10. 兄の確信
クレメントは率直に、リチャードへ尋ねてきた。
「俺は、謝罪するべきですか?」
成人済みの男女が、供も連れずに人目を忍んで会っていた。通常なら、軽率さを咎めるところである。
しかし、リチャードは首を横に振っていた。
「いいや。むしろ、礼を言わせてくれ。妹が無事だからこそ、醜聞の心配ができるんだ。君がいなければ、セシリアは……」
クレメントがセシリアと距離を置いていたなら、最悪の事態が予想できた。荒縄をくれと言ったときの、憔悴しきった妹を思うと、切なくてやりきれない。
リチャードは、外套のポケットから一通の手紙を取り出した。父から預かった、古い手紙である。
「これを憶えているかい?」
「はい。まだ、保管しておられたのですね。匿名の怪しい手紙など、とっくに処分されたかと思っていました」
一目見ただけで、かつて自分が出した手紙だと悟ったクレメントに、リチャードは安堵していた。
「やはり、君が『クレム』か。この辺りの人間で、クレムという名前の人間はいなかった。愛称だとすると、クレメントだろう。君だと見当をつけたんだが、実際に妹とのやり取りを見るまで、信じられなかったよ」
「シシーと知り合ったのは、九つの時です。互いの家にある隔たりを知っていても、理解しているとは言い難い頃でした。今更、隠すつもりはありません。長い話だ、どうぞお掛けになって下さい」
「ああ、そうさせて貰おう」
一脚の椅子を引き寄せ、リチャードは腰を据えた。長椅子に座ったクレメントが、これまでのことを滔々と語る。
「最初にシシーと出会ったとき、何故、ここに知らない子供がいるのか、不審に思いました。俺たち二人とも、この狩猟地を自分の家の領地だと思い込んでいたんです」
だが、争いにはならなかった。セシリアは他人を疑っても、確証があるまで軽はずみに非難する性格ではない。
クレメントもまた、内気そうな良家の娘にしか見えないセシリアが、嘘を言っているとは思えなかった。
「嘘つきがいないなら、ここはどこの領地なのかなって、二人で悩みました。お互い警吏気取りで、推理したりしてね。結局、親に事情を尋ねて、報告し合うことになったんです。次に会う約束をして別れたときには、もう友達になっていました」
微笑む直前の表情で、クレメントは語った。リチャードの目にはその姿が、悔恨の果てに処刑を待つ死刑囚のように映り、痛みを覚えた。
彼にとっての死刑執行人は、リチャードだろう。この理性的な青年は、二度と妹に会わないでくれと告げにきた兄へ、全てを受け入れるつもりで話しているのだ。
「毎年、聖レオーナの祭日の前には、必ず会っていました。シシーは、ご家族に用意した贈り物のお裾分けをくれるんです。俺は、農園の林檎で一番美味そうなやつを、シシーのために持っていきました。そのうち、シシーが婚約して……俺たちはどんどん大人になってしまって……。でも、手紙のやり取りと、聖レオーナの習慣だけはやめられませんでした。彼女のせいじゃありません。俺がやめたくなかったんだ」
深い絆で結ばれていた二人だ。十二歳の時、サイラスの悪行を相談された彼は、沈黙の誓いを破った。ウィンクル伯爵へ、匿名で報せたのである。
「父は後悔していたよ。子供のいたずらと決めつけた自分の軽率さを。君に申し訳ないと言っていた」
「俺は構いません。確かに落胆しましたが、匿名では信じて貰えないだろうと、半分諦めてもいたんです。記名したかったが、出来なかった。オルグレン家の子供では、匿名の密告者より、信用されないと信じこんでいました。それに、シシーの婚約は政略だと考えて……俺は愚かな子供でした」
政略による縁組みであれば、子爵家の次男など選ばない。いずれ爵位が与えられるとはいえ、男爵では旨味などないのだ。
弱小貴族ならいざ知らず、ウィンクル家は富裕な名家。縁組みを望む有力貴族はいくらでもいる。
「あれは損得抜きで、シシーのための縁談だったんですね?」
「そうだ。政略結婚は、私と姉で足りていた。幸い私と婚約者は上手くいっているし、姉も嫁ぎ先で順調に暮らしている。だが、セシリアは繊細な気質だし、腹芸には不向きだろう。ボルカ家の人間なら大事にしてくれるものと思ったんだよ。男爵夫人であれば、しがらみも少ないと。愚かなのは、私たちだ」
リチャードは苦々しく眉をひそめた。末っ子に甘いと承知で、セシリアが幸せになれる縁談を用意したのだ。けれど、それが裏目に出てしまった。
「クレメント卿、君はセシリアの婚約をどうする気だったんだ?」
「俺も、もう子供ではありませんから、ご家族の意図はわかっていました。婚約者の態度さえ改まれば、シシーにとって悪い縁談じゃない。二人の関係が改善出来ればと願っていました。相手も十五だ。意見を交わす分別が備わっていると期待したんです」
「もし、あの二人が和解出来ないまま結婚することになっていたら、君はどうするつもりだったんだ? セシリアを拐う気はあったかい?」
クレメントはかぶりを振った。馬鹿げた戯言を聞かされでもしたように、関心のない表情だ。
「やめてください、俺はシシーの幸せを願ってるんだ。駆け落ち娘と白眼視されて、実家にも帰れない状況が、彼女の幸せなんですか? 俺には、そうは思えません」
「では、黙ってサイラスと結婚させるつもりだったと?」
「まさか。いざとなったら、修道院に行くよう説得するつもりでした。ウィンクル伯爵家のご令嬢です、快適な環境を用意してくれるでしょう。もし、修道院が彼女の受け入れを渋るようなら、俺が後ろ楯になれば済む。教会の修繕費用を出してやれば、嫌とは言わんでしょう」
逃走先が修道院なら、貞操に関する疑惑で、セシリアの名誉に傷はつかない。さすがにウィンクル家とはいえ、女子修道院へ踏み込んで、無理やり娘を連れ帰る真似は出来ないだろう。
圧力をかけたとしても、オルグレン家が後ろ楯であれば、修道院側は強気に対応してくるはずだ。
セシリアを一時的に修道院へ預けたら、今度こそ匿名ではなく、直接ウィンクル家を訪問して事情を説明するつもりだったと、クレメントは語った。
それでもサイラスを信じる家族であれば、別の方法をとる予定だったと。
「別の方法?」
「子爵夫人に……いや、今は侯爵夫人でしたね。シシーの姉さんに保護をお願いできないかと考えていました」
「ああ、姉上か」
「しかし、高貴なお立場を考えると、軽はずみに接触出来ません。信用に足るツテを探していましたが、あくまで最終手段です。この話を西部平野より外に出すのは、さすがに……」
アルマの夫は侯爵家の嫡男である。結婚当時は子爵だったが、代替わりまで子爵位を与えられていただけのことだ。彼女は現在、王都の邸宅を侯爵夫人として差配している。
また、西部平野とは、豊かな農地が広がるこの地方のことである。西部平野の内側は、ウィンクル家とオルグレン家の勢力下だ。言ってしまえば、大抵の事柄は内々に処理することが可能である。
アルマを頼れば、確実に解決できるだろう。だが、セシリアの災難を、王都の貴族たちに知られる危険を伴う。容易くとっていい手段ではなかった。
「君は現実的なんだな、クレメント卿。慎重だし、理にかなった考え方をしておられる」
「シシーの未来がかかっています。たとえ、シシーじゃなくても、誰かの人生を左右する一大事なんです。現実を踏まえて考えるに決まっていますよ」
「…………」
リチャードは、それが出来なかった人間を思い出していた。腹の底にずっと燻っている怒りがよみがえる。憤りの対象は、妹の元婚約者サイラスである。
あの少年は、セシリアを伯爵家のお荷物だと思っていた。無能な厄介者だから、世話をさせる人間に押し付けるのだと。
的を射ているようで、全く違う。サイラスには、廃棄物の管理を任せたのではない。大切な宝物を、小さな傷もつかぬように、守って欲しかったのだ。
しかも、さんざん虐げておきながら、嫌われていると思っていなかった。なんと、セシリアは自分を好いていて、結婚を望んでいるはずだと狼狽えたのだ。
だから、何をしても赦されたし、文句を言われなかったというのが、サイラスの理屈である。多少、躾が厳しかったにしろ、妻になるセシリアは自分より下の立場。服従して当然などと、おかしな理論を振りかざしていた。
気が触れているのかと、父とリチャードは、サイラスの正気を疑った。
非暴力主義のボルカ子爵が、ステッキを掴んで、発作的に殴りつけていた。それなら息子であるお前は、父親に喜んで殴られるべきだと激昂し、礼を言え! ありがとうと言え!と要求しながら、何度も杖を打ち下ろしたのだ。
殴打から逃げようとしたサイラスに、温厚なジェイムズが飛びかかった。もう死んでしまえと罵倒して、弟の首を絞めた友人を、止めたのはリチャードである。演技ではなく、本気で殺しかけていた。
ボルカ夫人は、申し訳ない、情けない、息子が気持ち悪いと泣き、再びステッキを振り上げた夫を止めなかった。
不愉快極まりないサイラス。だが、セシリアは殺人など望んでいない。無分別で幼稚な少年は、鼻血と涙で顔を汚し、ごめんなさいと惨めに泣きじゃくっていた。
冷静さを取り戻した両家は話し合い、厳しいと評判の海軍学校で、サイラスを矯正する方針に落ち着いたのである。
うら若き令嬢へ聞かせるには、厳しい内容だ。これ以上、セシリアに精神的な負担をかけたくない。
ウィンクル家は、サイラスの奇妙な思考や欲望を、彼女から隠すことにした。彼の無礼が度を超したため、婚約は白紙になったとだけ伝えたのだ。
リチャードは頭痛を堪え、気を取り直した。不快な人間の記憶を心の奥へしまい、クレメントを見つめ直す。
「妹は、相応しい相手へ嫁がせるつもりなんだ。おそらく、口さがない人間は、セシリアを貶めるだろう。条件のいい男に乗り換えて婚約者を捨てた賢しい女だと、陰口を叩くかもしれない。妹に耐えられるかどうか……」
「平気ですよ、シシーなら。強い女性だから」
目を丸くするリチャードだが、クレメントの意見は揺るがない。
「シシーは強いですよ。五年間、あの仕打ちに耐え抜いたんだ、弱虫なんかじゃありません。それに、大人しそうに見えて、度胸があるんです。木登りが得意だし、馬に乗せたら『もっと飛ばさないの?』なんて、無茶なことを言い出すくらいだ」
「妹がか?」
「ええ。ちょっと物怖じしてしまう時はありますが、最初だけ側についててやればいいんだ。怖がらなくて平気だとわかったら、シシーは何だって上手くこなしますよ」
「それは、きっと、君が側にいるからだ。信頼する君が、大丈夫だと励ますから、勇気がでるんだろう」
「そうかな。もしそうなら、嬉しいです」
面映ゆそうに、目を伏せたクレメント。屋敷で父と相談して出した結論に、間違いは無さそうだと、リチャードは確信していた。
すでに一度、人選に失敗している。だが、今回の選択に関しては、誤りはないだろう。
オルグレン家の嫡男だけあって、クレメントの価値観や知識、行動基準に、自分達と共通するものをリチャードは感じていた。
そして何より、セシリア自身が浮かべていた明るい笑顔こそ、この判断が間違いでは無いと示している。
「……オルグレン伯爵家御嫡男、クレメント卿。我が父ウィンクル伯爵の名代として、また私自身、次期当主リチャードとして、貴公に確認させていただきたい」
「なんでしょう、リチャード卿」
態度を改めたリチャードが、次期当主として、正式に問いかける。
「我が妹、ウィンクル伯爵令嬢セシリアへ、求婚される御意志はありましょうか?」
クレメントは息をつめて、大きく目を見張った。
リチャードは、死刑執行人としてここへ来たわけではない。セシリアの兄として、立派な青年へ成長したクレムに会いにきたのだ。