12話
「おっと、これはまた懐かしい顔だ。久しぶり、水城」
「――野間新部長」
「そろそろ次の代替わりも見えてくる時期だ。『新』は外してほしいね」
放課後を迎えて綾が一人、帰路を辿ろうとして訪れた昇降口前。
知った顔が練習着に着替えて部活の準備をしていた。野間という三年生の陸上部男子である。
去年の秋頃に世代交代し、それを小耳に挟んで以降、部の情報を積極的に聞くこともしなかった綾は、新しい部長が彼であるという事実から何一つアップデートをしていない。
「部の調子はどうですか?」
水城は懐かしむように目を細め、ブレザーに手を突っ込んで足を止める。
野間は寒そうに腕を組みながら「お、気になるかぁ?」と楽しそうだ。
「まあ新一年生はまだまだ、って感じだな。ただし素直で向上心は抜群! 来年、再来年に期待が持てる。二年生は概ね順当に成長中だよ。高田のことは覚えてるか?」
「同じクラスですよ」
「ああ、そっか。高田は今年、選手権大会に七種競技で出た。本人に言わせると結果は揮わなかったらしいけどな。でも頑張った! 来年こそは良い記録を出せるはずだ」
野間は腕を組んで誇らしそうに語り、綾は「そっかぁ」と嬉しくなって呟いた。
高田とはそれなりに話す間柄だが、そんな話は聞いたこともない。気を遣ってくれていたのだろうか。何とも水臭いが、配慮も、彼女が頑張り続けている事実も嬉しい。
「で、そっちは? 膝はもう良いのか?」
「流して運動する分には何ら支障は無いですよ。爆発はさせたくないですが」
「……そうか」
野間は少々寂しそうに顔を伏せた後、頭を振って話題を切り替える。
「そういやお前、八重畑と付き合ってたよな。どうだ、アイツは元気か?」
意外な名前が出てきた綾は少々驚く。言われて思い出したが、遊び惚けている彼女も一応この学校の三年生なのだ。去年までは彼と同じ学年で過ごしていたし、綾と彼女との交際ももはや周知の事実なのだから、名前が出てくるのも当然か。
「別れた今も度々会っていますが、まあ、相変わらずと答えておきましょう」
「目に浮かぶなぁ、アイツの飄々とした態度が。卒業式くらいは顔を出すんだよな?」
「どうでしょうね、自由人なので。学校もわざわざ、先輩と会いたいとは思わないでしょうし。あんまり期待しない方がいいかも」
「クラスメイトは割と寂しがってるんだけどなあ」
何だかんだと愛されている人なんだという事実を再認識し、綾は苦笑をこぼした。
それからふと話題が尽き、数秒の沈黙。そろそろお開きにしようかとした矢先、
「戻ってきてもいいんだぞ」
野間はおどけた顔でそう言った。綾は眉を上げて口を噤む。
「練習に参加できなくてもいい。俺が納得させる。そうしなくても全員、歓迎するはずだ。今の二年生はお前が居ればもっとやる気を出せるだろうし、一年生はお前に憧れを持っている子も居る。お前のストイックな姿勢は好影響を与えるだろうし、知見もきっと役立つ」
今更戻ったところで、三年生と部活動をする時間は殆ど残っていないだろう。
それでもこうして誘いをかけたのは、残されるメンバーの為か、それとも綾の為か。相変わらず、輪の中心で人々をプラスに引っ張ろうとする人間だった。綾は目を瞑って笑い返す。
「辞めてから。体脂肪率が割と増えてます」
つまり、ストイックに練習に打ち込む水城綾はもう彼の幻想の中の存在だ。
「私はもう、陸上の人間じゃありません。お気持ちだけ有難く」
綾が割り切った表情でそう言うと、彼も食い下がることはしなかった。
「そうか。無理強いをする気はない。お前が前向きに次の道に進めているなら、それでいいんだ。――――じゃ、俺は残り僅かな陸上人生を謳歌してくる」
ふっと笑い、野間はサムズアップをして靴を履き替えた。そして「また」と綾が声を掛けると、彼は「おう!」と破顔して校庭の方へと駆けて行った。その進む先で練習の準備をしている懐かしい面々を細めた目で眺め、綾は大きく目を瞑り、開く。
未練が無いと言うと嘘になる。だが、それはあくまでも感情的な話。
理性は割り切って納得をしている。だから綾は、気負いなく靴を履き替えて帰路を辿った。
昇降口から校門までのアスファルトで舗装された通路を、青に微かな橙を混ぜた空を眺めながら歩く。そろそろ秋も本格化して、あっという間に冬を迎えることだろう。
来年のこの時期は受験勉強か就職活動か、果たして何をしているだろうか。
そんなことを考えていると、視界に見知った顔が映った。
常磐咲良が学生鞄を靴の上に置き、門塀に寄りかかってぼんやりとしていた。何をしているのかと綾が目を丸くすると、間もなく彼女はこちらに気付き、そして睨むように見てくる。
何があったのかは分からないが、話しかけるなよという意思表明だと解釈した。
綾は軽く手を挙げ、黙って彼女の脇をすり抜けて去ろうとした。
だが、脇を抜けた直後、咲良は目を剥いて声を荒らげ、綾の腕を掴んだ。
「ちょっ、なんで無視するんですか!」
「え? は? いや、だって――」
綾は面食らって意味の無い言葉を繰り返した後、困惑を隠せないまま彼女を見詰めた。
「こっちからは声を掛けないって約束したし……もしかして、何か用だった?」
「用も無いのにこんな場所で突っ立ってる人は居ないでしょう」
「そりゃそうだけど、相手が私だとは思わないよ。あんな話をした後に」
綾は昼休みのことを思い出し、それとなく仄めかしながらそう呟く。すると咲良は物言いたげな顔で反論の構えを見せるも、綾の主張に理があると判断したか言葉を呑み、黙る。
それで一体、何の用だというのか。綾は急かさずに咲良の言葉を待つと、それに気付いた咲良は固唾を飲んで赤い顔を背け、深い逡巡を乗り越え、どうにか謝辞を絞り出した。
「……先輩のこと、よく知らないのに言い過ぎました。ごめんなさい」
綾は唖然と彼女の顔を見詰めた。その呆けた顔が気に入らない様子で咲良は目を細める。
しかし普段の憎まれ口は飛んでこず、彼女は目を逸らしながら謝辞を重ねた。
「陸上の件があるのに、私は……先輩を恵まれた人間だと思い込んでました」
そう続けられた謝罪で、綾はようやく得心する。
恐らく何らかの縁で綾の陸上部時代の話を耳にしたのだろう。そして、『知ったような口を利かないでください。先輩に私の何が分かるんですか』という言葉が的外れだと考えたのか。
しかし、だとしてもわざわざ待ち伏せして謝罪とは、難儀な性格をしている。
綾は溜息をこぼして頭を掻き、その溜息に怯えたような顔を見せる咲良へ伝えた。
「性根が腐ってるのか生真面目なのかハッキリしてよ。対応しづらいから」
「は……はぁ⁉ 何ですかその態度、こっちがわざわざこうして、頭を下げてるのに」
「そうそう。そういう態度じゃないとやりづらい」
すると咲良の唇がへの字に歪み、綾は少し空気が弛緩したのを感じた。
「別に謝る必要はないよ。君の発言は間違っていないし撤回をする必要も無い。私がどんな経験をしてどんな立場から物を言っていようとも、私から見た君の環境は所詮、他人事に過ぎない。だから、私は君を理解した気になっているだけのお節介な先輩だし、知ったような口を利く相手に君が怒りを抱くのは尤もだと思う」
咲良は目を泳がせて黙り、どう返答していいのか分かりかねる様子で考え込んだ。
その発言を肯定できるような素直な人間であれば、こうして謝罪には来ていないだろう。
「大丈夫、君は悪くない。私も怒ってなんていないよ」
綾はそれだけ言い残して、彼女に手を振りその場を去ろうとした。
だが、今度は綾のブレザーの裾を小さな手が掴む。振り返ると彼女は俯いていた。まだ何か用があるのか。そう尋ねると少々高圧的かと思い、綾は言葉を探す。
「……気に病む必要はないって。むしろ、こっちが余計な口出しをして悪かった」
そう言って裾を掴む彼女の手に手を重ねて外そうとするも、きゅっと力が入る。
何か言いたいことがあるのかと思い綾は口を噤んで待つも、咲良は俯くばかり。揺れるその目には焦燥。だが――彼女に罪悪感があっても、謝罪は既に受け取った。謝る必要は無いというこちらのスタンスも示した。それ以外に何か話し合うようなことがあるだろうか。
十数秒の沈黙。生徒達が不思議そうな顔を向けながら横を抜けていく。
やがて困り果てた綾は、ふぅ、と息を吐きながら帰路を指した。
「一緒に帰る?」
数秒の沈黙の後、咲良はこくりと頷いて手を離した。
それからドラゴンクエスト形式で縦並びに駅までの道を歩く。「電車通学?」と尋ねると「はい」と小さな相槌が返ってくる。同じ道なら特に気を遣う必要も無いだろうか。
「……私から君に話しかけないって約束は守る。それはそれとして、君の方から用件があるなら気楽に言いなよ。ちゃんと聞くから」
綾が彼女の沈黙の理由に思い至ってそう呟くと、背後の呼吸音が小さくなるのを感じた。
これで彼女の口が少しでも軽くなればいいが、しかし、存外に生真面目な性格だ。だからこそ、こうして抱え込んで自分の夢を自分で折るような真似をしたんだろうと思わせる。
綾がやるせない気持ちになりながら顎を上げて空を仰ぎ、吐息をこぼしたその時。
「――母に、言われたんです」
そんな呟きが聞こえた。綾は目を丸くして口を閉ざすと、徐に瞬きをする。
そして微かに歩調を落として咲良の隣に並び、咲良の目を見た。
頑張って打ち明けてくれたことへの称賛の念を抱きつつ、しかし、それを褒めてほしがるような相手でもないと知っているから、代わりに綾は尋ねた。
「君がファッションデザイナーになる必要はあるのか、って?」
咲良は目を泳がせ、この期に及んで少し躊躇うも――やがて、頷いた。
それを見た綾も何度か首肯を返し、その事実を改めて受け止める。もしも自分が将来の夢を親族に明かし、それについて、お前である必要はないだろうなどと言われたら手が出てしまいそうだ。しかし、彼女は存外に生真面目だから実直に受け止めて折れてしまったのだろう。
「高校に上がって少し経って、大学の話をしたんです。その時に初めて、今まで趣味でやってた被服の道に進みたいって打ち明けて……そしたら、専門の道に進んで芽が出なかったらどうする、って。潰しが効かない技術を学んで、辞めたくなったらどうするって」
咲良は目尻に涙を浮かべ、そう語る。綾は口を挟まず、静かに彼女の告白に耳を傾けた。
「何も言い返せませんでした」
酷い話だ、と思うのは少し安直か。彼女の母親の気持ちは確かに理解できる。
夢を見るのは高潔で綺麗かもしれないが、現実は綺麗なものだけで構築されていない。今、彼女は挫折しているが――果たして彼女の母親が止めぬまま進みたい道に進んで、大人になって道半ばで折れた時。専門的な知識しか学んでこなかった人間は他の人より選択肢が少ない。
「仕方が無いんです。ウチ、お父さんが事業拡大に失敗して滅茶苦茶借金を背負って、首の皮一枚ってところで、お母さんが会社で重役を貰ってどうにか立て直して……だから、凄く安定志向になるしかなかった。お母さんは、そうすることで家族を守ったから」
綾は腰に手を置いて空を仰ぐ。歪んだ口から静かな溜息が出た。
咲良を応援したい気持ちはある。しかし、無責任に背中を押すことはできない。
そして、一度地獄を見て、地獄から家族を連れて這い上がった人間が、地獄に落ちないためにと授けている教訓を無下に出来るほど愚かでも居られない。
綾は「ううむ」と腕を組んで唸った。
「心理的には常磐の味方をしたいんだけどさ。その……大変申し訳ないけど、私は君のお母さんの気持ちも分かるんだよね。だってさ、死に物狂いで家族の食い扶持を確保した人間が、家族の未来を憂慮してシビアな意見を出すのは当然だと思うんだ」
気落ちさせてしまう可能性を考えつつも、しかし誠実に自分の意見を伝える。
失望させたかと彼女の顔を盗み見ると、意外にも、咲良の表情に悪感情の類は見られなかった。彼女は少し呆けたように綾を見詰め、「そうですよね」と呟いた。
その瞳には微かに救われたような色が見える。安心や安堵とでも言おうか。
それに気付いた綾は眉を上げて咲良の表情を観察し、思案する。
自分の味方をしてくれなかった人間への安堵。昼休みの言動。それらを記憶から掘り起こして一つずつ確かめた綾は、ちぐはぐに見えるそれらが一つの線で繋がっていると気付いた。
「ああ、そうか」
思わず呟くと、「……どうかしました?」と不思議そうな咲良の目が綾を見る。
「いや、大した話じゃないんだけど。勘違いをしていたのに気付いた」
いっそう不思議そうに首を傾げる咲良へ、綾はこう語る。
「私は今……君の全面的な味方にはなれないって言ったのに、何故だか君は少し安心した。昼休みの話でもそうだった。君はその話を誰から言われたのか、明かそうとしなかった。妙だと思ったんだよ。だって、あれだけ打ち込んでいたファッションの道を諦めるに至った原因を、君は擁護するような姿勢を見せていたんだから。でも、違った。私が勘違いしていた」
まさか気付かれると思っていなかったのか、咲良は驚いたように綾を見詰める。
「――君は、お母さんを悪者にしてほしくなかったんだ」
何で分かった。そう言うように彼女の双眸は丸く見開かれる。
その反応から自分の仮説が正しいことを察した綾が「大切な家族だ。敵じゃない」と重ねて言うと、咲良は歪めた顔を隠すように俯いた。ぐっと唇を噛んだが、その目尻に粒が膨らんだ。
彼女は両袖で頻りに目元を拭い、「はい」とくぐもった声で認めた。
綾は頭の中で諸々が紐づいて、ようやく肩の力を抜くことができた。
「やっと理解できた。お母さんが大切だから――お母さんの言葉をしっかりと受け止めて、向き合いたいんだ。でも、自分の中に正解を見出せなかった。だから、自分が夢を諦めることで、納得できる終わり方をさせようとした」
彼女の味方をすると決めた時点で、咲良の夢を諦めさせた敵が居て、敵が発した言葉で彼女は苦しんでいるのだと綾は思い込んでしまった。だが、答えは違った。
尊敬する人間が実体験に基づく問題提起をして、返答が出来なければ、それは自己否定に帰結するだろう。そう納得した綾は、余計にこの問題が難化するのを感じつつ――しかし、ようやく咲良が感情を吐き出せたのだと安堵し、その背中を軽く叩いた。
「大丈夫。誰も悪くないよ」
綾がハッキリと告げると、咲良は縋るように綾の服の裾を掴んで寄せ、そのまま抱き着いて小刻みに肩を震わせた。存外にストレートな感情表現に綾は少々面食らいつつも、周囲の奇異の視線を手で追い払い、空いた手でその背中を軽く叩いてやった。




