11. クレムとシシー
心穏やかに過ごした美しい秋が終わろうとしていた。セシリアは窓辺に佇み、憂鬱な気持ちでため息をついている。
綺麗に整えられた髪、上質な絹のドレス、胸元を彩る宝石。飾り立てられた彼女は、慌ただしく動き回る使用人たちの動きに耳をそばだてると、再びため息をついた。
「仕方が無いのはわかっているけど……せめて来年までは、待ってくださると思っていたわ……」
本日は、ウィンクル家に重要な客人がやって来るという。身分ある男性で、その人物はセシリアに重要な頼みごとをするのだと聞いていた。
断っても構わないし、保留にして後日返事をしてもいいと、家族からは言われている。
縁談の申し込みだとわからないほど、セシリアは子供ではない。
「どんな御方かしらね」
その独り言には、ひっそりした諦念以外の感情は含まれていなかった。
元婚約者サイラスと顔合わせする前には、どんな人か想像したり、仲良くなれるか未来を想い描いたりと、期待と不安で胸がドキドキしたものだ。
けれど今は、貴族娘の義務に対する気鬱しか感じない。
屋敷の敷地内に一台の馬車が入ってくる。二頭立てのキャリッジだ。遠目で確認しただけでも、相当な有力者だと分かる。
紋章を確認する前に、セシリアは顔を背けて、窓から距離をとっていた。
これから会う男性と結婚する。断ってもいいと言われているが、余程問題のある人物でない限り、縁談を受け入れるつもりだった。
断ったところで、よく知らない男性と何人も見合いさせられて、結局は嫁がねばならない。見合い相手を選ぶこと自体、セシリアには苦痛だった。
縁談相手には申し訳ないけれど、特別な一人を除けば、どの男性だろうと違いがない。できればすぐに済ませてしまいたいという心境である。
かたく目を閉じ、痛みをやり過ごす。心の中で、黒髪と緑の瞳の青年が、セシリアへ赤い果実を差し出していた。
あの時、オルグレン家の果樹園で、セシリアもまた、相手の姿を目に焼き付けていたのだ。
もう、二度と会うことはかなわない。それでも、彼を忘れることは、一生できないだろう。
「お嬢様、お客様がご到着です」
「わかりました」
使用人に促され、応接室へ向かう。一歩踏み出すごとに、恐怖が沸き上がった。縁談も、見知らぬ男性も、サイラスとの婚約を思い出し、恐ろしくてたまらない。
心の中で響く、力強い声を思い出し、立ち竦みそうになる足を前へ動かす。
頑張れ、シシー。俺がいるよ、大丈夫。
少年の澄んだ声が、青年となった深みのある声が、セシリアを励ましてくれた。
目を伏せて入室し、父と兄の隣に並ぶ。失礼なのは分かっていたが、視線を上げることができなかった。
俯いていても視界に入ってしまう、首から下の相手の姿は、予想通り若い貴族だ。服越しにも、引き締まったたくましさが伝わってくる。
「はじめまして。セシリアと申します」
か細い声で挨拶を述べて、緊張と恐怖で冷たくなった右手を差し出す。微かに震える彼女の手を、節張った大きな手が柔らかく握った。
「酷いな、シシー。この前、会ったばかりなのに、俺のこと忘れたのかい?」
聞き慣れた優しい声が、柔らかくセシリアの耳をくすぐった。弾かれたように顔を上げる。
貴族らしく、きちんと正装したクレメントが、セシリアを見つめて微笑んでいた。
「クレム……なんで……」
目の前の幸運が、まだ信じられない。夢だろうかと唇を戦慄かせる。そんなセシリアに、クレメントが困ったように笑みを深めた。
「まず先に、君に謝らなきゃならない。昔、沈黙の誓いをたてたね。サイラスの嫌がらせを誰にも言わないと約束したのに、俺はその誓いを破って、君の父上へ手紙を出したんだ」
匿名の手紙の経緯や、差出人がクレメントだと発覚したこと、二人の関係をセシリアの家族に知られていること。それらを、クレメントが彼女へ打ち明けた。
「ごめんな、シシー」
「謝らないで。家族に黙っていた私が悪かったの。怒るどころか、クレムには感謝しかないわ」
「ありがとう」
クレメントのホッとした表情。約束を破ってしまったことが、誠実な彼を苦しめていたと気付く。
「誓いを破るとき、怖かったでしょう? 私のせいで、いつもクレムばかり苦しめて……」
「怖くなんかなかった。俺が誓ったのは、公正の神だ。シシーを助けるのが、過ちなわけがあるかよ。ただ、約束を破ったことを、君に謝れないのは堪えたけどね。それも今、肩の荷がおりた」
恐ろしくないわけがない。果樹園での彼が、頭をよぎる。たとえ罰せられても助けようとしてくれた、その想いに胸がつまった。
「今日、ここへ来たのは、君のご家族の了承を得たからだ。俺の家族とも話をつけてきた。両家の無意味な隔たりを解消し、友誼を結べるなら、こちらこそありがたいと、親父の言質を取ってきたよ」
「クレム……まさか……ああ……ああ……」
何度も夢想しかけて、そのたびに考えないようにしてきた。
少年から青年へ凛々しく成長していく親友。その眼差しに浮かんだ熱に、気付いてはいけないと目をそむけてきた。胸の高鳴りを無視し、彼の優しさにすがる自分の弱さや狡さを嫌悪した。それでも、この関係を断ち切ることができなかった。
甘えるのは、十八歳になるまで。そう言い訳して、彼の手紙と聖レオーナの前日に料理をふるまうことだけが、セシリアの救いだった。
ゆっくりとクレメントが跪く。セシリアを真っすぐ見上げ、一途な心を言葉に託した。
「君を愛してる。九つの頃から、ずっと。聖レオーナの祭日に、君に贈ってきたのは、俺の想いだ。ウィンクル伯爵家御息女、セシリア嬢。どうか、俺の妻になってはくれませんか」
涙が溢れる。十二歳の頃から泣いてばかりだ。けれど、感動に胸を震わせて、嬉し涙を零したのは、これが初めてだった。
「謹んでお受けいたします、オルグレン伯爵家御嫡男、クレメント卿。あなたを、お慕いしています。生涯、あなたのお側にいさせてください。あなたといることが……クレムが、私の幸せなんです」
「シシー……!」
返事を聞いたクレメントが、素早く立ち上がる。たくましい腕が伸びてきて、セシリアの体をかき抱いた。彼女もまた、広い背に両手を回して抱擁に応える。
ようやく想いが通じたクレムとシシーは、じっと抱き合い、しばらく動くことができなかった。