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10話

 翌日の登校は普段より少しだけ早かった。


 昨日の出元不明な噂話に懲りたなどという殊勝な理由ではなく、単に早起きして二度寝できず、時間が中途半端に余ったから電車を何本か早くしただけの話だ。


 大勢の生徒達が校門に吸い込まれていく光景を、綾は欠伸と共に眺める。


 それから、冷え始める朝の空気に身を委ね、色付く街路樹の葉と青空の写真映えしそうな景色に見惚れながら学校の敷地を歩き抜け、そして昇降口に辿り着いた。


「おはよう、山田君!」


 ふと知った声が聞こえて綾が顔を上げると、そこには知った顔。常磐咲良だ。


 彼女は昇降口でバッタリと出会った同じクラスの男子に笑顔で挨拶をしていた。


「あ、おはよう。いやぁ、少しずつ秋も本格化してきたねぇ」


 挨拶を受けた男子は柔和な表情で手を振り返していた。美形な男子だ。体格も良いが、運動部だろうか。とても女子に人気がありそうだが、果たして咲良はどのような意図で声を――昨日のこともあって綾がそんなことを考えていると、綾の脇を後輩らしき女子二名が抜けた。


 そして、昇降口で男子と談笑する咲良を見て眉を顰め、囁き合う。


「またやってるよ、アイツ」

「マジビッチ」


 別に挨拶くらいはいいではないか。


 そう思わないこともなかったが、綾の視認する咲良のそれは氷山の一角なのかもしれない。引き続きひそひそと交わされ合う陰口を暫し静聴していた綾は、昨日のこともあって積極的に擁護する気にはなれないものの、しかし看過することもできず折衷案を選ぶこととした。


「常磐」


 綾が声を張り上げると、近くで陰口を囁き合っていた女子二人は肩を震わせてこちらを振り返り、そして気まずそうにその場を去った。山田と呼ばれていた男子はこちらに気付き、そして何やら幾つかの言葉を咲良へと発した後に階段の方へと向かっていった。


 そして、咲良はそれを見送った後に綾を見ると、無表情に冷めた目を向けてくる。


「もう先輩に用は無いって言ったつもりですが」

「『またやってるよ、アイツ』『マジビッチ』だってさ」

「正気ですか? 普通、陰口を本人にそのまま言います?」


 綾が率直に事実を伝達すると、流石の咲良も呆れた顔で呟いた。


 綾は靴を脱いでそれを持ったまま一年生の昇降口に立って呆れ果てた目を返す。


「本題に入るための枕詞だよ。どうせ全部知ってるんだろ」


 咲良は難しそうな顔を浮かべて黙ると、やがて観念したように目を逸らす。


「……まあ。一部の女子にそう思われてるのは知ってますけど」

「笑顔で挨拶するのが悪いとは思わない。さっきの陰口に限っては全面的にあの子達が悪い。でも――常磐の行動原理が昨日のそれと変わらないなら、もう少し上手く立ち回れと言いたい」

「またお説教ですか。好きですね、そういうの」


 感心したような顔で小馬鹿にする声を上げ、咲良は腰に手を当てて鼻を鳴らす。


「私は別にいいんですよ、陰で何を言われたって。そういう言葉に惑わされて自分のやりたいこともできず、不本意な人生を空虚に歩んで後悔しながら死にたくはないので」


 状況が違えば立派な思想だが、彼女の口からこの状況で言われると納得し難い。


「……なら訊くけど、君は一体何がしたいの?」


 彼女の言うことは至極真っ当だったが、問題は、彼女のその行動が本当に常磐咲良自身の望むものであるかどうかだ。綾は彼女の主張は否定しないまでも、そう尋ねることにした。


 一瞬、咲良は鼻白んだ様子で押し黙るも、目を逸らしながら言い返す。


「先輩に関係なくないですか?」

「うん。だから、聞いているだけ。君に答える義理は無い」


 素直に自他の権利を整理した上で、あくまでもこちらの要求に過ぎないことを念押しする。暖簾を思い切り腕で押した咲良は、前のめりになるように目を白黒させ、何度か口を開け閉めする。苦言や文句を言おうとしては閉じた末、弱々しく眉尻を下げて瞳を伏せた。


 十数秒の無言。話は終わりか? と、綾が引き下がろうとした矢先、ぽつりと言葉が滴る。


「………………分かんないです」


 そう呟く彼女の輪郭は酷く曖昧で、それなのに風貌はやけに小さく見えた。


 綾は胸の奥でああ、と呟いた。デパートで途方に暮れてしまった迷子を見付けたような、そんな感覚だ。彼女は自分でも何をしたいのかよく分かっていないのだろう。


「ただ、何も無い自分が嫌だったから……何か欲しくて。私には、もう見た目しか無いから」


 そう呟いた咲良は、やがて虚しそうに呟いた。


「昨日のことなら何度でも謝ります。見下しても馬鹿にしてもいいんで、もう、放っておいてもらえますか。先輩には、私を理解できないと思います」


 それだけ言い残すと、咲良は靴箱から内履きを取り出して履き替えて去って行った。


 もうその目に綾は映っておらず、綾は彼女の望むまま、口を噤んで自身の靴箱の方へ戻る。


 ――放っておいてください。


 そんな風に言われたら、もう口を挟むこともできなくなってしまう。彼女がそれを望んでいる以上はそうするのが正しいのだろう、と思っているのに、あんな顔を見せられてしまったら易々と引き下がるのも難しい。だが、彼女に何かを与えられるほど自分は富んだ人間ではない。


 思考がぐるぐると際限なく巡り続け、瞼が重たくなっていく。さっさと教室に行こう。


「あれ、水城さん?」


 意外そうな声が綾の鼓膜を撫でたから、綾は靴を履き替えながらそちらを確かめる。


 目を丸くして立っていたのは有季であった。


「珍しい! こんな早くに」

「早起きしちゃってね。お陰で少し寝不足だよ」

「授業中に寝ちゃ駄目だよ?」

「善処する。休み時間に少しずつ寝るよ」


 有季は急いで靴を脱いで慌ただしく履き替えると、嬉しそうに綾の隣に並んで歩き出す。


「なんか新鮮! 水城さんとこの時間にここで会うの。いつも遅いよね」

「学校で過ごす五分と家で過ごす五分は等価じゃないからね。私は賢いの」

「あは、私なんかは家より学校の方が気楽だけど」


 そんなやり取りをする最中、有季の表情は心底から嬉しそうに緩んでいた。


 ここ最近ですっかり距離が縮まったと我ながら思うところではある。


 ――そう考えるとやはり頭に浮かんでくるのは交際の噂を流した人間のこと。そして、縮まった距離を見て、綾が同性愛者と知っている人間が何を思うかなど。


 そんなことを考えると再び思考が咲良の方へと帰結して、綾はひっそりと溜息をこぼした。


 そうして二人並んで階段の方に足を運ぼうとした、その時だった。


 一階の廊下の向こう側、職員室前につい先ほど見かけた後ろ姿を見付ける。栗色に染められた髪と少し短めなスカート丈。比較的小柄なその背中は咲良のものだった。


 すっかり教室に行ったものだと思っていたが、何をしているのか。


 思わず足を止めて観察すると、対話しているのは家庭科教師の佐伯であった。白髪の高齢女性ながら背丈は学生よりもピンと伸びており、若々しい。性格は温厚で若者をよく理解しており、男女を問わずに人気のある先生である。


 そんな彼女が、今は少し真剣な顔で咲良と話し合っている。


 何か説教でもされているのだろうか。


 立ち止まって眺めていると、少し前を進んでいた有季が振り返って綾を見る。


「どうしたの?」

「ああ、いや」


 綾はそう言って視線を打ち切って有季を追おうとするも、ふと足を止めて黙る。


 そして進めた足を引っ込めると、片手を拝むように立てて有季に詫びた。


「悪い、ちょっと野暮用。先に教室行ってて」


 有季は驚いたように目を丸くした後、何かを惜しむように目を伏せた後、言葉を呑み込んだ。そして微かな笑顔を浮かべると「はーい」と言って努めて明るくその場を去って行く。


 綾はその背中を少しだけ見送った後、すぐに咲良の方へと歩いていく。


 そして昇降口から廊下への曲がり角の付近に身を潜め、黙って声に集中した。


 盗み聞きとは随分と趣味が悪い気がしないこともなかったが、聞かれて困る話を堂々と廊下でしないでほしいと開き直ることにした。


「どうしても戻ってくる気はないの?」


 佐伯が寂しそうに咲良へそう尋ねた。


 戻ってくる。何の話だろうか。――そんな綾の疑問をよそに、咲良は意外にも心から申し訳なさそうに応じた。表情は見えないが、見たこともない顔をしていることだろう。


「はい……その、佐伯先生にはたくさん気にかけて頂いたのに、すみません」

「謝らないで。でも、そっか。分かったわ。貴女は賢い子だから、きっと色んな考えがあってのことだもの。無理強いはしない――でも、被服部はいつでも待ってるから」


 「被服」綾は小さな声で呟いた。


「ありがとうございます。……本当に、すみません」


 咲良は気落ちしてくぐもった声でそう詫びた後、歩き出す。しばらくして、廊下の向こうからこちらに戻ってきた。綾はジッとその場に息を潜めて佇み、彼女がこちらを振り返らないことを祈りながら階段を上っていくのを見送った。そして、入れ違いに廊下を奥へと進んでいく。


「佐伯先生」

「あら、水城さん。こんな時間に珍しい。若手出勤ね」

「重役出勤に対義語なんて無いと思いますが。まあ、若いので」


 職員室に戻ろうとしていた佐伯は手を止め、扉の前から離れてしっかりと綾に向き直る。彼女が慕われているのはこういう部分なのだろうな。綾は話しやすさを実感する。


 だからだろうか。すんなり、率直に質問が出てきた。


「あの、常磐って被服部だったんですか?」


 佐伯は驚いたような目で綾を見詰めた。


 何でそれを知っている、という疑問が盗み聞きだろうという仮説で解消され、次に、どうして綾が咲良に関する質問をしてくるのかという疑問が浮かんでくる。それが表情の変遷から分かったから、綾は素直に、けれども咲良の尊厳を損なわない範囲で明かす。


「最近、常磐と膝を交えて話す機会が何度かありました。いつも――何かに焦っているような、そんな印象です。例えば、そう。家の鍵を失くしたような、そんな感じで」


 佐伯は静かに瞬きを繰り返すと、ほんのり頬を綻ばせて目を瞑る。


「焦るわよね。鍵を失くすと――交換費用とかとんでもないし」

「さっきの話で、彼女にとってのその鍵は、被服部にあるんじゃないかと思いました」


 綾がそう推論を展開すると、佐伯は少し悩んだ後に綾をこう評した。


「……以前から思ってたけど、水城さん。貴女、もしかして世話焼き?」

「お節介と言って貰えると、少しは気が楽になります」

「ならそんなお節介さんに免じて、先生の貴重な朝の時間をあげるわ。付いておいで」


 言うや否や、佐伯は鍵をポケットから取り出して歩き出して被服室へ向かう。


 綾は少々面食らいながらも「あ、ありがとうございます」と背中を追い駆けた。


 間もなく到着した被服室は、稀に授業で訪れる通り特筆するようなこともない。壁の棚には無数のミシンが並べられており、家庭科分野だけあり行き届いた清掃と片付けで殺風景だ。


 「こっち」と言いながら佐伯は準備室へと通じる押戸を開け、扉を足で止めながら綾を手招きした。少々緊張しながら「失礼します」と立ち入ると、綾は思わず呼吸を止めた。


「被服部は放課後の部活動中、各々、コンテストに向けて作品を縫ったりデザイン画を描いたりするの。これは常磐さんが、入部してからの数か月で縫った作品」


 支えを失って静かに閉ざされた扉を背に、綾は目の前のそれが示す事実に言葉を呑んでいた。


「彼女は退部届を出す際、これはもう好きにしてくれと言ったけれど。捨てるには忍びなかった。今でも結局、どうしようか迷ってるわ」


 そこにあったヘッドレスのマネキンが着こなすのは、春がよく似合うワンピースだった。


 カラーリングはベージュと白の中間程度。丈は長く、くるぶしまで覆っている。素足の見えるサンダルがよく似合いそうな透明感。カジュアルファッションだという事実をハッキリと認識できるのに、麦わら帽子が違和感なく溶け込むような繊細な色彩の感覚が綾の心を掴む。


 言葉が出なかった。全て思考の中で完結する。陳腐な語彙を吐き出せば吐き出すほど感じた感情が色褪せていくような気がして、それを大事にするために、綾は何も言わなかった。


「これも、参考資料等で見せていいって言われたものよ。デザイン画」


 そう言って佐伯が取り出したのは、側面がよれたスケッチブックだ。


 受け取った綾が会釈して無言でそれを捲ると、中にはたった数か月の在籍とは思えない程の無数のデザイン画が描かれていた。一年生の彼女が春先に入部して、夏休み頃の退部――春と夏のコーディネートが多く、幾つか、秋と冬も。秋のコーディネートの一つに付箋が貼られている。八月十八日。日付だけが書かれていた。次はそれを作ろうとしていたのだろう。


「なんだよ」


 ――私には、もう見た目しか無いから。


 そう語った先ほどの彼女の言葉を思い出した綾は、「あるじゃん」とスケッチブックを閉じた。


「小さい頃から夢を見て。何となく興味があって。被服部に入ってくるのは基本的にそういう子達。そして私は、そういう子達に自分が昔憧れた世界を知ってもらって、味わってもらうのを何よりも大切にしている。だから――明確な展望を持って門戸を叩いた彼女への接し方が、私には分からなかった。できたのはただ、全力に、全力で向き合うことだけ」


 マネキンを前にして腕を組み、誰にでもなく気持ちを吐き出す佐伯の背を綾は眺める。


「でも結局、彼女は服飾の道を諦めた」

「……理由は、ご存知ないんですか?」

「ええ、頑なに口を開いてくれなかった。それに、一介の顧問には訊く権利なんて無いもの」


 寂しそうに言った彼女は、やがて心の奥底に沈殿した膿を吐露した。


「指導者として、私に何が足りなかったのか」


 その呟きには寂寥感が濃密に滲んでおり、綾は目を瞑って言葉を選ぶ。


 咲良との接点はそう多くないが、それでもあれだけ癖の強い彼女だ。分かることは多い。


「常磐は基本、生意気なんですよ。経緯は省きますけど、私は彼女に嫌われてます」

「あら。そうなの?」


 佐伯は振り返って意外そうに口へ手を当てた。


「ええ。だから、佐伯先生に対する常磐の態度でビックリしました。アイツ、先生には猫被って接してますよ。本性はもっとドロドロしてますし、敵には牙を剥く奴です」

「こーら、悪口言わないの」

「だから、さっき廊下で二人の話を聞いた時。アイツが先生を尊敬してるのが分かりました」


 そう締めくくると、佐伯は面食らって口を噤んだ。


 綾は自分の言葉が軽薄なその場凌ぎの励ましではないことを伝える為に、努めて真面目な顔で彼女と向き合った。背筋を正し――敬意。そう、生徒と親身に向き合う教師と、何があったかはさておいて、誰かが捨ててしまった夢の残骸へ敬意を示す。


「別の、先生とは無関係な場所に何か理由があるように思えます。そしてそれは、アイツ自身の問題。でも、これは私の希望的観測ですが、アイツが悪い訳じゃなくて……すみません、全然整理しないまま話し始めたから話が取っ散らかってるんですけど」


 綾は額に手を置いて呻き、嘆息を挟んでマネキンを眺めながら持論を続けた。


「子供が迷子になるのは、ちゃんと見ていない親が悪いのかもしれないし、本人の不注意が原因かもしれない。或いは迷いやすいその環境が問題かもしれない。でも、それらに目を向けて改善できる立場の人ってそう多くは無いと思ってて、だから、私みたいな部外者にできるのは」


 そっと手を開閉する。少し冷えた指先を見詰めた。


「……手を掴んで、迷子センターに連れていくことだけだと思うんです」


 そこまで話した綾はふっと顔を上げ、今の自分の言葉を少し遅れて反芻する。そして、まるで意味の分からないことを言っていたと思い直して「いや」と呆れ果てた声を上げた。


「……マジですみません、完全に自己完結の独り言でした」


 対面する佐伯は皺の刻まれた顔に微笑を浮かべていた。だが、それは生徒を可愛らしく思う大人のそれではなく、強いて言うならば安堵から無意識に零れ落ちたそれのようだった。


「少し、安心したわ」


 綾は目を丸くする。


「君のような子が、彼女の傍に居て」


 綾は目を泳がせ、瞑り、後ろ髪を掻く。


「……嫌われてるんですって」


 そんな綾の言葉も歯牙にもかけず、佐伯はもう心配ないとでも言いたげな様子だった。

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