表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

あるメイドの話

 季節の変わりは、風の吹き方でわかります。

 その感覚に気づいたのは、このお屋敷に働いてから二年目のことでした。

 春は猫のように気まぐれでマイペースです。地上の人々のことなど意にも留めず、苛立つ人の吐息のように荒々しい時もあれば、突然機嫌の良い時に吹かれる口笛のように長閑な時もあります。夏は逢魔時の訪れとともに涼しい風を吹かせ、男の子の服を脱がせ気持ちよさそうに寝かしつけます。秋は過ぎ去る年を惜しむように寂しく吹き、冬は去る年来る年に向かって寂しく、力強く叫びます。

 こんなことを人に話せば、珍しい感じ方だと評されます。しかし、きっとこの気持ちはこのお屋敷で働くようになれば誰しも抱くことでしょう。一日のほとんどを広いお屋敷の中で過ごせば、自然と感覚は敏感になるというものです。

 窓から差し込む日の光で温もりを感じ取れますし、飛んでくる葉の数で老いを察することもできます。

 今は夜。月の光で闇に満ちるこのお屋敷に光を与えてくれます。

 静まり返った森林。聞こえてくるのは風に吹かれる木々の囀りと、コオロギの合唱。とても静かで落ち着きのある夜。こんな時は本を読むのが良いでしょう。

 革靴の音が聞こえます。

 彼です。巡回のために屋敷を歩き回っているのでしょう。部屋の一つ一つを念入りに異常がないか確認し、見回り終わった部屋は施錠して次に移ります。彼は勤勉な方で、毎夜同じことを繰り返しても、飽きることなく、手を抜くことなく、丁寧に仕事をこなしています。彼が務め続ける限りは夜の屋敷も安泰でしょう。言葉を交わしたはありませんが、親近感のようなものはあります。彼と私でこのお屋敷の健全を保つのは彼と私の仕事です。昼は私がお屋敷の手入れをし、夜の安全は彼が守ります。いつかは言葉を交わしてお近づきになりたいものです。

 私は二階にある図書室に入ります。

 ご主人様は暇なとき、自由にここの本を読んでいいと許してくださいました。

 広い部屋には高い本棚がたくさんあり、本は隙間なく丁寧に収められています。本棚はどれも高く、一番高い位置にある本は梯子がなければ取ることは叶いません。

 この図書室は古今東西に渡る知識が収められています。文学はもちろんのこと歴史や科学、医学、宗教、神話など偏りがありません。日本の言葉で書かれているものだけでなく、大英帝国やドイツ、フランス、ロシアの言葉などもあります。

 あいにく私に学はありませんから、日本の言葉しかわかりません。この知識の宝箱のうち、私がものにできるものは半分もありません。とても残念なことです。

 本棚に並べられている本を指でなぞりながら、今日読む本を選びます。この選ぶという過程も、私にとっては楽しみの一つです。何を手に取るかじっくり考えるのは、実際に読むときとは別の面白さがあります。どういう表紙に惹かれるか、どれくらいの大きさか、一ページ当たりの文字の量と大きさはどんな感じか。漢字は多いか、ひらがなが多いか。一文の長さと短さ、読点の区切りによる流れ、それらがもたらす調和。その日どんな本を読めるかは、その日の気分で変わります。故に私はこうして毎夜、どの本を読むか自分の気分と相談しながら、ちょうどよい本を見つけ出します。

 こうしているうちに今日の本が決まりました。

 ゲーテという方が書かれたドイツの戯曲『ファウスト』です。

 ご主人様は文学に限って、必ず元の言葉で書かれた本と、日本の言葉で書かれた本を置かれます。何故そうなさるのかお尋ねした際は、本を書いた人の真意を知るのは、その人の使った言葉を知るのが最適だが、それとは別に私は日本人であるが故に物語を純粋に楽しむ時は日本の言葉が良いと仰っていました。

 私は本を手を持って、図書室の中心にある長椅子に腰を下ろします。背もたれに身体を預け、力を抜きながら本を開きます。

 『ファウスト』は私のお気に入りです。学問を究めたドクトルファウストが、悪魔と契約しあらゆる享楽と引き換えに魂を売り渡し、その実満たされぬまま生涯を送る話。悪魔と契約したドクトルファウストの悲劇にはいつも胸を痛めますが、だからこそ私は結末がとても好きです。この結末の良さはこの悲劇の過程があってこそなので、いつも読むときは最初からじっくりと読みます。

 ご主人様もこの話が好きだと仰っていました。人間の真理が詰まった良き戯曲だと。しかし、結末が好きだという私の感想には、理解を示しつつも賛同はしていただけませんでした。曰く、現実は都合よくないと。

 私はドクトルファウストの気持ちが完全にはわかりません。誰もが極めることの叶わないあらゆる学問を究めたのですから、それだけでも十分に幸せではないでしょうか? 何かを知っているというのは、それだけで人生が豊かになると私は思います。

 しかしご主人様はドクトルファウストのお気持ちがわかるそうです。人は欲深く、例え何かを極め、得ても、別の何かを欲する。悪魔と契約してあらゆる享楽を得ようとするドクトルファウストの欲望、そしておそらくは抱いていたであろう老いる毎に近づく死への恐怖と不安は痛いほどわかると仰っていました。

 私は、私の持ちえない感性を持つご主人様を尊敬しています。ご主人様の深い知識と寛大なお心、何も恐れずあらゆることに挑戦する勇気と、成功する確かな実力と強運。ご主人様はきっと、特別な星の下で生まれたのでしょう。

 そして、運が良いのは私も同じです。

 ご主人様が傷ついた私を見つけてくださったおかげで、ご主人様がこのお屋敷で住処とお仕事を与えてくださったおかげで、私は満ち足りた人生を送ることができました。きっとこれは、神様のおかげです。

 ご主人様が私に知識を共有してくださる時間はかけがえのないものです。

 私の夢は、いつか知識を深め、ご主人様と深く語り合うことです。

 きっとこのお屋敷の夜を守ってくださる彼も本を読む方でしょう。いつかは彼も誘って、この図書室で一緒に本を読もうと思っています。

 ふと、私は気づきました。

 ご主人様が呼んでいます。

 きっと何かお困りなのでしょう。

 私は本を棚に戻して、ご主人様の下へと向かいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ