夏の日の攻防
うだるような夏の日の午後。
俺とAは自販機の前で向かい合っていた。
険悪な空気だった。
もしも通行人が、俺とAの間を通り抜けようとでもしようものなら、俺たち二人の発する強烈な闘気に押し潰されて命を落としてもおかしくはない。
それほどまでに危険な事態が起きていた。
こんなくそ暑い日に、飲み物を買いに外に出たのに、よりによって二人とも財布を忘れていたのだ。
否。
相手が持って出るだろうと思っていた。
そして、自販機の前で、ごめーん、俺財布持ってくるの忘れちゃったわー。おごってーって言おうと思っていた。
Aが俺と同じ思考をしていたことはその表情から一目瞭然だった。
くそが。てめえまで財布忘れてどうすんだ。ほんと使えねえな。
Aの目はそう語っていた。
Aの口もそう語っていた。
「いや、声に出すんじゃねえよ!」
俺は叫んだ。
「語るなら目までにしとけよ!」
「うるせえよ! さっきから一人でぶつぶつぶつぶつ、ただでさえ暑くてイラついてんのに、これ以上イラつかせんじゃねーよ!」
Aが叫ぶ。
あれ? 俺、声出てたのかな。
「出てるよ! 最初からずーっと、全部!」
Aの迷いのないキレかたに、俺も思わずキレ返す。
「独り言だろうがぁ! 独り言言っちゃいけないって法律があるんですかぁ? 何の法律の第何条何号に違反してるんですかぁ!?」
「俺法第一条違反で死刑だ、てめぇは!!」
Aはいささかも怯むことなく、キレ返し返しでキレてみせた。
「金持たないで飲み物買いに来る奴は死刑なんだよぉ!」
「じゃあお前が先に死ねぇ!」
叫んでから、ふと思い出す。
俺はズボンのポケットをまさぐった。
あった。
俺はAにその尊いフォルムの優雅な二重丸を見せ付けた。
「五十えぇん!」
俺は叫んだ。
「金持ってました! 俺は金持ってましたぁ!」
「五十円で飲み物買えんのかよぉ!」
「関係ありませぇん!」
俺はAの言葉に自分の言葉を思いきり被せる。
「俺は金持ってますぅ! あなたは持ってないぃ! 俺は持つ者あなたは持たざる者ぉ! この立場の違いは明確ぅ!」
「くっ……」
悔しそうに黙りこんだAが、不意に何かを思い出したようににやりと笑った。
Aがポケットに手を突っ込み、すぐに握り拳のままで俺に突き出した。
ゆっくりと開いたその手の中には。
「さっ……!」
「さんじゅうえぇん!」
Aは満面の笑顔で叫んだ。
「三枚! 十円玉さんまぁい! 俺も持ってました! 俺も金持ってましたぁ!」
「俺より金額が少ないじゃ」
「関係ありませぇん!」
Aが俺の言葉に被せて叫ぶ。
「持つ持たざるの二択において、金額の多寡は全く関係ありませぇん! むしろ枚数的には三枚の俺の方がお前より上ぇ!」
上ぇ! と叫んだとき、Aの顎の汗がぽたたっと地面に飛び散って、俺は、ああ暑苦しい。死ねばいいのに。と思った。
「死にませぇん! 三十円もあるのに俺は死にませぇん!」
くそが。
また人の思考を読みやがって。
「読んでねえよ! お前が全部口に出してんだよ!」
うるせえ。死ね。
その時、俺の目に自販機の片隅にそっと佇むその長方形の可憐なフォルムが飛び込んできた。
ストロベリーオーレ。1パック80円也。
「……買える」
俺の呟きに、愚鈍なAが鈍い反応を示す。
「ああ? 何が」
ちっ。
俺はこれ見よがしの舌打ちをしてやった。
「だから買えるんだよぉぉ! 俺とお前の金を合わせたらストロベリーオーレのブリ●クパックがよぉぉ!」
「ほんとだぁぁ!!」
Aは叫んで膝から崩れ落ちた。
「買えるぅぅ!」
そしてすぐに立ち上がった。
「あちぃぃぃ!」
それはそうだ。今のアスファルトは夏の日差しに焼けに焼けて、もはやダメージゾーンも同然だ。
「よこせ」
「あ?」
Aが俺の顔を見る。
どこまでも察しの悪い奴だ。くそが。
「よこせって言ってんだよ、お前の三十円をぉぉ! 俺がお前の全財産の中で最も有意義な使い方をしてやるからよぉぉ!」
「やるか、ボケ。むしろお前がよこせ。一枚渡す方が三枚渡すより手間がかからねえだろ。ほら、早く」
急にテンションを変えてきやがった。食えねえ野郎だ。
「じゃんけんだな」
俺の言葉にAの眉がピクリと動く。
「じゃんけんだろ。日本人はこういう時、じゃんけんで白黒つけんだよ」
「ちょとなにいてるかわからなーい……」
「嘘つけ」
俺はAを見てせせら笑う。やれやれ、しょうがない奴だ。
「逃げるのか。勝負から逃げて、白でも黒でもない灰色の世界でぼんやりと余生を過ごすのか」
「くっ……」
Aの顔が歪む。
「俺の今日のラッキーカラーはグレー……!」
「知らねえよ」
「やってやろうじゃねえか! その勝負、正々堂々と受けてたった上でお前を完膚なきまでに叩き潰す!」
Aが叫んだ。俺に人差し指をびしりと差す。
「貴様に余生はない!」
「なんだ、その決め台詞」
Aは俺の突っ込みを無視しておもむろに右手を広げて突き出すと、その手の甲、中指の付け根あたりを左手の人差し指で押した。
出た。
じゃんけんをやるに際して、一部の未開な民が必ず行う勝負前の儀式。
そんなものになんの意味もないのに。いや、そこにすがるしかない弱さを憐れむべきか。
俺は両手を交差して組み合わせると、腕を捻って両手の中に空いた空間を覗きこむ。
じゃんけんにおいて勝利を約束する高貴な儀式を終えた俺は、さっきの俺と同じような目付きをしたAと目が合う。
そんな目で俺を見れるのも今のうちだけだぜ。
「一回勝負だ」
俺はじゃんけんにおいて最も大事な事項を最初に確認した。
じゃんけんは、その決闘方法の簡便さが災いし、負けた瞬間に、三回勝負、五回勝負、と際限なく勝負回数を増やしていく、いわゆる負けぬ負けぬ詐欺が横行している。
それを防ぐ方法はただひとつ。
最初に回数を決めておく。
これに尽きる。
「一回勝負。当然だ」
Aが頷く。
「号令は俺がかける」
俺が言うと、Aは應揚に頷く。
「いいだろう」
その余裕、どこまでもつかな?
俺は叫んだ。
「せーのっ」
俺もAも同時に拳を握りこむ。
「さいしょは、パー!」
俺は叫んで手を大きく開いた。目の前には、Aの握り拳。
「勝ったッ!」
「待て!」
Aが叫ぶ。
「待て待て待て!」
「なんだよ。一回勝負だって言っただろうが」
「違う! おかしい! 最初はグーだろ!?」
「誰がそんなことを決めた」
俺は周章狼狽するAを憐れむように見た。
「俺はいつも、じゃんけんをするときは最初はパーだ。現に俺は隠れなき大声で叫んだだろうが。最初はパー、と」
「詭弁を……!」
「詭弁ではない。言われてもいないのに最初はグーと勝手に信じこんだお前のつまらぬ先入観。ちっぽけな固定観念。それがお前を敗北に追いやったのだ」
「ぐっ……」
Aは膝から崩れ落ち、またすぐに立ち上がった。熱かろう。
「……持っていけ」
Aは三枚の十円玉を地面に投げ捨てた。
「その命、無駄にはしない」
俺は指先を若干やけどしながら十円玉を拾い上げ、自販機に向かい合う。
「悪く思うな」
そう言って金を投入していく。
50円。
60円。
70円。
はちじゅ……
チャリン。
「あれ?」
最後の一枚が、お釣り口に戻ってきてしまった。
もう一度。
はちじゅ……
チャリン。
あれ?
もう一度。
チャリン。
「まさかっ!」
俺はその十円の縁を見た。
そこに刻まれる無数の線。これは……
「こいつはただの十円じゃねぇ……! 何度死地に飛び込もうとも必ず無傷で生還する、不死の戦士……ギザ十!」
「おやぁ?」
Aがニヤリと笑う。
「もしかして、混ざっちゃってたかなぁ……子羊の群れの中に、羊の皮をかぶった狼が……!」
「くっ」
俺は自販機に向き直る。
「まだだ。まだ、分からんよ!」
俺はギザ十を投入する。
チャリン。
投入。
チャリン。
投入。
チャリン。
何度も何度も。
投入。
チャリン。
諦めかけた頃、突然自販機の端のボタンが点灯した。
「はっ……」
俺は自分の目を疑った。
「入った!」
「バカな!」
Aが俺の背後で地団駄を踏む。その拍子にAの汗が飛び散る。暑苦しい。死ねばいいのに。
「うるせえ!」
Aが叫ぶ。
「認めてやらあ! お前が勝者だ。早く押せぇ!」
「ふっ。言われんでも」
俺は押した。
来た。見た。買った!
神々しい冷気をまとったその長方形の固まりを、俺はそっと取り出した。
「やらんぞ」
あらかじめAに言っておく。
「間接キスになるからな。缶やペットボトルならともかく、ストローはきつい」
「渇しても盗泉の水は飲まん」
Aは首を振る。
「俺も貴様との間接キスはごめんだ。早く飲め」
「では、遠慮なく。悪く思うな」
俺はストローを取り外して伸ばすと、その長方形の右上に一気に突き刺した。
「いただきます」
興奮で唇が震えた。
ストローの先と唇がぶつかる。
その瞬間だった。
「あっ!?」
ストローがパックの中に吸い込まれていく。
「なっ!」
ストローが消え、残ったのはブラックホール然とした、ただの黒い穴。
これでは……
「の、飲めない!」
絶望。
手に入らない絶望よりも、手に入ったと思った途端に取り上げられた絶望の方が、その闇は深い。
「お前、音をさせたのか!?」
Aの叫びがどこか遠くで聞こえた。
「カチって音がするまでストローを伸ばしたのかって聞いてんだよぉ!!」
その言葉を最後に、俺の意識は遠ざかっていった。