10・虐げられていた令嬢は幸せになる
屋敷の中に戻ると、アートルム様が温めたミルクをくれた。
「大変だったな。……君が今まで、あんな男に苦しめられてきたのかと思うと、腸が煮え返る。もっと早く……君と出会えていたらよかったのに」
アートルム様は、本気で今までの自分の人生を悔やむように眉根を寄せていた。
その表情を見ていると、やはり彼の私への優しさは嘘ではなく……本物なのかもしれない、と思ってしまう。
「あの……先程の、アートルム様のお言葉なのですが」
「俺の言葉?」
「私のことを、あ……愛してる、というのは……。ええと、ヴォイドを追い払うために、演技をしてくださった……のですよね?」
「違う。俺は、本心を告げたまでだ」
真剣に見つめられ、夜空のような瞳に、吸い込まれそうになる。
「君は勘違いをしているようだが……俺は、君が愛しいから、妻にしたいと願った」
彼はまっすぐに私を見つめたまま、語り出す。
「オブシディア家では人間を食べているという噂が一部で流れているのは、俺も知っていた。だが、それは誤解だ。……おそらく、この地でよく他領の人間が行方知れずになるから、そんな噂が流れるようになったのだろうが。行方知れずになるというのにも、理由がある」
形のいい唇から「理由」は紡がれ、私は彼の言葉に耳を傾けたままでいた。
「オブシディアは、魔獣の発生源である呪いの沼が点在しており、普通の人間が生きてゆくには厳しい土地であると有名だ。だから人生に絶望した人々が、魔獣に食べられてしまおうとしてこの地を訪れる。だが商人や冒険者でもないのにこの地を訪れる人間は珍しいから、街の人間の間ですぐ話が広まり、俺のもとへも報告が届く」
確かに。国外の商人などなら厳重な検査を受けた上で入国してくるだろうが、逆に同じこの国からオブシディアを訪れる人間は珍しいだろう。私はまだこのお屋敷の外に出たことはなく、オブシディアの街にも行ったことはないが、もしかして私のことも何らかの噂になっているかもしれない。
「そこで、直接そういった人間に話を聞くと、大抵『殺してほしい』と言うのでな……。その理由は、君のように親や配偶者に虐げられてきたというものがほとんどだ。だから、その者の家族が居場所を突き止められないよう、名などを変えることで使用人としたり、街で仕事を斡旋したりしていたんだ」
「っ……申し訳ありませんでした、アートルム様」
私は、深々と彼に頭を下げる。
「……!? やめろ、何をしているんだ、ユーリア。君がそんなことをする必要はない」
「私は……お父様から聞いた噂話だけで、あなたは私を食べるつもりなのだと思い込んでおりました。ヴォイドは、リリーナからの話だけで、私を悪女と決めつけましたが……。結局、私だって同罪なのです。あなたのご厚意を、裏があるだなんて疑っていたのですから」
「俺達はまだ会ったばかりだ、警戒心を持つのは当然だろう。自分でも、あまりにも突然結婚を申し込んでしまったと思っているくらいだ。君の事情とはわけが違う。……あの男は長年ずっと君の傍にいたにもかかわらず、君のことを何もわかっていなかったのだろう。あまつさえ身勝手に君を傷つけた。君が自分を責める必要はない」
アートルム様がそう言ってくださっても、私は簡単に自分を許すことはできない。
すると彼は、私の心を溶かすような熱い視線を向け、一歩距離を詰めた。
「俺は、君がとても優しい人だということを知っている。今まで、人知れず頑張ってきたことも。……君がここへ来てくれてまだ1ヶ月程度ではあるが、君は使用人にもいつも親切だ。それに俺は、君がおいしそうに食事をしたり、楽しそうに本を読んだりしているときの顔を見ると、とても温かな気持ちになれる。君は、俺に幸せをくれた。……俺には、君が必要なんだ」
「――っ」
彼の言葉が、あまりにも嬉しくて……胸の奥深くに沁みて。
ぽろりと、涙が零れてしまった。
「ユーリア!? 大丈夫か、俺は何か、おかしなことを言ってしまったか」
「ち、違います。その……嬉しくて……」
浮かんだ涙を拭いながら、しっかり彼と向き合う。
「アートルム様。本当に……私で、よろしいのですか」
「君がいい。君でなければ駄目なんだ、ユーリア。俺と、結婚してほしい」
「……嬉しいです。だけど私……あなたに、言えないことがあります」
これから彼のお役に立ってゆくためにも、聖女の力を失いたくはない。
だからどれだけ愛していても、私が聖女だと、自分から明かすことはできないのだ。私には、制約があるから。
こんなわけのわからないことを言う、秘密のある妻なんて嫌ではないかと不安だったのに……アートルム様はふわりと優しく微笑んでくれた。
「奇遇だな、俺も、君に明かしたくても、明かせないことがある。……だから俺達は、お似合いなんじゃないか?」
――胸が、ドキドキと音を立ている。それは恐怖とは全く違う、熱くてとろけてしまうような鼓動。
(でも、確かに……アートルム様も、不思議な御方ではある)
――どうして、私を好きになってくれたのか。ここに来てからの私を見て気に入ってくれたのはともかく、最初に婚約を申し込んでくれたのは、何がきっかけだったのだろう。もしかして、本当は過去にどこかで会ったことがあるのだろうか? だとしたら、何故それを隠すのかは、わからないけれど……。
でも、いい。アートルム様にどんな隠し事があったとしても、構わないと思える。
婚約者からも、家族からも捨てられた私を、こんなにも温かく迎え入れてくれたのだから。
「私……もう、人生を諦めません。これから、もっと強い心を持ちます。あなたと、共に生きてゆきたいから……」
「そうか。俺は今の君も好きだが、君が変わりたいと願うのなら、俺もできるかぎりのことをしよう」
「ふふ……アートルム様は、本当にお優しい。私、どうしてあなたが、私のことを食べてしまうなんて思っていたのかしら」
「ふふ、確かにその誤解を知ったとき、俺も驚いたよ。……だが、まあ」
トン、と軽く肩を押され、壁際に追いやられる。
そうしてアートルム様が、私の顔の横に手をついた。
「『別の意味』でなら……君を食べてしまうかもしれないけどな」
「え……っ?」
お互いの顔の距離が、とても近く――彼は更に、私の方へと顔を寄せる。
そのまま、唇が触れ合いそうになって……胸の鼓動は、壊れてしまいそうなくらいだったけれど。
甘やかな息が微かに掠めただけで、そっと離れていった。
「……君が可愛すぎて、少し、急ぎすぎたな。この先はちゃんと、式を挙げてからにしよう」
アートルム様は冷静さを保とうとするように落ち着いた声で言ったけれど、微かにお耳が赤い。
きっと私の顔も、真っ赤に染まっているだろう。頬が熱くて、胸の奥が砂糖菓子のように甘く溶けてしまいそうで……こんな感情、今まで知らなかった。
今まで、聖女の力を持ちながらも、幸福とは無縁の人生だったけれど。
きっとこれからは愛する人と笑顔を交わし合い、幸せに生きてゆける――