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11話

 常磐咲良はかつて服飾の道に進むことを志していた。


 それは、入部して間もなく制作したあの作品の完成度からも窺えることだ。


 以前から服飾の勉強をしてきたのだろうという技術があり、被服部の顧問をして『本気』を語らせるくらいには熱量を持っている。そう、技術やセンスだけではない。あの無数のデザイン画からは、スケッチブックを経由して咲良の心血を注ぎ込まれるような感覚があった。


 だからこそ分からないのは、強い展望を持って被服部の門戸を叩いた彼女が、何故、今や全てを手放して別の生き方を選ぶようになったのか。


 綾は昼休みまでの時間、ずっとそれを考え続けて授業を上の空に過ごした。


 迎えた昼休みも、自席で高木と向き合いながら弁当を食べ、黙々と考え事に耽る。普段はお互い思い思いに適当なことを話し合っているが、今日は綾の様子が普段と違うことを看破し、高木は何も言わずに綾の考え事を尊重してくれている。


 相変わらず距離感を測るのが上手な友人だった。


 一年生の後半からまともに話すようになったが、思い返せば、陸上を辞めて途方に暮れていた綾を適当に気遣って適当に振り回してくれたのも彼女だった。


 あの頃の綾は、誰かにそうしてもらうことを望んでいた。同じように咲良を――だが、咲良は放っておいてくれと言った。綾は思考をそこに帰結させ、溜息を吐く。


「幸せが逃げるぞ」

「お裾分けだよ。幸せ者だからね」


 ――迷子の手を引く。綾は咲良へそんな認識を抱いている。


 何と傲慢なことだろうか。つまり自分は正しい道を知っている人間であると考え、彼女は道を踏み外した幼子だと一方的に認知しているのだ。そう考えると気分が滅入っていく。


 自分が正しいという確証も無いのに何らかの助言をしたいなどという考えは綾の傲りに過ぎず――しかし、綾の目にあのやり方が優れたものに見えないのもまた事実。


 腕を組んだ綾は、ふと高木が目に留まり顔を上げる。


「そういえばさ」

「うん?」


 高木はサンドイッチを頬張りながら適当な相槌を打った。


「去年、私が陸上を辞めた時。どうして声を掛けてくれたの?」


 思い返せば高木は綾のようにお節介な性格でもないのに、表面を取り繕った綾の気落ちを見抜いてフォローを入れてくれた。彼女らしくない、と言ってしまうと少々語弊が生じてしまうような気もするが、しかし、やはり意外ではある。


 高木は唇の端のマヨネーズを舌で拭って何ともなしに答えた。


「まあ、その前から多少は話す仲だったからね。私の中では友人に分類されてた。友達が落ち込んでたら流石に声を掛けるだろ? それだけだよ」


 少しむず痒い返答を聞いてしまった綾は何も言えなくなって唸り、辛うじて「そっか」と呟いた。有難い話だが、面と向かって言い合うと少々恥ずかしいような気もした。


「じゃあさ、もしそこまで仲が良い訳でもないけどちょっと顔見知り程度のクソ生意気な後輩が、確証は無いけどもしかしたら落ち込んでるのかもなぁ……くらいの雰囲気だったら?」


 それが綾の実体験に基づいた仮定だと、やはり彼女はすぐに気付いた。


 しかしそれを言及することもなく、目を細めてパックジュースを啜って思案。


 数秒の沈黙と思考の後、高木は頬杖を突いてこう回答した。


「私だったら声は掛けない。友人という立場での心配と、顔見知り程度のお節介は別だから」

「……だよね」


 自分の選択が余計なお世話に分類されることを再認識できた綾は、感謝と共に思考をそこで打ち切ろうとした。しかし、どうにも未練がましく思考が切り替わらない。相変わらず頑固で往生際が悪いと思いながら、この葛藤を抱えてしばらく生きていこうと綾が考えた、その時。


 「ただ」と高木の言葉が続く。


「お前は声を掛けるだろ」


 高木は見透かしたように笑う。綾は目を丸くした。


「どうして」

「そういう奴だからだよ。――物事に答えを出さないまま、そういうものとして受け入れて飲み込む技術が現代日本じゃ要求される。お前にはその技術が無い。納得できないモノには納得のいく回答を見出そうとするし、理解できないモノに直面したら自分の物差しを作り直す。誰かの歪を理解して、自分という人間の尺度をその形に再構築する」


 褒められているのか貶されているのか今一つ判然としないまま考え込む。


「困ってる奴を放っておけないんだろ。だったら行けばいい。罪悪感も後悔も後から付いてくる。言い換えれば、先にあーだこーだ考えたって仕方がないんだよ」


 少し、足に力が入った気がした。あと少しの切っ掛けで腰を浮かせてしまいそうだった。


「私はお前の正しさを評価できない。物差しが違うから」


 高木は人差し指を畳み、中指と親指で物差しを作って綾の上体を測った。


「でもお前は人の正しさを後押しできる。物差しを作り直せるから」


 不思議とその断言はすんなり呑み込めた。


「私はお前みたいに色んな人間をしっかり見ることはできないけど、少なくとも自分の身近な人間だけはよく見ているつもりだよ。或いは、お前よりも」


 ――最近。色々な人間に評価される。


 例えば、様々な切っ掛けとなった茅野有季からは人間をよく見ていると洞察力を評価された。常磐咲良からは風俗で説教をしそうだ、と傲慢なお節介を揶揄された。被服部顧問の佐伯からはお節介という評価と同時に、傍に居ることで安心できる存在であると、その安定感を認められた。そして今、高木からは不定形であると表現された。


 人間を見て、余計なお世話に端を発して、誰かに合わせて形を変える。


 それが陸上を失った水城綾という人間の輪郭なのかもしれない。


 気付けば綾は椅子を引き、徐に立ち上がっていた。それを静かに見上げた高木は、昼食を再開しながら「いってらっしゃい」と目を瞑った。


「すぐ戻ってくる。とは思う」




 一年生の当該クラスを訪れた綾は、突き刺さる視線を歯牙にもかけず目当ての人間を呼んだ。


「常磐」


 自席で一人寂しそうに弁当を食べていた常磐咲良は、まるで幽霊でも見たかのような顔で呆然と綾を見詰める。頬が引き攣っていた。


 一部の女子生徒から疎まれているとはいえ、全員ではない。人気な男子や、或いは女子にも良い顔をしているのも知っている。


 つまり。こんな衆目で誘えば先ほどのように不遜で雑な対応ができない訳だ。


「昼飯を食べよう。ちょっと話がある」


 額に青筋を浮かべた咲良は何かを言い返そうと口を開きかけ、しかし突き刺さる大勢のクラスメイトの視線に気付き、ぐっと唇を噛んだ。そして、微笑み、弁当を閉じて持った。


 ――昨日と同様に中庭のベンチに並んで座ると、他の生徒が近くに居ないのを確かめた咲良は、たっぷりの嫌味を含んで挨拶をした。


「ほんと、良い性格してますね。あそこで誘われたら断れないって分かった上で」

「悪いとは思ってるよ。あのやり方は最初で最後にする」

「ええ、そうしてください。私も先輩が迷惑防止条例で警察のお世話になるのは嫌なので」

「お前――君、ほんと、自分のことは簡単に棚に上げるよな。先にこのやり口を使ったのは君の方だろうに」


 教室の人間に聞こえるような声で告白をすることで自分の評価を上げようとした。対する綾は教室の人間に聞こえるように言うことで彼女の逃げ場を狭めた。似たようなものだ。


 素っ気なく反論した綾に、咲良は言い返せず口を噤んで睨みつけてくる。


「――で、なんですか。私を狙ってるんですか? すみませんが先輩のことは友達とすら思ってないので」


 綾はそれには何も言い返さず、真面目な顔で彼女を見詰めた。


「常磐は、なんで被服部を辞めたの?」


 咲良の目が大きく見開かれたかと思うと、何かに気付いたように細くなる。


「盗み聞きですか。素敵な趣味をしてますね」

「人聞きが悪いな。廊下の会話が聞こえたら盗み聞き扱い?」

「……もう構ってくるのやめてくださいよ。この前の一件は謝ったじゃないですか」

「迷惑だって自覚はある。だから、こっちから声を掛けるのはこれが最後だって約束する」


 綾としても、彼女が望まないことをするべきではないという曖昧な線引きはある。


 だから、呼び出すのはこれが最後。ここで彼女が拒絶を口にしても会話は終わり。


 咲良はうんざりした顔で何かを言おうとするも、真剣な綾の表情を見て眉尻を下げ、露骨な溜息を吐き出す。ぐっと唇を引き結んで数秒後、呆れ果てた声を上げた。


「……やめてくださいよ、こっちは、頑張って割り切ろうとしてるんだから」


 それを拒絶の言葉と解釈した綾は、ふぅ、と溜息を吐き出してからそっと腰を浮かそうとした。だが、綾が足に力を入れて謝罪の言葉を用意しようとしたその時、彼女の言葉が続いた。


「笑ったら殴ります。余計な口を挟んでも蹴ります」


 綾はぴたりと口を噤む。咲良は微かに頬を染めると、絞り出すような声で告白した。


「ファッションデザイナーになりたかったんです、私」


 知っていた。だが、改めて彼女の口からその事実を聞かされた綾は驚きと感嘆を抱く。


 夢を抱く人間は数多く居たとしても、この年齢でこれだけ明確に目標を持って必要なスキルを磨いてきた人間が、果たしてどれだけ居るだろうか。


 恥じ入ることじゃないだろう。そう言おうとしたが、今は余計な口を挟みたくなかった。


 すると、咲良は細めた目で少々恥ずかしそうに睨んでくる。


「笑わないんですか」


 綾は少々呆けた顔でその疑問を受け取った後、真顔でそれを否定した。


「いや、笑わないよ。そもそも――私は被服部の部室で、君が好きに処分しろと言ったらしい作品を見せてもらった。立派なワンピースだった。綺麗だと思ったよ。でも……私は技術を適切に評価できないから、凄いと思ったのはどっちかというとデザイン画の方」


 まさかそこまで見られていると思っていなかったのか、「そっちまで見たんですか⁉」と犬歯を覗かせて威嚇する咲良。だが、綾は小馬鹿にすることなく真剣に向き合った。


「入部してからたった数か月で何百枚。それは――簡単なことじゃないと思う。自分の中にハッキリとした夢を持っていて、自分の現在地と必要な努力を分析して、心血を注いだ証だ。憧れるくらい君は努力をしていた。だから君の夢は納得できるし、笑うなんてしない」


 幾らか語気が強くなってしまったことを、言い終えて呼吸を整えながら後悔する。


 傍ら、咲良は心配になるくらい顔を真っ赤にして芝生を見詰めていた。肌の赤と目の白がコントラストに富んだ紅白を生み出しながら、深紅に染まった耳をカーディガンの覗く手で隠し、「別に」とか「それくらい」とか判然としない言葉をもごもごと呟いている。


「――だからこそ、君がそれを捨てた理由が私には分からなかった」


 無意識に歪みそうになった顔をどうにか真剣な顔に押し止め、綾はそう疑問を絞り出した。咲良の目が芝生を見詰めたまま大きく揺れ、一瞬、顔が泣き出しそうに歪む。


「君は、自分にはもう優れた容姿しか無いなんて言ったけど、そうは思えなかった。でも君はそう言った。君が、あんまり踏み込んでほしくないのは承知で、でも気になった」


 綾が率直に自分の思うところを明かすと、咲良はぴたりと閉じた膝に両手を置いて、揺れる目で芝生を眺め、何度か表情を切り替える。葛藤、怒り、羞恥、苦悶、屈辱、悲哀。強く唇を噛んだ彼女は膝に爪を立てると、絞り出すように熱い呼吸を吐き出した。


「私である必要はないと思ったんです」


 そっと、言葉が吐き出された。


「今まで私が居なくても成り立ってきた仕事に、後から私が入っていって――そこに『意味』ってありますか? 私は、必要ですか?」


 熱と諦観を帯びた声が自問自答をするように呟かれた。


 綾は「意味」と口の中で呟く。――そもそも、労働に意味などあるのだろうか。


 多くの人間は意味もなく、ただ環境の善し悪しや適性で仕事を選ぶ。だとすれば彼女が被服の道を選ぼうとすることに意味を追い求める必要があるのか。


 だが、現場において意味など必要とする者は多くないという実態は、必ずしも、これから道を決めようとする者が意味を考えなくていいという考えの助長に繋がる訳ではない。


 確かに、自らの行動や立場の意味というものも考えるべき事柄かもしれない。


 だが――その自問自答が、咲良のあれだけの熱量を消し去るなど考え難い。綾は複雑化していく思考を一度脇に置いて、一先ず、浮上した疑問をできる限り的確に研ぎ澄ます。


「誰かにそう言われたの?」


 自問自答の挫折にしてはあまりにも性急だったから、誰かの苦言を勘繰った。


 そしてそれは、存外に的確だったらしい。芝生を見詰める咲良の双眸は大きく見開かれ、そして、虹彩に微かな憤慨と焦燥が燃えた。威圧感を宿しながらも動揺に揺れる目が綾を見詰め、彼女は震える指を畳んで膝の上に拳を作り、どうにか言葉を紡いだ。


「……先輩には、関係ないです」


 図星だったようだ。最後の一枚、不可視の障壁を手に感じた綾は言葉を探す。


 躊躇はある。そもそも――綾が咲良にここまで入れ込む理由はない。


 自分を善人だとは思わないし、公平平等公正を重んじる優等生だとも思えない。優しいとは思えないし、真面目だとも思わない。


 ただ、身の回りに落ち込んで腐っている人間が居るのが、不愉快だった。


 それは、一度腐った経験がある故の共感なのだろう。同情ではなく、共感。


 泥の飴を舐め続けるような日々を経験した。晴れの日も雨の日も、平日も休日もずっと汚泥を啜り続けてベッドの上で物思いに耽る日々。


 考え過ぎて眠れずに明かした夜もよく覚えている。


 だから綾は、腐った人間を放っておけなかった。


 しかし、二人には決定的な違いがある。それは、綾が自らの意志で極々僅かな再起の道を手放したのに対して、彼女はまだ戻れる可能性が残っているということ。


 綾がお節介を続けるのに、それはあまりにも充分な理由だった。


「挫折した人間の気持ちは、多少理解できる。傲慢かもしれないけど、力になりたい」


 綾は葛藤を振り払って、そう素直に打ち明けた。


 咲良の目が大きく見開かれる。そしてその顔が歪み、ぐ、と奥歯が噛み締められた。


 仄かな怒りと自己嫌悪がその瞳に宿ったから、ああ、と綾は胸中で呟いた。


 ――間違えた。


「知ったような口を利かないでください。先輩に私の何が分かるんですか」


 綾はしばらく無表情に咲良を見詰め、段々と、吐き出した言葉の強さを痛感して自己嫌悪を強くする様子を眺める。だが、悪いのは彼女の言い方ではなく、綾の言葉だった。


 傲慢が過ぎた。


 同じ立場に立っているからといって同じような苦しみを味わっている訳ではなく、加えて、綾がどんな思いをしていようが結局それは他人事であり、それを武器にしてはいけない。


 咲良が撤回の言葉を吐き出す前に、綾は表情に謝意を乗せて瞑目し、頭を下げた。


「…………ごめん。全部、自己満足だ」


 綾が下げた頭を、咲良は酷く喪心した様子で見詰めていた。普段の軽口のような追撃は頭すら覗かせず、いっそ、謝罪すら出てきそうな表情だった。顔を乱雑に絵の具で塗りつぶしたように歪め、何度か口を開閉する。しかし、謝罪すべきは彼女ではないから、罪悪感を刺激するだけの存在に成り下がった綾は速やかにその場を去るべく、腰を浮かせた。


「悪かった。こっちからは二度と話しかけない。約束する」


 最後にそれだけ言い残すと、綾は一度も開かなかった弁当を持ってその場を去った。


 段々と小さくなっていく綾の背中を、咲良は揺れる目で見送る。いつぞやと立場が逆転した。そこまで強い言葉を使うつもりはなかった。心配をしてくれていたのは――正直なところ、理解できるし、嬉しい。吐き出せて楽になる気持ちもあった。


 だからこそ、綾にあんな真似をさせたい訳ではなかった。


 だが、それでも。軽々しく理解者面をしてほしくはなかった。


「…………私だって」


 泣き言を呟くと、それを攫うように秋の風が抜けていった。




 間もなく五時間目も始まるという頃、咲良は弁当箱を持って教室に戻った。


 何名かの女子が疎ましそうな目を向けてくるが、咲良は笑みを返す余裕もなく机に戻る。


 頭の中が滅茶苦茶に散らかっていた。全部、水城綾のせいだ。こんな思いをするくらいなら彼女を利用しようなどと考えるべきではなかった。不覚にも――少し、辛い思いを打ち明けて励ましてもらおうなどと考えてしまった。今朝は嫌味を言ってしまったが、名前を呼んだのは陰口を言っていた女子達を追い払う為だったのだろう。こうして昼食を誘いに来たのは、被服部の件を知って黙っていられなかったから。出会いが出会いでなければ、もう少し距離を縮めてみたかったと思ってしまうくらいには、彼女は優しい人だった。


 だが、それもこれも、もう全て終わりだ。彼女から話しかけてくることは二度と無い。


 こちらから声を掛ける動機も大義名分も無いから、だから全部、終わりだ。


「常磐って、水城先輩と知り合いだったの?」


 五時間目の準備をしようとした咲良に、二つ隣の席の女子がそっと声を潜ませた。


 思わず目を剥いてそちらを見る。彼女も少々緊張の面持ちだ。名前は確か――真壁。


 今までまともに会話したことは無く、どちらかというと咲良を疎ましく思っている女子グループの中の一人だった。だから彼女は、クラスの友人らしき人物から正気を疑うような目を向けられているし、きっと咲良も似たような顔をしていることだろう。


「そう、だけど。真壁さんこそ知り合い?」

「ああいや、私は――噂だけ知ってる感じ」

「ああ、この前の?」


 咲良は有季との交際疑惑に関する噂を思い出して一人納得するが、誤解されていると感じた真壁は慌てて両手を伸ばして振ると「あ、違くて」と微かな憧憬を目に光らせた。


「えっと、私、陸上部なんだけど。あの人、陸上部で結構伝説的な人なの」

「…………圧政を敷く顧問を殴ったとか?」


 陸上部とはまた意外な所属だ。綾のことをまるで知らなかった咲良は、彼女ならそれくらいやりそうだと努めて真剣に憶測を口にすると、どうやら真壁の妙な壺に入ったらしい。


 「んふ!」と彼女は噎せると、何度か咳払いをした後、誇らしそうに綾を語った。


「去年、当時一年生の時に陸上の七種競技で全国大会に出て、三位入賞」


 数秒、咲良は思考が完全に止まっていた。ふと我に返り、自分の表情を確かめる。


 間抜けな顔をしていないか。それとも恐ろしい顔になっていないか。少し遅れて意味は理解できた。全国大会、選手権大会のようなものだろうか。全国三位とはつまり、全国の七種競技で活躍する高校女子達の中で、上から三番目。俄かには信じ難い。


 言われてみると確かに、体形は非常に洗練されている印象を受ける。だが、だとしたら、


「なんで、今は……?」


 当然の疑問が辛うじて咲良の口から絞り出された。


 数秒、真顔で咲良を見詰めた真壁は、やがて苦笑するように顔を歪めて答えた。


「怪我しちゃったらしいの。結構重めの膝の怪我。復帰に一年以上かかるから辞めたみたい」


 咲良は自分の顔に触れる。また、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。


 ――挫折した人間の気持ちは、多少理解できる。


 「多少?」一人呟いた震える咲良の声を、真壁だけが不思議そうに聞いていた。

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