紫の恋色(5)
ある喫茶店で私と桃子は、昇を待っていた。
目の前に座る桃子は、昇の姿を探すように窓の外をキョロキョロと眺めている。
「彼が来るのは30分後よ」
そう告げると、桃子は不思議そうな顔をした。
「私、貴方に言わなくてはいけないことがあるの」
店員さんが持ってきてくれたコーヒーを一口すすった後、私はいつも以上に真剣な気持ちで桃子にぶつかった。
「ど、どうしたの?」
いつもと違う私に驚いているのか、桃子はあたふたしながら座りなおした。
私はひどい女だと思う。
「私、ちょっと前に知也と別れた、と言ったわよね」
こんなにも優しい子を、悲しませなくてはいけないのだから。
「うん」
「その時、昇から私は告白されたわ」
「……うん」
桃子は悲しそうに、私から視線を下げた。彼女は、昇が私の事を好きだって事に気付いていたのだ。
その時にあった出来事を、私は一通り桃子に話した。
「そんなことがあったんだ……」
私が話している間もずっと、桃子は私のほうへと目を向けようとはしなかった。
目の前にある、コーヒーへと再び手を伸ばす。
数秒間の沈黙。
彼女は泣いてなどいなかった。強い子だ、と私は心の中で褒める。
「桃子」
名前を呼ぶと、さすがの桃子も私と目をあわした。
「私は昇のことが嫌い」
「え?」
「だったのよ」
過去形の言葉。その言葉が、これから語る全てを物語っていた。
桃子は、驚いた表情を隠せず、私から目線をはずせない。
私は、軽く息を吸って、周りに聞こえるぐらいの声で言い放った。
「五十嵐さんが欲しいのは、そんな愛じゃないだろ」
これは昇の言葉。私の心の戸を叩いた言葉。
「ずっと、分かっていたけど、分からないでいようとしていた。けど、昇の言葉で私は気付いたの。欲しかったのは、知也がくれていたあんな偽者の愛じゃないってことに」
どんどんと、桃子は表情を変えていく。
「私は、本物の愛が欲しかった。父はいない、母は私に愛をくれない。そんな状況で、知也を都合よく利用していただけ。偽者の愛でカバーをしていたけど、それじゃ私はダメだって気付いた。昇のおかげで、昇の言葉のおかげで」
桃子は、耐えられなくなったかのように、再び俯こうとした。
すっと手を伸ばし、桃子の腕を掴む。
「聞きなさい」
「な、んで? 私には関係ないことでしょ?」
「いいから、聞きなさい」
「関係ないって言ってるじゃない!」
桃子は力ずくで、私の手を解こうとした。そんな桃子に抵抗せず、私はゆっくりと手を離していく。
「あなた、昇のこと好きじゃない」
「な、にいってるの」
「私が気付かないと思った? 何年一緒にいると思っているのよ。嫌でも気付くわよ、あなたの気持ちに。それでも、私は昇を突き放すことは出来なかった。これ以上、彼と離れることは無かったの」
桃子の瞳から、ポロリと一粒涙が零れ落ちた。
「桃子は優しいから、昇の気持ちを優先したのよね」
泣くもんか、と言わんばかりに、桃子は必死に泣かないように袖で目を押さえた。
「ごめんね。私、心が動いちゃったみたい。だけど、桃子とも離れたくないのよ。これからも友達でいてくれるのかしら」
押さえていた涙も、桃子はダムが崩壊したかのように溢れ落ちている。
言葉に出せず、桃子は頷いていた。それも何度も。
「分かって、いたの……」
「何を?」
「紫織に、青木君を会わせたら、二人が、付き合っちゃう、なんてこと」
ちゃんと喋ろうとしている桃子を見ていて、私の目頭も熱くなってきた。
「でも、ちゃんと諦められなかったの。青木君のこと、大好きだから。だけど、だけど! 私は紫織が、青木君が幸せになってくれたらそれでいいから、私は笑っていられるから」
「桃子……」
ごめんね、と呟いて私は桃子の手をとった。
「私、あなたのことも大好きだわ」
「う、ん」
「一生、一番の親友よ」
「わ、たしもだよ」
私から、一粒、また一粒と涙が零れ落ちてきた。
「ねぇ、紫織」
あれから数分、私と桃子は落ち着きを取り戻して、机に置かれているカップへと手を伸ばしていた。
「何かしら」
「まだ、諦めきれてないから」
「え?」
「青木君のこと」
「は、はい?」
「隙、見せたら奪っちゃうから」
「何よ、そのベタベタな発言は」
「エヘヘ、紫織が油断しないようにってね」
桃子の可愛い笑顔は、私に勇気をくれた。
これからする、私の一生の中でも何度も経験することではないであろう事に。
「お待たせ」
後方から聞こえてくるのは、愛しの彼の声。
「待ちくたびれたわよ。さっさと座りなさい」
私は恥ずかしさを隠しながら、彼を目の前の席に座らせた。
「いきなりで悪いのだけれども、告白の返事させてもらうわ――」
人を惹きつけるラベンダーのような愛。
それが紫の恋色。
世界でただ一つの恋色。