深海へと誘う水族館(裏)
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「わたくしの右の手のひらはあらゆるセンサーを反応させます。例えば交通系ICの代わりにもなりますし、非接触Payとしても機能します。ああ、海賊版ではありませんよ。きちんと正規に登録したIDと連動させていますので。やろうと思えば出来なくはありませんが、犯罪行為はいけませんので」
冥道めいは先日の配信の時と同じく幽幻ゆうなが住むマンションの前から配信を開始し、同じ手順で正面玄関のオートロックを突破し、ロビーで受付を済ませ、エレベーターホールへ向かう。
今度乗ったのは低層階用のエレベータだった。彼女は手のひらをセンサーに反応させてから行き先ボタンを一つ押して、扉が自動で閉まるのを待った。やがてエレベータは冥道めいを乗せて動き出す。
「このマンションは住居の他に多種多様な施設がございます。しかしそれらが低層階にまとまっているかというと、そうではないようですね。中には自宅を改造して店舗を開いていたりもするので、全容は幽幻ゆうな様も把握していないのだとか」
九龍城みたいな感じか、とコメントがあがった。冥道めいは実際に行ったことがないのでインターネットの中の記録を読み取る以外確認の術が無かったが、あそこまでのカオスではないだろうと素直な感想を述べた。
「スポーツクラブ、体育館、レストラン、公園、様々な施設があるようですが、今回は水族館に行ってみたいと思います。どうぞよろしくお願いします」
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ある日、水族館の飼育員が新しい水槽に珍しい深海魚を迎え入れた。その深海魚は見たこともないような奇妙な姿をしており、訪れた人々の興味を引くこと間違いなしだった。しかし、その深海魚が水族館に持ち込まれた後、奇妙な出来事が続発するようになった。
まず最初に、水族館の従業員たちが奇妙な夢を見るようになった。彼らは深海魚の姿を見る夢を何晩も繰り返し見、その姿が日に日に不気味さを増していくのを感じた。そして、次第に夢の中で深海魚が自分たちを呼ぶような気がしてならなくなった。
さらに、水族館の訪問者たちも次々と奇妙な体験をするようになった。彼らは深海魚の水槽の前で立ち止まり、魚が彼らをじっと見つめるような感覚を覚えた。そして、水槽の中で深海魚の目がちらつき、彼らを引き寄せるような不思議な力を感じたのだ。
さらに、水族館の周辺でも奇妙な現象が起こり始めた。夜になると水族館の周りで奇妙な光や音が聞こえ、通りかかる人々は不気味な気配を感じた。そして、水族館の深海魚の存在が町の住民たちに広まるにつれ、その不気味さは一層増していった。
水族館の管理者たちは深海魚の存在に気付き、それが奇妙な出来事の原因ではないかと考えた。彼らは深海魚を水槽から取り出し、研究することに決めた。しかし、深海魚を取り出した直後、水族館内で異常な現象が発生し、騒然となった。
水族館の中で水槽が次々と割れ、海水があふれ出し、深海魚の姿が消えてしまった。そして、水族館の従業員たちも行方不明になり、彼らが最後に目撃された場所は深海魚の水槽の近くだった。
その後、深海魚の姿を見た者たちは次々と不可解な失踪事件に巻き込まれ、水族館は閉鎖されることになった。しかし、その後も水族館の奇妙な住人とされる深海魚の姿は、水槽から姿を現すことはなく、その不気味な存在は町の住民たちの心に深く刻まれた。
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「とても暗いですね。不気味、と表現するのでしょうか。普通水族館は展示物の魚などが美しく映えるようレイアウトするものですが、これではどちらかと言えばホルマリン漬けの標本が並ぶ理科室、と形容するのが正しいでしょうか」
エレベータを降りて幽幻ゆうながやってきた水族館はこじんまりとしていた。照明の光量は絞られており、クラゲや深海魚が飼われた水槽が不気味に照らされていた。これでは町中の熱帯魚屋に足を運んだ方がまだわくわくしたことだろう。
「こちらの魚は――。それとこちらの魚は――」
たった一人の来客である冥道めいは暗い屋内の展示物を一つ一つ解説していった。冥道めいの処理能力なら眼球が映した映像から対象を解析し、情報を引き出すことなど造作もないこと。泳ぐ魚を眺めて心が安らぐ、落ち着く、などの感想とは無縁だ。
そんな彼女は一周回りきったところで、通路側の壁へと顔を向けた。じっと目を凝らし、手で触れ、撫で、軽く叩く。そして呟いた。「これはアクリルガラスですね」と。そう、水族館でイルカなどの大展示の水槽に用いられる、とても分厚いガラスのことだ。
「……長居はしない方が良さそうですね。引き上げますか」
冥道めいは踵を返してエレベータを呼んだ。しばらくして扉が開いたエレベータに乗り込み、ドア閉ボタンを押す。それまで冥道めいは意図的に水族館の展示物を見ないようにしていたが、閉まる扉の向こう側はさすがに確認せざるをえなかった。
そこでは深海魚やクラゲが先ほどと変わらぬ様子で、部屋の中を泳いでいた。
そしてアクリルガラスの向こうの暗黒の中に、浮かぶ巨大な目が一つ。
「もう少し長く留まっていたら、わたくしも深淵に引きずり込まれていたかもしれませんね」
何てことのない様子で感想を述べた冥道めいだったが、この配信はリスナーに恐怖を刻みつけ、ネット上で長く語り継がれることとなった。




