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14話


 電車に揺られて間もなく。降りた最寄り駅をしばらく歩いて日当たりの悪い路地裏に入り込むと、そこには『サガラ書店』と書かれた小綺麗な看板。「わ」と咲良の声が出た。


「こんな場所に古本屋があったんですね。この辺、何度か来てるけど知りませんでした」

「お世辞にも良い立地とは言えないけど、まあ、客層が客層だから好都合かも」

「あ。ウチの学生とかも利用するんですね」


 意外そうな声で咲良がそう言うから、綾は首を傾げて彼女を見る。


「いや? あんまりウチの生徒を見た覚えはないけど。学校からも離れてるし」

「でも、ほら。あれウチの制服じゃないですか」


 咲良が指した方を見ると、確かにそこには二人が着るものと同じ制服がある。


 やけに綺麗な黒のストレートヘアをした女子学生だ。入り口でやや挙動不審に中を覗き込み、スマートフォンを出したり戻したりしては悩ましそうにしている。まだ入り口までは距離があるので外見は判然としないが、そんな様子にどこか見覚えがあった綾は、「まさか」と段々と歩調を早めてその人影に近付く。案の定――その人物は茅野有季であった。


「茅野」


 綾がそう声を掛けると、ビクッと肩を震わせた有季が目を丸くして振り返る。


 そして綾の顔で少し安堵したような表情を見せたかと思うと、その隣を歩く咲良の存在に気付いて呆けた顔をする。「へ?」と間抜けな声が漏れた。次いで、まるで予想だにしなかった人物と邂逅した咲良も、少々唖然とした様子で口を半開きにし、「どうして」と声を上げる。


 さて。別に疚しい関係ではないしどちらに何を隠すようなこともないのだが、どちらも他人に話すには少し込み入った事情がある。


 慎重に説明する必要がある――のだが、早急な説明を求めるように二人が一斉にこちらを見るものだから、綾は腰に手を置いて困った顔を背け、そっとうなじを掻いた。


「取り敢えず、中に入ろうか」


 古本屋の裏口に併設されている外階段を上って二階にあがると、そこが水城家だ。


 慣れた手で誰もいない家の鍵を開錠して入った綾は「いらっしゃい」と二人を招き入れる。有季と咲良は少々緊張の面持ちで顔を見合わせると、こそこそと部屋に入り込んだ。


「お邪魔します」


 異口同音の声が重なり、小綺麗な部屋に木霊した。


 部屋は事実上の一人暮らしには勿体ない3LDKだ。木製を基調とした和洋折衷のモダンな内装をしており、丁寧な清掃が行き届いているからか全体的に綺麗だ。「わぁ」と初めて訪れる水城家を感嘆の声と共に眺める有季と、「意外と綺麗にしてるんですね」と咲良。


「散らかす機会が無いってだけだけどね。あ、部屋とリビングどっちがいい?」


 立ち止まった綾が尋ねると、再び二人は視線を交錯させて黙り込む。そして視線で譲り合った後、口を揃えて「部屋で」と。思ったよりも息が合うようで重畳。綾はすぐ傍の扉を開けて自身の鞄を放り投げると、二人に中を示した。


「私はお茶の準備するから。先に寛いでて。ベッドにでも座ってよ」


 そう言ったきり綾はリビングの方へ向かってしまうから、有季と咲良は気まずい空気で部屋に踏み入った。


 綾の私室は少々殺風景だった。年頃の女子高校生としては無味乾燥と言えるだろう。定期的にシーツが取り換えられている綺麗なベッドと、パソコン用デスクに小さな椅子。


 他は観葉植物と絨毯、最後にクローゼットと本棚。その程度。


 夕焼けがレースのカーテンから差し込んで絨毯を赤く染め上げていた。


「殺風景」


 思わず咲良が呟くと、「ね」と有季が同意した。


「なんか陸上の用品あるかなとか思ったんだけど――あっ」


 そこまで言った有季は、陸上のことを言ってよかったのかと慌てて自分の口を塞ぐ。だが、その配慮の意味に気付いた咲良は、鞄を床に置いてベッドに座りながらフォローした。


「大丈夫ですよ、もう陸上部を辞めた話も、その理由も知ってるので」

「あ、そうなんだ……えっと、一年生、だよね?」

「一年B組の常磐咲良です。初めまして、茅野先輩ですよね?」


 無論、咲良の方は確かめるまでもなく有季のことを知っている。一方的に知られている有季は少々むず痒く思いながらも「初めまして」と頷いて肯定し、人一人分の距離を置いてベッドに座る。そして、気まずい沈黙が二人の間に降りてきた。リビングで薬缶を火にかける音が聞こえ、二人揃って恨みがましい目を向けると、お互いがそれに気付いて笑い合う。


「普通、初対面の『友達の友達』を置き去りにしますかね?」

「こら、陰口を言わないの」

「大丈夫ですよ、帰ってきたら直接言うんで。陰口じゃなくて悪口です」

「……なんか君、この前教室に来た時と雰囲気が違うね?」

「ああ、猫を被ってましたから。こっちが本当の私です」


 咲良が胸に手を置いて不敵に笑うと、有季は少々興味深そうに「へぇ?」と経緯を知りたそうな顔をする。そういえば、まだお互いに綾とはどういう関係なのかを聞いていなかった。


 探り合うように二人は盗み見合う。やがて、口火を切ったのは咲良だった。


「あの。茅野先輩って、水城先輩とそういう関係なんですか?」


 率直に尋ねると、有季は「へ⁉」と間の抜けた大きな声を出す。


 綾曰く、二人の交際の噂は誤解とのことだった。


 しかし、家に上がるのは初めてだという有季の口ぶりや、大して驚くこともなかった綾の態度から、恐らく書店そのものへは何度か来訪しているだろうことが窺える。単なる友人と解釈するのは難しく、恐らく、何らかの秘密を共有し合う関係だろうことが推測が立つ。


 だが、微かな逡巡を表情に巡らせた後に有季が告げたのは、否定の言葉だった。


「違うよ。噂は本当に誤解。今日ここに来たのも、たまたまこっちに寄る用事があったから、ついでに顔を出そうかなって。居たら会おうと思ったし、居なかったら今回は古本コーナーにだけ寄ろうと思って。それで、あそこに居たの。だからそういう関係じゃないよ」


 そう弁明をするように答えた有季を、咲良は暫し物言いたげな目で眺める。


「……『今回は古本コーナー』ってことは、普段はアダルトの方に居るんですか?」


 それは、『茅野有季という才女がそういう場所に出入りしてまで綾と会おうとしている』のかという驚きから紡がれた疑問だったが、『アダルトコーナーに頻繁に出入りするむっつりスケベなのか』というクリティカルな質問だと誤認し、有季はぶわっと冷や汗を浮かべた。


 憐憫の情を禁じえないくらい目を泳がせながら「いや」とか「あの」とか意味の無い言葉を繰り返す。交際をしていないなら秘密裏に会っていてもそこまで慌てて隠さなくていいだろう――そう思った咲良はふと、ある仮説を思い浮かべ、眉を顰めて目を細めながら追及した。


「もしかして、普通にアダルトグッズを買ったりしてるんですか?」


 冗談だろうと思いながら半笑いで訊くと、返答は薄暗い部屋でもハッキリと分かる赤面だった。有季は耳まで赤くして黙りこくってしまう。


 饒舌な言い訳よりも雄弁な返答に「わぁ」と咲良は間抜けなリアクションしかできなかった。


「だ……誰にも、言わないでいただけると……助かります。内緒にしてください」

「いや、まあ――そういう趣味は無いんで言いませんけど。でも、マジかぁ。あの茅野先輩が」


 咲良の知る茅野有季という女性は、成績優秀で人当たりが良く、敵が少ない、才色兼備とはまさしく彼女の為に用意された言葉だろうと思わせるほどに恵まれた側の人間だった。


 だからこそ、こうして人生で彼女との交点が生まれるなど思ったこともなかったし、ましてや、彼女にそんな趣味があるなどとは考えたこともない。だが、思えば当然か。どれだけ勉強ができようとも年相応の少女なのだから、そういう興味はあるだろう。


 しかし、それでも。露呈の仕方があんまりにも間抜けだから納得より先に愕然が来る。


「私……こんなポンコツに嫉妬してたんですね」


 「君も大概口が悪いね」と、頬の火照りが冷めない有季の半眼が突き刺さる。


 ぱたぱたと顔を扇ぐ有季は、ふと咲良の言い分に引っ掛かる部分を覚えた。


「……『嫉妬』?」


 穏やかではない単語を復唱するように尋ねると、咲良はぴたりと口を噤んで押し黙る。


 人のことを言えなかった。咲良は滑らせた口をお淑やかに手で塞いで沈黙を主張するが、しかし――間抜けな有季やお節介な綾といった奇妙な知り合いの毒気にやられたか、塞いでいた口がどうにも緩くなって、何だかどうでもいいことかのように、軽く咲良は吐露する。




 咲良が掻い摘んでここに至るまでの経緯を語ると、すっかり頬の紅潮も引いた有季は神妙な顔で腕を組んで考え込んでいた。咲良はそれを俯瞰しながら、綾といい彼女といい、お人好しなものだと冷めた感想を覚える。自分だったら、こんな生意気な後輩の人生相談には乗らない。


「それは……キツイねえ」


 やがて、ぽつりと有季がそうこぼした。咲良が思わず苦笑すると、彼女は慌てて手を振る。


「いや、他人事みたいになっちゃって悪いんだけど、でも、うん、気持ちは分かるなあ。なんかさ、身内って心を許している分だけ、言葉の一つ一つがちゃんと奥まで届いちゃうんだよね」


 有季は身に覚えがあるようにそう共感する。


 つい先ほどまでの咲良だったら、綾にしたように牙を剥いて噛み付いていたかもしれない。だが、先ほどの綾との会話を踏まえ、僅かながら心境に変化のあった咲良はそれを拾い上げた。


「茅野先輩にも、何か覚えが?」


 少々失礼な物言いだったかもしれないが、それだけ意外だった。彼女のように恵まれた人間には相応の悩みはあるだろうとは思っていたが、同情ではなく共感を貰うとは思わなかった。そう思った咲良の言葉に、有季は眉尻を下げて微笑み、溜息で弾みをつけるように語る。


「……ちょっとね。ちょっとだけだよ? 私の家、先祖代々がお医者さんでね。皆、無意識に私が医者になるものだと思い込んでる。自分から言ったことは一回も無いんだけど、どんな医者になるのか楽しみだ、ってね……大切な家族だし、そこに込められてる感情も理解できるからこそ、否定するのが凄く怖い。失望されたくないって思っちゃうの」


 段々と沈む夕日。伸びる影と降りる闇。薄暗くなっていく部屋で夕陽を瞳に映す彼女は、対照的に仄暗い笑みをこぼしてそう自嘲した。咲良は眩しい夕陽から逃げるように顔を背け、小さな吐息をこぼす。そこには自己嫌悪が滲んでいた。


「――ってごめん! なんか私の方が愚痴っちゃったね! 忘れて忘れて!」


 有季が慌てて明るい表情を取り繕うも、似たような境遇同士で遠慮することもないだろうと、咲良はそれには取り合わず、嘆くように天井を仰いで呟いた。


「皆、何かしら悩みを抱えてるもんなんですね」


 すると有季は明るく取り繕った表情を薄暗く戻し、瞑目する。


「だね。でも……大抵みんな、自分のことで手一杯」

「ですよね。あの人がおかしいだけです、人の事情にずけずけと」


 咲良がそう底抜けに笑うから、有季も少し可笑しくなって「確かに」と同調した。


 彼女自身、陸上の挫折等で思うところは山ほどあるだろうに、よくもあそこまで気が回るものだ。有季がそんな風に思い出しながら感心していると、パチ、と部屋の照明が点いた。


「お待たせ」


 二人揃って入り口を見ると、そこには紙コップと袋入り菓子を乗せたトレイを持つ綾が居た。


「遅い!」

「長かったね、何かあった?」


 それぞれの性格が分かりやすく出ている歓迎の言葉を半笑いで受け取った綾は、不安定なベッドにトレイを置いて湯気の立つ紙コップを一つ手に取った。そして咲良を見る。


「茶菓子も用意してたら少し遅れた。常磐……今の発言の差がお前と茅野の人気の差だよ」

「よかったですね、ここに茅野先輩が居て。救急車を呼ばずに済みました」

「な、仲良く。仲良く。ね?」


 嫌味を吐き捨てる綾と拳を握る咲良。有季は困りながらそれを宥めていた。


 綾は紙コップの温かいお茶を啜りながらカーテンを閉め、「それで?」と一息混じりに言う。


「何の話してたの? 私抜きで楽しそうだったじゃん」

「そうですね。だから今は楽しくないです」

「お前本当にいい度胸してるよな。さっきまであんな泣いてたくせに」


 カウンター気味にさっきの痴態を有季の前で言ってやると、番外戦術を食らった咲良は「ちょっ」と顔を赤くして綾を睨みつけ、自分抜きの話が進められていて少し不満そうだった有季は「へえ?」と悪戯っぽく咲良の顔を覗き込んだ。意地悪な先輩二人に波状攻撃を食らった咲良は不貞腐れたように唇を尖らせ、ぷいと顔を背けてしまった。


 有季はそれを楽しそうに眺めた後、先ほどの綾の問いに答えた。


「常磐ちゃんの話。何事もそうだけど、自分である『必要性』って難しい問題だよね」


 温かいお茶を味わって目を細め、有季がそう説明した。綾は腕を組むような形で紙コップを持ち直し、それを揺らしながら「あー、それか」と相槌を打つ。


「まあ、確かにね。考え始めると難しい問題だよ。突き詰めるとさ、この世で『絶対にその人じゃなきゃ駄目』なものって、あんまり多くない気がするから。私がよくお世話になってるスーパーだって、昼と夜で店員は違うけど特に大きな違いはないし、でも誰も居なかったら本気で困る。特定の職種を軽んじる気はないけど、実情、代替性が高い仕事ってあると思うんだ」

「まあ……それは確かにそうかもしれませんけど。でも、その理屈が通っちゃうなら、『もっと安定した道を選んでほしい』ってお母さんの言い分を全面的に呑まないと」


 話に戻ってきた咲良がそんな風に肩を落とす。綾は「まあね」と素直に肯定した。


 『誰でもいい』なら『咲良がやってもいい』かもしれないが『咲良でなくてもいい』のだ。


「でもさ――実際、常磐さんが今後選ぶ九割九分の職種は常磐さんである必要が無いと思うの」


 有季が身も蓋も無いことを言う。


 綾の感覚からすれば少々手厳しい指摘だと思ったが、しかし、その前提はここで認識しておくべきだろう。綾が何を言うより早く、咲良が「まあ」と頷いた。どうやら二人の信頼関係は、綾がお茶を淹れてくるまでの短期間で僅かながら築かれている様子だった。


「お母さんの言い分を認めて、『自分である必要性を主張する』必要がある時点で、常磐さんは結構苦しい立場に居る気がする。他人事だから気楽に言えるけど、もっと感情論で攻めた方がいいかも?」


 有季が建設的な意見を提示すると「ううむ」と咲良は理解しつつも今一つ飲み込めない様子で唸った。そんな咲良へ、有季は指を立てながら持論を展開する。


「だって、個人がファッションデザイナーになる必要性を証明できたのだとしたら、それは必然的に、ファッション業界が属人化を前提に成り立っていることを示唆しかねないと思うの」


 急に難しい単語が出てきた。綾と咲良は呆けた顔を見合わせる。


「ぞくじんか?」

「難しい単語を使わないでもらおうか。話に付いていけない」

「こういう時は仲良いのね、君達」


 有季は二連撃を食らって半眼を向けた後、「つまり」と言い直す。


「常磐さんがファッションデザイナーになる必要性が証明できちゃったのだとしたら、常磐さんがその道に進まなくなった時点でその業界かどこかしらの組織が破綻するって理屈になる」


 「確かに」と咲良と綾が声を揃えて顔を見合わせた。


「もちろん、そんなことはないし、でも、人によってはそんなことあるケースもある。例えば――有名どころだと、故人だけどルイ・ヴィトンだとかイヴ・サン=ローラン。今になって実績を基に歴史を振り返れば、彼らはデザイナーになる必要性があったと言えるかもしれない。でも、そういった人達だけで成り立っている業界じゃない。私達が名前も知らないような人達の考え付いた洋服が若者の流行になってきたはずだし、でも、その人が思いつかなくても一日遅れで誰かが似たようなデザインを思い浮かんでいたかも。だけど、そういった人達が誰一人居なくなったら、絶対にその流行は生まれなくなったし、皆が襤褸一枚で過ごす世界になる」


 忘れかけていたが、やはり豊富な知識と卓越した知恵を持つ人間なのだと綾は感心させられた。咲良は頻りに頷きながら真剣に聞いている。


「だから――私はやっぱり、常磐さんがファッションデザイナーになる必要性なんてものはない……少なくとも今は証明できないと思う。だけど、常磐さんのように、何はなくとも思い至った人たちが集まって今のシステムと歴史が出来上がったと考える」


 それはきっと、綾の脳と口からでは紡ぐことができなかっただろう助言だった。


 咲良は真剣な眼差しで聞き終えると、それを肝に銘じるように「はい」と目を瞑って頷く。


「どうするべきかは君が決めるべきだけど、私は、そう思う」


 話を静聴した綾は半分ほど残った紙コップをデスクに置いて称賛の声を上げた。


「こういう褒められ方は好きじゃないかもしれないけど……やっぱ頭良いね。茅野は」

「何、急に。恐縮です」


 有季は少し照れたように頬を染めておどけた返答をする。だが、咲良も真面目くさった顔でそれに同意した。


「いや、私も本当にそう思います。そういう風に理屈を立てられると納得しやすいです」

「理屈っぽいだけだけど。でもまあ、ちょっと嬉しい。褒めても笑顔しか出ないけどっ」


 照れ笑いを浮かべてウインクする有季。少し遅れて恥ずかしそうに頬を染め始めるが、恥ずかしいならしなければいいのに。


 「しかし」と綾は話を切り替えながら腕を組んだ。


「勉強になるよ。知らない観念だったけど、確かに、仕事において属人的であるってのは必ずしも褒められることばかりじゃあないよね。誰だって社会に必要とされたいけど、実態は――必要とされるのは『その働きをする人間』であって、『君』ではない」


 「君」と咲良が呟いた。それが指すのは咲良かもしれないし、有季かもしれないし、この場に居ない誰かかもしれない。綾はパソコン用デスクの椅子を引いて座り、足を組む。


「適当に掴んで持って行ったおにぎりやペットボトルのバーコードを読み取ってくれる人間は必要だけど、それが別の誰かに変わったことで人生に大きな変化が訪れることは滅多に無い。マニュアルが作成され、ノウハウが蓄積され、備品が貸与され、環境が構築され、知見が継承されていく――そうして構築されたシステムのパーツとして人力が存在して、そういった仕事は要求水準を満たせばそれ以上を必要とはせず、余剰分は『必要』ではなく『付加価値・サービス』として昇華または消化される。そういう話でしょ?」


 綾は自分の思考を整理するように独り言の如く呟き、二人はそれを傾聴した。


 そんな二人に、綾は自身の抱いた感想を言語化した。


「そう考えると虚しいけど、ちょっと気楽だよね」


 有季は少し考えた後に納得するような表情を見せ、咲良は不思議そうに首を傾げる。


 綾はデスクに頬杖を突きながら目を細めて言った。


「代わりが居るってことは、どうしようもなく苦しくなった時に逃げられるってこと。誰でもいいなら、その仕事をするのも自分だっていい。職業選択の自由が担保されてるってことだ」


 綾のどこか気楽な言葉を真っ直ぐな瞳で聞き遂げた後、咲良は視線を虚空へと移す。


「……子供って、よく真っ白なキャンバスに例えられますもんね。確かにそう思えば、少しは気が楽になるかもしれません。その気になれば、そこには何でも描けるのかも」


 ――真っ白なキャンバス。綾は静かに咲良の言葉を胸中で復唱し、それから目を瞑る。


 確かに、これから着色され、何者かになっていく若者を指す言葉としては的確だ。


 付いた色が消せないという点も含めて。だが、一発で正しい絵を描ける者なんてそう多くないという現実を鑑みると、これから何者かになる若者はもっと別の――、


 ふと、綾の目に有季の顔が映った。彼女の表情は思わず声を掛けそうになるほど薄暗く、どこか物憂げだ。何者にでもなれるという咲良の言葉は、何者かになる道を選べない彼女にとってこの上なく堪えるものだろう。


 気付いた綾は、咲良を見ながらも二人に向けて言う。


「『必要性』に迫られた人間は、否応なくその行動をすることになるんだと思う。例えば、患者を目の前にしたお医者さんだとか、家族が多額の借金を背負ってしまった人だとか」


 それらが誰の話をしているのかは、もう言うまでもない話だろう。二人は含むような綾の言葉に各々が思うままの反応を示す。「でも」と綾は二人から顔を背けて続けた。


「人生は必要性だけで構築されていない。間食は食べなくても死なないけど、食べたいから食べるし、映画だって観たいから観る。帰り道は寂しいから誰かと帰るし――だから、必要性の観点からは非合理的で不要だったとしても、それを選ぶことは悪じゃない」


 綾は咲良を見詰めて、感じたことを率直に伝えた。


「潰しが効かない道だとしても、どうしてもその道を諦められないなら、それはちゃんとお母さんに伝えた方がいいと思う。必要性があるからやるんじゃなくて、自分がやりたいからやるんだ、って」


 綾は膝窩で椅子を蹴るようにして立ち上がり、残り半分でぬるくなった紙コップのお茶を一気に呷る。彼女に伝えるべきことは、もう、これで全部伝えたはずだ。後は彼女自身が何を選択して、どう生きていくか。そこまでは、きっと踏み込むべきではないはずだ。


 ベッドに座る彼女と二歩の距離。とても近いけれど手は届かないこの距離が、ただの部外者に許された限界のように思える。綾の視線の先で、咲良は思い悩むように瞳を伏せていた。


「……お母さんに、心配をさせちゃうかも」


 弱々しく眉尻を下げて、未だに大切な家族のことを想う。少々口が悪くて、性格も悪い。ただし自分が引いた一線は守り、通すべき筋を通す義理に厚い人情家でもある。


 伝えるべきことは全て伝えたつもりだったし、これから更に一歩を踏み出すのは過干渉な気もした。だからこれは、部外者ではなく友人としての補足。


「なら、することは決まったね。心配させないくらいの実績を在学中に作ればいい」


 咲良は大きく目を見開き、黒瞳を揺らす。そこに反射する綾はブレザーのポケットに手を入れ、挑発的な笑みを浮かべながら、咲良の顔を覗き込むように顔を傾けている。


「燻ってる時間は無いかもよ?」


 その言葉に、揺れていた咲良の瞳は綾の芯を射抜き、そして奥に淡く火が灯る。


 少し前に火を消して、しばらくそのままにしてしまった蝋燭は、溶けた蝋が固まってやや不格好に歪んでいるかもしれない。けれども明かりを灯すことはできるし、それはきっと自分で選んだ道標の無い道を照らしてくれることだろう。不格好でも歩き直せるはずなのだ。


 自分に呆れかえるような苦笑を浮かべた咲良は、大きく深呼吸をして苦笑を微笑へ。


「――正直、まだ、自分がどうしたいか、どうするべきかも整理できていません。でも。いつかちゃんと、答えを出して、それを母に伝えたいと思います」


 咲良は綾を真っ直ぐに見詰め、そして言葉尻には有季もしっかりと見る。少し照れくさそうに固唾を飲んだ後、徐にベッドを立ち、スカートのプリーツを直す。手を前で重ね合わせて、それから丁寧に腰を折って綾と有季にお辞儀をした。


「だから、その――今日はありがとうございました」

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