15話
それから数日は何事も無い日が続き、迎えた日曜日。
綾は逆さになったビールケースに座り込み、堀に釣り糸を垂らして欠伸をしていた。
ピシャ、と二つ隣で魚の跳ねる音。
コンクリートで固められた足場をプールのようにくり抜いて水を流した生け簀で、それを囲うように雑草と逆さになったビールケースが乱雑に生えている。他の客と言えばご高齢の男性が目立つものの、多少は声を出して話しても誰にも迷惑をかけない程度には、快晴で迎えた日曜日早朝の釣り堀だというのに、あまり人が居なかった。
「ここは釣ったニジマスを百円で下処理してくれるらしい。後で頼みに行こう」
「真昼先輩。恐れ入りますが、捕らぬ狸の皮算用ってご存知ですか?」
「はっはっは……すぅ――ふぅ、こういうのってもっとパシャパシャ釣れると思ってたけど。いや、意外と釣れないもんだ。まあでもいいじゃない、こういう時間を楽しもう」
綾の隣にはへらへらと笑って釣り糸を垂らす真昼。綾が呆れた目を向けていると、彼女は話題を逸らす。
「それで? 最近は何かあった? 君の近況を聞くのが私の一番の趣味なんだ」
「人の人生を娯楽にしないでもらえますか?」
そう言い返しつつ、しかし言葉ほど不快感も無かったので欠伸の後にのんびり語る。
「ま、色々ありましたよ。例えば――例の医者一家の子と映画を観に行ったら、いつの間にか学校中に交際の噂が広まっていたり、それを聞いた後輩が告白してきたり」
「おいおいおいおい。なんだそりゃ、詳しく教えてよ」
――前のめりになった真昼への説明には、数分と時間を要さなかっただろう。
「学校行きてぇ~……! 髪染めなきゃよかったぁ……!」
話を聞き終えた真昼は竿をケースに刺したまま頭を抱え、他の客に迷惑にならない程度に潜めた声量で呻く。朝日を浴びてきらきらと輝く金髪とピアス。耳の方は外せばいいとしても、髪は染め直すとなると手間が勝るだろう。綾が呆れて「馬鹿」と吐き捨てていると、
「……しかし、綾にもモテ期が来ちゃったかぁ」
真昼がそう寂しそうに呟くから、綾は「はぁ?」と眉を顰める。
「何だよ、違うって? 女の子に囲まれて楽しそうじゃん」
「そりゃどっちも魅力的な子ですけどね。生憎とそういう関係じゃありません。一人はストレスを吐き出す場所として私を使ってるだけだし、もう一人はこっちから近付いているだけで向こうにその気は無いかと。寧ろ、嫌われてる方だと思いますよ。お節介だし」
咲良とはそれなりに親しい間柄にはなれたと思うが、それでも向こうから近付いてくるほどの関係性を築けているかと尋ねられると怪しい。あくまでも、停滞していた彼女の背中を、彼女が望まないまま前に押しただけ。好かれるようなことはしていない。
すると真昼は安堵したように嗤った。
「何だ、結局まだ独り身か」
「別に悪い事じゃないでしょう。気楽でいいですよ」
「私はまた付き合ったっていいけど? ここはいつでも空いてるよ」
迎え入れるように微笑んだ真昼が小さく手を広げるから、綾は肩を竦めた。
「先輩は先輩で新しく恋人を作った方がいいですよ」
「この性格だからね。長続きしないんだよ、これが」
「でしょうね。――私はその性格も嫌いじゃないですけど、全く束縛されないのもそれはそれで寂しいって人は多いでしょうから。愛されているのか不安になる、ってね」
綾が少し当てつけのように顔を覗き込んで言うと、真昼は唇を尖らせて黙る。
「私が自由に生きる分だけ、相手にも自由で居てほしいってだけなんだけどね」
「まったくもって自由同士だったらそれは『セックスをする他人』と同義なんですよ。だから先輩に私は必要ないと思ったし、私にも先輩は必要ありませんでした」
「寂しいこと言うなよぉ」
「誤解無いように言っておくと、先輩のことは好きですよ。恋人の必要が無いってだけで」
フォローを入れているようで追撃の一声を浴びせる綾に、真昼は肩を竦めて嘆息した。
しばらく二人で黙ったまま水面を眺める。この沈黙が息苦しくない相手は、今のところ綾には真昼しか居ない。二人で秋の朝の風を浴びながら空を泳ぐ雲を視線で釣り上げる。
「ところで」
「はい?」
「その被服の子は前に進めそうかい?」
綾は浮きをぼんやりと眺めて考えること数秒、ふぅ、と息をこぼす。相変わらず人の腹の内を読むのが上手い人だと感心し、呆れ、感謝する。――実際、伝えるべき言葉は伝え、彼女の背中を押すことはできた。だがそれは、あくまでも『選択の肯定』に過ぎない。
何者かになりたいと願った少女に対して、願望の尊さを語っただけだ。彼女が勇気を振り絞れるかは別の話だし、彼女の母親が首を縦に振るかも別の話。つまり、彼女が被服の道を選ぶ助力になれたとしても、実現の助力には至らなかったのだ。
「分かりません」
綾が返答を捻出すると、真昼は黙してこちらを見る。綾も視線を返した。
「私はあくまでも背中を押しただけなので。車の――エンジンを直したようなものです。ドライバーがいつアクセルを踏んでどっちにハンドルを切るかは私の与り知らぬ話です」
それはきっとメカニックの関与する部分ではないはずだ。
「それが良いのか悪いのかは分かりませんけどね。無理に手を引くのが楽な道を押し付けるのと同義だとしても、もう少し、何かするべきだったのかもとか考えてしまいます」
最後に言い訳がましくそう付け加えると、「別に良いんじゃない?」と真昼が笑った。綾は呆けた丸い顔でその意味を問うように彼女を見詰める。すると淀みない返答が訪れた。
「『どうするべきか・どうあるべきか』の合理的な取捨選択だよ。君は彼女にどうしてほしかった? もしも君が、その子に被服の道に進んでほしかったのなら、もっと手を加えたっていい」
真剣な眼差しを送る綾を一瞥し、「でも違うだろう?」とサングラスの奥の目を細める真昼。
綾は竿を握ったまま目を細めて、深い、深い息を遠くへと吐き出した。雲が流れていく。
最初に彼女から偽りの恋愛感情を伝達され、その正体を暴いたのは単なる好奇心だろう。その翌朝に昇降口で声を掛けたのは、単に陰口を見逃せなかっただけ。だが、そこで彼女の部活動の話を聞いて、自分を重ね、外的要因で否応なく夢を諦めた人間の挫折に傲慢と理解しながらも共感をしてしまったから――目的はファッションの道に進んでもらうことではなく、
「立ち直ってほしかった」
呟くと、真昼は頬を吊り上げた。
「君の傲慢はつまり、『その子にまた自分の道を進めるようになってほしい』ってことだ。だったら今のままでいい。君は彼女に自分で自分の道を選ぶ動機と手段を授けた。最後に彼女は被服と異なる道を選ぶかもしれないけれど、でもそれは彼女自身が選んだ道だ」
遠く離れた釣り師の竿が揺れるのを見た。早く引っ掛からないかな、と二人で待ち詫びる。
「子供は、よく真っ白なキャンバスに例えられる。それに倣うと――人生に手を加えるってのは他人が筆先を置くのと同義なんだよ。そうなれば、それはもうその人間の作品じゃない。でも、美しい空の青を描きたいと思った子に、綺麗な空を見せても、絵の具の混ぜ方を教えても、筆を置くのはその子。それはきっと、悪い事じゃないはずだ」
真昼はサングラスの中の目を青々とした空に向け、そっとグラスを外した。
「苦悩する画家に声を掛けず離れていくのは、少し素っ気なくて冷たいかもしれないけど、筆を取って代わりに絵の具を叩きつけてやるだけが優しさじゃない。君はそれでいい」
我ながら単純だとは思うが、その言葉に救われた。
綾は深く考えても彼女と似たような結論しか出てこないから、それでいいかと思うことにした。そしてそっと浮かぶ浮きに目を向け、にやりと笑う。
「先輩のキャンバスはぐちゃぐちゃに色づいてそうですね。ほら、本屋の文具コーナーにある試し書きのメモ帳みたいな」
「世界人口八十億人に一人くらいはそういうのが居たっていいんだよ。何者かになりたいと思う君達を否定はしないけど、別に何者にならなくたっていいはずだ」
真昼はサングラスを戻して綾を横目に見る。
「大切なのは、自分で決める権利が手元にあること。それは大事にするべきだ」
誰も彼もが彼女のように自由奔放に生きていく意思も能力も持ち合わせてはいない。他人の道から漏れ出す明かりで安心する人も居るだろうし、人の敷いたレールを借りて楽をしたいと思う人だって居る。だが――そう、大事なのは人に強要されることではなく、その判断を自分で下すこと。誰かの言葉に迷い、それを否定できないからと自我を殺す。突き詰めるとそれも自己判断かもしれないが、家族の言葉を呑むしかなかったことを判断と呼んでしまうのなら、子供は幾らでも自己判断をしているし、そしてその実態として親の言いなりになってしまう。
だが、親は親で、自らが歩んできた道の苦悶を子に与えたくはないのだ。落とし穴があると知っている道を大切な人に歩ませるほど馬鹿げたことはないだろう。先駆者の懊悩と子供の願望は時にああして衝突してどこかが折れてしまうのだろうが、それに気付けたなら、誰かしらが添え木を持って寄り添ってやりたい。
「そういえば」
綾は真昼の言葉で思考を打ち切り、視線を寄越す。「どうしました?」
「話は戻るけど、交際の噂を流した犯人は見つかったのかい?」
綾はしばらく悩むように考え込み、やがて隠さず全てを明かすことにした。
「いえ、私が大事にしたせいで犯人への私刑が発生しそうだな、と」
「じゃあ、お咎めなしになっている訳だ?」
普段のように飄々とした軽口だったが、語気に少し苛烈な感情が覗いている気がした。気付いた綾は「あー……」と言葉を探すべく視線を虚空に泳がせた後、言う。
「強い悪意は感じなかったので問題はないと判断しました」
「駄目だよ。悪意は強弱の問題じゃない。実害が出たなら対処しないと付け上がる」
「実害って言っても、交際の噂程度ですよ? 訂正の言葉でどうにでもなりますし」
「そうかな? もしかしたら不純異性交遊の噂まで発展するかもしれない。それも言葉で解決できるって? それはそうかもしれない。でも万が一、例えばそう、医者一家の子の進学に支障を来したら? 君はその可能性も悪意が無い推理の飛躍だと切り捨てられる?」
確かに。先日の噂の延長線上にはそんな悲惨な結果が待ち受けているかもしれない。
だが、口頭で解決できないとも限らないし、慌てて対処をするような問題とも思えない。それは綾の楽観視ではなく、現状から導き出した合理的な回答だ。
「もしかして、怒ってます?」
綾が困り顔で尋ねると、真昼は鼻を鳴らす。
「大切な後輩に嫌がらせされて平気では居られないかな」
「なんで自分の時は平然としているのに、他人事の時だけそんな真剣になるんですか」
「そりゃ君、お互い様だろ」
確かに自分の進路も程々に有季や咲良の件で考え込んでいる自分に言えたことではなかったかもしれない。綾はぐっと黙って反論の言葉を探すも、真昼は被せるように言う。
「ま、私は私で動くから気にしないでよ。大丈夫、大袈裟にはしないから」
もう歯止めは利きそうになかったので、綾は嘆息してそれを受容した。実際のところ、こちらが困るようなことはしないだろうし、綾が危惧した私刑をするような人間でもない。放っておいても問題は無いだろうと判断した。
「まあ、先輩のことは世界で二番目に信頼してるんで。そこまで言うなら任せます」
「一番は?」
「親父ですね。三番は自分」
「流石に血縁の壁は高いなぁ」
午後になって家に戻った綾はシャワーを浴びて着替え、シフト通りに夕方からアダルトコーナーの店番へ入った。大抵の店だと休日のこの時間帯は忙しいものだが、生憎と平日夜よりは随分と退屈だ。客足も無いまま動画を視聴して時間を潰す。
最近は有季が度々話し相手になってくれていたということもあり、相対的な退屈に堪えかねて綾が欠伸をしたその時。猫動画を映し出すスマートフォンが鳴動し、画面にポップアップ。『今から行ってもいいですか?』というメッセージが表示された。
送り主は、先日連絡先を交換した常磐咲良。綾は呆けて目を丸くする。
意外に思いつつも拒む理由はないため、メッセージを開いて『オーケー』の意をパンダのスタンプメッセージで送り返した。すると、どうやら同じスタンプを持っていたらしい彼女からパンダが疾走するスタンプが返ってくる。
それから三十分程度で、『着きました』のメッセージが彼女から届く。迎え入れた方がいいだろうかと思いながら『了解』と送り返して綾がスイングドアから外に出ると、間もなく緊張の面持ちで見知った少女が暖簾をくぐってきた。一瞬、誰だと言いそうになる。
当然ながら、咲良は私服だった。妙に新鮮で、綾は思わず見入ってしまう。
風貌は詐欺的なまでに恐ろしいほど可憐で、まさかこんな少女が、あんな毒舌を秘めているなどとは到底思えない。栗色のセミロングは少しゆとりのある編み下ろしにアレンジしており、ちらりと覗く首筋は華奢で艶やかに美しい。七分まで袖を折った白い襟付きシャツの上には暖かそうなベージュのVネックニットベスト。下にはくるぶし付近まで伸びるグレーのロングスカート。グレースケールのチェックがプリーツに沿って規則正しく広がっていた。
秋らしく可愛らしい格好だが、不思議と、どこか既視感があった。恐らくファッション誌か何かだろうが、なるほど、着る人が着ればこうなるのかと納得する。
彼女は唖然とする綾の前で照れくさそうに「何ですか」と言うから、彼女もお洒落をして来た自覚はあったのだろうと解釈しつつ「いや」と誤魔化すように視線を逸らす。
「いらっしゃい。君から会いに来るなんて珍しいと思ってね。どうかした?」
綾が率直に用件を尋ねながらアダルトコーナーに迎え入れると、彼女は桃色の空間に目を泳がせながら、ここで平然と店番をする未成年を白い目で見つつ中に踏み込んでいく。
「用が無きゃ来ちゃいけませんか?」
「……駄目ってことはないけど、そっちから会いたがる理由も無いと思って」
「当たり前じゃないですか。この辺に寄る予定があったから、ついでに顔を出しただけです」
「なるほど。道理で随分とおめかしに気合が入っている訳だ――中に椅子あるけど、座る?」
綾がスイングドアを開きながら咲良を見ると、彼女は「あ、いや」と何やら困り顔で目を逸らす。綾は少し考え、もしや、本当に挨拶だけして帰るつもりだったのだろうかと気付く。
そう考えると全てに合点がいき、綾は気まずくなって笑った。
「あー……まあ、何だ。全然、無理に顔を出して挨拶とか考えなくていいよ? そういう畏まった関係じゃないでしょ。でも、ありがとね、来てくれて」
そう言うと咲良はハッと目を開け、慌てながら否定を口にする。
「いやっ、そういう――気を遣ったとかじゃなくて……」
そこで咲良は何かを言い淀むように口を開閉し、やがて噤む。情けない自分を恥じ入るように眉尻を下げて唇を噛み、拳を弱々しく握った。その場で少し、足下を揺らす。
咲良は顔を段々と歪めながら言葉を捻出しようとし、やがて踵を返した。
「あの、すみません! 間違えました。帰ります」
綾は彼女の言動の意味をまるで理解できないながらも、ここで彼女を帰すことに本能的な抵抗を覚え、折り曲げた袖から覗くその華奢な腕を掴んだ。
「まっ、待て、待て。何がどうなってるの。間違えたって何が――」
言葉にしないと分からないことだって数多くあるのだと視線で伝えるも、彼女は腕を振りほどいて帰ろうとする。その耳は赤く染まっており、何かを恥じ入るようだった。
綾は困り果てながら整理する。
彼女は、何かこの辺りに用事があって、そのついでに綾を訪ねたと言った。だが、その後の言動から、それは恐らく嘘だろうと仮定してみる。では、何故綾を訪ねたか。何か用件があったと考えるのが妥当だろう。では、どうしてそれを言えない? 言えないような話か。
そこまで考えた綾は、ふと、咲良の後ろ姿に再び既視感を覚える。
彼女の可愛らしい秋服のファッションを背後からぼんやりと眺めると、何かが喉元まで出かかる。歯痒さを覚えながら記憶の海に幾度も網を投げ、引き、それを繰り返した果てに、脳裏に何かが引っ掛かった。徐に目を見開いた綾は、「あ」と声を上げた。
綾は反射的に咲良の肩を掴むと、有無を言わせずその身体をひっくり返して向き合わせる。
咲良は頬を染め、目を白黒させながらもそれを受け入れる。
既視感の正体に行き着いた綾は、掴んでいた肩を離し、丸く見開いた目で呆然と彼女を見詰めた。――ファッション誌ではない。この服の既視感の正体は、
被服室だ。無数に描かれたデザイン画の一枚。作り掛けを示す付箋が貼られた一ページ。
彼女が今着ている服は、自分でデザインして、自分で作ったものなのだ。
ようやくそれに気付いて、彼女の振り絞った勇気に気付けなかった自分に呆れ、黙る綾。そしてその様子から全てに勘付かれたのだと気付いた咲良も、黙って俯いた。
わざわざそれを確かめるほど無粋なことは無いだろう。綾は言葉を呑み、考える。
自分が本気で作り上げたものを他人に見せるのは、きっと怖かったはずだ。
ただでさえ、その意味を身内に問われるという経験をした彼女にとっては特に。自分の本気を否定されれば、それが身近な人間であればあるほど深く傷付く。
だからこそ、一度傷付いた彼女が、こうして作り上げたものを持ってきて見せてくれたことの意味を綾は理解しなければいけない。
どこまで続いているか、どうなっているかも分からない真っ暗な夜道。
彼女はそこに勇気を振り絞って、一歩を踏み出したのだ。
その一歩だけは、誰にも阻ませてはいけない。誰かがどんな軽口を叩いたとしても、覚悟を決めたばかりのまだ繊細な彼女の歩みはきっと影響を受けてしまう。必要なのは疑問でも、確認でも、冗談でも、無関心でもない。
彼女がここまでその足を運んできた意味を考えろ。
「――――応援する」
力強い眼差しで断言すると、咲良の目が濡れた。彼女は目を逸らして唇を噛む。
咲良はハンカチを取り出そうとして、自分で縫ったそれのポケットに入れ忘れていることに気付き、それから袖で目元を拭おうとする。
綾は「馬鹿」と慌ててエプロンからそれを取り出し、口を閉じて顎を上げ綾を見る彼女の目を拭う。借りてきた猫のように、その間だけは大人しかった。
目元を拭われた彼女は、綾の服の裾を摘まんで「まだ」と言う。
「お母さんには言えてないんですけど」
「うん」
「いつかちゃんと伝えます。もっと頑張って、お母さんを安心させられて、自分も納得できるくらいの技術を磨いて、実績を作って。それからちゃんと話します。だから――」
咲良は面映ゆそうに笑うと、微かに冗談っぽく言った。
「それまで、味方で居てくださいね」
綾は小さく頭を横に振って答えた。
「その後も味方だよ。それだけは約束する」
咲良は驚いて目を丸くした後、何か物言いたげに目を細めて綾を睨む。
何か変なことを言ったか、と綾が苦笑して首を傾げると、ふん、と鼻を鳴らした咲良は不満そうに口を尖らせながら両手を広げる。「すしざんまい?」「殴りますよ」なら何だと言うのか。綾が首を捻るも咲良はその姿勢のまま一向に動こうとせず、しばらく悩んだ綾はふと森下を思い出す。彼女も度々、高木や渡辺に何かを迫る時にこんなことをしていた気がする。
そして答えを閃いた綾は、自身の性的指向を思い出して自信を失いつつも、恐る恐る、答えを確かめるように手を伸ばして肩を抱き寄せ、「こう?」と抱いた。
すると、猫が頬ずりをするように彼女の手が綾の背中を抱き締める。
「なんだなんだ」意味が分からずに綾が困惑の声を上げると、最後に一際強く綾を抱き締めた咲良は「ありがとうございます」と囁いた。そして、ポンと突き飛ばすように綾の肩を突いて身体を剥がすと、目を白黒させる綾へ、彼女は満足そうに笑って手を振り、別れを告げた。
「じゃ、私は帰ります。また」
そう言って彼女はアダルトコーナーの暖簾を潜ると、軽い足取りで去って行く。
綾は呼び止める声も失ってその背中を見送り、やがて店のドアが閉まる音を聞く。
まだエプロンの胸元に残る微かな熱を確かめるように触れ、誰かに答えを求めるように店内を見回すもサンプル映像の女優の嬌声しか返ってこない。腕を組んで先ほどの行動の意図を考える。真っ先に思い浮かぶのは綾への好意だが、だとすれば表現が少々婉曲的すぎて不自然だろう。――彼女は感謝の言葉を囁いていたが、綾の行動に対する礼の可能性もある。だが、そうだとすると、確かに可愛らしい女性と接触できたことへの喜ばしいという思いはあるものの、ああいった行動を手当たり次第にするようでは彼女の将来が心配だ。
今一つ喜びきれぬまま、綾はぽつりと呟いた。
「魔性の女だ」




