問題児は廊下に立つべし(後)
カメラマンがマネージャーを助けようとしたが、すんでのところで蒼空遊星が彼の腕を掴む。非難の目を向けるカメラマンに向けて蒼空遊星は必死に顔を横に振った。それでカメラマンもようやく察した。廊下を走ってはいけない、と。
「早歩きだ……! 両足どっちかを地面に付けてれば歩いてることになる、って競歩のルールで聞いたことがある。とにかく走っちゃ駄目くさいな……」
カメラマンと蒼空遊星はマネージャーが引きずり込まれた部屋のインターフォンを鳴らした。すると向こうから明るい若い女子の声が返ってきた。先ほどの異変が無かったかのようで、かえって不気味に感じる。
「はーい」
「おい、俺のマネ連れ込んでどうするつもりだ」
「マネ?」
「俺のマネージャーだよ! 今さっき中に引っ張り込んだだろ……!」
「あ、マナー違反の人ですか? そうですねー。確かに連れ込みましたねー」
「ざけんなよ! 返せよさっさと!」
「嫌でーす。迷惑な人には反省してもらわなきゃ」
「テメ、何してんのか分かって――!?」
「……貴方モまなー違反すルんでスカぁ~?」
ふざけたような口調に蒼空遊星とカメラマンは怒り心頭になるが、声を張り上げた途端、向こうから返ってきたのは抑揚のない低い言葉だった。しかも絞り出すように、唸るように、掠れた声で。
怒りで熱を感じていた状態から一変、恐怖で背筋が凍る。
「……!? あ、いや、そんなつもりは……!」
「気を付けた方がいいですよー。この階、マナーにうるさい住人ばっかですから」
「そ、そうか……」
「うちはアレぐらいじゃないと怒りませんけど、他の住人はどうでしょうねー」
その言葉を最後にインターフォン越しの声が途切れた。
カメラマンと顔を見合わせる蒼空遊星。もはや生配信どころの話ではなかった。
「蒼空さん、もう帰りましょう……! ここやばいっすよ……!」
「あ、ああ。そうだな……。ここはマジやばすぎる」
すぐさま一目散に逃げようとエレベーターホールに向かおうとするも、その直前にカメラマンは不意に背後から抱きつかれる。心臓が飛び出そうなほど高鳴った彼は、恐る恐る後ろを振り返る。
いつの間にか少女が彼に抱きついていた。
闇がいつの間にか蒼空遊星らの側まで侵食していた。その闇の中から腕が伸びてカメラマンの身体に絡まり、顔が出てカメラマンを見上げていた。白く濁った目がカメラマンを映し、お歯黒を付けたように真っ黒な歯を見せながら笑っている。
「た、助け……!」
カメラマンが悲鳴を上げる間も無く、彼は闇に飲み込まれた。水に沈むように味気なく、そして二度と浮かび上がってくることがないかのようだった。そしてカメラマンの声が漏れてくることも決してなかった。
「ああ、くそっ! 何でだよ……!」
蒼空遊星はさらわれたカメラマンとマネージャーのことは諦めた。それより一刻も早くこの場から逃げ出すことの方が大事だ。自分はこのままで終わるような人間ではない。もっとのし上がっってもっと評価されてもっと富と名声を得るような――!
蒼空遊星は口元を押さえつつエレベーターホールに向か……おうとしたところで、向こうから住人らしき親子連れがやってきた。何気ない日常の光景ではあったが、進行方向を妨げるよに現れた彼女達に癇癪を起こしそうになる。
そんな彼女達を蒼空遊星は横切った。
少し隙間が広かった右側で。
途端、周囲が一変した。
先ほどまで一流ホテルのような内装だったが、壁・床、天井、その全てが寂れ果てていた。コンクリートがむき出しになり、至るところにヒビが入り、黒ずみ、所々に水たまりがあった。照明が薄暗くなり、点滅を繰り返す。
そして、壁に描かれた影絵達からうめき声が聞こえてくるではないか。
更には驚くべきことに、影絵はここに来た時より2つほど増えている――。
「オマエ、まなー違反シタな?」
蒼空遊星の耳元で囁いたのは今さっき横切った母親だった。しかし彼女もまた様子が一変していた。ソレはもはや人にあらず。生気が無く、目から光が失われ、肉が削げ落ち、肌がとても冷たい彼女は、死者がそのまま墓場から抜け出したようだった。
「や、やめろ……やめろぉぉ!」
そんなゾンビのようで骸骨のような存在に腕を絡まれ、蒼空遊星は壁に叩きつけられ、壁の中へと沈んでいく。蒼空遊星の身体が完全に埋まった頃には、その場所には更にもう一つの起立した男性の影絵が出来上がったのだった。
一連の異変はカメラマンが落としたカメラが全て映していた。
阿鼻叫喚となるコメント欄。中には悲鳴を上げて発狂したり、衝撃を受けて泡を吹いて倒れたリスナーもいた。
そんな一同をあざ笑うようにカメラが持ち上げられる。
「廊下で反省する。それが迷惑者への罰」
既に辺りは先ほどまでの一流ホテルのような内装に戻っており、カメラを拾ったのも町中にどこにでもいそうな清掃員の風貌をした少女だった。彼女は無表情で画面に向けて手を振る。
「笑顔が耐えない明るく元気な住人のいる当マンションは住人募集中。見学はいつでも歓迎している」
そうして生配信は終了となった。
当然、これ以降は蒼空遊星が動画を投稿することはなかった。




