安息
ホテルに着いた僕たちは、道中の疲労でベットに倒れ込んだまま眠ってしまっていた。
目が覚めるとすっかり暗くなっていて、スマホを付ければ、どうやら二時間ほど経過している事が分かった。
スマホには着信が何件も入っていて、全て神奈と恵里香からだった。
隣のベットを見れば、最後の記憶にある通り、一真も眠っている。きっと、どちらも電話に出ない事で心配させてしまったに違いない。慌てて最後にかかって来ていた神奈にかけなおす。
ワンコールが終わる前に繋がった。
『優人!!』
バカでかい声に思わず耳元からスマホを離す。「うっ」と声がして一真が起きた。
「か、神奈? ごめん」
『生きてるの⁉ 無事なの⁉ 何なの⁉ 何で連絡しても出ないの⁉』
口をはさむ暇もなく神奈の叫びが流れてくる。一真も一瞬で目が覚めたのか、自分のスマホを確認して、日中とは違う意味で顔を青ざめさせていた。きっと一真の方にも鬼のような着信が入っているに違いない。
「ごめん、途中でいろいろあって」
『色々ってなに⁉』
「最初に言っておくけど僕も一真も怪我はしてないよ。けど一真の家のエレベーターが落ちたんだ。乗ってたら危なかった」
向こう側で息をのむ音がする。まくしたてるように喋っていた神奈が沈黙して、それから一言「無事でよかった」と呟くのが聞こえた。
「ごめんね。ホテルについて安心したら一真も僕も寝ちゃったみたいで、緊張してたんだと思うけど、心配かけてすみませんでした」
『……いい。生きてたから許す』
「ありがたき幸せです」
『もう隠れられてるんだよね?』
「うん。部屋閉め切って御札を貼ってるから大丈夫だよ」
『よかった……ちょっと待って、恵里香にも変わるから』
僕が何か応える前に、向こうで話し相手が変わるのが分かった。
『優君?』
「恵里香、心配かけてごめんね」
『まったく、神奈ちゃんと私がどれだけ心配したか』
「お許しください恵里香様。一真も僕も限界でつい」
『心配をかけた罰として、私に何か奢ってくれたら許してあげる』
「うっ……したたかだね」
『女は皆そうなの』
「わかったよ。お互い無事に二日間終えたらね」
『ふふ、約束だよ。何かあったら連絡してね』
生き残れた後にも、何か大変なイベントを作ってしまったかもしれない。その後、話しを聞いていた神奈が騒ぎ、恵里香と同じ約束をして落ち着いてもらった後で一度電話を切った。「大変だなぁ」と少しニヤついている一真に「同罪だって」と伝えると、ニヤけていた顔を引きつらせて、膝から崩れ落ちていた。
ホテルでの初日は、そのまま何事もなく過ぎた。神奈たちと電話をしたあと、僕たちは交代でシャワーを浴びて眠りにつき、目が覚めた時は朝になっていた。ホテルの生活は退屈ではあったけれど、久しぶりに得た安心して過ごせる時間に、僕も一真もリラックスすることができた。
つけっぱなしにしていたテレビはあまり見ない。漫画やゲーム、もしくは勉強道具は残念ながら持ってくる余裕がなかった。それでもスマホで電子書籍を読んだり、思い思いのの時間を過ごす。
コンビニで買ったお弁当を一緒に食べて、たまに恵里香や神奈と電話をして様子を確認する。
そんな緩い一日を送り、沢山あると思っていた時間も気が付けばどんどんと進んでいて、部屋の中でだらけているだけで、二日目も夜が訪れていた。
この頃になると、僕はもう明日解放された後、どうやって夏休みを楽しもうかという事も考えられる程に余裕が生まれていた。
ホテルに着いた時にはエレベーターの件のショックで、死人のようになっていた一真も、今はテレビを見ながらだらけているし、たまに電話で聞く恵里香の声も弾んでいる。神奈に至っては、もうおごりでどこに行くかを考えているみたいで、僕は財布の中身が心配になった。
『じゃあそろそろ恵里香とご飯食べるから』
「うん、こっちもそろそろ夕飯にするよ」
『奢りの約束わすれないでよ』
「忘れないから安心してください。じゃあね」
何度目かの神奈との電話を終えた時には、二日目も終わりに近づいていた。スマホで漫画を読んでいた一真が顔を上げる。
「そろそろ食うか?」
「そうしよっか、もう菓子パンくらいしか残ってないけどね」
「明日までの辛抱だろ。こっから出たらオレらも二人でなんか食いに行こうぜ」
「いいねそれ! 女子には内緒ね」
「あぁ、ただでさえ奢らないといけないからな、これ以上は財布がキツイ」
何てことない会話をしながら、質素な夕飯を食べる。こうして一真と楽しく過ごしたのはいつ以来だろうか。随分と昔の事のように感じる。明日になればまたこうして笑顔でいられる日々を取り戻せると思うと、自然と会話も弾んだ。
食後もたわいない会話は止まらない。今まで抑圧されていた分を吐き出すように一真と喋り続ける。時計の表示は進んで行き、もうすぐ日付をまたぎそうだ。
恵里香と神奈もそうなのかもしれない。割と頻繁にかかってきていた二人からの電話は、夕食を食べると言って切った神奈からのものからはかかってきていない。二人が僕たちのように最後の夜を語らっている光景が思い浮かぶ。
「明日になれば、この狭い部屋ともお別れだね」
「そう考えると、なんかちょっと名残惜しいな」
「だねぇ。何もする事ないけど、久しぶりに落ち着いて過ごせたもんね」
「ホントそれな。ここに来るまで生きた心地しなかったし」
「安心したよね。まぁ明日になれば籠っている必要もなくなるんだけどね」
「だな……なぁ優人、悪かったな」
急な一真の雰囲気の変化に戸惑う。いきなりされた謝罪に、何も思い当たる事がない。
「どうしたの一真?」
「いや、謝んなきゃいけないと思ったんだ」
「ホテルまで肩貸した事とか? 一真が謝ることじゃないよ」
「違うんだ。この騒動で、優人にはいっぱい助けてもらったよな。そのお礼とは別に謝らなきゃならない事がある」
一真の目は真剣そのものだった。何かを覚悟したようなまなざし。その目に促されるように、僕も自然と姿勢を正した。一真が何を言おうとしているのか、本当に想像もつかない。若干の緊張を感じつつ待っていると、一真が覚悟したように口を開いた。
「実はな……」
その後、一真が何か言葉を続ける事はなかった。
一真の言葉の代わりに響いた音。
コンコン。
けして大きくはないその音は、聞き間違いでなければドアがノックされた音だろう。
ドアには初日にドアプレートをかけたままにしてある。そうでなくても、この時間に呼びもしていないホテルのスタッフが訪ねてくる事はあり得ない。
ドアをから目が離せないまま無言の時間が過ぎる。一真はノックの音が聞こえた瞬間に話すのを止め、僕は瞬間的にテレビの電源を切った。
数秒後。
コンコン。
控えめなノックが再び聞こえた。
聞き間違いではない。それは確かにこの部屋のドアを叩く音で、ドアの向こう側に誰かがいるという事。それが誰かが問題だった。ノックをした相手は一切喋らない。こちらから声をかける気にもなれなかった。
動けずにいると、同じような間隔を開けて、再度ドアがノックされる。
正直、このまま静かに無視してやり過ごすのが一番いいと思ったけれど、一真の表情を見るとそうもいかなそうだった。ノックの音が聞こえるたびに、引きつっていく一真の顔。見開かれた目はドアを見据えたまま動かない。対照的に口は細かく動いていて、しきりに何かを言っているみたいだったけれど、何を呟いているかまでは聞こえなかった。
コンコン。
また聞こえてきたノックに、僕は静かに立ち上がった。
音をたてないように気を付けて、ゆっくりとドアに向かう。
一歩近づくたびに、重力が強くなっているような感覚がして、身体が重く感じた。ドアの手間まで来ると、その感覚もひどくなり、だるさで吐き気までしてくる。ドア一枚隔てた向こう側に、一体何がいるのか気になる感情と、見たくないと言う気持ちがせめぎ合う。
ただ、ここまで来て確認しないわけにはいかない。ドアがしっかりと施錠されていることを確認して、のぞき窓に目をゆっくりと近づけた。
映画で見たことがあるけれど、除き窓を見ると、針が飛び出してきて目を刺されるような展開。もなく、廊下には誰の姿も見えなかった。
一瞬だけホッとしたような気持ちになり、すぐに気を引き締めた。誰もいない状況でも問題あがある事に変わりはない。出来るだけ広範囲を見ようとするけれど、のぞき窓から見える範囲は限られている。結局は、誰の姿も確認できないまま、僕はドアから離れた。
必死の形相で見つめてくる一真に、出来るだけ小さい声でこの事を伝えようと口を開きかけた時――
――ドンドンドン!!
ドアが揺れるくらいの衝撃だった。先ほどの控えめなノックとは違い、明らかに叩きつけるような音。
「うわぁぁああ!!」
一真がのけぞったままベットから落ちた。その音が向こう側にも聞こえたのか、ドアを叩く勢いがより一層強くなる。
殴りつけられる度に揺れるドア。ノックの音が響き続けて頭がいたくなりそうなほど五月蠅い。こんな騒音を出していたら周りの部屋にも絶対に聞こえているはずなのに、誰も苦情を言わないのか、ドアは揺れ続けている。
一真は床にうつ伏せになって頭を抱えている。そこには普段の面影は全くない。怯える姿は別人のようで、そんな一真を見ていると、僕は段々とある感情が芽生えてきていた事に気が付いた、僕は怒っているみたいだ。
一真をこんな姿にしている元凶に怒っていた。
「やめろぉお!!」
腹から声を出したのはいつ以来だろう。自分でも驚くような声量が出たと思ったら、気が付くとドアを叩く音が止んでいた。
静かな時間が戻って来る。
かすかに一真が何か呟いている声が聞こえるだけで、他には何も聞こえない。
「はは、なんだ? ビビってるのか?」
震えた声で言った情けない強がりに返事はない。
この状況、ドアの外にいた何かを追い返せたのか、それとも束の間の安息なのか、僕には判断できなかった。




