プロローグ:新規
彼は廊下の壁にある絵を眺めていた。
その絵は巡回の度に眺めている。
この屋敷には多くの絵があるものの、いつも足を止めて見つめてしまうのはこの絵だけだ。
額縁の中には、剥製のある部屋の椅子に座っている老人の姿が描かれている。彼は絵に詳しくないに、絵に関する知識を持たない。故に彼が絵を評価しようとすれば、使用できる言葉は「上手いか、上手くないか」だけだ。
だが、この絵はそういった言葉では表現できない引力があった。絵を見つめているつもりなのに、絵の中の老人に見つめらている感覚に襲われている。それは精巧に描かれた瞳のせいなのか、創作者の執念が宿った賜物なのか。彼には分らない。普段なら数秒間眺めた後に過ごさるが、今回ばかりはそうもいかない。
目的地は絵の隣にある扉の先にあるからだ。
濃い紺色の制服を着ている彼の姿は一昔前の警察官を思わせる。ネクタイの色は制服と同じで、腰に巻かれている帯革はその存在を強調するために白色を採用し、帯革には小型スピーカーマイクを着用したトランシーバーと警棒、キーケースが装着され、スピーカーマイクは左肩の肩章まで伸びていた。会社の名前とロゴマークが刻まれた右胸のワッペンと左腕の腕章が、彼が警備員の身分だと明かしていた。
彼は左肩にあるスピーカーマイクを握るとスイッチを押した。
「監視室、こちら田口。今部屋の前にいます」
数秒の間を置いて、マイクから音声が流れた。
「こちら監視室、語尾には必ず〝どうぞ〟をつけろ、どうぞ」
警備員——田口竜司は呆れたように首を振った。
やれやれ、どうして形式にこだわるのか。形式にこだわるのは公務員で十分だろう。
そう思いながら「監視室、田口。現場前。送れ」と返した。
「こちら監視室、今のところ異常はあるか、どうぞ」
「現状異常なし。これより現場に入る。終わり」
帯革にある黒いキーケースの中から鍵の束を取り出す。それは今やアクセサリーくらいしか見る機械はないであろう古びたアンティークキーだった。鍵を大きな鍵穴に差し込み、開錠した。ドアノブを握り、ためらいなく回して部屋の中に入る。
暗い空間の中で浮かび上がる存在がいくつもあった。
宙に浮かぶ鹿の顔。
月明りに照らされている鷲。
中心に聳え立ち、入るものに吠えている羆。
そこは剥製の部屋だった。
かつては生きていた動物たちの鼓動を感じさせる剥製がいくつも置かれていた。
竜司は部屋の中に入り、扉を閉め、施錠を確認すると交信した。
「監視室、こちら田口。現場に入った。異常は目視できず。状況は変わらずか。送れ」
「こちら監視室。モニターに変化はありません。ガス漏れは続いている、どうぞ」
「位置は変わらず? どうぞ」
「位置は変わらず、どうぞ」
「了、現場の写真を撮る。終わり」
竜司は手に持っていたL字型の懐中電灯を帯革に差し込むと、折りたたんで抱えていたカメラの準備に取り掛かった。リンホフ社4×5判マスターテヒニカ3000。購入したばかりの品物だ。
つい最近まではスーパーテヒニカ45IIIを使用していたが、調子が悪くなり雇用主の知り合いであるカメラの老舗に修理を出し、新たに購入した物だ。
新しいカメラの話があったときは、やっと近代的なカメラを手に取ることができると思って喜んだものだが、いざ購入した物は結局同じ会社のテヒニカシリーズの新型モデルだった。竜司自身はより小型で実用性のある物を望んだが、雇用主はテヒニカシリーズに強い拘りを感じていたようで、テヒニカシリーズ以外の使用を絶対に認めないと断言された。
竜司はテヒニカシリーズのカメラを好んでいなかった。大判カメラは2.55kgの重量もあり、折りたたんだ状態でも一辺18cm、厚さ11cmもある。これを持っての巡回は意外と腕がつかれるし、品質管理がシビアで、特にフィルムは挿入した時点で口を開けたワインのように酸化が始まる。故に保存に気を配らなければならない。そもそもテヒニカシリーズ自体、フィールドカメラ、つまりは屋外の使用を前提としているはずだ。こんな狭い部屋の一室を撮影するのなら、それ相応のカメラを使用すべきだろう。
いつかは必ず雇用主を説得して、他の会社のカメラを導入させるつもりだ。
その時が来たらカメラはソニー一択だ。
カメラの準備が終わると、じっくりと構えた。部屋の真ん中に置かれている羆の剥製を中心に部屋全体を捉えた。そして、シャッターを切る。
フラッシュが部屋を一瞬だけ照らす。
その瞬間だけ、剥製の目が輝いた。
それ以外にも異様な光景が一瞬だけ見えた気がしたが、それを考えるのは後回しだ。
撮影位置を変え何枚か撮ると、フィルムを切り替えた。
先ほどまでは白黒のフィルムを使用しており、今度はカラーのフィルムだ。これは竜司の幾日もかけた説得の末の試みだった。雇用主は白黒に拘っていたが、カラーで成功するかどうか試すべきだと言いくるめたのだ。
撮影位置を何度も変え、いくつか写真を撮った。
「監視室、撮影終了。そちらに戻る。終わり」
無線先の人物にその旨を伝える。
こんな部屋とはようやくおさらばだ。扉を開錠し、廊下に出ようとした。
ふと、背筋に悪寒を感じた。
この感覚は不愉快だった。まるで彼の大嫌いなゴキブリを目の当たりにした感覚に似ている。
すぐに後ろを振り返る。
だが、部屋の中は剥製以外何もいない。
彼は右手で鉄砲の形を作ると部屋に向けた。
「Hasta La Vista, Baby」
そう言い残し、扉を閉めた。
屋敷から出て、外の空気を吸い、その味を存分に味わった。
月並みな表現をすれば、娑婆の空気はうまいというものだ。
屋敷は柵に囲まれ、柵の先は森林の世界だった。
正門を抜け、竜司は森林の中に建てられている建物に向かった。
それは監視塔だった。鉄骨構造の建物で、鉄塔の先には三階構造の部屋が設置されていた。部屋に入るためには外付けの階段を上っていくしかない。
竜司は階段を上がり、扉を開けて1階に入った。
1階はいわば居住部屋だ。キッチンやコンロ、冷蔵庫、食卓、デスク、仮眠用のベッドが設置されている他、本棚には多くの資料や書籍が保管されていた。
食卓の上には食べかけのスパゲッティが二皿置かれていた。
竜司は部屋の中にある階段を使って二階へ上がる。
二階は監視室のようなものだ。四方に窓が設置され、360度外の様子が見れる。そして屋敷の方角には、監視カメラのモニターや通信機が設置されていた。
そのモニターの前に一人の女性が座っていた。
身長は一七〇センチをゆうに超える長身と、すらりとしたモデル体型はどんな姿勢でいようと人目を惹く。しかしここには生きた人とは無縁の世界だ。
「モニターにはまだいますか? 真壁さん」
女性――真壁咲夜は竜司に振り返った。
「お疲れ様、剥製室の奴は今さっきいなくなった」
「今回は終始赤外線カメラだけでしたか? 普通の監視カメラには?」
「映らなかった。ところで写真は?」
竜司はカメラを掲げた。
「ばっちりです。これから現像作業に取り掛かるところです」
咲夜は首を振った。
「いいえ。あなたはもう休憩して大丈夫。現像は私がやる」
「しかし、自分は雇われている身です。雇用主にそんなお手を煩わせるようなことは――」
「気にしないで。ただでさえ変なことさせてるんだから、負担は分散しないとね」
そう言って咲夜は竜司からカメラを取り上げた。そして扉を開けて身体の半分を外に出した。二階から三階に向かう階段は外に設置されており、三階はフィルム用暗室として使用されていた。
「食事を続けて。現像が終わればそっちに行く」
そう言って咲夜は暗室へ向かった。
竜司はトランシーバーを充電器につなげると、一階に降りて食事を再開した。咲夜の分の料理はサランラップをし、電子レンジに入れておく。
食事が終わると外に出てタバコを取り出し、口にくわえた。そして火をつける前にジッポーライターを眺める。ライターには牛と北海道、数字の「7」が組み合わさったマークが刻まれていた。ライターでタバコに火をつけると、深々と吸い、ゆっくり吐いた。
至福のひと時だ。咲夜はニコチンがもたらす偽りの幸福感だと言うが、喫煙自体を咎めたことはない。竜司にはそれがありがたかった。ここで禁煙させられたら、いよいよ今度は自分が屋敷に現れるだろうと常々思っていた。
階段を下る音を聞き取ると、タバコを消して携帯灰皿に入れ、中に入る。
咲夜はいくつか写真を持って現れた。
「ばっちり写ってた」
「白黒のみですか?」
「悔しいことにカラーにもね」
そう言ってデスクの上に置く。
竜司は覗き込んだ。
確かにそれは写っていた。
様々な位置の様々な角度から取られたどの写真にも、羆の剥製の前に立つ男性がいた。カラーの場合は少しぼやけていたが、白黒写真では鮮明に映っている。
男性は初老に見えた。身体部分は影のようなものに覆われはっきりしないが、顔だけはしっかりと浮かび上がっている。
生気のない瞳、多く刻まれている皴、血の気のない唇。
まるで吸血鬼かゾンビだと竜司は思った。
「この男性に見覚えはあります?」
「ない」
「ということは新規ですね」
「そうだね。資料の作成は私がしておくから、日誌の記入をお願いしても?」
「もちろん」
竜司はデスクに座り、警備日誌の記入を始めた。日付、定時巡回の時間と異常の有無。そして特記事項に先ほどの出来事を書き始めた。
何時に「ガス漏れ」に気づき、現場に向かい、「異常」を目視できたか否か、写真撮影で異常を確認できたか。
咲夜もまた、写真をスクラップブックに貼り付け、出現した日時を記入した。「食事の時に来るなんて、参るわね」作業をしながら彼女は呟く。
「食事は電子レンジに入れておきました」
「ありがとう、悪いわね。いつも気を利かせてもらって」
「お気になさらず。二階に戻って監視業務に戻ります。真壁さんもしっかりと休憩を」
「お言葉に甘えようかな」
「遠慮なく甘えてください」
竜司は二階に上がるとモニターの前に座った。
モニターはいくつもあった。通常の監視カメラの映像や、赤外線カメラの映像。画面には屋敷内の各部屋・各廊下が映し出されている。
ふと、窓の外にある屋敷を見た。
今日のガス漏れ」はこの一件だけであってほしい。
そう思いながら監視に戻った。
森林の中にあるこの監視塔での仕事は一見すれば外国にある森林火災監視員に似ていなくもない。
だが、監視すべきは森林に起きる火災ではない。
あの屋敷そのものだ。
屋敷の中に現れる来客の監視と記録。
以前の職場を退職する際は考えもしなかった仕事。
夜は長い。
竜司は背を伸ばしながら、監視カメラの映像を眺め続けた。




