその流れに乗った。「それは凄いな!」と白々しい声を上げて叔母に肘で小突かれていたが、叱責されるべきは何の返答もできなかった自分だと、有季は眉尻を下げた。


「いえ、その。すみません……寝不足で、ちょっと頭がぼーっと……」


 我ながら情けない言い訳に赤面していると、「頑張ってるもんね!」と母が頭を撫でてくれて、不覚にも少し泣きそうになる。叔母が微笑ましそうに「大変よね」と心配そうな声を上げ、そして叔父はうんうんと頻りに頷いた。


「ちゃんとした大学に行こうとするなら、勉強は早い内からやっておきたいよね。今は、周りが羨ましく見えるかもしれないけど、でも、今が踏ん張り時だ! 気を抜くとあっという間に落ちていくけど、ここでの努力で生まれた差は十年、二十年と時間を積み重ねるにつれてどんどん広がっていく。頑張れ! 有季ちゃんならきっと良いお医者さんになれる!」


 叔父が拳を握りながらそう力説するから、有季は辛うじて頷いて笑った。


「はい。頑張ります」

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