つながる
つながる 1
佐倉活彦
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2022年4月4日、月曜日。京都は桜花巡覧の季節を迎えた。しかし新型コロナウイルスの渦中にあるので出控えている人が多い。新聞報道によると日本の一日当たりの感染者数は47,340人、死者数は34人、となっている。京都府でも感染者数919人、死者数2人となっている。住民は往来を断ち屋内に閉塞し、見えない敵に対峙しているのが現状だ。けれど仕事をしなければ生きていけない。マスクしてギュウギュウ詰めの電車に乗り出勤する。今では死語になった悲壮な企業戦士の復活を見る思いだ。
果たして人類は滅亡するのか打ち勝つのか、先行きの見えない息苦しさが漂うなか新年度がスターとした。京都府の南部を営業エリアとする老舗住宅設備会社の高尾設備㈱に5名の新人が入社した。京都市内の理工系私立大卒男子1名、文系私立大卒の女子1名、それに地元の府立高校普通科卒男子3名である。
朝礼でリクルートスーツに身を固め、白いマスクをした初々しい5人は、恥ずかしそうな挙動で従業員の前に横一列に並んだ。紹介したのは、背が低くて前頭部が禿げあがり、絶えず目をきょろきょろ動かして社員の挙動を窺っている営業部長の栗田三郎であった。風貌から想像すると仕事一途の印象を与えがちだが、休日には社員を誘って趣味の釣りに出かけ上下関係の融和を図る気遣いも見せる。社内では仕事には厳しいが情に厚い人として通っている。
その栗田部長がやや顎を上げ従業員を見渡すように左から真ん中右にと眼差しを配り、ひとり、ひとり名前と出身校を読み上げた。
営業一課に属する古参の田沼浩治は自分の席で背筋を伸ばし新入社員を歓迎するように相好を崩し聞き入っていた。
顔付きと心は水と油の如く離反していた。
コロナ禍で仕事が減っているし、新たな分野に進出する計画も聞いていないし、ひとりも辞めてへんので補充する必要はないし、何で5人も採用したんや。
新人は期待感も相まって、一時的にせよ職場に波風を立てる。勤続30年に達し、平社員でありながらも一定の役割を担っている田沼浩治にとってはそれが身辺に及ぶことを警戒しているのだ。
新人の紹介に引き続いて昇進人事の発表に移った。社長以下90人の中小企業であっても、年度初めには大企業の縮小版のような式事を慣例として行っている。
田沼浩治の挙動がそわそわして動悸が高く波打った。昇進には事前に知らせがある、なかったということは自分の昇進はない、と分かっている。しかし落ち着かない。
田沼浩治が籍を置いている営業一課からの昇進はなく、二課と三課から1名ずつ2人が主任に昇進した。いずれも途中入社であり新人の頃は手取り足取り取り教えた後輩である。業務経験からみると勤続30年にも及ぶ田沼浩治の足元にも及ばない。
栗田部長は落ち着いた声でおもむろに昇進を告示した。
「サービスセールスマンとして10年のキャリアを積んでいる。日常業務で若手を良く指導し、販売成績も優秀である」
田沼浩治は、チェッと舌打ちした。隣の席の富山高雄が聞こえたのかそれとも単に様子を窺っただけなのか、こちらに顔を向けたのを眼差しの端っこで捉えた。
指導性についてはいろいろな見方があると思う。しかしキャリアも販売成績も俺の方が上回っているではないか、この二人を仕込んだのは俺だぞ。俺の指導性は認めないのか、不服で相好が歪になった。
次いで係長昇進者を発表した。
「勤続年数15年になり機器施工管理士として貢献してきた実績を高く評価する」、
昇進は当然と言わんばかりに栗田営業部長の顔面が紅潮した。
こいつも俺が仕込んだのだ、もう15年前になるのか。畑違いの会社から転職してきたので何にも知りよらへんかった、工具の名前すら知りよらへんかったのにな、とまた舌打ちした。隣の席の富山高雄が再び顔を捩じってこちらを窺った。癪に障るのでわざと反対方向に顔を逸らした。
田沼浩治は今年も昇進できなかった。心底穏やかではない。後輩がどんどん追い越していく。営業成績だけ見ればこいつらよりはるかに上だ、こんなことでは将来に希望が持てず、仕事に張り合いをなくす。と憤って細い目を尖がらせた。そのとき天の声が諭した。上に立つには営業成績が良いだけでは、駄目なんだ。ご褒美で貰うボーナスとは違うんだ。部下を掌握し引っ張っていく手腕に長け、部下に慕われる人望が必要なんだ、それに上司に忖度もしなければ、ならないのだ、と。
「うるさい!」天の声に返事するように心を震わせた。漏らした声が大きかったのか富山高雄がビクッと体を震わせ顔を捩じってこちらを窺った。
「なあ、富山君よ、見ての通り会社の人事方針を現認するしかないのだ。現認するしかないのだ」と言葉にはせず片目を瞑り目配せした。富山高雄は通じたのか、頷いた。自分に同調し味方する子分をを得た気分になって栗田営業部長を睨み付け、目を据え、反感の態度を表した。それから一呼吸置いて頭をブルブルと振わせ煮えたぎる心の溶鉱炉に蓋をした。
田沼浩二の年齢は48歳、地元の府立高校卒の叩き上げ社員である。本日入社した3人の大先輩にあたる。設備機器の修繕や点検を業務にしているが、それは表向きの職種で会って、営業一課所属であることを裏付けるかのように販売活動に重きを置いている。機器の買い替えを促したり、設備の増設を提案したり、して売り上げを伸ばし会社の業績に貢献してきた。給湯器の修繕に訪問して、浴室改装工事に結び付けたことは何度もある。レンジの修理に訪問して台所のリフォームを成約した実績も数多い。月に500万円以上売り上げるのはざらであった。しかし社内での評価は一言で表すなら、物足りない、に尽きた。〈田沼さんは持てる力を100パーセント出し切っていない。独自の営業スタイルに固執して適当に仕事をこなす一匹狼や。後輩を統率し指導していかなければならないリーダーとして推挙するには、一皮むけてほしい。〉と誰もが願っていた。
そのような声は本人の耳に届いていた。それでも自己改革をしようとはせず、上司に忖度することもせず、社内一の売上高を誇る独り善がり営業マンに陥っていた。
*
田沼浩治は朝礼を終えると、顔面を引き攣らせて専用の軽ワゴン車に乗り込んだ。今日は指名の仕事が3件入っている。2件は長年のお得意さんである。もう1件は記憶になかった。
行きつけの喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら朝刊紙を読む。
〈ロシア軍が撤退したウクライナの首都キーウ近郊で住民の遺体が多数発見された。後ろ手に縛られ頭部を銃撃されていた。埋葬せず犬猫と同じ扱いで空き地や路上に放置されていた。遺体の惨たらしさに世界の人々は戦慄している。〉
額の縦皺の溝を深くして顔を曇らせた。戦争体験はないがさぞかし惨たらしいものなのだろう。へそ曲がりだが嗜虐性のない性格なのでロシア兵の残虐な行為に憤った。
〈日本は西側陣営の一員としてウクライナ避難民20人を受け入れる。これは第一陣であり希望があれば追加する、と発表した。〉
こうやってだんだんと深入りしていくんだろうなあ、と先行きを思いやり憂いだ。
〈新型ウイルス感染者の増加について専門家は第7波に突入したと表明。〉
音もなく見えもせず、浸透してくるウイルスは弾丸より恐ろしい。だからといって職種が営業なんだから、お客さんから要請があるないに関係なく、各家々を訪問しないわけにはいかない。この家にウイルスは居ないだろう、と何の根拠もなく決め込んで訪問するわけだから無謀といえばそうなる。
会社では一日の仕事を終え、帰社すると洗面室に入り、専用バケツの蓋を開け、マスクと手袋を投棄する。両手をエタノール液で消毒する。水道水で洗顔し付着したかもしれない菌を洗い流す、そのようにするよう指導されている。この程度の対策で今日まで罹患しなかったのは幸運だったとするしかないだろ。
この喫茶店でもカウンターと客のテーブルを透明遮蔽版で隔離分離している。ウェイターは通常の制服の上に防御用割烹着つけている。此処迄せんでもマスクと手の消毒だけでええと思うけどなあ。まあ客に対して感染対策しています安心してお越しください、とアピールしているんだろう。
〈東証、新市場始動。東京証券取引所がプライム、スタンダード、グロース、と3つに再編した市場が本日始動した。〉
30年前に就職先を巡って仲違をした級友の会社名を探した。高卒で大会社に就職したら、一生平社員で扱き使われ、下手すれば定年前に人員整理で切り捨てられる、中小企業にしとけ、と意見したのにあいつは大きい会社の方が安心や、と言って耳を傾けよらへんかった。今では現場の係長になってるらしい。出世が早と想って中小企業を選んだ俺はいまだに平社員や。彼は家族連れの海外旅行もしてるらしい。俺は国内の温泉宿泊旅行すらしてない。彼は自社株をコツコツ買って配当金を得ているらしい。俺んとこの会社は同族企業なので非公開や、株を手にすることなんて社長一族以外にはできひん。さてさて、どの市場区分に登録しているのか、値はいくらになっているのか、なんと、なんと、 プライム市場に登録してある。株価は5,630円。これは、たまげた。半導体関連の会社なので業績が良いのだろう。俺の見通しが甘かったんや。級友に従って一緒に入社していたら今頃⋯⋯いや過ぎたことは考えんようにしよう。
カップの底に溜まったコーヒーを、口のあたりまで持ち上げ、掬うように咽に流し込み喫茶店を出た。
1件目の訪問先に到着した。閑静な住宅街の古びた一軒家だ。今時珍しい黒塀の上から見越しの松が覗いていて目印になっている。ここは10年来の大切な顧客である。
「風呂が使えませんね、見てくれますか」と、頭髪が真っ白でヒョロヒョロとした品の良い御主人が眼鏡の奥で眼をしょぼしょぼさせながら頼んだ。
「風呂場をリフォームしてもう10年になります。きれいにお使いなってるので年月を感じませんね」と、お世辞を言いながら給湯器の前カバーを外し、点検スイッチを押した。点滅信号を数えたら故障個所が分かるようになっている。空焚き防止装置の故障と分かった。大袈裟に首をかしげて、「ちょっと困ったことになりましたなあ」と、後ろに立って肩越しに覘きこんでいる御主人を振り返り顔色を窺った。不安そうな顔付をしたのでシメシメとほくそ笑んだ。
「歳とると毎日の風呂が楽しみでねえ、今日中に何とか修理できませんか」
「うちにも風呂好きな母がおりますのでお気持ちはよく分かるんですけど、安全装置の故障ですので、部品取り寄せに1週間かかります。なにしろ10年間ご使用になっていますのであちこち傷んでくる頃です」
と、探りを入れた。本当は部品庫に常時保管している部品なので、取りに帰れば今日中に直せる。御主人の望み通り今夜には風呂に入れる。しかしその通りにすれば修理代の僅かな儲けにしかならない。社内一の営業魂がむくむくと立ち上がった。
御主人は10年間使い続けた給湯機に、ご苦労さんでした、と礼を言うように優しい眼差しを送っていた。挙動を観察している浩治は買い替えを思案中だと判断した。
「こんなことを言ってなんですけど、もう古いですから効率の良い新品と取り換えませんか、近頃の給湯器は省エネタイプですのでガス代も電気代も安くなります」
年寄りに、安くなる、は覿面に効く。此処で決断を促す。
「製品は会社の倉庫にありますので、直ちに取りに帰って付け替えるようにします。そうすれば今夜お風呂に入れます」
ためらいを払拭させるため、少し声を大きくした。
一呼吸間があった。
「おいっ、そうしてもらおうか、一週間も風呂に入れへんのは辛い、体を温めんとぐっすり眠られへん」
おいっ、と呼ばれた優しそうな夫人は目尻にしわを寄せ、我が息子を見るような信頼しきった目つきで浩治を覗き込み頷いた。
一度客先と信頼関係を構築してしまうと営業はスムーズに流れる。信頼関係とは会社に利益をもたらすことを意味する。他社との見積り比較もなく、この人に任せておけば、という培った信頼関係で取り換え商談が成立した。時間にしてわずか30分間の取引だった。
浩治が職場の好意的な進言を抹殺して、自己改革を拒み、自分の殻に閉じこもるのは、このような培った営業環境を失いたくないからだ。労せず販売ができるような得意先を持つまで、いかほどの歳月と努力を要したか。当初は自分の給料分も稼げず、上司から理不尽な嫌みを幾度も浴びた。そこでどうしたらノルマを達成できるか考えた。自分の容姿は人を引き付けるほど優れているわけではないし、流暢な言葉使いで巧みに売り込む営業口舌も備わっていない。人の好さを売りにしても世知辛い世の中では頼りない人になってしまう。いろいろ考えあぐねて到達したのは〈気持ちを届ける〉だった。設備器具を買ってもらった家に後日、使い具合を尋ねて訪問し、「これ家で取れたもんやけど食べてんか、ちょっとしかないけど」とさりげなく果物や野菜を届けた。母が老後の楽しみに家庭菜園をしているので収穫期になるとキュウリやナスやプチトマトは一家で食べきれないほど実った。それをおすそ分けすることを思いついたのだ。下心あってのことなのだが、わずかな数量であっても気持ちが嬉しい。キュウリ2本、茄子2個、プチトマト5個、さやえんどう一掴み、をビニール袋に入れて配って歩き、がっちり主婦の心を捕まえた。
浩治はすぐさま取って返し倉庫から給湯器と交換用の接続部材を持ち出した。作業は2時間あれば十分と踏んでいた。午前中に終了するつもりだ。
お昼を少し回ってしまったが、取り換え工事を完了させた。
「ご苦労さんでした。お昼時間まで働いてもらって、ありがとうございました。おうどん用意してますので食べていってくださいな」
浩二は汗を拭きながら汚れた手で老夫婦と一緒に物価高騰の世間話をしながらおいしそうに頂いた。仕事ぶりを見せつけるために、汚れた手や衣服は手でパッパッパと大袈裟に払っただけ。どんぶり鉢の底に残った汁まで吸って満腹したようにお腹をさすった。
請求書を渡して帰ろうとした。
「これぐらいでしたら用意してます。お支払いしときます」
しめた、と胸が小躍りした。
「そうですか、ありがとうございます。今日は急でしたのでお支払いしていただけると思っていませんでした。会社の領収証持ってきてません。仮の領収証になりますけどよろしいか」
「ええ、それで結構です。本当はそんなものいりませんけどね」
浩治は密かに持ち歩いている市販の領収証に164,500円と記入し、社印の代わりに田沼の三文判を押した。
しめしめパチンコの元手をまんまと手にすることができた。ほくそ笑み、この日2件目の訪問先を訪れた。全く記憶にない棟続きの木造三階建て極小間口住宅である。真新しい家の表札を見て首傾げた。
玄関先に段ボールのケースが折りたたんで積み重ねてある。発泡スチロールのケースも積み重ねてある。多分若い夫婦の共働き家庭だと察した。
玄関チャイム押した。
浩治の、息子の年代に匹敵する若者が眼差しを尖らせて凄んだ。
「洗面台から水漏れしてるで、まだ3年しかたってない、新品と取り換えてんか!」
「ご迷惑かけて申し訳ございません。点検させてもらいます」
うちの会社で設置した製品ではないと思ったが、確認しないで判断するわけにはいかなかった。
玄関が狭いので踏み台を渡って入ろうとしたところ、
「入るな。さっさと新品に取り換える段取りをしろ! 今日中にしろよ!」
「はあ⋯⋯しかし」剣幕に押されてたじろいだ。
「馬鹿野郎! さっさとせんか!」
図に乗ってつけあがってきたが踏ん張った。
「ちょっと待ってください、設備会社はたくさんあります。私どもの会社で設置した器具か調べてみます。他社で設置したものであれば修理は有料になります。問い合わせますので少々待ってください」
ケータイを取り出したところ、
「勝手にせー」
バタンと勢いよくドアを閉じて追い出した。
カマかけやがった。こんな手にやすやすと乗る俺ではないわ。
次の訪問先に向かうため、十分ほど自動車を走らせていたら、ケータイの着信音が鳴った。
「さっき行かれたお宅にもう一度行ってください。奥さんが戻られました」
会社からの指示なのでしぶしぶ再訪問した。茶髪の奇麗な若妻がにこにこしながら迎えてくれた。
洗面台の下に水が漏れた跡があった。止水栓を閉じてあったので左に回したところポトポトと水がしたたり落ちてきた。観察すると水道配管と洗面台に接続する配管のナットが歪になっている。素人が締め直そうとして加減がわからず強く締めすぎて壊してしまう手口だ。
「どなたか修理しようとされたようですね」
「主人です、夜勤明けなのでやってみたのですが、上手くいかなかったようです」
費用が掛かります。出張料含めて一万五千円になりますがよろしいか」
「仕方ありません、お願いします。ご近所の方から、親切な方がおられる、と言ってお宅を紹介していただきました」
儲けのない面倒な仕事だがその言葉を聞いて嬉しかった。
気持ちを切り替えてナットとパッキンを交換した。1時間弱で修理を終えた。次の仕事を期待して5千円値引きして、ちょうど1万円にして会社の正式な領収証を発行した。この値引きの仕方も手の内だ。
3軒目の訪問先は大きな仕事を受注したことはないが、度々設備の補修を依頼してくるお宅だ。家は古いが広い庭があって花壇があり腰高に設えた棚に植木鉢が整然と並んでいる。今回は屋外に水道の蛇口を増設してくれ、だった。
「植木の水やりが大変なんや、此処迄心魂傾けて育てた皐が枯れたら子供を失ったようなもんや、その気持ちあんた解るか。今は風呂場の蛇口からホースで水を引いているけど、繋いだり外したりするのがこの歳になると辛いね。外に蛇口があったら繋放しにしておいて手元の水栓で開け閉めできるやんか、そのようにしてんか。これから暑くなるので水やりに追われるからな」
この夫婦は年金で生活していることでは先程風呂給湯器を取り換えたお宅と同じである。しかし客質が違う。対応に納得いかなければ直ちに会社に苦情を言ってくる質だ。言動に神経を張って応対しなければならない。自慢の盆栽はざっと見て50鉢は越えている。盆栽には素人だがそれなりの誉め言葉は知っている。主人の顔がほころぶまで褒め捲くった。
主人が指示した風呂場の外側に分岐する水道管があるかないか、営業車に積み込んであるスコップを使って掘ってみた。地下30センチぐらい掘り下げたところに口径20ミリの塩ビ管が表れた。此処で分岐して水栓柱を取り付ければよいのだ。簡単な工事であるが水受けを置いて排水工事もしなければならない。市の上下水道指定業者なので、届けを出し、法を順守する必要がある。下水道法でそういう決まりになっている。説明したところ、水栓だけ取り付けてくればよい、水受けは必要ない、と頑強に言い張った。
「私どもの会社が違反したことになって処罰されます」
「検査に来よったら、どこの業者がしたのかわからない、と言って突っぱねたる。迷惑掛けんようにするから俺の言うとおりしろ」
正規を説明して押し通せば癇を立てて逆上し言い掛かりをつけてくる恐れが高くなった。結局目を瞑って4万5000円で引き受けた。しかしキッチリと念押しはした。
「水質汚濁防止法に違反しますので、内緒ですよ。絶対に明かさないでくださいよ。もぐりの工事をした私は職を失うことになりますのでね。自分でホームセンターで材料買ってきて作ったことにしてくださいよ」
「うるさい! 何度も言わんでもわかっている」
顔面が紅潮してきた。ここらが潮時だと判断した。断るのが正当であるが浩治は断ることができない性質だ。邪道に進んだ。
まだ日が高いものの午前中に風呂給湯機交換の重労働をしているので二度にわたる肉体労働は辛かった。それでも会社まで水栓柱を取りに行って一時間半ほどで立ち上げた。此処でも正式な領収証を発行した。主人は領収証の金額に記入間違いがないか、人差し指でなぞりながら目ん玉を据えて確認した。こういう人なんだ、おうどんを食べた家の人とは違うんだ。違反に目を瞑ってした仕事なので終えた後は気分が塞いだ。
へとへとになって本日指名の3件の仕事をこなした。
まだ陽は高い。定時までの残り時間を、住宅地図に従って飛び込み営業をした。会社では新規顧客の開拓になるので奨励している。飛び込み営業は先方の要請で訪問するわけではないので冷たく扱われるのを覚悟しておかなければならない。
「今、忙しいね、またにしてんか」
「来てくれて頼んでへんで」
「用事ありません」
「今から幼稚園に子供を迎えに行くね」
4軒玄関チャイム押したところ、姿を現して応対してくれたのは1軒もなかった。玄関チャイムを通して物乞いを追い払わるように門前払いされた。ここで挫けず諦めないのが社内一の売上高を誇る強かな根性だった。なにくそと奮い立って伺った5軒目で手応えがあった。
「ちょうどよいところに来ゃはった。工務店に連絡しょうかと思っていたところです。雨漏りがしますね。もうすぐ梅雨に入りますので直しておかんとね、見てくれますか」五十代と思しき、でっぷり太った夫人が愛想よく迎えてくれた。
営業車の屋根に積んでいる伸縮脚を下ろして大屋根に上った。上質の青釉薬瓦を使って葺いてあるが、長期間風雨に晒されて罅が入っている。さらに瓦全体がずれている。こんなことは下から見ている限りでは分からない。雨漏りの原因を探り当て、再び営業車に戻ってカメラを取ってきた。ポラロイドなので十秒でプリントできる。
「イヤー、こんなことになってますの、お父さんが帰ってきたらみせます。葺き替えなあきませんやろね。見積してください。後日お返事します」
ここで、しめた、と舌なめずりして強引に営業を始めないところが浩治の長年に亘る経験上から得たみそだ。このお宅は高尾設備㈱という社名を知っていたが、取引はないのだ。屋根瓦のパンフレットに名刺を張り付け見積書を添えて帰った。
会社の業務終了は17時である。総務や倉庫管理など内勤の者はこの時間に仕事を終え退社する。しかし浩治ら外回りの者はそうはいかない。現場から引き揚げるのがこの時間になる。遠隔地で仕事を終えたものは1時間かけて古びた高尾設備㈱の3階の事務所に戻ってくる。
まず日報を書く。
(訪問件数8軒。A宅で風呂給湯器販売、取り付け完了、164,500円、月末集金掛け売り。T宅で洗面台排水管の水漏れ手直し、手数料10,000円、集金済み売り上げ。S宅で水栓柱の取り付け45,000円、集金済み売り上げ。M宅で屋根の吹き替え見積り提出。連絡待ち。)
栗田営業部長に提出した。小柄な人なので下からギョロッと見あげた。怖い目付きが柔和に変わった。
「ご苦労さん、よう頑張ったな。明日もこの調子で頼むで」
誉め言葉を胸に抱いて揚々と席に戻った。10,000円と45,000円の入金を経理で済ませた。受け取ったのは新入りの上月摩耶であった。
浩治はマイカー通勤している。朝の出社時は渋滞するので会社まで30分、下手すれば40分掛かる。帰りは15分ぐらいで帰れる。しかしすんなり帰るわけではない。これから1日を締めくくる楽しみに参上する。
〈パチンコ・東京CLUB〉の屋内ガレージに車を止めた。
浩治の車はトヨタカムリG、年式は二〇〇六年車である。今時十七年前の、走行距離16万3900㎞に達した車に乗っている者は車マニアか旧車にこだわりを持っている者に限られる。出入りする客がチラッと射すくめて通り過ぎる。何のことはない金がないので買い替えをずるずると引き延ばしてきただけだ。若者が乗り回している斬新でかっこよい軽自動車に乗り換える気はなかった。普通車のセダン型に拘っているのでどうしても300か400万円ほど工面しなければならない。ローン支払いは性に合わない。
お気に入りの四番の台が空いていたので座った。近頃はスロットの〈北斗の拳〉に嵌まっている。ボタンを右手で操作し左手でスロットを回転させた。単純な繰り返しである。目と手と頭脳が連動して段々と周囲が見えなくなり偏狭に嵌まっていった。時間が経過して視界が小刻みに震えてきた。疲れを覚えて両手を放し目を擦った。1時間ほど熱中して10万円の投資が13万円になって戻ってきた。仕事の成績もよかったし今日はツイてる。パチンコ台を勝ちやすいナナシ―に席替えした。15万円投資して19万円になって戻ってきた。手元資金が豊富だったから勝てたようなものだ。あの、うどんを食べた家で仮領収証発行して会社に収めず、着服してつぎ込んだ金がなかったらこうはいかなかっただろうなあ。7万円も儲ける日はざらにはない、せいぜい1万円である。損をして帰る日もあるのでトータルすれば若干損している。
今日は此処で打ち止め、と自らに断じて自家用車に戻った。運転席の座席を倒して煙草を一服吸って今日の疲れを癒やした。脳裏には仕事上の場面は浮かばず、北斗の拳やナナシ―のキラキラ画面が残像していた。パチンコで稼いでぼんやりできる時間がたまらなく気持ちよい。麻薬を吸って現実を忘却するとはこんな気分に浸ることなんだろうか、うっとり目の筋肉を緩め半眼になって車内に流れる紫煙を見ていた。
家にお土産を買って帰るため和菓子店に立ち寄った。
家族は敷地内で家庭菜園をしている77歳の老母と、近所の惣菜店でアルバイトしている43歳の妻と、高一と高三の男の子ふたりである。高三の長男は来年大学生になる予定。
焼き肉の夕食が始まった。食べ盛りのふたりの息子は野菜に見向きもせず肉に箸を伸ばし胃袋にしまい込む。
「これ! お父さんに残しとき」、と、妻の晴代が制しても効き目はない。
浩治は息子たちの食いっぷりをニコニコしながら眺めていた。それだけで肉をたっぷり食った気になるのだ。目を細めて隣に座っている老母を見遣った。
「お母ん、肉を食べや、長生きできひんで」
母親思いなので気遣った。
「もう十分頂いた、食べ盛りの孫の様にはいかん」
目を細めて御箸をおいた。
浩治はごそごそと半身のけぞらして古びた通勤カバンを探った。
「これ食うか」
隠していた手土産の包みを取り出した。
目をキラッと発光させて、猿が餌を見付けた時のようにサッと手を伸ばしてきたのはふたりの息子だ。
「こらっ! これはお祖母ちゃんのお土産や」手の甲をピシッと叩いて制した。
「甘いもんは頭にええらしいわ。勉強をしっかりして通知簿の点数でお返しするがな」と、自信ありげに言う長男。
「ええお父んや。僕ら幸せもんや。他所の親とは違うな」と、次男は平気で見え透いた弁チャラを発した。
ふたりの息子はどら焼きと今川焼を手にした。前かがみになって座っている老母は目を細めて、「これ貰う」と言ってくずもちを確保した。妻はピンク色のねりきりを確保した。浩治は残った栗饅頭を確保した。一家五人で二個ずつ分け合った。
「お父さんな、パチンコで勝たはったんやわ。今度の日曜日に一家でどっか遊びに行こうか」と、妻の晴代が色白のポッチャリした顔面を崩して笑み浮かべた。夫が和菓子を買ってきたことからして大勝ちしたと推測したのだろう。
「俺、ビアンキのロードバイク欲しいね。十一万円程や、しれたる」
と、次男も父親の懐具合を察して目を輝かせて強請った。
「アホ、そんな高い自転車買えるか」
「学校の成績が、お兄ちゃんとどっこいどっこいになったら、お母さんが買ってあげるわ。アハハハ」
そんなことはめったに起こらないとみて妻の晴代は顔面を崩し白い歯をのぞかせた。
次男はロードバイクのカタログを編み笠に見立て頭に乗せ、立ち上がり、あらえっさっさ、と即興の阿波踊りを始めた。
長男はそれを見て、
「そこまでアピールしたら、買ってやろうかという気になるなあ、お父さん?」
「共同戦線張っても、こっちはお母さんと手を組んで対抗するからな」
祖母が食い込んできた。
「お祖母ちゃんが年金で買ったげる。その代わり私も使うで」
「うへー」
「面白いな、ロードバイクに乗ってる腰の曲がった年寄りの姿をYouTubeに投稿したら受けるやろな」
「アハハハ」
夕食後の団欒は和気あいあいとしていて和やかであった。家族の仲の良さが室内照明をより明るく輝かせていた。
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「あいつ、すれっからし、やで」
新入りの上月摩耶の評判が浩治の耳に入った。五十人いるサービスセールスマンは朝礼が済んで会社を出で行ったら夕方まで帰ってこない、新入りの動静などほとんど分からない。
今年入社した四人の男子は給湯器具製造メーカーの研修施設に入所して技術の研修に励んでいる。上月摩耶だけは総務課で経理の見習い業務に従事していた。浩治らセールスマンが集金してきた現金や手形を受け取り、領収証の金額と合致しているか確認して経理課長に渡す。領収証の管理も新米の務めだ。
パソコン操作が手早い、とは聞いていたが、すれっからし、とはなあ。そういえば言葉使いがなれなれしくてとてもや社会人一年生とは思えない。先輩にため口使って注意されているとも聞いた。服装は派手である。首の抉りが広くて白い胸が丸見えの真っ赤なTシャツ着て、太股丸出しの真っ白な短パンで出社してくることもあれば、黒っぽいシックなドレスズボン穿いて、体形をぴちっと表すトップスを身に着けてくるときもある。背が高くスタイルはモデル並みだ。大卒の新人とは思ないほど衣装持ちである。それにしても、すれっからしとはなあ。
浩治は手持ちの領収証の枚数が残り少なくなったので、上月摩耶に新しく一冊出してもらった。受け取るとき指の爪にネイルしているのに気付いた。
日報を提出し一日の仕事を終え退社しょうとしたら、栗田営業部長が話しがあがるのでちょっとこっちにきてくれ、と額をテカテカ光らせながら呼び止めた。
「浩ちゃん、新入りが講習から戻ってきたら一人預けるので仕込んでくれへんか」
またか。過去に何十人も面倒見てひとり立ちさせてきた。その功績を全く認めないでまた面倒見ろというのか、うんざりした。理由はそれだけではない、浩治流の営業をするには足手まといになる。仮領収証を発行して一時的にパチンコの手元資金として流用する操作はできない。しかし直属上司の命令となれば独り立ちする1年間ほどを辛抱しなければならない。
「浩ちゃんは、ちょっとした工事もできるし、お客さんの心を掴むのも上手い、他の者に頼むより良いと思ってな。それに、そろそろやしな」と、昇進を匂わせた。
「はい」と、だけ小さな声で俯いて答えた。
心情を見抜いた栗田部長は「琵琶湖にバス釣りに行こや」と機嫌をとった。
今年入社した男子の新人四人のうち高卒ふたりは工事を希望しているので工事課に配属し、大卒は技術者として育てるために他のメーカーにもう三か月派遣することにしたと聞いた。残りの高卒一人は営業課に配属になるので浩治が仕込むことになった。
まだ半年先とはいえ、うっとうしいことに変わりない。心にもやもやを抱えたまま〈パチンコ・東京CLUB〉に向かった。
この日はツキがなく昨日勝った元手資金をすべて注ぎ込んで十万円負けた。
沈んで帰宅した。
「お父さん、今日は無いの?」
高一の倅がスナップ菓子をポリポリ食べながら馬鹿面丸出しで仰ぎ見た。
マウンテンバイクのカタログが目に付くように卓上に置いてあった。今日の稼ぎ具合によっては再び強請ろうとしていた魂胆がバレバレだ。
「今度の日曜日はどっこにも行けへんかもしれんぞ」
「負けたんか、しゃあないな。明日頑張りな。みんな期待してるで。お母さんがあの歳でUSJに行きたいと言うてた。顔にメーキャップキッド張り付けて記念写真撮るねんて」
浩治は父親としての存在感と威厳を表すにはどうしても日曜日に家族をUSJに連れて行かなければならなくなった。遊行費の獲得目指してプレッシャーが掛かった。
翌日は何とかとんとん、十万円の損は取り戻せなかった。憂鬱である。月末が近付いてきたので流用資金の決済もしなければならない。会社には月末集金と届けてある。どうしても、着服している156,000円を会社に収めなければならない。その上遊行費も捻出しなければならない
ええぃ、イチかバチかやってみるか。追いたてられて〈パチンコ・東京CLUB〉に向かった。
勢い込んだ時に限って負ける。それも大損である。六万円の足を出した。負け額は合計十六万円になった。クレカはリボ払いにしているので残高がマイナスになっても一時的には使える。しょんぼりして帰宅した。
夕食後の一家の団欒で三日後の日曜日にUSJに行くことが正式に決まった。久しぶりの一家の遠出に大はしゃぎして沸いた。もう中止するわけにはいかなくなった。ますますプレッシャーが掛かって心臓がパクパクした。
翌日、浩治は屋根葺き替えの見積書を提出してそのままになっている家を、おずおずとその一方で微かな期待を膨らませて訪れた。
「ちょうどよかったですわ。お父さんがこの見積りでええさかい頼んどいてくれと言うてました。手付金も十パーセントと書いてましたので二十五万円用意しています。持って帰ってもらいます」
助かった、安堵して心の中で神に合掌した。手付金なので仮領収証で済ませる。この金を支払いに回して残りをUSJ で使おう。
その足で風呂給湯器を付け替えた老夫婦の家に向かった。156,000円の正式な領収証を発行し、手書きの仮領収証を回収した。帰社して経理の上月摩耶に渡した。現金を収める際は硬貨もあるので紛失しないようにチャック付きの納金袋に入れることになっている。これで明日は楽しめる、思いっきり遊んでくるぞ、と満面に笑み浮かべ帰宅した。家族はすでに用意万端、食卓を囲んで夜遅くまでアトラクションの話で弾んだ。
一家5人で繰り出したUSJは天気に恵まれ楽しかった。高三の長男がアトラクションを予約していたのでそんなに待たずに次々と入場できた。妻の晴代も望んでいた通り、頬にメーキャップキット張り付けてVサインし記念撮影に治まった。老母もしわくちゃの顔を弾けさせ、入れ歯が外れ飛び出すのではないかと心配になるほど大きく口を開け孫相手に笑い声をほとばらせた。浩治は自身が体験して楽しむよりも楽しんでいる母や妻、ふたりの倅の爛漫な姿を見ているだけで満足だった。
はしゃいだ一日を締めくくるため、レストランで食事した。その時アトラクションから出てきたアベックに目が留まった。黒いズボンに白っぽいブレザーを羽織り首に渋い紅色のネッカチーフを巻いた中年の男の腕にしなだれかかって若い女が歩いている。目の覚めるようなオレンジ色のウエアは丈が短くてウエストの肌が露出している。真っ白なレディースパンタロンの裾はフレアーになっているので歩くたびにひらひら翻っている。いかにも愛人カップルといったところだ。
「あいつの髪あんなに茶色かったかなあ」と呟きながら、目で追っているところを妻が、「あの娘、店に出来合いの総菜買いに来るで」と、言った。
「今年入社した上月摩耶や、一人暮らしなんやろ。男は知らん」
「あの男は遊び人やな、女は楽しそうに振舞っているけど所詮パパ活の相手にヨイショしているだけや」と妻の晴代は目を鋭くして遠ざかるふたりの姿を追っていた。
すれっからし、ふっと言葉が浮かんだ。
*
週の始まりは誰もが新鮮な気持ちになって業務に励もうと気合を入れる。
浩治は家族サービスでリフレッシュして、すがすがしい気分で専用の軽ワゴン車に乗り込もうとしたところ、背から上月摩耶の声が飛んできた。
「田沼さん、田沼さん、これなんですか。土曜日の納金袋の中に入ってました」
仮発行した市販の手書きの領収証を見せられた。田沼の三文判が押してある。
浩治の顔から血の気が引き一瞬にして顔面蒼白になった。
上月摩耶は浩治が動揺しているのをみてニヤッと唇の両端を釣り上げた。
「えへへへ」と、低くて気味の悪い声を喉から絞り出した。
「返せ! それはメモや」
浩治は慌てふためき、取り戻そうと手を伸ばした。
「これ預かっとくからね」と、言ってサッと胸のポケットにしまい込んだ。身をひるがえし後ろを顧みることなく、事務所の階段をトントンと軽やかな足取りで上っていった。
その日は仕事が手につかず身体が空中に浮遊しているようだった。
俺としたことが何と大きなミスを犯したのだ。正式な領収証を発行した段階でビリビリと破いておくべきだった。これまではそのようにしていた。
あの日は、着服していた売上金の返済も、一家でUSJに出かける金策も、目処をつけたので浮ついて心配りが緩んでいたのだ。他の経理係の者に見つかっていたら、こんなことしたらあかんで、と長年同じ釜の飯を食っている仲間として、そっと耳打ちし破いて済ましてくれただろう。相手が悪かった、何しろ今年入社したばかりで、良くも悪くも同僚を庇い合う意識が希薄な新人だった。
当たり前だが、売り上げた代金はその日のうちに入金しなければならない。会社の決まり事になっている。市販の仮領収証を発行して一時着服することは以ての外だ。発覚したら懲戒処分受けることは必至だ。ひょっとしたら首になるかもしれない。48歳になっているので再就職するのは厳しい。路頭に迷う姿がよぎった。
その日以降正常な心持で仕事ができなくなった。上月摩耶が上司に密告しないかとびくびくして過ごしていた。
自ら正直に悪事をぶちまけて返済し、救済を求めれば、30年間会社に貢献した経歴に免じて、訓告程度の処罰で免れるのではないか、と考えた。しかしそれができなかった。自分の柄に閉じこもる小心者なので体面を気にし告白を拒んだ。
「おい、田沼!」
「はいっ」
栗田営業部長の鋭い呼びかけに、ビクッと体を硬直させ全神経を張り詰めた。
「日報をきちっと書け、訪問先が抜けたる。ボーとしてたらあかんぞ」部長に注意された。
そのうちそれどころではなくなった。
「おい、田沼! このところ売上がちょっともないやんか。好調やったのにどうしたんや。ベテランがこんなことでは困る」
営業成績の低下を叱咤された。
今日は久しぶりに売り上げを計上して、ホッと胸なでおろし、帰宅するため洗面室で顔や手を洗っていたところに、上月摩耶が他に誰もいないのを確認するような素振りで、ソーと忍者のように忍び込んできて横に並んだ。甘ったるい化粧の匂いが鼻孔をくすぐった。
「浩ちゃん、今度の土曜日に友達の誕生日パーティがあるね。着ていく服を買うお金を出してくれへんか」
単刀直入にせがんだ。弱みに付け込んで強請ってきたのは明白だった。
浩治はたじろいで気持ちが後ずさりした。
「返すんやろな」と強請りに屈してしまった。
「返さんでもええやろ。しれてるやんか」
「いくらいるね」
「十万円あったら足りると思う」
「そんな大金ないわ」
「へー」、と大げさなゼスチャーで首竦めた。そして、「今日の売り上げも月末売掛になったる。その分を私に回してくれたら済むやんか。明日必ずお金持ってきて、解ってるな」
笑顔を消し厳しい目付きで脅して側を離れた。
翌日、約束通り十万円を洗面室で渡した。
その後、会う機会を作らないようにしていた。しかし入金する段階になって他の経理担当者に渡そうとしたら、私がします、と言って上月摩耶が納金袋をふんだくった。
朝起きて会社に行くのがおっくうになってきた。また強請られると懸念して事務所に入ると冷や汗が出るようになった。
「浩ちゃん、パンプス買いたいね、五万円用意しといて」
「飲み会があるね、十万円用意してんか」
「金曜日の夜大阪のライブハウスに行くことになってん」
こんな調子で再三にわたり強請られた。家にも会社にも相談できないので必死になって仕事をして、代金すべてを仮領収証発行して得た売り上げ金を上月摩耶に渡した。穴を開けた代金は、後日得た代金で賄った。これを繰り返した。自転車操業しているようなもので回転が止まったら一巻の終わりである。
栗田営業部長が溜飲を下げ、わざわざ浩治の机の傍に足を運んできた。
「よう頑張るな。ボーナス近いしな」と、にこにこして肩を叩いた。
ボーナスなど、もうどうでもいいんだ。俺は必死なんだ。顔が引き攣っていた。もう三百万円以上貢いでいる。
社内で田沼浩二の変容ぶりが話題に上るようになった。
「人が変わったように仕事をしゃはるようになった。これまでマイペースやったのにな」
「昇進を意識たはるんや」
「目が落ち込んで痩せてきたんと違う」
「あんまり無理せん方がいいんと違う。体を壊しら何にもならへん」
当然上月摩耶の耳に入る。強請りがピタッと止まった。
潮時を考えたのかな、と思って反撃した。
「おい、USJ で見かけたぞ。あの男だれや」
「お父さんや」
顔色変えずにシラーと答えた。
「同棲してるんか」
今度は何も答えず、胸ポケットから手書きの156,000円の仮領収証をちらっと見せた。
「それ、返せ!」
「いくらで買い取る」
「金はたっぷり貢いだ。これ以上つけあがってきたら警察に相談するぞ」
「かまへんで。奥さんや子供さんのことを考えんとあかんで。父親が犯罪者になったら妻子はどうして生きていくんや。町内にいられんようになるわ。可哀そうに」
「俺を見縊るな! このままやったら破綻や。その際は道連れにしたるからな」
凄んでみたが様になっていなかった。
それから二週間ほど平穏に過ぎた。
反撃が効いたように見えたが警察に訴えるかどうかの様子見だったようだ。一度味占めた強請りが再開した。これまでの尻拭いもしなければならないので、とにかく闇雲に売りまくり仮領収証の発行を重ねた。自転車を漕いでないと人生が破綻するのだ。
*
七月に入って、まだ梅雨明けしていないうっとうしい日々が続いていたある日、社内で騒ぎが持ち上がった。
経理で厳重に保管していた領収証が一冊不明になっているのだ。会社の受領印が捺してあるので悪用すれば一大事である。例えば営業マンが注文を受けて内緒で他所から安く仕入れ、お客さんに売却し、高尾設備㈱の領収書を発行すれば商売が成り立つ。代金をまんまと手に入れられる。
管理者の上月摩耶に尋ねても知らないと言いはった。どこかに紛れ込んだのだと思って経理課全員五人で書類保管庫を家探ししたが見つからなかった。結局発見できず一冊紛失で経理課長が始末書を書いたので、この騒ぎはこれで落着したと誰もが思った。しかし業務上汚点を残した経理課長は引き下がらなかった。社長の親族であることもあり面目を掛けて不審者を洗い出し始めた。線上に浮かびあがったのは田沼浩治である。これまで月末に代金の付けの回収を確実に行っていたのにここにきて月をまたいでの入金が多くなっている。しかも当日入金は一切なくすべてが掛売りになっている。紛失した領収書と関連付けはできなかったがなんか胡散臭かった。
金額の大きい売掛先に電話した。
「高尾設備㈱です。いつも御贔屓にしていただいてありがとうございます、付かぬことをお訊ねしますが、工事させてもらった代金のお支払予定はいつ頃になるのでしょうか」
「えっ、工事が終わった当日にお支払いしましたけど」
「お宅の担当は田沼浩治なのですが、田沼にお渡しいただいたのでしょうか」
「そうです。今日は会社の領収証を持ち合わせていないので後日持ってきます、とおっしゃって市販の仮領主証を置いていかれました。正式なものはまだ頂いておりません」
領収書が不明になっていることに関連する不正をしているのではないか、と思った狙いは当たった。それからさらに数件同じような電話を掛けた。いずれも仮領収証で集金済であった。不審感を抱かれると会社の信用問題になるので1時間後には、「お金を頂いていました、こちらの処理間違いでした、失礼しました」と打消しの電話を掛けた。
田沼浩治が不正をしている。そこまでは判明した。これは思ってもいなかった領収書紛失の副産物であった。追求すればそこに突き当たる気がして詮索の手を緩めなかった。
浩治は1日の仕事を終え心身ともに疲れ果てクタクタになって帰ってきた。机に業務カバンを置いたところで栗田営業部長に、「田沼こっちに来い!」と怖い目つきで呼び出され別室に入った。経理課長も入ってきた。
浩治はこの時点で悪事がバレたと観念した。
自ら俯いて、白状した。
「一時流用してパチンコにつぎ込んでいました」
もう自転車を漕ぐのに疲れて、身も心もへとへとになって倒れる寸前だった。
「いくらごまかした」
営業部長はあっけにとられて、声に力をなくし問うた。
「調べてみないと分かりません」
今度は天井見上げて、開き直りともとれる答え方をした。
根っからの悪人ではなかったので、うそぶくとか言い逃れはできなかった。一切合財ぶちあけて処分を受け早く楽になりたかった。
経理課長が付け台帳に基づいて浩治が着服した金額を算出したところ358万余円に上った。
「これだけの金を着服してパチンコにつぎ込んでいたのか」
「はい」
浩治は憔悴して、蚊の鳴くような声で認めた。上月摩耶に脅迫されて貢いでいたとは男の意地でどうしても言えなかった。
「返せるのか」
「⋯⋯」
家族の顔が次々に浮かんだ。家庭菜園で野菜を育てているお母ん、惣菜店でアルバイトして家計を助けている妻、大学受験に備えて塾に通い勉強している高三の長男、バイクに凝っているやんちゃな高一の次男。
浩治は水分を抜かれて萎れた大根のようにうなだれかろうじて立っていた。
「社長と相談して処分を決めることにする、今日のところは机や私物庫の整理をきちんとして帰ってくれ。明日から出社しなくてよい」
営業部長は自分の首に手のひらを水平に当て、ちょんとあてがった。
浩治は顔面蒼白で席に戻ったところに待ち構えていたように上月摩耶が寄ってきた。
「領収証、私に渡して」
「経理課長に渡した」
上月摩耶の顔色が変わった。そそくさと帰り支度して更衣室で化粧も直さず帰宅してしまった。
経理課長が気付いたのはその後だった。
「あれっ、この領収証、紛失した領収証や。なんで浩ちゃんが持ってたんや。それにしてもおかしいなあ、入金時はこれを使わないで正規に登録しているものでなされている。誰か付け替えてたんや」
上月摩耶の机の引き出しをかき回した。浩治が本来持っていなければならない領収証が出てきた。
「浩ちゃんが入金する都度手元に隠し持っていたこの領収証に書き直してたんや、浩ちゃんが持っている領収書はあの娘が使用者登録していなかったので紛失になっていたんや。浩ちゃんは書き直されているのも知らんと使ってたんや。あれっ、入金日がずれたる。さらに一時着服してたんや。まだ入社して間がないのに、浩ちゃんのやり方を真似てこんな悪いことをしてたんや。浩ちゃんはあんな小娘に振り回されて、一生を台無しにしてしまったわ」
怒りと虚しさで声が震えていた。
2日後の七夕の日に、上月摩耶から退社願が郵送されてきた。一身上の都合により、となっていた。
田沼浩治は、懲戒解雇になった。本来なら退職金は出ない。しかし30年間勤務していた功労に報いるため慰労金が支払われた。
社内の噂によると、慰労金を支払うように強く社長に進言したのは営業部長の栗田三郎であったらしい。長年勤務した功績に報いるべきだと迫ったらしい。そんな温情がなされていたことについて田沼浩治は知る由もなかった。銀行口座に振り込んであったので気づいたのだが名目が(退職保険金支払い)となっていたので深く考えないで受け取った。