日常の終わり
僕たちが学校をサボった日から数日が経っていた。
あれ以来、僕への虐めは一応鳴りを潜めている。
直接的な原因は分からないけれど、たぶん幼馴染たちの影響が大きいのかもしれない。学校に行くのが少し怖かった僕を、恵里香が家まで迎えにきてくれた。翔也も来てくれて、二人のおかげで僕は外に踏み出すことができた。
学校でも神奈が常に傍にいてくれて、一真もかなりの頻度で顔を見に来てくれた。
常に幼馴染たちに囲まれている僕に手だし出来なかったのか、それとも神奈や一真に凄まれた事で、意気消沈しているのか、相変わらず無視されているように扱われているけれど、荷物や直接危害を加えられるような事はなく、とりあえずは平和な日々が続いた。
そんなある日のこと。開けかけた梅雨が返って来たかのような雨天の日。
僕は翔也に呼び出された。
「少し、話したい事がある。付いてきてくれ」
そう言う翔也は、いつもの真面目な表情を少しだけ歪ませていた。
「アタシも」
「いや、神奈は待っててくれ」
一緒に立ち上がろうとした神奈を手で制する翔也。その行動に僕も神奈も驚いた。基本的に僕たちが何かする時、幼馴染を除外することはほとんどない。納得できなそうに睨む神奈だったが、翔也も譲る気がないのか、態度を崩さない。数秒睨み合いのようになり、仲裁しようか迷っているうちに、結局は神奈がおれた。
「ちゃんと返却してよね」
「あぁ、終わったら返す」
「……ねぇ、物じゃないんだから」
少しでも和ませようとした甲斐もあって、軽く笑ってくれた翔也に付いて教室を出た。振り返った時に見た神奈は、なんとも言えない表情をしていた。
翔也に連れて来られたのは、教室棟と学食を繋いでいる渡り廊下だった。普通の休み時間には滅多に人が来ることはない。神奈を避けたこともあり、何か人に聞かれたくない事なのかもしれないと思った。
サーっと音を立てて細い雨が降っている。
渡り廊下は屋根があり濡れはしなかったけれど、湿気がつよく、肌に服がはりつき不快に感じた。翔也が自販機で買ったコーヒーを放って来た。
「付き合わせて悪いな」
「そんな事気にしないでよ。僕たちの仲でしょ?」
「……俺たちの仲、か」
それだけ言うと翔也は缶コーヒーを開けて一口飲んだ。いつもブラックを好んで飲むはずの翔也が、なぜか苦そうに顔をしかめている。
「どうかしたの?」
一向に話をしない翔也に、意を決してこちらから切り出してみる。黙っていた翔也は、少しの逡巡の後に口を開いた。
「この前、皆で昔遊んだ場所に行っただろ?」
「うん。どこも懐かしくて、小さな頃に戻ったみたいで楽しかったね」
楽しかった。そう言うと翔也の顔がまた歪んだように見えた。
「俺も楽しかったよ。そう見えてたか分からんが、本当に、本当に楽しかった。またあの頃に戻りたくなった」
絞り出すような声だった。どうしてかは分からない。けれど、翔也が何かに苦しんでいるらしい事は、もう僕にも分かっていた。
「ちゃんと楽しんでるように見えたよ」
「ッ……そうか。そうだよな、優人は昔から俺の事を理解してくれていたからな。昨日、昔の事を話してるうちに、いろんなことを思い出したよ」
その言葉で、小さな頃の翔也を思い出す。翔也はとても落ち着いていて大人びている。それは子供の頃から変わっていない。今は寡黙なイケメンと人気者の翔也も、小さな頃は、口数も少なく何を考えているか分からないと、皆から避けられている時があった。
けれど、自分に自信がなく、自分より他人を見ていた僕には、何となく翔也の感情の変化が分かり、割とすぐに打ち解けられた。それから他の三人に紹介して、元々頭もよく、身体を強かった翔也は、瞬く間に中心的人物になったていった。そうなってからも翔也は他の三人と同じで、僕の友達のままでいてくれた。
「優人、一人だった俺の友達になってくれたお前に俺は感謝しているんだ。人の痛みが分かるお前と友達になれた事は俺の人生の誇りだ」
「ちょっ、いきなり何? 恥ずかしいから止めてよ! ていうか、感謝してるは僕の方だし、虐められるような僕とそれでも友達でいてくれる翔也の方が、よっぽど人の痛みが分かる優しい人だよ。ありがとう。もちろん一真と神奈、それに恵里香、他の三人もだけどね」
真っすぐな言葉と瞳に負けて、僕の視線は色々な所をさまよった。そんな僕を見ておかしそうに笑った翔也は、すでにさっきまでの苦しそうな表情をしていなかった。
「皆のおかげで、僕はこんな状況でも学校に来る勇気をもらってる。僕たち五人は本当に友達だって心の底から言えるから、だから皆がいれば安心できるんだ」
「あぁ、そうだよな。俺たちは五人そろって友達だ」
そう応えて顔を上げた翔也は、何かを決意したような目をしている。よく分からないけれど、迷いがなくなったように見えた。
「よし、決めたよ。優人、ちょっとだけ待っててくれ、俺がこの状況を終わらせてやる」
「へ? この状況って、虐められてること?」
「あぁ……大丈夫だ、心配するな。変な事はしないさ」
口を開きかけた僕を手で制して、翔也は教室に戻って行った。
突拍子もない翔也の言葉。「この状況を終わらせる」そんな事が可能なのだろうか、可能だとして、どうすればいいのか、分からない事だらけで混乱する。どんな方法なのか想像もつかない。危ない事かもしれないという不安はある。それでも、翔也は心配するなと言っていた。変な事はしない、それは危険があるような事ではないという事だと思う。
どちらにしろ、翔也が何をするのか、僕には教える気はないみたいだった。僕がいない方がいい事なのかもしれない。そこまで考えても心配は消えてくれない。
考えがまとまらないまま、ゆっくりと歩いていた僕は、様子を見に来た神奈に連れられて教室に戻った。
お昼休み。神奈といつもの中庭に向かう。
雨は相変わらず降っていたけれど、屋根の下にあるベンチはいつも濡れていない。座って待っていると、すぐに恵里香がやってきてお弁当を広げ始める。僕もお弁当を開くと、隣の神奈が立ち上がった。
「そうだ。ちょっと用があるの忘れてた。行ってくるから先食べてて」
じゃっと手を上げて、こちらが何か言う前に走り去っていく神奈。あまりに勢いよく走るものだから、短いスカートが揺れてハラハラする。
「どうしたんだろ?」
「お花を摘みに行ったんじゃない」
適当な返答をくれた恵里香はそんなに気にしていないみたいで、パクパクとお弁当を食べている。考えても仕方ないと思った僕は恵里香に倣ってお弁当を食べた。きっとすぐに戻ってくる。そう思っていた。
予鈴がなっている。
結局、神奈が戻って来ることはなかった。
僕と恵里香は二人でお弁当を食べて、お喋りをしながら待っていたけれど、もう教室に戻らないといけない時間になってしまった。それに、一真と翔也も今日は中庭に来ていない。
理由も聞いていない。翔也は前の休み時間に気になる事を言っていたけれど、それが関係しているかは分からない。いつもいてくれる三人がいないだけで落ち着かない時間を過ごした。ただ、恵里香だけがいつもと変わらずいてくれる事だけが救いだった。
「神奈戻ってこなかったね」
「そうね」
「一真も翔也も、どうしたんだろ?」
「ね~」
「……もう戻らないと」
「神奈ちゃんがいないから、私が教室まで送ってあげます」
そう言って可愛らしい胸を張る恵里香。その姿に思わず微笑んだ。
その時だった――
思わずビクッとするほどの大きな音が聞こえた。
本当に大きな音だった。
昔、目の前でバイクと車の衝突事故を見たことがある。直進するバイクの前に車が不意に曲がって来た。ぶつかったバイクの運転手が大きな音を立てて宙を飛んでいった。運転手は何メートルも離れた場所で、地面に嫌な音と立てて落ちた。何かが折れて、潰れて、破れて、あの時はもう聞きたくないと思ったのを覚えている。
あの時の音に似ていると思った。
続いて聞こえてきたのは、絶叫。
耳をつんざく叫び声。一番初めに感じたのは不快感。まるで耳のすぐ傍で大声を出されたかのような絶叫に、顔をしかめた。
それでも、すぐに不快感は消えた。次に僕の心に湧き上がった感情は、心配とか、動揺だった。
その叫び声にどこか聞き覚えがあるような感覚がしたからだ。端的に言えば、僕がよく知っている人物の声に聞こえた。
すぐに駆け出した。音と声のした方向にだいたいの検討をつけて、脚を動かす。道中では、音を聞いて戸惑っているような人が何人もいた。皆が音の出所を気にしているみたいだった。それだけ大きな音だったんだろう。人の間をぬって進んで行く。
それでも正確な場所が分かるわけじゃない。なかなか音の発生源は見つけられなかった。まだ何分も経ってはいない。それでも不安や、よく分からない焦燥感で、余裕がなくなって来る。
しまいにはイライラして来て、進行方向にいる邪魔な人を突き飛ばしたい衝動に駆られた。けれど、幸か不幸か僕がそんな暴挙に出る前に音の発生源にはたどり着いた。
怠惰な雨が降る薄暗い光景。その中に明らかに異様な物体が落ちていた。灰色の景色の中に鮮烈な色彩を放っている。コントラストだけを見れば綺麗だと思った。
初め、それを見た時、僕はまず自分の目を疑った。次に疑ったのは自分の頭。それだけ自分が見た物を理解するのに時間がかかった。何とか理解できたのは、前にも一度同じようなものを見たことがあるからかもしれない。
とにかくそれは、そうなってしまう前の面影をあまり残してはいなかった。それだけ、僕の知っている姿とは似ても似つかない姿に変わっていた。
普段ならしっかりとしまわれているはずのモノが沢山飛び出して、飛び散っている。
普段ならそんな方向に向いてはいないモノが、変な向きに曲がっていた。
普段なら離れているはずのない部分が、分離してしまっていた。
普段なら優しく笑ってくれるはずの表情は、ピクリともしなかった。
そんなに普段と違う姿をしていても、すぐにそれが何だったのかを理解したのは、それだけ深い付き合いだったからだろう。
理解した。だからこそ僕は戸惑っていた。混乱していた。
理解はしたが認めたくはなかった。
僕に付いてきていた恵里香は、今どんな顔をしているだろう。
すぐに二つの足音が聞こえてきて、僕と恵里香の傍で止まった。
それが誰と誰かは、後ろを見なくても、聞こえてくる息遣いで分かった。
恵里香と同じ、僕の大切な幼馴染の二人。
これで四人。
一人足りない。
いや、その一人は一番最初にここにあった。
僕が見つけたもの。
雨に濡れた地面に赤をまき散らして落ちていたもの。
それは、僕の大切な、とても大切な友達だった。いや――
――友達だったものが落ちていた。
一旦ここまでとします。ここからは毎日投稿していく予定です。