紫の恋色(1)
私はお風呂から上がると、ソファーの上でくつろぎながら、何が面白いのか分からないお笑い番組を見ていた。
これは母の趣味だ。私と、母は会話をすることなく、ただそのテレビを見ていただけだった。
母が立ち上がる。トイレにでも行くのだろう。そう思って、私がテレビへと再び視線を戻すと、家の中に聞きなれたインターフォンの音が鳴り響いた。
面倒くさそうに、母は外をカメラで映し出している映像に目をむけ、ボタンを押して喋る。
「はい」
私の母は、お世辞でも愛想がいいとは言えない。娘の私に対しても、決して笑って会話などしようとはしないのだ。その母に飽きたのか、父は、私が小学生の頃に出て行ったきり戻ってこなかった。あの時は、ただ仕事が長引いているだけだと思っていたけど、中学生にあがり、もう父は帰ってこないのだと自覚することが出来た。
テレビに最近人気が出たのであろう、お笑いコンビの二人が漫才をしていた。片方の筋肉付きのいい男は、一つぐらいしかモチネタというものを持ち合わせていないようだ。皆はその男がいいというが、私は明らかにボケ役の男のほうが漫才を分かっている気がする。
そんなことを考えていると、母が私の肩を叩いて、顎でインターフォンのほうを指した。どうしたのだろう。こんな時間にお客さん?
面倒と思いながらも、私はゆっくりとソファーから立ち上がり、インターフォンについている映像を見た。
この顔は、さっきまで見ていた顔だ。確か名前は青木 昇。桃子の好きな人だった気がする。
「青木君?」
私がそういうと、映像越しに彼は笑った。しかし、どこかぎこちない。名前は覚えていなくても、顔ぐらいは覚えているものだ。今日一日だけでも、彼の笑顔を何度か見たけれど、こんな下手糞な作り笑いなどしなかった。
もしかして、桃子と喧嘩でもしたのだろうか? そんな話を私にされても困るんだけど。
「どうも」
「どうしたのよ、こんな時間に。桃子との恋の話なら、また別の日にしてもらいたいわ」
しかし、彼の口から出た言葉は、思いもよらないものだった。
「知也さんについて……」
私の愛しの彼である人の名前を言ったのだから。
「どうして、貴方がその名前を出すのかしら? ……まぁ、いいわ。家じゃまずいわね、外へ行きましょうか」
私はパジャマの上に上着を着る。テレビを見ている母に視線を送るが、彼女は私が何処に行こうが関係ないのだ。
急いで玄関へと向かうと、そこには苦しそうな息をしながら立っている青木君がいた。
「待たせたわね。そこに公園があるわ。そこで話すわよ」
公園へと行く途中、聞きたいことは山ほどあったが、彼の様子を見る限り長引きそうな感じだ。
歩いている途中も、彼の元から痛々しい声が聞こえてくる。何があったのだろう。
「あそこに座りましょうか」
「うん」
彼はほっとしたような様子を見せ、ベンチへと腰を下ろした。もしかして、立っているのもやっとだったのだろうか。
「さて、最初に何を聞こうかしら。あなたがどうして、そんなにボロボロなのかを聞くべきね」
「少し、喧嘩があって」
「見れば分かるわ。あなたは一方的にやられるほど弱くない、という噂を何度か耳にしたことがあるからね。なんたって、あの赤原 祐太の一番の友達なのだから」
私が彼の友達の名前を出すと、驚いた表情を見せた。
「ふん。桃子から耳にタコが出来るんじゃないかっていうぐらい、貴方とその友達の話は聞いているわ。どうして、桃子は貴方のことが好きなんでしょうね」
「いや、桃子は俺のこと……」
彼はあたふたしながら、そのことを否定する。彼も相当鈍いのでしょうね。可愛そうに、桃子。
「まぁ、そんな話どうでもいいわよ。それより知也の話でしょう。何かあったのかしら。ちなみに、説教なら聞きたくないわ」
「……」
私の問いに、彼は顔をしかめた。彼からこの話を始めたのに、どうしてそんな悲しそうな顔をするのかしら。
「で、黙ってないで何か言わないの? こんな時間に連れ出して、くだらない話なら明日から貴方のことを馬鹿木とでも呼ぼうかしら」
私は呆れてそういうと、彼は意を決したかのように私の目を見つめた。
「知也さんとは、別れたほうがいい」
しかし、彼の口から出てきた言葉は思いも寄らぬ言葉。
「いきなり何を言っているのよ。説教なら聞かないと言ったばかりよ? あなた、頭おかしいんじゃないの?」
「不倫のことは、何も言うつもりじゃない。ただ、知也さんは五十嵐さんに本気じゃないんだ」
その言葉に私は動揺した。
気付きたくない、その言葉。いや、私は何を思っているのかしら。
知也は私を愛してくれている。私はそう……信じている。
「そんなこと、なんであんたに分かるのよ? 彼は私に本気よ? 結婚していたって、彼は私を愛してくれている。私にはそういう実感があるんだもの」
そう、実感がある。いつも、愛していると呟いてくれている。奥さんよりも、私のほうが大切だとも言ってくれた!
あの人の笑顔は、私に向けられている。
この体だって、知也に全てを捧げた。心だって、もう知也のものなの!
青木君にはわからないんだわ。そう、わからないの!
「さっき、知也さんとたまたま会ったんだ。その時、知也さんは……!」
しかし、彼の悲しそうな顔で、私は全てを把握した。
なぜ、怪我をしているのか。
なぜ、彼のような人が、そんなことを私に言ってくれるのか。
全部、分かっていた。
「違う! 知也は私を愛している! 言ってくれたの、愛をくれたの! 知也が私を嫌うはずなんてない! 一生を約束したのだから!」
言葉とは裏腹に、私の体は悲しみで溢れていた。どうしてか、涙があふれ出てくる。
『知也は私の事なんて思ってくれていない』
そんなことを考えてしまった。いや、気付いていた。
「五十嵐さん……」
それでも、私には愛が必要だった。
知也の愛は、温もりは本物だと信じたい。
「私は、知也のそばに居たいのよっ!」
「五十嵐さん!」
青木君の声が聞こえた。そして、温もりを感じた。
しかし、私はそれを拒絶する。
私に触れていいのは、知也だけなのだから。
「離してっ!」
私は怖くなった。目の前にいる彼が、どれだけ必死なのかを知っていた。
彼の物語っている全ては、真実なのだと考えてしまったから。
涙が止まらない。どうして、私はこんな羞恥を晒さなくてはいけないの?
そんなことを考えていると、目の前の彼は叫んだ。この、薄暗い公園で。
「俺は五十嵐さんが好きなんだ!」
耳を疑った。だって、彼は桃子が好きだったはず。
「じょ、冗談……」
「本気だ。ずっと好きだった。中学校のときからずっと!」
そんな真剣な目で私を見ないで。
「や、めて」
温もりを私に与えないで。
「愛なら、俺がいっぱいあげる。もう、これ以上苦しまないで! 五十嵐さんが欲しいのは、そんな愛じゃないだろ!」
優しさを向けないで。
「やめてよ!」
愛など、もう信じられない。
「やめない、これだけは譲れない! 五十嵐さんが苦しむのは見たくないんだ!」
「苦しめているのは貴方でしょう!」
「大好きだから、ここで苦しむのを終わらせたいんだ!」
「わ、たしは、貴方のこと大嫌いっ!」
彼に最低の言葉を残して、私はそこを走り去った。途中、彼の声が聞こえたけれども、私はそんなことに構ってなどいられなかった。
彼の言った全て、嘘だと信じたい。
信じたいが、彼は嘘をつかない。嘘をついていない。
私だって、もう何年も生きているのだ。本気の目か、嘘の目かぐらい分かる。
だからこそ辛くなった。
心は全てを否定していた。
すべての事が嫌になった。