8・愚かな元婚約者の襲来、そして……
今回からまたユーリア視点に戻ります。
ある日、私は庭の花を眺めながらお散歩をしていた。
オブシディア家の庭はとても広大で、クリスタリムの庭にはなかった植物ばかりなので、見ていて楽しい。
(今日も食べられる気配はないし、穏やかな一日だな――)
「おい、ユーリア!」
(ん? この声は……)
「お前……この俺が毎日辛い思いをしているというのに、ずいぶん綺麗になりやがって幸せそうじゃないか」
「ヴォイド!?」
オブシディア邸の正門は閉じられているけれど、ヴォイドが門をガシャガシャと揺らし、私を怒鳴りつける。
「どうして、あなたがここに……」
「お前を問いただしに来たんだ! お前がいなくなってから、俺はずっと具合が悪いし、面倒なことや、嫌なことばかり起きるんだ! ユーリア。お前、婚約破棄の時に、私に縋るなとかおかしなことを言っていたじゃないか。もしかして、何か知っていたんじゃないのか? さては……」
(まさか、やっと私が聖女だってわかったのかしら……)
「お前が、リリーナの聖女の力を封じたんだろう!?」
「………………………………」
「そうだ、そうに違いない! お前、オブシディアの魔の力を頼って、リリーナと俺を呪ったんじゃないのか!?」
この期に及んでまだそんな盛大な勘違いをしているのか、と絶句する。
(やっと逃れられたと思ったのに……生きているかぎり、ずっとつきまとわれ続けるのかしら)
ああ……早く、アートルム様に食べられてしまいたい。
私はこんな世界で生きることに疲れたの、早く消えてしまいたい。
だって、生きていたっていいことなんてないでしょう――?
「ユーリア、大丈夫か!」
(――え)
絶望で瞳が虚ろになるのを感じていると、守るように抱き寄せられた。
「俺の婚約者に何の用だ?」
アートルム様が、私の身体を優しく包み込むようにしたまま、ヴォイドを睨みつける。
それは、私は今まで見たことがない、ぞっとするような冷気を秘めた眼差しだった。
ヴォイドはビクッと震えて身を縮こまらせるが、引き下がることはしない。
「貴殿が、こんな嘘つき聖女と婚約した哀れな辺境伯殿か。このような辺境に嫁いでくれる令嬢がいないから、仕方なくユーリアをもらったのかもしれないが。こいつはな、とんでもない悪女なのだ。婚約だけで、結婚はまだなのだろう? 悪いことは言わないから、この話は破談にすべきだぞ。これは、貴殿のためを思って忠告しているのだ」
ヴォイドはさも、「無知な辺境伯にわざわざ真実を教えてやっている、正しくて心優しい俺」とばかりにドヤ顔で言う。対極的に、アートルム様は心底ヴォイドに呆れているような渋面だった。
「……言いたいことは、それだけか」
氷よりも遥かに冷たい、極寒の声。周囲の空気の温度が下がったようにすら感じる。
「ユーリアは悪女などではない。誰より心が美しく、優しい女性だ。俺は断じて『仕方なくユーリアをもらった』なんてわけではない。俺は……ユーリアを、愛している」
えっ、と思わず息が止まりそうになる。
(これは……アートルム様の本心? それとも、演技?)
落ち着け、と自分を戒めるけれど、どうしてか胸の鼓動はうるさくなるばかりだ。
「ゲルニア公爵子息。これまでのユーリアに対する数え切れぬほどの無礼、誠心誠意謝罪しろ」
「謝罪? なぜ俺が? 詫びるのはユーリアの方だろう! ずっとリリーナを虐げていたのだから!」
「ユーリアが妹を虐げているところを、貴殿がその目で見たのか? ……そもそも、ここに来るまでのユーリアはひどく痩せ細り、不健康な状態だった。婚約者がそんな状態で、おかしいと思わないのか」
「そいつはひどい偏食で、リリーナがユーリアのために料理をしても、『こんなもの食えるか』と床に落としてしまっていたそうだ。そいつが悪い」
「貴族の令嬢が着るには相応しくない、質素なドレスを纏っていたこともか」
「そいつは非常識だから、好きで着ていただけだろう! ……だが……」
アートルム様に理路整然と詰め寄られて、ヴォイドの額にはかすかに汗が滲み始めていた。
まるで、見たくないものを眼前に突きつけられているように。
「だが、確かに……ユーリアと違って、リリーナは俺に贅沢な品物をねだってばかりだし、それを指摘したり、自分に都合が悪くなったりすると、すぐ泣くんだ。このままではゲルニア家の資産は底を尽きかねない。リリーナは心の清い令嬢で……こんなはずじゃ、なかった……。一体、どうなっているんだ……?」
――どうやらヴォイドも、何かがおかしいとは気付き始めているようだ。
だが自分が間違ったことを認めたら、自分が悪人となり、私に謝罪をしなければいけなくなるから、「気付きたくない」のだろう。不都合なことからは全て目を逸らして、悪いことは何もかも私に押し付けたいのだ。
「単にリリーナ嬢が本性を表し始めただけだろう。貴殿の愚かさが招いた結果だ」
「ぐ……っ。だ、だがユーリア! リリーナが悪女であるなら、俺に教えてくれればよかっただろう! そうしたら、俺はリリーナと婚約することもなかったのに!」
「リリーナの件でしたら、婚約破棄のあの場で、はっきりと申し上げましたが。周りの方々も聞いていたはずです」
ヴォイドは、ぐっと言葉に詰まる。
アートルム様は、私を護るように抱き寄せたまま、ヴォイドを鋭く睨みつけた。
「もういい。謝罪する気がないのならば、これ以上幼稚な言い分でユーリアの耳を汚すな。貴様のような男……情けをかけてやる価値は微塵もないのだと、はっきりわかった」
「な、なんだその態度は! 貴様、俺を見下しているのか!? 貴様が治めているのなんざどうせ、こんな魔獣ばかり出ると噂の、物騒な辺境だろう!」
「そう……貴殿の言う通り、この地は凶暴な魔獣の巣窟だ。貴殿のような軟弱な輩が1人で足を踏み入れるなど、命を捨てたも同然のこと」
「え……?」