代償を払う
翌日、学校に登校して、まず気が付いた異変は上履きがなかった事。
最近はやられる悪戯がエスカレートしている事を感じてはいたけれど、ここまでされるようになったのかと、憂鬱になる。
辺りを軽く探してみても見つからない。僕は仕方なく来客用のスリッパを履いて教室へ向かった。
一人で教室に向かうのは思った以上に勇気が必要だったけれど、教室にもう神奈がいるかもしれないと思うと、その勇気もどこからか湧いてきた。
けれど、教室に入る前に二つめの異変。
うちの学校では個人ロッカーは、まとめて廊下に並べられている。その中の一つ、僕のロッカーが開いていた。
慌てて中を確認する。ジャージや置いていた教科書類がごっそりとなくなっていた。代わりに入っていたのは、ゴミ箱の中身をそのまま突っ込んだような、紙屑やほこりの山。空になったペットボトルなんかも入っていた。
流石に冗談じゃないと思った。勢いよく教室のドアを開ける。
足を踏み入れると、それなりに賑やかだった教室が静まり返った。
まず確認したのは、神奈はまだ来ていない事。そして、僕の席がなくなっている事。
僕の座っていた窓際の一番後ろには、あるはずの机と椅子がなくなっていて、空いている床に花瓶に入った花が置かれている。いつ撮られたのか、近づいてみると花には僕の白黒写真も添えられていた。
ロッカーの件で頭に上っていた血が、早急に冷めていく。
ここまでされるのかと、言葉が出なかった。
虐められているという自覚はもちろんあった。けれど、馬鹿にされて、悪口を言われるとか、軽くいたずらをされるだけで、それだけで済むと思っていた自分の甘さを認識させられる。
僕はとどまる事のない悪意にさらされていた。
「あっ⁉」
呆然としていると、不意に後ろから誰かに押された。バランスを崩してそのまま花瓶に倒れ込む。必要以上に入っていた水をぶちまけて制服がびしょ濡れになり、盛大に割れた花瓶の破片で、手を切った。
けして少なくない量の血が流れ出る。それでも心配してくれる人はここには誰もいない。
隠そうともしない笑い声と罵倒がそこかしこから聞こえてくる。
「汚ねぇ。本当にドジだな」
「ていうかさぁ、なんであんな奴に一真君は構ってるの?」
「それを言うなら神奈さんとか、恵里香さんとかもだろ。あり得ねえ」
「ホント、あんな奴いなくなればいいのに、そしたら翔也君だって、私の事」
「マジそれな、あぁ神奈さんと仲良くしてるのがオレならなぁ」
「あいつが消えれば、あの四人も目を覚ましてくれるかな」
聞こえてくるのは、どれも嫉妬にまみれた汚い本音。もう僕が虐められている理由は、サッカー部を敗退させてしまった事から、幼馴染の人気者たちを独占している事への嫉妬に変わっているみたいだった。
一真に神奈、恵里香に翔也、皆が僕を庇うほどに、僕へのヘイトが溜まっていた。だから、初めは軽いものだった虐めがエスカレートしていった。そして僕たちはそれに気が付かなかった。
全方位から、「消えてくれ」という意思を感じる。
その想いは、とても重く押しつぶされそうで、僕は這いつくばったまま立ち上がることが出来なかった。
結局、また僕は幼馴染たちに助けられた。
あの後、勢いよく教室に入ってきた神奈が、僕を見下して笑っていた男子の胸倉を掴んで突き飛ばした。突き飛ばされた男子は尻もちをついて呆けていたけれど、神奈は一瞥することもなく、僕をだきおこしてくれた。
すぐに駆け付けて来た一真も無言で周囲を威圧して、僕に手を貸してくれた。二人は僕を連れて教室を出ようとしてくれていたけれど、クラスメイトたちが立ちふさがった。
「一真君! そいつのせいで部が負けたのに何で!」
「神奈さん! そんな奴庇うことないだろ!」
何も言い返す気力もなかった僕に、その言葉はただ突き刺さってくる。それでも、二人がそれに反応もせずにいてくれた事にほっとした。
クラスメイトたちを振り切って、僕は保健室に連れて行ってもらった。連絡を取ったのか恵里香と翔也も駆けつけてくれる。校医がいなかったから、神奈が変わりに傷の手当をしてくれて、翔也はジャージを貸してくれた。
皆は授業が始まっても教室に戻れない僕についていてくれた。その事に、もう嬉しさよりも申し訳なさを強く感じてしまう。
それに、僕は怖かった。
こんなにエスカレートしている虐めが、いつか皆にも直接影響を与えてしまうかもしれない。そう考えると体が震えそうになる。
「あのさ、考えたんだけど、もう僕とは関わらない方がいいと思う」
何気なく言ったその言葉で、保健室が静まり返った。皆が一斉に僕を見る。
「あまりふざけた事を言うな」
口を開いたのは翔也だった。その短い言葉からは、隠しようもない怒りを感じる。
「だな、そんな事言う暇があったら、何か対策を考えた方がよっぽどいいだろ」
「一真君にしては、いい事言ったね」
「確かに、珍しい」
いつになく真面目な一真の声と、茶化すような恵里香と神奈。一真は怒っていたけれど、皆が僕を元気づけてくれているのが充分伝わって来る。いい友達を持った事を改めて実感した。
皆は努めて明るく、出来る対策を話合っていた。教師や親など、大人に相談する案も出たけれど、一真が言った「大人なんて、問題にしたくない精神で役に立たない。余計に面倒なことになるから止めておいた方がいい」という言葉に皆が納得した。
他にもいろいろと話し合ってみたけれど、結局、状況を改善できるような妙案は浮かばず、今まで以上に僕の周りから皆が離れないという事しか思い浮かばなかった。
ただそれでも限界はある。それにさらに嫉妬を煽る事にもなる。出口の見えない状況に、明けない暗闇をさまよい続けているような気分になった。
また暗くなりかけた空気を変えてくれたのは、恵里香の一言だった。
「ねぇ、昔遊んだところに行ってみない」
突拍子もないその発言に皆が目を丸くする。
「学校サボってさ、あの頃みたいに、五人だけで遊ぼうよ」
その言葉で、脳裏に小さい頃の光景がよみがえって来た。毎日五人一緒に駆け回った夢のような日々。
「いいなそれ」
初めに同意したのは意外なことに真面目な翔也だった。普段なら絶対にこんな事は言わない翔也が、顔をほころばせている。
「おう! 行くか!」
続いて、勢いよく一真が張り切って立ち上がる。
「まずどこから行こっか」
神奈が僕に聞きながら手を差し出してくれた。
その手はまるで、希望への道筋のようだった。無意識のうちに神奈の手を取り、立ち上がる。この後にある授業の事を考えた。けれど、別にいいかと考えるのを止める。どうせ三年のこの頃になると、この学校では、それぞれの受験に向けての勉強が優先されて、授業は自習が多くなる。個人で勉強するために休んでいる生徒もいるくらいだし、出なくても問題ない。
僕たちは五人で学校を抜け出した。コソコソと校門を通り抜けて駆け出す。皆笑っていた。今だけは、あの頃に戻れたような気がした。