04. 年下の婚約者
サイラスの第一印象は、可愛らしい子だな、というものだった。明るい金髪に青い目をしている。
セシリアは十二歳で、お相手は二つも年下の十歳。単純に小さい子供だと思ったのである。
「はじめまして。ボルカ子爵の次男、サイラスと申します」
礼儀正しく挨拶された。家族を交えて会話する間も、彼は行儀よく振舞っていた。
しばらく歓談すると、親交を深めるように言われたセシリアは、サイラスと二人きりにされていた。
「あの、これ……食べていただこうと思って、焼いたんです。サイラス様のお口に合うと良いのですが。えっと……聖レオーナの日、おめでとうございます」
「ああ、林檎パイか」
基本的に、貴族女性は料理をしない。しかし、聖レオーナの祭日に出す林檎料理だけは別である。特に地方貴族の家庭だと、素朴な女性が好まれる傾向が強い。林檎料理のひとつふたつは、家族を喜ばせる嗜みとして、母から娘へ伝えられる。
毎日の家事としてではなく、年に一度の大事な女仕事として作る料理だ。なかなか楽しく心弾む行事で、貴族女性たちは張り切って厨房に立つのである。
今回の林檎パイは、母と姉の指導を受けて、セシリア一人で作ったものだ。
母や姉のパイに比べると不格好で、しょんぼりしてしまったが、お嫁に行くまでに覚えればいいと温かく励まされた。また、姉のアルマなど、自分が初めて作ったパイは炭になったという笑い話を披露して、慰めてくれたのだ。
幸いなことに、味は美味しく、問題無い。家族の慰めもあり、すぐに前向きな気持ちを取り戻せた。
家族以外に初めて出す、本格的な林檎料理である。その意味にセシリアはドキドキし、緊張の面持ちで皿を差し出した。
「おっと、手が滑った」
そう言ってから、口の端を持ち上げたサイラスが、受け取った皿をゆっくりと傾ける。滑り落ちた林檎パイ。床に落下したパイは、ペシャリと湿った音をたてた。
「あ……」
何事が起きたのか、セシリアはすぐに理解出来なかった。凍りついた彼女が、どれほど愚鈍にみえたのだろう。侮りきった表情で、サイラスがふんと鼻を鳴らす。
「僕はな、パイなんて嫌いなんだ。憶えておけ」
目の前の少年が、わざとパイを落としたのだと、ようやく事態を飲み込んだ。セシリアの唇が戦慄いて、鳶色の瞳に涙が滲む。
「そんな……なんで、こんなことするの……?」
「何故だって? お前みたいな能無し女と結婚させられるのが、腹立たしいからさ。爵位が欲しいから、仕方なく縁組みに同意したけど、年増女を一生養うなんて、うんざりして当然だろ。いいか、年上だからって調子に乗るなよ。身の程をわきまえられるよう、今からせいぜい躾けてやる」
十歳の子供に、ここまで酷いことを言われるとは思っていなかった。しゃくりあげて泣き出したセシリア。様子を見に来た家族が気付き、慌てて近付いてくる。
「ごめんなさい。僕、手を滑らせてしまって、せっかくもらったパイを落としてしまったんだ」
サイラスが、悲しそうに謝罪する。
「あら、そうだったの。どうぞ、気にしないでちょうだい。セシリアも残念だったわね。でも、誰でもうっかり失敗することってあるでしょう。また作ればいいじゃないの。元気をだしてね」
「そうだよ、セシリア。わざとじゃないんだから、怒ったりしちゃいけないよ。お前は優しい娘だもの、もう気にしていないよな?」
両親がセシリアを穏やかに言い諭す。殊勝な顔で俯くサイラスを、兄リチャードが落ち込まなくていいと励ましていた。
違う! 違う! その子は、わざと落としたの!
心はそう叫んでいる。だが、人の悪意や狡猾さを目の当たりにしたばかりのセシリアは、喉がひきつり、ただただ恐ろしくて、何も言葉が出なかった。
「本当かしら。あなた、わざと落としたのではなくて?」
アルマが言った。勘の鋭い姉だけが、胡散臭そうに目をすがめている。
「何を言っているんだ、お前は」
「こんな小さな子供に、意地悪はおよしなさい、アルマ」
「姉さんは、口が悪いんだよ。気にしないでくれ、サイラス」
窘められた姉は、涼しい顔で肩を竦めている。
「だって、その子の目。なんだか面白がってるように見えたんですもの」
「!!」
サイラスが息をつめた。これまで、親兄弟にさえ、本性を見抜かれたことが無いのかもしれない。ボルカ子爵夫妻も、サイラスの兄ジェイムズも、アルマの発言に困惑していた。
シンと静まり返った室内に、セシリアの嗚咽が響いている。重苦しい雰囲気の中、アルマは態度を一転させ、ケロリと明るい声をあげた。
「そうよね、面白がるはずないわ。だって、食べ物を滅茶苦茶にして楽しいと思うのは、赤ちゃんくらいだもの。よほど幼稚な恥知らずでもなければ、こんなこと実行どころか、思い付きもしないわよ」
コロコロとアルマが笑う。呆気にとられる一同に、芝居がかった仕草で、大仰に頭を下げた。
「これはこれは、サイラス殿。意地悪な未来の義姉が、大変失礼致しました」
姉はカーテシーではなく、男性がするお辞儀のボウ・アンド・スクレープを披露してみせた。それだけで、場が華やぐ。堂に入った態度が、本物の女優のようであった。
「なんだ、やっぱり冗談か。やりすぎなんだよ、姉さんは」
リチャードが安堵して文句を言うと、大人たちも相好を崩した。
思わぬトラブルで悲しみに暮れる子供たちを驚かすための、刺激的な冗談だと受け取ったようだ。けれど、退室前にチラリとサイラスを一瞥した、アルマの冷淡な目。姉は、彼を軽蔑しきっていた。
サイラスは、羞恥からか、怒りからか、悔しそうに眉をひそめて、目元を赤くそめていた。
客人が帰宅すると、アルマは何かがおかしいと改めて主張した。だが、両親とリチャードから考えすぎだと諌められる。家族は不安そうに、セシリアを振り向いた。
「アルマの誤解だよな、セシリア」
「ただ、サイラスさんは、手が滑っただけなのでしょう?」
サイラスの行いを知ったら、両家の家族が悲しむ。そう思うと、セシリアは真実を話せなかった。まだ、パイを落とされたショックが尾を引いており、いつも以上に臆病になっていたこともある。
肯定も否定もできず、ただ曖昧に微笑んだ。それを見た家族は安堵し、この騒動は終わりになった。悲しいことに、サイラスとの顔合わせは、無事に済んだことになったのである。
数日後、サイラスがウィンクル家を訪ねてきた。気まずく押し黙るセシリアに、ソワソワと落ち着かない様子で、臆面もなく質問してくる。
「今日は、その、アルマ嬢は、いないのか?」
「え……」
なんと、サイラスはアルマに恋をしていた。一目で欺瞞を見抜いた、あの鮮やかさ。痛烈な皮肉さえ、魅力的なアルマに。よりによって、セシリアの姉にのぼせ上がったサイラスは、その感情を隠す気配が無かった。
セシリアは、婚約者の考えが全く理解できない。蔑ろにされた悲しみと、意志疎通できない恐ろしさが入り交じり、きつく唇を噛み締めた。