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16話

 少し冷えたある日の朝。綾が昇降口で靴を履き替えていると、職員室の方から廊下を歩いてくる二人組が見えた。


 被服部顧問の佐伯と咲良だった。咲良が歩きながら佐伯にスケッチブックを見せ、佐伯が授業中には見たこともないような真剣な表情でアドバイスをすると、咲良はスケッチブックにメモを走り書きしている。


 声を掛けようと思った口に笑みを浮かべた綾は、話し合いを邪魔しないよう静かにその後ろを歩いていこうとする。だが、足音に気付いた咲良が先に振り返り、釣られるように佐伯も振り返った。ばっちりと視線が交わったから、綾は観念して挨拶した。


「おはようございます」

「あらおはよう。今日は普段通りの重役出勤ね」


 すると、何やら咲良が佐伯と幾つか言葉を交わす。そして話が終わると、佐伯がこちらに微笑みながら小さく手を振って、一人で階段を上って行ってしまった。


 咲良はスケッチブックを閉じてわざわざ綾の方へと戻ってくる。


「おはようございます」と律義に挨拶してきた。


「おはよ。いいの? 佐伯先生との話は」

「忙しい先生の朝の時間を貰い過ぎるのも悪いので。暇そうな先輩にしときます」

「おう言ってくれるね。暇だけどさ」


 綾が素直に認めると、咲良はスケッチブックを抱きかかえ、何食わぬ顔で綾の真横にぴったりと張り付く。階段が上りづらいことこの上ない。「また何か企んでるの?」と綾が率直に訊くと、咲良は心底から分からないと言いたげに「何の話ですか?」と首を傾げる。


 無意識か、嘘を吐いているだけかは分からないが、どちらにしてもこの距離は危うい。


「忘れてるかもしれないけど、私は――女の子が好きだからね?」


 それを知っているからこそ彼女はハニートラップを仕掛けて来た訳だが、或いはと思って綾はそう釘を刺す。しかし、存外にも彼女はあっけらかんと「知ってますけど」と言ったきり、綾の真横を離れる気配が無い。それどころか距離が縮まって二の腕が擦れたりする。


 綾はまるで意味が分からずに悶々とした感情を抱きつつ、取り敢えず「上りづらい」と素直に言うことにした。


「それも知ってます」


 こちらを上目に見て小悪魔のように笑うから、綾は目を泳がせてそれっきり黙った。




 昼食を控えた四限目、喧騒の中に誰かの腹の音が聞こえた気がした。


 中間考査を目前に控えたこのタイミングで、数学の授業では小テストの返却が行われている。主に生徒の理解度を把握する目的で実施されるものだが、中には定期考査で出すような、少々捻った文章問題の類も幾つかトレーニングの一環で備えられている。


 難易度は極めて高いことで名高く、成績には関与しないと明言されているものの、力試しとしてその採点結果を気にする者は多い。そんな中、返却中にこんな声が上がった。


「うわ、満点!」


 何人かの生徒はそんな大きな声の方へと視線を寄越した。


 声の主は遠藤だった。彼女は自身の回答をぐしゃぐしゃに持ちながら、後ろの席の有季の答案を覗き込んで絶句している。話を聞いた教室中がどよめき始め、それを聞いた数学教師もどこか誇らしそうに笑ってこう補足した。


「この問題は去年の使い回しだけど、満点を取れたのは茅野だけだったな」


 すると教師の意を得たりとばかりに教室中が口々に賛辞の声を上げた。


 何名かは囃すようにぺちぺちと拍手をして、それらを一身に浴びた有季は苦笑しながら『やめて』と言いたげに両手を振る。次第に歓声が収まっていったかと思うと、返却された回答の点数が悪かった生徒の何名かが答え合わせに先んじて席に集い、文章問題の答えを聞きに来る。


「すげー……流石医者の子」

「医大に行く奴って、みんなこのレベルなの?」

「これ満点ならもう中間も満点でしょ」


 愛想笑いをする有季を差し置いて言いたい放題に言い合うクラスメイト達。そして、そんな彼らを掻き分けて教えを乞いに来る者達。頬杖を突いて彼らを遠巻きに眺めた教室後方の綾は、やがて積もり積もった期待に有季の姿が見えなくなって、そっと黒板へ目を戻した。




 ――学生にとって、電車通学の最大のメリットは定期券だ。茅野有季はそう考える。


 大抵の場合、定期券代金は親が支払うだろう。そして、想定される運用は月間平均平日の二十数日の通学の行き来だが、当然ながら定期券区間内であれば何度でも、どこでも乗り降りができる。つまり、学生が懐を痛めず、好きなだけ、好きな場所に行けるのだ。まだ車を持っておらず運転することもできず、自転車では疲れてしまうような距離を、合法的に、自由に。


 二十一時、普段より少し遅い時間帯に駅を出た有季は、星が瞬く仲秋の空に見惚れる。


 今日は少し冷えたから、普段より厚着をしていた。退屈そうな顔で、眠たくなる眼を半分ほど閉ざしながらスマートフォンを開き、登録名『水城綾』とのメッセージ履歴を開く。


 本日訪ねていいかという問いと快諾を示すスタンプメッセージの往復。可愛らしいパンダのスタンプを眺めて相好を崩した有季は、それをそっと撫でた後、ポケットに戻して道を辿る。


 数分でサガラ書店についた有季は、徐に扉を開けた。


 古本コーナーのバイトが「いらっしゃいませー」と気の抜けた声を上げて有季を視認すると、得心して笑いながら会釈をし、アダルトコーナーの暖簾を示す。すっかり顔馴染みになってしまったな、と苦笑と会釈を返した有季は、暖簾を捲った。


「いらっしゃい」


 不透明パネルで隠されたレジカウンターの向こうから知った声が聞こえ、少し退屈そうだった有季の表情が緩やかに弛緩する。微かに笑いながら「ども」と挨拶をしてパネルを覗き込もうとすると、その前に彼女は――綾は立ち上がってスイングドアから出てくる。


 やや癖のある真っ黒なロングボブに、美形に分類されるだろう顔立ち。今日はグレーの厚手のパーカーにデニムのエプロンを付け、下は黒のカーゴパンツを穿いていた。


「よ。今日も座っていくかい?」


 と、気取った言い回しでスイングドアを開け、彼女は中を示す。すっかり慣れてしまった歓迎だが、疲れ切った五臓六腑に彼女の善意が沁みて、少し胸が温かくなる。確かめるようにそこに手を置いた有季は「お邪魔します」と笑って彼女の脇をすり抜けた。


 用意されていた椅子に座ると、綾がもう片方に腰を落とし「最近はどう?」と尋ねてきた。


 頭の中に色々な話題が浮かんでくる。ここ最近、あまり二人きりで話せていなかったので、言いたいことが山ほどある。だが、全部を吐き出すと時間があまりにも足りないから、有季は唇を上下左右に動かして悩んだ。そして、ふとアイスブレイクを挟む。


「そういえば最近、あんまり二人で話せてなかったね」

「あー、確かに。どこかの誰かが引っ掻き回してくれたからね」


 綾のその言葉にはやや毒気がありつつも、表情には親愛の情が滲んでいる。「確かに」と、有季も苦笑しながら同意して咲良に想いを馳せる。


「常磐さんは、その後どう?」


 我ながら雑な尋ね方だと思ったが、綾はその意図を汲み取って答えてくれた。


「……色々と悩んだみたいだけど、もう大丈夫だと思う。心配はしてないよ」


 それはとても喜ばしいことだったが、ぴたりと床に踵を貼り付け、まだどこにも進めていないままの自分を振り返り、自己嫌悪を抱く。だが、有季はどうにか笑って「そっか」と彼女の門出を祝福した。綾は、今度はこちらを案じるように目を細めて口元を綻ばせた。


「茅野はどう? 最近、何か変化は?」


 ぎくりと思うものの、綾の前で隠し立てをしようとも思えない。


「まあ……特に何も変わりはないかな。いつも通りだよ」


 すると綾は腕を組んで心配そうに誉め言葉を捻出した。


「今日も小テストで満点だっけ? 大したもんだよ」

「アレは……まあ、偶然だよ。偶々、文章題との噛み合いが良かっただけ。多分、橋本さんとかも同じくらい解けてたんじゃないかな。彼女、いつも学年二位くらいに居るし」

「偶然で解けるならテストに意味なんて無いでしょうが」


 綾はそう言った後、悩ましそうに話題を切り替えた。


「――わざわざ来てくれたのにこんな話題じゃ退屈か。楽しい話をしよう。その前に、何か飲み物を持って来よう。お茶かコーヒー、どっちがいい?」


 席を立った綾がそう尋ねてくるから、有季は申し訳なく思いつつもお言葉に甘えた。


「いいの? じゃあ、お茶をお願いします」


 間もなく綾は湯気の立つ紙コップと茶菓子を持って暖簾を潜り、戻ってきた。来客に備えて綾の電話番号を構えつつ代わりに店番をしていた有季は、ほっと胸を撫で下ろして彼女と交代する。「お待たせ」「どきどきしたよ」「もう慣れたでしょ」と言い合いながら紙コップを手に。


 有季は「いただきます」と彼女の淹れてくれたお茶を啜り、ほっと一息を吐く。まだ寒いと言うには少しだけ早い時期だが、厚意が心に沁みた。


 心の弱い部分を吐露できて、かつ、それに寄り添ってくれる相手というのはこうも得難い存在なのか。有季は隣に居る友人の有難みと彼女への親愛の情を噛み締めながら、それでもまだ、少しだけ満たされない心があるから甘えたいと思ってしまう。


 そういう風に胸中を言語化すると、まるでそれが恋愛感情のようだったから、目を背けるように俯く。茅野有季にとって水城綾は、自身の苦悩や葛藤に寄り添ってくれる優しい友人だ。だが、彼女にとっての自分は、ただ苦しみを吐き出してくるだけの、ただの友人の一人に過ぎないだろう。だから、もしもハッキリさせたこの感情が恋愛感情だったとしても、それは結局一方通行以外にはなり得ないから、欲求の正体には目を瞑ることにした。


 だが、それでも少し、欲求が漏れ出した。


「そういえば――と、常磐さんとは、その、交際とかするの?」


 自然を装って明るい表情を繕い、少々歯切れ悪く有季は綾にそう尋ねた。


 綾の丸い目が返ってきて、それが単なる予想外であるが故の驚きだと思われたから、有季は密かに胸を撫で下ろす。案の定、綾は頬を歪めるように笑って腕を組んだ。


「常磐と? 無いよ、向こうにそんな殊勝な感情は無い」

「そっか――そうだよね。ごめん、変なこと聞いたかも」


 有季が誤魔化すように笑うと、綾が少々楽しそうにこちらの顔を覗き込んでくる。


「なに、そういうのに興味があるお年頃?」


 熱い鉄に落とした水のように、瞬く間に有季の顔が体温を押し上げていく。「いや」と誤魔化そうとした声は震えて掠れていた。


「ほら、友達の恋愛事情は把握しておかないと……ここに来づらくなっちゃうでしょ?」


 すると綾は「ああ」と得心の声を上げた。そしてあっけらかんと笑う。


「別に、私に恋人ができたとしても息抜きがしたければ来ればいいよ。確かに同性愛者だし、その辺の配慮は有難いけどさ。『友人より恋人の方が優先されるべき』って理屈は好きじゃない。どっちも等しく尊重して折り合いを付けるべきだと思うから」


 有季はそう告げる綾を静かな目で見詰めた後、自分の浅慮を恥じ入った。情けなくなって頬を紅潮させながら顔を俯かせるも、同時に、胸に熱を感じていた。


「そっか。ありがとう」


 ――何があっても、ここを羽を休める場所として使えばいい。


 言葉の外で綾はそう言っているのだ。旅に疲れてしまった時の休息地として、いつでも、と。有季は身の丈を弁え、特別でなくても、傍に居られればそれでいいと思うことにした。


「そういえば最近、息抜きはできてる?」


 ふと思い出したように綾がにやりと笑って腰を浮かす。首を傾げる有季へ続けて言った。


「また試供品とか貰ってこようか?」


 途端、有季の脳裏には自宅用の勉強道具や健康器具類に紛れて隠しているアダルトグッズが思い浮かぶ。家族が寝静まった夜、度々ベッドでお世話になるそれらを思い起こした後、上手く滑らない舌を懸命に動かして遠慮を主張した。


「いやっ、だっ、大丈夫! もう流石に間に合ってる!」

「そう。業者さんがアンケートの内容を凄く参考にしてるから、また気になってそうだったら言って、って言われてるの。調べて興味がありそうな商品があれば言いなよ」

「うぅん……喜んでいいのかちょっと複雑だ」


 人に自身の言語化能力や問題指摘の能力を称賛されるのは概ね喜ばしいことだが、公言できない分野において賛辞されると反応に困る。嬉しいし、それを闇雲に隠すのも業界に対して非常に失礼だが、それはそれとして未成年だし、あまり公にする話でもない。


 有季が腕を組みながらうんうんと唸っていると、綾は残り僅かな紙コップを揺らして惜しんだ後、一息に飲んで「……じゃあ」と話を展開する。


「映画とかは一人でも観てるの? ストレス解消はできてる?」


 心配するように繰り返して質問をしてくるから、有季は苦笑と共に答えた。


「まあ、程々に。映画は大体、スマートフォンのサブスクで済ませちゃうかな。家族プランに入ってるので、私は懐を痛めずに観られるのです。でも頻度はそんな高くないし、大体は寝る前に………………まあ、上手い具合に解消してるよ」


 今更隠したところで隠し通せる道理も無いが、単語を口に出すのは少々恥ずかしい。


 薄っすらと背中に汗ばみながら上手く誤魔化した有季は、「そっか。なら良いんだ」と掘り下げずに頷いてくれる綾へ海より深い感謝の念を抱いた。


 しかし、振り返ってみると、ストレス解消の内容が少し不健全かもしれない。決して悪い事だとは思わないが、そればかりは好ましくないようにも思える。他に何か息抜きできるものは無いだろうかと、有季はスマートフォンを取り出して、以前綾と一緒に観に行った劇場の上映スケジュールを確かめる。


 すると、CMを観て気になっていた映画がいつの間にか始まっていることに気付いた。目を丸くしてスケジュールを確かめると、今日が最終日である。少し狼狽しながら時刻を確かめると、レイトショーが一本残っている状態だった。


 ――観に行こう。できるなら、綾と一緒に。


 そう決めた有季は、唐突に緊張が全身を蝕んだ。固唾を飲んで口を押さえ、目を瞑る。


 横は向けなかった。綾は誘ったら来てくれるだろうか。自身の裁量でコーナーを閉められるとは言っていたが、そこまでして一緒に来てくれるだろうか。


 断られたら気まずい空気になってしまいそうだ。


 でも、綾と一緒に行きたくて、有季は震える唇を噛んで止め、深呼吸をする。


 意を決して、有季はそっと口を開いた。


 だが、それと時を同じくして綾のスマートフォンが振動する。有季が開いた口を即座に閉ざすと、綾が申し訳なさそうに片手を持ち上げて「悪い、電話」と席を立って有季から少し離れる。


 有季はバクバクと跳ねる心臓を手で押さえながら彼女の電話の終了を待つ。


「あ、もしもし先輩? どうしたんですか?」


 先輩というと、例の三年生の元交際相手だろうか。


 有季が盗み見と盗み聞きをしていると、何度か言葉を往復させた後、綾はちらりとレジカウンターの内側に置かれた小型時計を一瞥した。


「――この後? まあ暇ですけど」


 有季はひっそりと向けていた目をまん丸く見開き、揺らしながら前に戻す。


 血流の音を耳の奥に聞きながら瞬きを繰り返す。しばらく肩肘が強張ったまま硬直し、やがて、苦笑しながら脱力した。深く長い嘆息が零れ落ちた。


 もう綾の言葉は耳に入らなかった。このまま丸くなってベッドに埋まってしまいたい。


 最初から綾を誘って何かをしようとした元交際相手と、思い付きで誘おうとした上、緊張をして躊躇った自分とでは立っている土俵が違う。自分は綾にとっての特別ではなく、放っておけない友人の中の一人に過ぎず、だから彼女は、決して自分のものなどでもない。特別になろうとする勇気を持てない自分も、もう少し早く言い出せなかった自分も、今の内に、日を改めて約束を取り付けようとできない自分も、全部が嫌だった。泣きそうになる。


 有季はスマートフォンに表示された上映スケジュールを弱々しい目で見詰めた後、目を背けるようにそのタブを閉じた。そしてポケットにそれを隠して硬い顔を揉む。


「悪い、お待たせ。――さっき何か言おうとしてた?」


 通話を終了した綾が優しく話の続きを引き出そうとしてくるから、有季は、自分でも嫌になるくらい、明るい笑顔を浮かべておどけた声を出した。


「何も? 君と居られると楽しいな、って。ただそれだけ」

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