05. 凍てつく心
セシリアは狩猟小屋でクレメントと待ち合わせた。このところ辛い出来事の連続で、親友が現れたとき、安堵のあまり鼻の奥がツンとしたほどだ。
「それで、その……婚約者との顔合わせは、上手くいったのかい?」
サイラスについて尋ねられたセシリアは、喉に言葉を詰まらせた。心配をかけないためには、嘘をつくべきだと分かっている。だが、親友を欺く抵抗感が、それを許さなかったのである。
黙りこむセシリアに、クレメントは異変を察したようだ。俯いた彼女の顔をそっと覗きこむ。
「なあ、シシー。悩みがあるなら、俺に話してみなよ」
「だけど、告げ口みたいに、ひとに言うなんて……」
今のところ、サイラスの長所がひとつも発見できていない。ありのままを説明すると、結果的に悪口になってしまうだろう。
告げ口も悪口も、いけないことだと思っている。
彼女の良心が、苦境の告白を妨げるという、皮肉な事態になっていた。
「俺が黙って聞くだけなら、告げ口になんかならないよ。誰にも言わないって約束するから」
「でも……」
躊躇うセシリアに、クレメントは姿勢を正すと、神妙な態度で片手を上げた。
「ここに、クレメント・オルグレンは、沈黙の誓いをたてる。もし、この誓いを破り、秘密を漏洩したなら、公正の神リリシーファウラから与えられる如何なる苦痛をも、受け入れると約束しよう。たとえ死を賜ろうと、公正神の裁定に抗わないと宣誓する」
「クレム……」
クレメントは沈黙の誓いをたてた。誓いを破れば、公正の神が罪の大きさに合わせて、罰を下すと言い伝えられている。
おそらくは迷信だろう。だが、万一ということもある。余程の覚悟がなければ、神への誓いなどたてないのが常識だ。
「な、話してよ。俺を信用してくれるだろ?」
セシリアは頷いた。ポツリポツリと窮状を打ち明ける。
家族はボルカ子爵家と親しく、サイラスを全面的に信じきっているのだ。セシリアの苦悩は、クレメントにしか話せないことばかりだった。
「ひどいな、そいつ。林檎パイ……せっかく焼いたのに」
「うん……」
「アルマ姉さんに、相談してみたらどうだい?」
「お姉様にも、言えないわ。だって……」
サイラスはアルマに恋をしている。幸いというか、当然というか、十七歳のアルマは幼い子供になど無関心だ。相手にするどころか、送られる秋波に気付いてさえいない。
しかし、サイラスは足繁く訪ねてくる。彼に対応しなければならないセシリアは、この件で姉に対し、後ろめたさを覚えていた。
「お姉様の話題を出せば、取り付く島もないサイラス様と、なんとか会話が成立するの。お姉様にいいところを見せたいのでしょうね、感じ良く行動してくれるわ」
セシリアには、自分を罵り、邪険にしてくる相手の扱い方など分からない。サイラスが刺々しい態度をとろうとするたび、ついアルマを利用してしまっていた。
姉の話をしたり、姉をお茶の席に誘ったりして、自衛したのである。
そんな実態をアルマが知れば、軽蔑されるのではないかと恐れていた。姉への罪悪感が、セシリアの口を更に重くしている。
「わたしは、ずるくて、弱くて、とても卑怯な人間なのよ、クレム」
「気にしすぎだよ、シシー。ご機嫌取りに、姉さんの話題を出すくらい、別にいいだろ。お茶に誘うのだって、家族なんだし、普通じゃないか。君の姉さんは怒ったりしないって」
「だけど……私、自分が恥ずかしいの……」
子供らしい潔癖さと、負の感情への免疫の無さ。それらが生真面目なセシリアを苦しめていた。
涙が溢れ、頬を伝う。膝に乗せた両手で、キュッとスカートを握りしめ、声を殺して啜り泣いた。
震えている彼女の手に、少年の手がそっと重なる。煤けた長椅子に並んで腰かけた彼は、セシリアが泣き止むまで、静かに寄り添っていた。
この日から、クレメントにだけは、婚約者に関する悩みを相談できた。
泣いてしまったことが恥ずかしかったが、次に会いに行ったとき、からかわれたりはしなかった。
サイラスの態度に変化はあったか?
何か窮状が好転したか?
そう真剣に尋ねられただけである。
セシリアはしょんぼり、かぶりを振った。相変わらず、辛い日々が続いている。良くなる兆しの無い状況に、クレメントも落胆したようだ。
だが、すぐに気を取り直すと、セシリアの話に耳を傾けてくれたのだった。
セシリアの暮らしに変化があったのは、翌年の夏だ。アルマが結婚したのである。
お相手は、アルマが十六歳でデビュタントを迎えたとき、結婚を申し込んできた遠方の子爵だ。セシリアたちの婚約より早く、アルマはとっくに婚約していた。
サイラスの初恋は、始まった時点で終わっていたのだ。
「何故、言わなかった! 僕を騙したな!」
「ちが……違います。ご存知かと思ったのです……」
「黙れ! 嘘をつくな!」
アルマの縁談は、この辺りの貴族にとって有名だった。当然知っているだろうという思い込みが仇になってしまった。
また、セシリアにとって、サイラスの初恋は、憧れの延長という認識だったのである。美人女優や歌姫に向ける類いの熱意かと、一歩ひいて見守っていた。
アルマに本気だったらしいサイラスは、セシリアへ激怒した。
「ああ、そうか、わかったぞ。姉に嫉妬したお前は、小賢しく隠蔽しようとしたってわけだな……くそっ!」
「あ、あの、それはいったい、どういう……」
「うるさい! お前が自ら望んだんだ、全力で媚びて、惨めに関心を引いてみせろ。無駄に足掻くお前の醜態を笑ってやるよ!」
失恋してからのサイラスは、いよいよ冷淡になり、あたりがきつくなっていった。
月に一度、サイラスがウィンクル家を訪問するのが両家の取り決めだ。けれど、サイラスはムシャクシャすると、セシリアを訪ねてくるようになっていた。
おそらく、婚約者の顔を見るためではない。鬱屈をぶつけるためだろう。
俯いて黙り込んだセシリアが、サイラスから悪いところを指摘され、反応を求められたら謝罪する。それが二人の関係だった。
すっきりした顔で帰っていくサイラス。まめに会いにくる義理堅い婚約者だと、彼を褒めそやす家族。
上手く説明できない彼女には、曖昧に微笑むことしかできなかった。
そんな婚約期間の中でも、セシリアが最も辛かったのは、聖レオーナの祭日だ。床に張り付き、ひしゃげていた林檎パイを思い出し、必ず息が苦しくなる。
愛の女神の祭日に、辛いことなど起きないと信じていた少女の頃。無防備に晒してしまった、心の柔らかい部分についた傷が、ひどく痛む。
聖レオーナの日には、サイラスの仕打ちは普段に増して残酷だった。
「贈り物が林檎ジャムだと? ふざけているのか。僕に棄てられたら、お前みたいな役立たずは娼婦になるしかないんだぞ。もっと危機感をもって、努力したらどうだ」
十三歳の贈り物は、窓から捨てられた。
「はぁ……。林檎クッキーね。僕は焼き菓子は苦手なんだ。いいか、セシリア。夫に飽きられた女は、物乞いになって野垂れ死ぬしかないんだぞ、憶えておけよ」
十四歳の贈り物は、酷い言葉とともに突き返された。
「煮林檎? 生ごみかと思ったよ。お前の手料理は、見栄えが悪くて食欲がわかない。なあ、セシリア。ありがた迷惑って知っているか? こんな不出来な女では、妾に負けた当て付けに、荒縄で首を括ることになるんじゃないか」
十五歳の贈り物は、一口も手を付けられずに放置された。
「なんだと? 何も用意していないとは、どういうことだ! 僕は婚約者なんだぞ!?」
そして十六歳。去年の聖レオーナの祭日は、サイラスを激怒させた。あれだけ激高したのは、アルマに失恋したとき以来である。
前年、ありがた迷惑と言われたセシリアは、何も用意していなかった。それがサイラスの、激しい叱責を招いたのだ。
震えあがったセシリアは、急いで厨房に向かい、焼き林檎を作ってきた。料理を受け取ったサイラスはようやく落ち着いた。
セシリアを眺め、ため息をつくと、そのまま皿を斜めに傾ける。かつての林檎パイと同じことが、目の前で再現されていた。
「手抜きをしたお前への、正当な仕置きだ。これに懲りたら、怠惰な自分を反省するんだな」
立ち尽くすセシリアの姿に、満足そうに目を細めたサイラス。うっそりほくそ笑む婚約者を、ただ茫然と見つめ返した。
結婚を来年に控えた十七歳の秋。セシリアは色づいていく木々を見つめて呟いていた。
「このままじゃいけないわ。なんとかしないと……」
ただ我慢してきただけの年月は、歪み切ったサイラスとの関係を悪化させるばかりだった。このまま結婚して、健全な家庭がつくれるとは思えない。
なんとか、今からでも歩み寄れないかと、なけなしの勇気を奮い起こす。
臆病なセシリアは、青白い顔へ悲壮な覚悟を浮かべていた。