09. 変化する日常
気分が悪くなって倒れた翌日。セシリアが目を覚ますと、寝台の周りには、慈愛の表情を浮かべた両親と兄が立っていた。困惑した彼女は、おそるおそる家族に尋ねた。
「私、死んでしまうの?」
不幸な病人を看取る絵物語の挿絵に、今の状況が、なんとなく似ていたのだ。
「まさか。そんな縁起でもないことを言うものじゃないよ」
悲しそうに父が諭した。では、どうして集合しているのだろう。
「お前が目を覚ましたら、真っ先に説明しようと、集まっていたんだ。いいかい、セシリア。サイラス君との婚約は、白紙に戻したからね」
「えっ」
あれだけセシリアを苦しめてきた、サイラスとの婚約。それが、眠っているうちに、あっけなく解消されたという。
「……公衆の面前で、お前を侮辱したそうじゃないか。いくら親交の深い家の子息だろうと、娼婦などと侮辱した下位貴族を放置しては、うちの家名に傷がつく。お前が婚約破棄と言ったのは、伯爵令嬢として正しい判断だよ」
「婚約破棄の通告は、わたしの我儘ではない? お父様たちのご迷惑にならない?」
不安がるセシリアを落ち着かせるため、父がいつも以上に穏やかな声で話しかける。
「ああ、当然さ。うちに迷惑なんか、かからないよ。それとね、サイラス君を二度とお前に近づける気はないから安心しなさい。だが、ボルカ卿夫妻や、嫡男のジェイムズ君なら、今後、会っても平気かな? ご家族にも、会うのは辛いかい?」
「サイラス様のご家族は平気よ。皆さん、私にご親切にしてくださったわ。だけど、サイラス様は……あの人だけは……」
「わかっているよ。大丈夫、絶対に彼とは会わせやしない。サイラス君を罰したいかい、セシリア?」
「いいえ、お父様。お会いしたくないだけなの……酷い目にあわせたいわけじゃない、もうお会いしたくないだけなの……!」
セシリアの顔が歪む。涙が溢れて、こめかみを伝い、髪を濡らした。
そもそも、報復などという苛烈な決断を下せる娘なら、ここまで追いつめられることはなかった。
父とボルカ卿、母とボルカ夫人、兄とジェイムズ。階級の隔たりを超えた、彼らの信頼関係に亀裂が入るのを恐れたからこそ、サイラスの仕打ちを話せなかったのだ。
黙って貶められるうち、酷い罵倒に精神が弱り、自分には価値が無いと思い始めた。サイラスに抗ってはならない、あの少年は恐ろしい力を持っている。そんな誤った認識へ、思考が塗り替えられていったのである。
「安心していいんだ、セシリア。彼の処遇については任せてくれ。お前を追い詰めてしまって、すまなかった」
詫びてくれた家族を、セシリアはすでに赦していた。
家族が約束してくれたとはいえ、五年に及ぶ辛い月日が彼女に与えた負荷は大きい。またサイラスが訪ねてくるのではないかと、たびたび不安に襲われていた。
サイラスの処遇が決まると、なかなか落ち着かないセシリアに、その内容が伝えられる。
「私以上に、ボルカ家のご家族がお怒りでね。特にボルカ卿は激怒されていた。長い付き合いだが、彼が怒るのを見たのは初めてだよ。勘当すると言ったくらいだ」
「お父様、それでは……」
「いいや。勘当については、私が止めた。放り出された彼が、食いつめたあげく、逆恨みしかねない。お前が狙われでもしたら、たまったものではないよ。サイラス君を信用出来ない以上、野放しにされては困る」
結局、サイラスは東部沿岸地方にある海軍学校の寄宿舎へ入学させることとなった。今後の帰郷は許されず、卒業と同時に軍へ配属され、地元へは戻らない。
男爵位はボルカ家次期当主のジェイムズが、子爵位とともに継承する。
貴族において、嫡男以外の男子の扱いとしては順当だ。爵位を与えられず、法衣貴族になる能力がない場合、嫡男の領地運営を手伝うか、勉強して文官や軍人になるのが一般的である。
「子爵家の出だから、ゆくゆくは下士官かな。いずれ、王都で同じ祭典に出席することがあったとしても、貴婦人と海軍下士官では、会場ですれ違うこともないだろう」
乱世の時代でもない。絶対とは言えないが、このまま平和が続けば、退役するまで下士官として生活していけるはずだ。
「中途入学になるが、もう寄宿舎へ行かせた。お前がサイラス君と会うことは、二度と無い」
セシリアはようやく安堵した。目を潤ませて、ホッと嘆息する娘を、ウィンクル伯爵は労りをこめて抱き寄せた。
それから半月ほどは、ただぼうっとして過ごした。張りつめていた神経を落ち着かせるための休息を、心と身体の両方が求めていたのだ。きちんと夜眠れているのに、日中もウトウトと強い睡魔に襲われる。
人心地ついて平穏に慣れ、元気を取り戻したセシリアは、クレメントに会いに行くことにした。
こっそり家を抜け出して、いつもの待ち合わせ場所へ向かう。そわそわと早足で先を急いだ。狩猟小屋が見えた途端、セシリアは我慢できずに、走り出していた。
「クレム!」
「シシー!」
笑顔のクレメントが小屋から飛び出し、セシリアの元へ駆け寄ってくる。子供のように手を取り合った二人は、歓声をあげて飛び跳ねた。
「解決したの! 婚約は白紙になったの!」
「おめでとう! 良かったな、シシー!」
庭師へ託した手紙で、大まかな事情は報せてあった。だが、直接話すのは一味違い、喜びと興奮に包まれる。大はしゃぎした二人は、その場でくるくる回りさえしたほどだ。
ほどなくして手を放すと、談笑しながら小屋へ向かう。長椅子に座ったセシリアは、クレメントへ事の顛末について、詳細に説明した。
あっという間に二刻の時間が過ぎてしまい、名残り惜しくセシリアが立ち上がる。
「嫌になっちゃう、もう時間だわ。みんなが探し回る前に帰らなくっちゃ」
楽しい時間が過ぎるのは、なんと早いことだろう。長椅子から立ち上がり、長身のクレムを見上げた。セシリアの顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「クレムは時間泥棒よ。もっと話したかったのに、意地悪ね。ふふふ」
「それは君だろ。ひとを楽しい気持ちにしている隙に、時間をすりとっちまうんだから。さあ、怪盗シシー嬢、俺の時間を落とさぬように、お気を付けて帰られよ」
「かしこまりました、クレム警吏殿。近日、再びお会い致しましょうぞ」
ボウ・アンド・スクレープとカーテシーで挨拶し、顔を見合せクスクス笑う。
姉アルマのような度胸や機知を人前で現せないセシリアだが、気のおけないクレメントには、いくらでも快活に振る舞えた。
「俺は、もう少し後に帰るよ。またな、シシー。転んだりしないよう、気を付けてな」
「ありがとう、クレム。またね」
弾む足取りで小屋を出ると、セシリアはウィンクル家の屋敷へと帰って行った。
何も知らずにセシリアが帰った後。長椅子に腰掛けたクレメントは、静かな面持ちで小屋の扉を見つめていた。
やがて、煤けた木戸がゆっくり開き、一人の若い男が姿を見せる。
訪問を予想していたのだろう、まったく動じていないクレメントに、男の方が軽く目を見張った。
「君は、私の気配に気付いていたのか?」
「まさか。そんな技量はありませんよ。ただ、俺がシシーの家族なら、きっと心配で後をつけたと思うから」
「そうか」
クレメントが立ち上がる。
「社交でお目にかかったことはありますが、こうして私的にお会いするのは初めてですね、リチャード卿」
挨拶を受けたセシリアの兄リチャードは、微笑みを浮かべるクレメントへ、真摯な眼差しを向けていた。