07. 決別
聖レオーナの祭日に、セシリアは婚約者を自然公園へ呼び出した。
緑豊かで雰囲気が良い場所なら、サイラスの心もほぐれて、ゆっくり話し合えるのではないかと考えたのである。
侍女を連れて、馬車へ乗り込む。貴族令嬢が供も連れずに、公共の場を出歩くわけにはいかない。
移動中、セシリアは自分の落ち度を振り返った。
婚約者の敵意に晒されるたび、萎縮し、俯いて、ひたすら耐え忍んできた。それが、サイラスの攻撃性を煽り、今の歪んだ関係をつくる一因になったのではないだろうか。
かつて、姉のアルマは、ピシャリとサイラスをやりこめた。はっきり自己主張できる女性でないと、適切に付き合えない人物なのかもしれない。
セシリアは姉ではない。できることには限界がある。せめて今日は俯かず、目を見て話してみようと勇気を奮い起こす。
臆病なセシリアは、それだけでも胃がキリキリ締め付けられた。すぐに恫喝してくる人間、まして相手が男性となると、年下とはいえ恐ろしい。
林檎籠の取っ手を強く握りしめた。幸せになれと言ってくれた幼馴染の言葉で、挫けそうな己を鼓舞する。
今日のセシリアは、青白い顔をしていても、けして目を伏せはしなかった。
自然公園へサイラスが現れたのは、約束の時間を半刻ほど過ぎてからだ。不機嫌そうな面持ちといい、セシリアに呼びつけられたのが余程気に入らないのだろう。
「お出でいただき、ありがとうございます」
「……ああ」
くぐもった低い返事。早くも折れかけた気力を立て直す。セシリアは慎重な手つきで、林檎籠を差し出した。
「サイラス様、聖レオーナの日、おめでとうございます。まずは、こちらを受け取って……」
サイラスの両目が、険しく細められた。振り上げられた腕。バシリと叩き落とされた林檎籠。
「籠に入れただけの林檎だと? 農夫でもあるまいし、こんなみすぼらしい物、喜ぶわけがないだろう! お前、婚約者である僕を、どれだけ蔑ろにすれば気が済むんだ!」
愛の象徴が、バラバラに散らばり、地べたを転がっていく。
それは、ただの林檎ではなかった。セシリアが必死にかき集めた希望だ。
そして、親友という立場を壊さず、送り出してくれたクレメントの、純粋な想いの結晶だった。
□
サイラスが騒々しく喚き散らしている。散策の足を止めた野次馬が、ヒソヒソと囁きあっていた。けれど、何も感じない。すっかり心が麻痺している。
「まったく、一言の詫びも無しか。涙すら見せやしない。強情で可愛げのない女だな。おい、黙ってないで何か言ったらどうだ」
いつものように、謝罪を求められている。サイラスの機嫌を取って、泣きながら詫びろと命令されているのだ。けれど普段と違って、どうにか彼をなだめて、落ち着かせなければという焦りが、一片もわいてこなかった。
青ざめて立ち尽くす一方で、セシリアの頭は、いつになく冷静だ。こちらの言葉はサイラスに伝わらないこと、話し合う機会さえ持てないこと。それらを、淡々と理解する。
虐げ方が徐々に大胆になってきたのは気付いていた。それでも、ウィンクル家の応接室での行いは、まったく明るみに出なかった。
その経験と気の弛み、そしてセシリアごときに呼び出された怒りが、公の場での罵詈雑言につながったのかもしれない。
────私、この人と一生を共にするの?
麻痺した心で、セシリアは自分に問いかける。これまで、萎縮して近付けなかった問題の核心へ、ようやく一歩踏み込んでいた。
────この人と子供をつくって、死ぬまで一緒にいることが、私の幸せなの? クレムが望んでくれたのは、この人と添い遂げることなの?
セシリアの華奢な体へ、ゾクッと怖気が走る。
違う。絶対に、違う。そんなはずが、あるものか。
幼い頃から自分に向けられてきた、真摯な眼差しを思い出す。どんなときでも、セシリアを案じてくれた、美しい緑色の瞳を。
この五年で、すっかり自信を失った。家族さえあてに出来なくなっていた。そんな彼女が、ただ一人だけ、けして揺るがず信じている者がいる。
クレメント・オルグレン。
自分の苦しみを、けして他人に押し付けない強い青年。彼が願ってくれたのが、十五にもなって人前でわめき散らす人間を、終生子守りし続ける人生でなど、あるはずがなかった。
膜を隔てていた感覚が、徐々に正常に戻ってくる。真っ先に感じたのは、サイラスへの怒りでも、憎しみでもなく、嫌悪だった。
「自分の立場をわきまえろよ、セシリア。僕に棄てられたら、縁談相手なんて、ろくなのが残っていないからな。家族から、いかがわしい年寄りの愛人に売り飛ばされて終わりさ。散々、もてあそばれて、最後は娼婦か物乞いに身を堕とすしかなくなる」
「…………ません」
「何か言ったか?」
指が白くなるほど、両手をきつく握りしめた。怯えながらも、真っ直ぐサイラスを見つめ返す。
「物乞いや娼婦に堕ちてもかまいません。たとえ死んでもかまいません。あなたの妻になるより、ずっといいの……」
「はぁ?」
ぶるぶる震えて、セシリアは言った。顔を歪めたサイラスが恐ろしくても、けして黙らない。ここでどうにかしておかないと、一生この少年と離れられなくなる。
そちらの恐怖心が上回り、ひっくり返った大きな声で、腹の底から叫んでいた。
「あっ、あなたとのっ、婚約はっ、破棄しますっ!!」
「なんだと!?」
感情が昂ったセシリアの目から、ボロリと大粒の涙がこぼれる。ポカンと、サイラスが口を開けた。まるで予想していなかったという、そんな反応だった。
「だって、僕たちは、来年……」
「あなたとは結婚できません。あなたとだけは、できません。お願いよ、もう許してぇ!」
「お、おい、ちょっと待て……どうかしてるぞ……」
セシリアに向かって伸ばされたサイラスの手。反射的に後ずさった。触られるかと思った途端、全身の産毛が逆立ち、ゾワリと頭皮が縮む。
「いやっ!」
さらに一歩近付こうとしたサイラスの前に、侍女がスッと歩み出た。
「いかに婚約者様とはいえ、これ以上は静観いたしかねます。お退きくださいませ、サイラス様。お嬢様が嫌がっておいでです」
「なっ、貴様、侍女の分際で!」
「仰るとおり、わたくしは侍女です。メイドか何かとお間違えではございませんか?」
怒りをあらわにしたサイラスを、侍女は奇妙な虫でも眺めるように、しげしげと観察した。
「わたくしの夫は男爵位をたまわる貴族、ウィンクル伯爵家の縁戚でございます。また、本日は伯爵ご夫妻の名代として、お嬢様の付添人をしておりますの。ボルカ卿の名代でも御嫡男でも無い貴方こそ、わたくしに従うのが道理でございましょう」
「い、いいか、僕は将来……!」
「現在のことを申しております。貴方はまだ、爵位も無ければ、お嬢様の夫でもありません。わたくしに指図するなど烏滸がましい。さっさとお退きなさい。警吏を呼びますよ」
「そんなことをしてみろ、伯爵と父上が、お前を解雇するはずだ」
「では試してみましょうか。もし、無礼な小童に絡まれて、主人が難儀しております。どなたか警吏を呼……」
「よせ!」
「話になりませんね。もう結構、好きなだけそこへ立っていらっしゃいな。さあ、お嬢様、まいりましょうか」
自分が産まれるずっと前から、ウィンクル家へ仕えている侍女だ。彼女の対応に、セシリアは目を丸くした。
彼女は穏やかな壮年の女性で、いつもおっとりしている。貴族令嬢として公に行動する際は、必ず同行してくれた。だが、冷淡な言葉で誰かを斬って捨てる姿など、初めて見たのだ。
「あ、あの……林檎が……これは、大切で……友達がね……」
「はい。大丈夫ですよ、お嬢様。お泣きにならなくても、大丈夫でございますよ」
侍女は下僕を呼び寄せて、てきぱきと林檎を回収する。セシリアを連れて、さっさと馬車まで歩き出した。
侍女も下僕も、心配そうにセシリアを気遣うばかりで、突っ立っているサイラスを無視し、一度も振り返らなかった。
「大丈夫かしら。咎められたりしないかしら」
走り出した馬車の中で、セシリアは不安に震えていた。サイラスへ楯突いた自分が、辛い目にあわされるのは仕方ない。けれど、忠節を尽くしてくれる侍女や下僕が、叱責されるのは耐え難かった。
「わたくしが、でございますか?」
「う、うん」
「嫌ですわ、お嬢様ったら。こちらは無作法を受けた側ですよ。旦那様と奥様にご報告致しますから、先方へ苦情を出していただきましょうね。ボルカ家の部屋住み風情が、身の程を弁えず、聞き捨てならない侮辱でございました。お嬢様が仰ったように、ご婚約は再考されるとよろしいですわ」
あっさりと侍女が言った。出先でにわか雨が降ってきて困った程度の、軽い態度である。
「でも、サイラス様はいずれ男爵に……」
「男爵なら、わたくしと同格です。主家のご令嬢たるセシリア様は、今後も敬意の対象ですが、新興男爵家の若造ごときに折る膝などありませんよ。ほほ、ほほほ。ご冗談が過ぎますわ」
嫌味ではなく、侍女は本当に可笑しそうだった。
セシリアの認識が揺らいでいく。何が正しく、何が誤りなのか、わからなくなっていく。
「だけど……だけど……」
数年がかりで刷り込まれた、サイラスには逆らえないという感覚。セシリアが婚約者から押し付けられた歪な認識と、現実との間で、大きな齟齬が生じていた。