~その青年、華のように笑う事~
「なあ竜也。お前さ、彼女とかいねえの?」
それは竜也の同僚で友人でもある河合虎之介の一言から始まった。
「なんだよ、いきなり」
「いや、だってお前イケメンなのに女っ気ゼロじゃんか。生徒も先生たちも皆彼女いねえのかって噂してたぜ」
「彼女ねぇ。まあいない訳じゃないが···」
「···は、はぁぁ!?いんの、彼女!!」
虎之介は思わず叫んだ。
「おまっ、馬鹿!!こんなとこで叫ぶんじゃねえ!!」
竜也も叫んでしまった。当然だ。竜也たちがいるのは中学校の教室前の廊下だったからだ。
「ええぇ!!先生彼女いるの!?」
「ウソォ!先生彼女いたのかよ!!」
近くにいた生徒たちが一斉に騒ぎ始めた。今は休み時間で生徒たちの大半が校舎内にいた。
「あ、いや、その···まあ、取りあえず落ち着きなさい···」
なだめようとするも、全く効果なく生徒たちの動揺はどんどん広がっていく。
「先生!本当に彼女いるの!?」
「いや、まあ、そのぉ···恨むぞ、虎之介···!」
小声で虎之介に恨み言を述べるが、事態は全く変わらない。
さすがに虎之介もまずいと思ったのか、話を変えに入った。
「ま、まあ、竜也。お前この後も授業あるんだろ?準備しなくて良いのか?」
「ん?あ、ああ!そうだったね!職員室に行かなくては」
生徒たちがわあわあと騒ぐ声を後ろに竜也は走って職員室へ戻った。
「おい虎之介!何騒いでくれたんだよ!次の授業から質問攻めになるじゃねえか!」
急いで職員室に戻った後、竜也は小声で怒鳴った。かなりキレている。
「悪い!マジで驚いちまってさ」
「ったく、マジで後で覚えとけよ」
竜也は睨みながら急いで次の授業の教室へと向かった。もうじきに授業開始のチャイムが鳴る。
「先生!彼女ってどんな人!?」
「美人!?」
教室に入ってすぐに予想通り質問攻めにあった。
「はいはい、もうチャイム鳴ってるからね。授業始めるよ」
ええー!と生徒たちの不満の声が聞こえたが、無視して授業を進める。もう生徒のブーイングにも慣れてきていた。
授業開始直前に教室に入り、授業終了のチャイムと同時に出る、という行為を繰り返し、授業は何とか乗りきったが、昼休みになって職員室の竜也の机に生徒たちが押し寄せてきた。
「先生。ほんっとうに彼女いるの?」
「········」
「教えてよ、先生!」
話すまで出ていきそうにない生徒に竜也は、はあぁ、と深くため息をつき、諦めたように話し始めた。
「·····いるよ。高校の時から付き合っている女性がいる」
「高校から!?めっちゃ長いじゃん!」
キャーっと女子生徒の悲鳴が職員室に響く。
「········もういいだろ」
ガタッと椅子から立ち上がり、まっすぐに職員室の扉へと向かう竜也を生徒たちが引き留める。
「ダメダメ!まだ話は終わってないよ!」
「そうだよ!まだ終わってないから!!」
しかし竜也は生徒たちを見向きもせずにそのまま校舎の外へ出てしまった。
「なんか機嫌悪くなったね、先生」
「そんな聞かれたくなかったのかな」
生徒たちがざわざわと話し始める中、教頭が立ち上がって生徒たちを注意した。
「ここは先生たちが仕事をする場所だ。用がない生徒は出ていきなさい」
えーっと文句を言いながらも出ていく生徒たちを横目に虎之介は焦っていた。
さすがに不味い。竜也を本気で怒らせたらどうなるかは、以前起きた山姥の件から容易に想像がつく。
どうしよう、と頭を抱えてしまった。
竜也は学校近くの橋まで歩き、黄昏ていた。
「かなり怒っていたねぇ、竹内先生」
「···西根先生」
声をかけられ振り返ると、頭の薄い、小太りな中年の男が立っていた。
西根吉住。竜也と同じ数学の教師で歳は五十三。教師らしくない大雑把な性格で、その見た目に関わらず生徒に人気のある教師だった。
竜也とはプライベートの話をする関係になっていた。
「ははは···すみません」
苦笑しながら返事をすると、首を降られた。
「いやいや、生徒でも嫌なことは怒って良いと思うよ。なかなかに突っ込んだ質問をしてたからさ」
「ああいう質問でも軽く受け流せなくてはいけないのは分かっているんですけどね···どうも昔から恋愛に関することは苦手でして」
「そうみたいだね。女性の教師や保護者から言い寄られて困り果てている顔は結構面白いし」
「気づいていたのなら止めてくだされば良かったのに···西根先生、実はSってやつなんですか」
「おや、気づいちゃったか。まあ、一本どう?」
おちゃらけた返事をしながら煙草を差し出された。
「···ありがとうございます」
スッと一本手に取り、ライターを借りて火をつける。
ふうっと吐き出し、一息ついた。
その様子を見ていた山根は少し驚いた顔をした。
「へえ、竹内先生っていける口なんだね。差し出しといてなんだけど、吸えない人って結構いるからさ」
「吸えない訳じゃないですよ。ただ、彼女が匂いが好きじゃないと言っていたのであまり吸わないようにしているんです」
「へえぇ、彼女さん煙草の匂いが嫌いなんだ。確かに女の子ってキスする時、煙草の匂いがするの嫌がったりするよね」
ぶほっと激しく咳き込み、竜也は涙目のまま訴えた。
「何てこと言うんですか!」
「ああ、ごめんごめん。でも本当に恋愛に関しては不器用みたいだね。彼女さんとは上手くいってるの?」
「···どうでしょうね。高校の卒業後もちょくちょく会ってはいるんですけど、それ以上の進展はないって言うか···」
「進展ってどういうこと?」
「婚約とかまでは行っていないということです。デートは普通にしますけど」
「婚約する気はないの?」
「·····したいという気持ちはあります。彼女のことは本気で好きですし、幸せにしたいと思う。でももし彼女が俺と結婚することで不幸になるというのなら、絶対に結婚はしないと決めてもいます」
「考えてるんだね。若者にしては随分しっかりした考えだ」
数百年生きてるからなんですけど、という言葉を飲み込み、竜也は微笑んだ。
「彼女が幸せであることが俺にとっての幸せなんです。彼女とずっと一緒にいたいという俺の願いを勝手に叶えて、彼女の笑顔が消えるなんてことは絶対にあってほしくないんですよ」
真っ直ぐな目でそう言いきった竜也を、山根は信頼できる男だと感じた。
「まあ、彼女さん、大事にしなさいよ」
ぐりっと地面に煙草を踏み付けて、山根は手を振りつつ立ち去った。
竜也はその背をじっと見つめていた。
「わっるい、竜也!ほんっとうに俺が悪かった!」
校舎に戻ると、虎之介が地につきそうなほど頭を下げてきた。
周りの教師や生徒がなんだなんだとチラ見してくる。
「いや、いいから!頭をあげろって!」
さすがの竜也もここでそんなことするか、と動揺した。
「いや、俺が謝りたいから謝ってるんだ!すまなかった!!」
虎之介は竜也の言葉などお構いなしに頭を下げ続ける。
困り果てた竜也は奥の手に出ることにした。
「···頭を上げないならお前の黒歴史を暴露するぞ」
「···黒歴史?お前に何か話したっけ」
「俺の情報網をなめるなよ。まずはお前の高校時代の黒歴史だな。お前が女子に告白した回数とか」
「わぁぁーー!!バカ、んなことしゃべるんじゃねえぇ!!」
「だったら頭上げろ。俺がお前に無理やり謝らせている悪いやつに見えてくるじゃねえか」
軽く睨みながら竜也は言った。
「分かった、分かったから!頭上げるしもう謝らんから、言うの止めてくれ!」
ほとんど涙目のまま叫ぶように言った虎之介に竜也は悪魔のような微笑みでうなずいた。
「じゃあ言わない。あと、もしまた同じような話題を振ったら怒るからね」
最後はドスの聞いた声であったため迫力があり、虎之介はたじろいだ。
「う···わ、分かった」
にこっと悪魔の微笑みで虎之介に笑いかけると、竜也は職員室にゆったりと戻っていった。
「━━ねえ雪柰。お前は俺のことをどう思っている?」
部活を休みにした土曜日のこと。
その日、竜也は交際している女性、河合雪柰とデートをしていた。
カフェの二階席で竜也はそう雪柰に聞く。
「どう、と言うと?」
「お前は俺とこれからどういう風になりたいのかなって」
「···それは、結婚についてですか?」
「そうだね。それも含まれる」
「·····私は、竜也さんと過ごすこの時間が好きです。できるなら、これからも一緒に過ごしたいと思っています。···竜也さんが私を気遣って一線を越えないようにしているのは知っていました」
竜也はその言葉を聞いて目を少し見開いた。見抜かれていたのか。
「·····でも私は少し不安になっていたんです。竜也さんがもしかしたら私に対する思いが薄れているのかも知れないって」
「そんなことは···」
「はい。分かってます。竜也さんの今の言葉を聞くに、そんなことはないんだろうって思います。竜也さんは、もし私が交際を終了したいと思った時、傷物では可哀想だと気を遣ってくれていたんですよね」
「·······」
「すみません。私、竜也さんの優しさに甘えていたところがありました。私は、竜也さんと過ごす時間が好きです。できるのならこのままずっと一緒にいたいと思っています」
「···そうか」
「竜也さんは私を大事にしてくれる。そんな竜也さんだから、私の両親もあなたとの結婚には賛成してくれています。だから、できることなら、その、結婚は···したいです···」
始めははっきりとしゃべっていたのに、語尾に行くにつれてどんどん小さくなっていった。
恥ずかしげに顔をうつむける。
「·····もし雪柰が俺との結婚を躊躇うようなら考え直そうと思っていた。雪柰が幸せじゃなければ俺も幸せじゃない」
真っ直ぐな目でそう言いきった竜也に、雪柰は顔を上げ、思わず微笑んだ。
この人はきっと、恋愛だけが少し不器用なだけで、本当はとても優しい。
この人となら自分は幸せになれる。
そう思った。
「私にとっての幸せはこの穏やかな日々を竜也さんと過ごすことです。だから、できることなら、結婚をしたいと思っています」
覚悟を決めた、凛とした姿で竜也を真っ直ぐに見返す。
竜也にとって、雪柰の真っ直ぐな性格が好きな要素の一つだった。
「···結婚しよう。いずれ、その証をこの指に」
雪柰の手をきゅっと握りしめ、竜也は微笑んだ。
竹内竜也。人間として生まれながら鬼の血を受け半妖となった男。
彼には百五十あまりの配下がおり、あやかしの世界でそれなりの地位を確立しているが、人間の世で人間に紛れて暮らしている。
そんな彼には一人の想い人がいた。
竜也の想い人である河合雪柰は、実はその時竜也の正体を知らなかった。
竜也とは家が隣ということもあり昔から仲が良かったが、雪柰が竜也と同じ高校に進学した後、付き合い始めた。
一歳の歳の差があったため、付き合って一年で竜也は卒業してしまい、離ればなれになってしまっていたが、二人の関係は今も続いていた。
「━━今日、竜也さんと婚約したの」
雪柰はダイニングテーブルの反対に座る両親にそう告げた。
「あら、そうなの。良かったじゃない」
母に軽く返事を返され、雪柰は少しむくれた。
「なんか軽くない?反対されるよりはいいんだけどさ」
「だって相手は竜也くんでしょ?すごいしっかりしているし、あんたを大事にしてくれそうじゃない。顔だっていいし、教師だから給料は安定しているし、申し分無いわよ。ねえ?」
隣に座る夫にそう同意を求めつつ軽く話す母に雪柰はため息をついた。
「···まあそういうわけだからさ、今度竜也さんが挨拶しにくるって」
「そうなの。じゃあ準備をしなきゃ」
「···雪柰」
沈黙を保っていた父が突如口を開いた。
「何?お父さん」
「お前が真剣に考えて選んだ相手なら、俺は文句は言わん。でも少しでも躊躇う気持ちがあるのなら、考え直せ」
「·····躊躇ってなんかないよ。私は竜也さんだから選んだの。この気持ちに偽りなんてない」
凛とした態度で真っ直ぐ見据えてくる娘を父はしばらく見つめ、うなずいた。
「お前が後悔をしていないのなら、それでいい」
「···ありがとう、お父さん」
少し恥ずかしそうに雪柰は笑った。
その指には約束していた結婚のための証が光っていた。
「何だか、さみしい気持ちになりますね。貴方」
雪柰が部屋に戻った後、二人きりになったリビングで母はそう夫に言った。
「···娘が自立するんだ。良いことだろう」
「そうなんだけどねぇ。なんか娘が本当に手元を離れていくんだなあって思って。娘の結婚ってこんなにさみしいのね」
竜也が挨拶に来てから二ヶ月後。
雪柰と竜也の結婚式の話はトントン拍子に進んだ。
「━━ど、どういうことですか?」
「だから、今言っただろう?お金はあるから身一つで嫁いできてくれて良い、と」
「だって竜也さんって私と一個しか歳違わないじゃないですか。教師と言ってもそんなに給料は高くなのにそんなお金あるわけ無いでしょ」
「俺が昔からこつこつ稼いできたものなんだよ」
「昔から?いつからなんです?」
「ああ、そう言えば雪柰にあのことは話していなかったね。良い機会だし、お父さん方も一緒に聞いていただけますか?」
婚約の挨拶に来たその日、竜也は気が早いらしく、もう結婚に関する詳しい話を進めてきた。そんななか、竜也は自分の昔語りを始める。
「━━俺が生まれたのは奥深い山の中にある小さな貧しい村だったんだ。そこで俺は村長の四男として生を受けた。でも、喋ることが出来ないという障害を持っていてね」
「喋ることが出来なかった?どういうことですか?」
「さあ。医者に診てもらったわけじゃないから、詳しいことは分からないけれど、まあ精神的なものだったのかもしれないと今は思っているよ」
「···精神的、ですか」
「そう。そして俺は体も弱かったから、農業の役には立たなかったんだ。だから俺を殴ったり蹴ったりして憂さ晴らしをする村人が多くてね。おそらくそれが原因だったと思うんだけれど。···でもそんな中、たった一人だけ俺を気にかけてくれた人がいた。それが、俺の二番目の兄だった。兄は俺が食べ物を貰えなかったのを見て、夜こっそり握り飯を持ってきてくれたりしてね。俺も兄だけを慕っていたんだよ」
笑いながら話しているが、今の姿からは想像できないほど壮絶な過去に、雪柰は言葉を失った。
てっきり裕福な家に生まれて幸せに生きてきたんだと思い込んでいたからだ。
「······じゃ、じゃあ、竜也さんの今のご両親は···」
「ああ、あの人たちは里親って言うやつかなぁ。俺が六つの時、実の家族に山に捨てられてしまったんだけど、しばらくして彼らに拾われたんだ」
「···捨てられたって」
「口減らしだよ。あの村では別に珍しいことではなかったんだ。結局俺も冬の雪山で捨てられちゃったんだ。かなり薄着だったし、夜だったこともあって山は冷え込んでいたから凍傷になりかけていたけれど」
さらっと話す内容に雪柰は動揺を隠せない。
「···で、では竜也さんの本当のご両親は今···」
「さあ?会っていないから分からないよ」
「俺は会った方が良いと思うぞ、竹内君」
突然雪柰の父が真剣な表情でそう言ってきた。
「そうよ。この機会にちゃんと会って真剣に話し合っても良いんじゃないかしら」
雪柰の母も同意するようにうなずきながらそう言った。
「·····そうですねぇ。まあ会ったら自分が何をするか分からないので、あえて会わないようにしているんですけど」
「···ではもう会う気はないと」
「うん、そのつもりだよ。まあ俺の顔なんて覚えていないだろうし。そもそも存在すら忘れているかもね」
妙に楽しそうに話す姿に雪柰は不審に思った。
「···何でそんなに楽しそうなんですか」
「楽しそう?」
きょとんとした顔で首をかしげる様子に雪柰はますます不審に思う。
もしかしたら彼はまだ話していないことがあるのかもしれない。
問いただそうとした時、竜也が話を戻した。
「話を戻そうか。俺は山に捨てられた後、しばらく色んなところをさ迷っていたんだけど、その時にちょっとずつお金を稼いでいたんだよ」
「どうやって?」
「困っている人を手伝ったりしたんだよ。小さな集落の老人たちの仕事を手伝って、宿を借りたり報酬を貰ったりして命を繋いでいたんだよ。まあ上手く言い寄って、それなりの量は貰ってたけどね」
そう言いながらいたずらっぽく笑う竜也に雪柰は思わず笑い返した。
「···でもだからってそんなにお金あるわけ無いじゃないですか。言い寄ったにしても限度があるでしょう」
「それだけじゃないんだよ。大学に行ってる時に、講義のない時間にバイトを掛け持ちしてやりまくってたんだ。ああ、ちなみに入学費と授業料は首席合格者は免除って言ってたから、ちゃんと勉強して免除にしたよ。里親に頼りすぎるのもどうかと思ってね」
「そういえば竜也さんって高校の時も学年トップの座を譲らなかったですものね」
「そうそう。学校から推薦も貰っておいたし、そこまで頭の良い大学を選んだわけじゃないしね」
しかし雪柰は、竹内は国立の大学にも余裕で入れるだろうと教師の間で噂になっていたのを忘れてはいない。
謙遜だろうがなんとなく嫌味に聞こえてたため、気にしないことにする。
「···それで、お金があると」
「そうだよ。昔からかなり安いアパートに住んでいるからね。外食とかもあんまりしないし使い道なくて溜まり続けてるんだ」
「ああ、そうそう。竜也君ってさ、普段どのくらい食べるの?旦那以外に男性なんていたことないから、そこらへんまだ良く分かっていないのよね」
雪柰の母が問いかける。
「···そうですね。普段はそんなに食べませんけど、食べる時はそれなりにいけますよ」
「···普段はどのくらい食べてるんです?」
雪柰が厳しい口調で問いかける。ふと嫌な予想が頭をよぎった。
「え?えっと···そうだね···自炊はしないから···」
歯切れの悪い返事に雪柰の顔が険しくなる。
「さっき外食もそんなにしないって言ってましたよね?」
「ああ、そういえばそんなこと言ったね···」
「·····もしかして俺は朝食も夕食も取らないんだ、なんて馬鹿なこと言うんじゃないですよね?」
「·······」
「···食べてないんですか?」
「·····うん」
「馬鹿じゃないですか!?それって学校の給食しか食べてないってことですよね!?」
竜也がぷいっとそっぽを向く。
あまりに子供っぽい仕草に雪柰はつい威勢がそれる。しかしここで引くわけにはいかない。
「·····そうなんですね?」
どなり声からドスのきいた声に変わり、思わず竜也はびくついた。
長年生きてきて、ここまで竜也をびびらせたのは後にも先にも雪柰だけだろう。
「···分かりました。じゃあ明日から私が竜也さんのご飯を作ります」
「明日から?どこで?」
「もちろん竜也さんのアパートでです。お仕事忙しいんでしょう?」
「俺の部屋って···さすがに警戒心無さすぎじゃないか?」
思わず竜也はべつのことを気にしてしまう。
「だって倒れられたらそっちの方が困りますからね。いいから大人しく言うことを聞いてください」
厳しい口調で言い返され、竜也はうなずくしかなかった。
竜也にとって雪柰は愛しい、大切な存在であった。
故に雪柰の言うことには逆らう気もあまり起きず、ついその勢いに押されてしまう。
今回もそのかたちで事が決まってしまい、竜也は閉口した。
その日、竜也は結婚や家などこれからに関する詳しい話をもう少し続け、雪柰の家を後にした。
翌日から押し掛け女房のようにやってきた雪柰は竜也のアパートに住み始めた。
竜也ならば、と両親が承諾したからだ。
父は最後まで渋っていたが、母はむしろ喜んでおり、胃袋をしっかりと掴んでこい、と言われ雪柰は意気込んでいた。
それぞれ反応は違うものの、どちらも雪柰を思っての言動であったため、この親のもとに生まれてきて良かった、と心の底から思った。
竜也の食生活は思っていた以上に悪かった。
先日言っていたように家で食事を取る習慣が全く無く、その上仕事が忙しいのか睡眠時間もバラバラだった。
朝、竜也を叩き起こして、バランスの取れた朝食を作り、竜也を見送ってから自分も出社する。
そんなサイクルがしっかりと確立してきた頃、竜也の雪柰に対する態度も変化してきていた。
同じ屋根の下に住んでいるためか、以前はそこまで触れてくることもなかったが、最近は後ろから抱きつくなど、大胆な行動が増えてきていた。
その上、歯の浮くような甘い言葉を耳元で囁くなど溺愛っぷりが極限に達していた。
「だから、油断するとすぐに抱きついてくるの!本当に心臓に悪いったら」
「良いじゃないの。上手くいってる証拠でしょ」
「そうなんだけどさ···。前まで一線を越えないようにってすごい気を遣ってた感じだったけど、いきなりこんなベタベタされると困るっていうか」
「ベタベタってあんたね、竜也先輩に失礼でしょ。うちらからしてみればそんなの夢の中での事なんだからね。そんなイケメンに溺愛されてて文句言ってんじゃないわよ」
「だってさ···」
「だってじゃないよ。高校の時から先輩はすごい人気があったんだから。今さら手に入れておいて文句言うなんてわがまますぎるわよ」
「···加奈も竜也さんのこと好きだった?」
「好きっていうか憧れてたな。あんなイケメンが彼氏だったらいいなとは思ったけど、それは恋愛感情とは違ったしね。あんたに嫉妬して嫌がらせするような奴らとは違うわよ」
加奈は勝ち気に笑った。彼女はサバサバした性格で、一緒にいても疲れない。中学の時出会ってから雪柰の一番の親友だった。高校も同じで、社会に出た後、時々会っていた。
こういう子が自分の親友で良かった。
雪柰は加奈の裏のない笑顔を見て、心の底からそう思った。
それから数ヵ月後。竜也と雪柰は、三月のまだ寒い時期に結婚式を迎えた。
同級生たちに羨ましがられながら雪柰はウェディングドレスを身にまとい、十字架の前で愛を誓った。
恐ろしいほど完璧な佇まいの竜也を見つめ、生まれてきて良かったと思った。
しかしその幸せな感情はその翌日に変わっていく。
「···今、何て言ったんですか···?」
震える声で呟いた雪柰に、竜也は困った顔で微笑む。
「だから、今言った通りだよ」
「···だって、竜也さんはただの人間にしか見えません」
「人間として生まれたからね。その後で鬼の血を受けたんだよ」
「·····」
「やっぱり、怖いよね。いきなりこんな話をしてすまない」
悲しそうに微笑む竜也をしばらく見つめ、雪柰はあえて深く深呼吸した。
「·······いえ、驚いただけです。現に竜也さんの髪が白くなったところを見ましたし、瞳の色も紅くなってました。目はともかく、髪を一瞬で変える方法なんて思い付きません」
きゅっと口を引き結び、雪柰は覚悟を決めた顔で宣言した。
「···私は貴方を好きになったんです。貴方が人間であろうと妖怪であろうとそれは関係ありません。···でも、一つだけ言わせてください」
「···?何かな」
「竜也さんは私が貴方の正体を知ったら怯えると思ったから言えなかったんですよね。それが、私としては心外です。私は簡単な気持ちで貴方と結婚したいなどと言ったわけではありませんし、こんな騙し討ちのような形で言われても困ります」
「···ごめん」
「これからは大事なことはもっと早く言ってください。私たちは夫婦なんです。あまり隠し事はしてほしくないですし、したくないです」
「···分かった。これからはちゃんと言うよ。小さなことも、大事なことも」
真面目な顔でそう言った竜也を雪柰は愛しそうに見つめた。
「···良い家庭を築いていきましょう。私は幸せな日々を、貴方と送っていきたいです。貴方となら、私は幸せになれる自信があります」
ふふっと幸せそうに笑った雪柰を竜也は愛しく思う。
不意に立ち上がると、雪柰の背後に回りぎゅっと抱き締めた。
突然のことに雪柰は固まったが、少しづつ力を抜き、その身を任せた。
二人はそのまま置物のように動かず、時は静かに過ぎていった。
その夜、雪柰は竜也と初めて心も身体も結ばれたように感じた。
竜也が幸せを掴んだその頃、あやかしの世界では鬼の血を継ぐ竜也を疎ましく思うものたちが集い、話し合いをしていた。
━━鬼の血は本来、他怪に与えるものではない。
ましてや人間ごときに与えられるほど安いものではないのだ。
鬼の血は鬼のみが受け継ぐもの。
鬼の半妖といった存在は決して認められない。
全員の意見が一致した後、一つのことが決定した。
『鬼の血を継ぐ、元人間の竹内竜也を抹殺する』
あやかしの世界の秩序を守るために、あやかしたちは正義感を胸に立ち上がった。