子宮の涙
股をひろげ、冷たいベッドに横たわる。緊張する私の膝を、眼鏡をかけた老医師がぽんぽんと優しく叩いた。
「佐久間さん、今回の旦那さんの精子、一億匹超えてて上等だからね~。あとはもう医者と神様にまかせて、あんたは力抜いててね」
言われてはじめて、自分の体に力が入っていたことに気付いた。
「一億って日本の人口くらいいますね」
私の軽口に、器具の準備をしていた太った看護師が、あははと笑った。老医師も医療用マスクの奥で笑ってくれているのが分かる。
深呼吸して処置室の白い天井を仰ぐ。神さま、仏さま、ご先祖さま……今回こそは妊娠できますように……。
なかなか子供ができなくて不妊治療に踏み切って三年目。人工授精もこれで四回目だ。
「はい。終わり。子宮口が閉じてたから、少し引っぱったけど、ちゃんと入れることができたからね」
処置自体は五分とかからなかった。それなのに、強く握った手の平には、自分の爪のあとがくっきりと残っていた。器具を体に入れる恐怖と下腹部に走る激痛でぐったり疲れた。マスクを外した医師が、今度は私の肩を叩く。
「お疲れさま。あとは二週間後の結果を待つだけだからね。生理が来なければおめでたです。もし生理が来ちゃったら、また相談しに来てね。もちろん来ないことを祈ってるけど」
「ありがとうございました……」
処置前のような軽口を叩く力は残っていなかった。精子が逆流しないよう、そのままの姿勢で少し休んでから、待合室へ戻る。大きなテレビの置かれた待合室は、患者やその家族で混みあっていた。お腹の大きな妊婦も立って待っている状態だった。私も座るのは諦めて、壁際に立つ。
そんな中、一組の夫婦が目についた。お揃いの白いスニーカーを履いた二人は、席を陣取って胎児のエコー写真を見ていた。
「これが耳で、これが鼻。ほら、口の形があんたに似ているさ」と言う妻の説明に、嬉しそうに目を細める若い夫。
「そうか?横向いてるのか、前向いてるのかも分からんけど」
無防備に幸せを見せびらかしているけれど、産婦人科の待合室にいるのは、おめでたい妊婦だけじゃないのが分からないのだろうか。浮かれた二人の様子を見て、心に影がかかる。
妊婦の妻はともかく、夫の方は、他の妊婦に席を譲るべきだろう。看護師に言って、注意してもらおうか……。
小さく頭を振った。人を疎ましく思うのは妊娠を遠ざける気がした。今回の人工授精で妊娠できたら、次回は私も夫とあんな風にエコー写真を見ているかもしれない。気を取り直して、マンガでも読もうとスマホを取り出す。その瞬間、手の中で振動して驚いた。電話を着信している。画面を確認すると、祖母の名前が表示されていた。見なかったことにして、スマホを鞄にしまう。このタイミングで祖母お得意の『おめでたはまだね~?』攻撃は辛い。
「佐久間さーん。佐久間未華子さん」
会計窓口で名前を呼ばれた。この病院のアットホームな雰囲気は気に入っているのだが、今時、患者をフルネームで呼びつけるのはいただけない。治療を知られたくない人もいるのだから、番号制に替えてほしい。
「もしかして、未華子?」
名前を呼ばれて体が硬くなる。案の定、知り合いに見つかってしまったようだ。とっさに、よそ行きの笑みを浮かべて振り返る。見覚えのある女が立っていた。ピンクのカーディガンに、白いミニスカート。こちらの顔を覗き込む大きな瞳と、特徴的な八重歯……。
「え?マイマイ?」
「やっぱり未華子!超久しぶり」
花城舞。保育園からの幼馴染だった。不妊治療で通う病院で、会いたくない顔だ。
「花城さーん。花城舞さん」
彼女の名前も呼ばれている。
「あ、未華子も呼ばれてたよね。ね、もう診察終わりでしょ?ちょっとお茶しようよ」
病院は緑に囲まれた丘の上にあり、市街地から離れていた。「お茶しよう」と言っても近くに気の利いた店は思い当たらず、コンビニで買った飲み物を私の車で飲むことになった。
「懐かしいね。卒業前に、二人で宇堅ビーチまでドライブして以来じゃない?」
父から借りた自家用車に、初めて舞を乗せた日を思い出した。免許取り立てで、二人とも高校の制服を着たままだったので、なんだか悪いことをしているようでドキドキした。
「覚えてる!みどり町の十字路で、直進の車が来てるのに右折して死にかけたよね」
「急ブレーキかけたから、スタバのコーヒーを車内にぶちまけちゃってさ」
「そうそう。いつもは高くて買えなかったのに、大人ぶってドライブスルーして。しかもクリームいっぱいのやつ飲んでたから、シートについたシミが落ちなくて。あの後、お父さんにめっちゃ怒られたんだから!」
十年以上前の共通の記憶に、息が苦しくなるほど笑いころげた。制服を着ていたあの頃に戻ったようだった。
「たぶん、あれから会ってないよね。マイマイは、内地の大学行ったもんね」
「内地ですって。沖縄の人って県外のことを、どこでも内地って言うのよね」
舞がわざと高飛車な言い方をする。
「うわー。すっかり内地人気取りだ。あんなに内地に行くの怖いって言ってたくせに」
気の置けないやり取りがますます学生気分を盛り上げる。
「今は沖縄に戻ってきてるよ。実家の近くで事務の仕事してるから、今は実家暮らし」
「あれ?実家にいるの?マイマイも結婚したのかと思った。産婦人科にいるし、おめでたでしょ?」
舞の顔が引きつった。病院の会計で呼ばれた時、苗字が変わっていなかったことを思い出した。配慮が足りなかった。自分だって不妊治療で産婦人科に通っているくせに。
「妊娠はしてるんだけど、できちゃったってやつで……まだ結婚はしてないわけさ」
「そうなんだ。私なんて結婚して五年も経つのになかなか妊娠できないから通ってるんだよ。できちゃったでも、できないよりはいいと思うよ」
自分の言葉に、胸がきしんだ。思いがけず妊娠する人もいるのに、どうして待ち望んでいる私の所に、赤ちゃんは来てくれないのだろう。
「そんな未華子に言ったら、引かれるかもしれないんだけどさ、ちょっと相談にのってもらってもいい?」
誰にも言わないよう前置きをしてから、舞は話し始めた。お腹の子供の父親とは職場で出会ったこと。そして彼の妻も同じ職場で働いているということを。
「それって不倫だよね……。しかも奥さんも同じ職場って……さらに妊娠って……」
あまりのカミングアウトに、あきれて言葉を失ってしまった。
「不倫っていうか、一応向こうは離婚寸前で家庭内別居状態らしいから、奥さんと別れられたら私と結婚するって言ってくれてるんだけどさ」
ますますあきれた。
「それって浮気男の常套句でしょ」
結婚しているのに他の女もキープしたい軽薄な男の姿が間接的にも伝わってくる。それなのに、舞は本気で信じているようだった。
「いや、本当だって。奥さんは彼より役職が上の人なんだけど、仕事優先でなかなか子供ができないんだって。だから、彼は早く離婚して、私との子供が欲しいって」
舞の顔が見られなかった。子供がなかなかできない奥さんの話が、自分の境遇と重なった。子供がいないと、夫に不倫されても仕方ないのだろうか。その上、不倫相手に子供ができたら、ゴミのように捨てられてしまうのだろうか。
「今日初めて病院で診てもらって妊娠だって確定したから、彼に報告しようと思ってたところだったんだけど……」
不倫の末の妊娠で親にも言えず、誰かに話を聞いてほしいと思っていた所で私に再会したのだと言う。
「もう、運命かと思っちゃった!」
舞は、マスカラのついた目を大きく開いて私の手を取った。
「未華子もなかなか赤ちゃんできなくて悩んでるなら、この赤ちゃんが私の所に来てくれたこと、奇跡だと思わない?奥さんもきっと納得して別れてくれるよね?」
上目使いで私を見つめる彼女に嫌悪感を覚えた。この女は、私が応援してくれるとでも思ったのだろうか。怒りがお臍の下のずっと奥の方で渦巻いていくのを感じる。
「まさか産むつもりなの?」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
「え?」舞のマスカラまつ毛がしばたいた 。
「何を夢見てるのか知らないけど、奇跡でもなんでもないよ。不倫するならちゃんと避妊くらいしなよ」
気付いたら、お腹の中に沸き上がった気持ちを、言葉にしてぶつけていた。舞はあからさまに傷ついた顔をした。
そっちが悪いのだ。不妊治療をしている私に無神経なことを言ったりするから。ああ、無神経だからこそ不倫なんてできるのか。
舞が握っていた私の手をそっと放した。きれいにネイルアートの施されたその手は震えていた。
「そうだよね。ごめん。本当はちょっと悩んでたんだけど、未華子に会ったら、なんか気持ちが大きくなっちゃった」
そう言うと、今度は瞳に涙を浮かべた。確かに、彼女の心は揺れているように見えた。さっきの診察で妊娠が確定したばかりなので、気持ちの整理ができていないのかもしれない。そんな不安定な舞に、感情にまかせて言葉をぶつけたことに気が咎めた。
「ごめん。私も言葉が過ぎた」
舞は返事をせず、うつむいたままだった。気まずい空気に耐えられなくなってペットボトルのルイボスティを一口飲む。舞も自分の飲み物に口をつけた。プラスチックカップに入ったアイスのカフェラテ。
妊婦のくせにカフェイン摂るんだ……。自分の中から、そんな意地悪な声が聞こえた。私は妊娠を望むようになってから、カフェインもアルコールも控えている。どちらも体を冷やして妊娠しにくくなると聞くし、もし妊娠していたら少しでも胎児に悪いことはしたくない。体を冷やすから、舞のようなミニスカートも履かない。それなのに……。私には子供ができず、舞はコーヒーを飲もうがミニスカートを履こうが妊娠している。
彼女に気付かれないように目を閉じて深呼吸した。久しぶりに会った友達にわざわざ苛立ちをぶつけてもしょうがない。意識して明るい声を作った。
「私なんかよりも、早く相手の人に相談した方がいいと思う。産むにしても、産まないにしても」
どうせ、産むんでしょ。心の中の声は冷たいままだった。どうせ、こういう無神経な女がいつだってうまくやるのだ。人の夫を盗んで、ちゃっかり妊娠して、当たり前のような顔で子供を産む。
そんな私の心の声が聞こえない彼女は、涙を拭って笑顔を見せた。
「ありがとう、未華子。彼に打ち明けてみる」
私も顔の筋肉を駆使して、どうにか笑顔を返して見せた。彼女の提案で、私達はラインのIDを交換した。
「今日はありがとう。未華子も妊活とか行き詰まったら連絡してね。私でよければ相談にのるから」
上から目線の言葉が癇に障る。そんな私の表情を読み取ったのか、舞が一言付け加えた。
「ちょっと不妊様入っちゃってるみたいだし」
「不妊様?」初めて聞く不穏な言葉がひっかかる。
「知らない?未華子、私みたいな妊婦を見てるとムカつくでしょ」
ふいに本音を言い当てられて返答に詰まる。
「次会う時は、未華子も妊娠してるといいね」
嫌味なのか本当に無神経なのか分からないセリフを残して、彼女は去って行った。
次の日は仕事だった。スマホのアラームの音で目を覚まし、いつものように基礎体温計をくわえる。前日より0.5度も上がっていた。高温期だ。基礎体温が低温期から高温期に切り替わる時、排卵が起こっている可能性が高く、そのタイミングで子宮内に精子がいると受精の確立が増す。つまり、昨日の人工授精がベストタイミングだったことになる。隣で寝ていた夫を叩き起こす。
「ねえ、見て!高温期になったよ!」
シフト制の仕事で深夜に帰ってきていた夫は、ほとんど開いていない目をこすりながら「おお、ドンピシャだったね」と言った。
「今回こそは、うまくいく気がする。このまま高温期が続きますように……」
基礎体温計に拝んでみる。もし妊娠していれば、このまま高温期が続くものらしい。
「体温計に拝んでもしょうがないでしょ」
夫は笑って、大きな手で私のお腹をさすってくれた。
「未華子のお腹に赤ちゃんが来てますように」
彼の手の上に、私も手を重ねる。お互いの左手につけた結婚指輪が、かちりと鳴った。ふと、昨日の舞を思い出した。彼女の赤ちゃんは、ちゃんと祝福されたのだろうか。
時計を見ると八時前。非番の夫を残して家を出た。アパートの階段を降り車に乗り込む。助手席のドリンクホルダーに、舞が置き忘れていったカフェラテの容器が残されていた。
「不妊様……」
舞が口走った言葉を思い出してしまった。
職場の駐車場に着いて、まだ少し時間に余裕があったのでスマホで検索してみた。
『不妊様とは』
女性の晩婚化が進み、六組に一組のカップルが不妊に悩む時代になった……らしい。その中でも、不妊治療のストレスを抱え、周りに当たり散らす女性をネットスラングで皮肉を込めて『不妊様』と言う。
不妊様でヒットした投稿サイトを拾い読みしていく。友人の妊娠を素直に祝えない。妊婦に嫉妬する。不妊症だからと悲劇のヒロインぶる。ネットの掲示板特有の辛辣な言葉で『不妊様』の特徴が書き込まれていた。
自分のことを言われている気がした。『不妊様が~』『不妊様に~』『不妊様は~』顔も知らない人達の言葉が、私の心を殴り続けた。不妊に悩んで焦る自分が、ネット上にさらされて、笑い者にされている気分だった。
スマホに釘付けになっていると、出社時間が迫っていた。慌てて車を後にし、社内に滑り込む。朝礼の時間になり、同僚達がフロアに集まった。頭を仕事モードに切り替え、今日の業務の注意事項をインプットしていく。
電話対応の発声練習も終わった頃だった。
「あの……」
同じ部署の後輩が手を上げた。マスクで覆った口元をさらにハンカチで押さえていた。最近体調を崩したと言って二週間ほど休んだり、早退を繰り返していた子だった。
「わたくしごとなんですが……」
この言葉を聞いて、反射的に体がこわばる。あとに続くセリフが、聞かなくても分かる。
「赤ちゃんを授かりました。ご迷惑をかけることもあるかと思いますが……」
医療保険のコールセンター。7割が女性の職場だ。結婚、妊娠の報告も多く、本人が朝礼で周知するのが慣例になっていた。このお決まりの妊娠報告も、結婚したばかりの頃は、次こそ自分の番だと思っていた。しかし、何度も先を越されるうち、苦々しい気持ちで報告を受けるようになっていた。今日はもう、涙をこらえるのがやっとだった。
朝礼の後、そのままトイレに駆け込んだ。 こらえていた涙があふれる。頭の中は何度も繰り返してきた問いでいっぱいだった。なぜ私より後に結婚した彼女なの?なぜ私の所には赤ちゃんが来てくれないの?
それでも、職場で泣くなんて社会人としてありえない。誰にも悟られてはいけない。便座の上で膝をかかえたまま、目をつぶって深呼吸した。大丈夫。大丈夫。壁に備え付けられた鏡を覗き込む。少し目は赤くなったけれど、気付かれる程ではないだろう。もう一度深呼吸をして、フロアに戻る。
妊娠報告をした後輩が、同僚の女性達に囲まれ、出産予定日を聞かれたり、お腹をさすられたりしていた。まるで優勝選手へのインタビューだ。以前なら私も率先して妊婦を囲んで「あやからせて」なんて言っていただろうけれど、妊娠レースに負け越して『不妊様』に成り下がった今は、そんな気力すらなかった。笑顔を作って優勝選手インタビューの脇をすり抜け、自分の席におさまる。
大丈夫。仕事に集中すれば乗り切れる。そう言い聞かせてパソコンを立ち上げた。
「佐久間さん、すみません」
隣の席の、亀田という年配の男性社員が声をかけてきた。
「昨日なんで休んだんですか?自分聞いてなかったんですけど」
いきなり責めるような言い方をされた。
「すみません、棚原主任に報告していました。一応、前もって申請出して、ホワイトボードにも書いたんですが……」
不妊治療で休む際は、女性上司に声をかけるようにしていた。そもそも、同じチームでもなく、年上というだけの亀田に報告する義務はなかった。
亀田は後ろのホワイトボードを振り返る。
「え?ああ、ほんとだ。で、なんで休んだの?」
ズル休みでもしたと思っているのだろうか。他の社員も机を並べている中で「排卵日だったので人工授精してきました」なんて言えるわけがない。敗者へのインタビューはもう少しお手柔らかにお願いしたい。
「ちょっと、病院に……」
「病院?どっか悪いの?」
そんなの私が知りたい。なぜ子供ができないのか分からないから闇雲に焦っているのに。トイレで必死になだめた感情が再び昂るのを感じた。
「婦人科ですけど」
「え?妊娠したんですか?」
顔がかっと熱くなった。
「ちがいます」なんとか返事をする。
「ああ、もしかして不妊治療の方?今流行の妊活ってやつですか!」
亀田の声がフロア中に響いた。妊婦を取り囲んでいた一団が急に静かになった。妊娠報告のおめでたいムードの中、私の不妊報告がなされてしまったのだ。うつむく私に、亀田もやっと自分の間の悪さに気付いたようだった。無言で亀田に背を向け、電話対応用のヘッドセットをつけた。
業務開始時刻になり、一斉に電話が鳴り始める。受電スイッチを押し、電話を取る。黒い気持ちでいっぱいになったお腹に力を入れ、精一杯明るい声を吐き出した。
「お電話ありがとうございます!」
終業の時報とともに、オフィスを飛び出した。今日は電話対応以外、誰とも話をしなかった。車に乗り込む。スマホの画面を開くと、朝検索した『不妊様』の画面のままだった。
「ああ、もう!」
そのまま家に帰ってふて寝しようか悩んだけれど、思い立って、市の運営する運動公園に向けてハンドルを切った。妊活をはじめてから、体作りとストレス解消のために、週に三日はウォーキングをしている。こういう、もやもやした気持ちの時こそ、体を動かして頭を空っぽにした方がいい。
公園の駐車場に車を停め、更衣室でウエアとシューズを替えてから、夜のグラウンドに出た。ライトに照らされたトラックには、陸上競技の練習をする学生やウォーキングをする人達の姿が見えた。回れ右をしてグラウンドを離れ、人通りのまばらな公園の外側の道を歩くことにした。明かりが少なく、伸び放題の雑草が邪魔だけれど、今日はできるだけ人を避けたかった。いつもより歩幅を大きく、早く歩いた。息が切れるくらいの方が、今はちょうどいい。
雲が月を隠すたびに足元が暗くなる。四月初旬。草むらからは虫の声が聞こえていた。来月からは気の早い蝉も鳴きだすだろう。沖縄の春はとても短い。
公園の外を一周し、グラウンドの前に戻って来た。トラックに目を向けると、ウォーキングをしている人達の中に、丸いシルエットの人影が見えた。臨月の妊婦が安産のためにウォーキングでもしているのだろう。
「ころんじゃえばいいのに」
つぶやいてしまってから、はっとした。無意識に口から出た言葉だった。お腹で命を抱いている妊婦に向かって、なんて恐ろしいことを考えてしまったんだろう。
呼吸が乱れ、歩き続けられなくなる。グラウンドから離れ、草むらの脇のベンチにへたり込んだ。どっと汗が噴き出してきた。
私は一体、何をやっているんだろう。妊娠したくて色々頑張っているけれど、日に日に心がすり減っていく。子供は親を選んで生まれて来ると聞いたことがあるけれど、こんな妬みや僻みでドロドロになった女の子宮に、生まれて来たいと願う赤ちゃんなんているのだろうか。
もうだめだ。もう疲れた。目に熱いものがこみあげてきて、涙の雫がスニーカーのつま先に落ちた。
その時、足元に違和感を覚えた。なにかが動いたような気がする。猫でもいるのかと、立ち上がってベンチの下を覗いてみる。
暗闇の中で、瞼の無いむき出しの目が私を捕らえた。猫なんかじゃない。それは、黄色の鱗に黒いまだら模様の入った、大きな蛇だった。禍々しい姿に鳥肌が立った。蛇は一メートル以上ある長い体を地面に這わせ、首をこちらに向けている。逃げなきゃ。頭では分かっているのに、その目に射すくめられて体が動かない。
どれくらいそうしていただろう。雲間から射した月明かりに照らされて、ふと我に返る。一歩一歩後ずさりし、蛇が動かないのを確認してから、わき目もふらずに走った。
着替えもせず、ロッカーに置いていた荷物だけ回収して車に乗り込んだ。シートに座って、やっと人心地がつく。そういえば、公園の芝生に「ハブに注意」の看板があった。だからみんな公園の外側ではなく、明るいグラウンドを歩くのだ。
ハンドルに突っ伏して溜息を吐いた。暗い想いを抱いて、暗い所をわざわざ選んで歩いているから、あんなものに出くわすのだ。私の中にある醜い感情が形を持つとしたら、きっとあの蛇と同じ形になるだろう。
アパートに帰りつくと、非番だった夫が得意の炒飯を作って待っていてくれた。エプロンをつけたクマのような夫を見て、キッチンの床に座り込んでしまった。不妊様に、後輩の妊娠報告に、蛇との睨み合い。今日はいろいろありすぎた。様子のおかしい私に気付いた夫は、少し考えてから「ご飯の前に、一緒にお風呂に入ろうか」と、提案してくれた。
夫といえども、明るい所で裸を見られるのは嫌なので、風呂場の電気を消した。脱衣所から漏れる明かりだけがお互いを照らす。夫に背を向けて湯船に入る。大きな手が、私の肩にお湯をかけてくれた。
「ねえ、私、不妊様になっているんだって」
風呂場の壁を見つめながらつぶやく。
「不妊様ってなに?」
「ネット用語らしいんだけど、不妊で悩んでる人が周りに八つ当たりしたり、妊婦や子持ちに嫉妬することを言うんだって」
朝、スマホで調べたことを、知ったかぶりで話す。
「車に付ける『赤ちゃんが乗ってます』ステッカーとか、妊婦の安全を守るためにつけるマタニティマークですら『幸せアピールしやがって』って攻撃的になったりする人がいるらしいよ。内地では、電車で妊婦に席を譲らなかったり、わざとぶつかってくる不妊様がいるって」
「こわいこわい。そんな人いる?ネット情報だからデマもあるんじゃない?子供はみんなの宝だし、妊婦さんに優しくするのは人生の基本でしょ」
大きなクマのように見えるけれど、内面は穏やかな夫らしいコメントだった。
「私も、妊婦さんや子供に意地悪しようとは絶対に思わない。でも、羨ましいとか妬ましいって気持ちはよく分かる。私、最近妊婦さん見るのが辛いから……」
やっと、今朝の妊娠報告と亀田とのやりとりを話すことができた。夫は私の肩に顎をおいて聞いていた。ひげがあたってくすぐったい。
「俺達にとって、妊婦さんとか赤ちゃんって憧れの存在だからね。素直に羨ましく思っていいでしょ。それは普通の感情なんじゃない?自分の中の焦りを周りにぶつけるのは別の問題だけど」
夫らしい素直な考え。この人はいつだって明るい所を歩いている。
いつもなら、そんな彼を好ましく思うのに、今日は素直にそう思えなかった。子供ができないことは、二人の問題なのに、どうして彼だけこんなに穏やかでいられるのだろう。
「このまま妊娠できなかったら、どうする?」
「どうするって何が?」
「人工授精でもダメで、体外受精にステップアップして、それもダメなら顕微授精。それでもダメならどうするの?」
「ん~、それはその都度考えていこうよ」
「子供ができなかったら、別れるの?」
「ちょっと待って。なんでそうなるの」
夫の目が険しくなった。
「あなたは真剣に考えていないだろうけど、私は毎回毎回生理が来る度に考えちゃうんだよ。このまま子供ができなかったらどうしようって」
「そんな焦ってたら、できるものもできないって。まだ人工授精四回目でしょ。先生は、六回くらいは試した方がいいって言ってたんだよね?」
「まだ四回?まだってなによ?一回一回がどんなに辛いかも分からないくせに!」
やっぱり今日はおかしい。一番の理解者である夫にまで、お腹の蛇は牙を剥く。
「私は、仕事休んで病院行って、筋肉注射したり、検査したり、人工授精の処置したり。怖くて痛い思いを毎回毎回してるんだよ。毎日食べ物や飲み物にも気を付けて、運動だってしてる。それなのに……」
それ以上はもう言葉が出なかった。涙も嗚咽も止められなかった。子供のように声を上げて泣いた。不妊治療を始めてから、一体何度泣いただろう。大人になってこんなに泣くことがあるとは思わなかった。何よりも、自分で自分をかわいそうだと思っていることが惨めだった。『不妊様』という言葉が本当にぴったりだ。分かっていても止められない。誰かにぶつけないと、自分の心が壊れてしまいそうだった。
「未華子。しばらく妊活はお休みしよう?」
夫の言葉に胸が冷えた。
「諦めるってこと?」
見上げた私の額にキスをして夫は言った。
「諦めはしないけど、今はちょっと休もう。妊活始めてからずっと気を張ってるから、疲れちゃったんだよ。ストレスは妊娠に良くないんでしょ?」
「でも……」
こんなにボロボロになりながらも、妊活を休むことには抵抗があった。一カ月休めば、一カ月分、卵子が老化してしまう。
「そうだ!旅行に行こうよ。いきなり県外は無理だけど、とりあえず土日に県内のリゾートホテルで一泊しよう。ちゅら海に行って、レストランでディナーして、お酒も飲んでさ」
不妊治療にお金がかかるので、ここ数年は旅行にも行けていなかった。
「でも……」乗り気じゃない私の顔を両手で挟んで、大真面目に夫は言った。
「ゆっくり、ちゃんと愛し合おう!」
思わず吹き出してしまった。けれど、案外笑い事ではなかった。毎月毎月、排卵日前後を狙うタイミング法の義務的な行為に、お互い疲れていた。妊娠に向けて心が張り詰めていく私の隣で、夫も窮屈な思いをしていたのかもしれない。
「分かった。とりあえず一カ月だけ。食べて、飲んで、ちゃんと愛し合おう」
そう宣言した。
「子供ができなくても、幸せだと俺は思ってるよ」夫がそう言って、キスをしてくれた。この人と結婚してよかったと思った。そして、だからこそ、この人との子供がどうしても欲しいのだと再認識した。
その夜は二人でワインを開け、海外ドラマのDVDを朝方まで見た。
翌日、会社が休みなのをいいことに昼過ぎまで寝ていた私は、舞からの電話で起こされた。聞き取りにくい、小さな声で彼女はこう言った。
「中絶手術を受けたから病院まで迎えに来てほしいんだけど……」
驚いた。なんで私が、という思いも一瞬は頭をかすめたけれど、彼女の嗄れた声を聞くと断れなかった。
通い慣れた丘の道を、アクセルを踏みこんで上った。病院の玄関に車を寄せて待っていると、舞は太った看護師に付き添われて出てきた。前回、人工授精をした時に担当してくれた看護師だ。向こうも私の顔を見ておやという表情になったけれど、何も聞かなかった。
「自分の車で帰ると言うんだけど、貧血が酷そうだからお迎えを呼ぶように言ったの。お家まで届けてあげてね」
彼女は舞を助手席に押し込み、車が敷地を出るまで見送ってくれた。ハンドルを握りながら、何か話さなくてはと思い訊いてみる。
「今日手術したんでしょ?入院しなくて大丈夫なの?」
「大丈夫。初期の中絶手術だから。もともと日帰りの予定だったし。運転して帰るつもりだったんだけど、あのオバサン看護師がおせっかいで……」
その顔色を見れば、看護師の判断は正しく思えた。
さっき上って来た丘の道を、下りて行く。浦添市にあるこの病院は、私と舞の育ったうるま市から高速道路を使っても四十分以上かかる。彼女は初めから、地元から遠い病院を選んでいたのだ。不倫の末の妊娠を「奇跡」だとか「奥さんも納得してくれる」とか言っていたけれど、堕ろすことになるかもしれないと、彼女も分かっていたのだろう。わざわざ知り合いのいなさそうな病院を選んだくせに、私の姿を見つけて声をかけてしまったのだろう。うっかりなのか、少女時代を一緒に過ごした私を信頼していたのか。どちらにしても彼女らしい。
ふと思いついて、カーステレオを操作する。大好きな女性ヴォーカルの曲が流れた。高校生の頃、舞とよくカラオケで歌った曲だった。
舞が急にはっきりした声で言った。
「未華子、私を軽蔑してるでしょ?」
「え?してないよ」
「うそだ。絶対軽蔑してる。未華子は不妊で悩んでるのに、私は赤ちゃんを堕ろしちゃったから」
また『不妊様』と言われるのかと身構えた。答えられないでいると、私を睨みつけていた舞の目から涙があふれた。ちょうど信号が赤に変わったので、ブレーキを踏んだ。ダッシュボードを開けてティッシュを箱ごと渡す。
「大丈夫?マイマイ」
「妊娠したから産みたいってあの人に言ったの。そしたら彼、怒り出したの。俺の家庭を壊す気かって」
「はあ?何それ」
舞は涙と鼻水をティッシュにこすりつけた。
「ずっと奥さんと別れたいって言ってたくせに。私、諦めきれなくて、職場で奥さん呼び出して、洗いざらいぶちまけて、離婚して下さいってお願いしたの。そしたら……奥さん、今、妊娠四ヶ月なんだって……」
「はあ?」
「奥さんとは家庭内別居中だとか、離婚するとか言ってたくせに、子供作ってたの……」
あきれて物が言えなかった。テレビドラマの登場人物みたいに、あっちにもこっちにも子供を作ってしまう薄情な男が、現実に存在しているらしい。
「あの人とは、もちろん別れた。会社も私が辞めることになって。子供は産むか悩んだんだけど、産んだら慰謝料請求するって奥さんに言われて……」
仕事を辞めた上に、慰謝料まで請求されてしまったら、子供を産んでも一人ではとても育てられない。病院に相談すると、中絶するなら一日でも早い方がいいと言われ、今日手術を受けたらしい。
浅はかだなと思った。既婚者と知っていて恋愛を楽しんだのだから自業自得。それでも、彼女を突き放せなかったのは、わざわざ迎えにまで来てしまったのは、学生時代の絆があるからだろうか。
信号はまだ赤のままだった。泣いている彼女に手を伸ばし、その肩をなだめるようにさする。なんだか懐かしかった。
「マイマイ、高三の時も教育実習生に二股されて泣いてたよね」
舞がティッシュから顔を上げた。マスカラが落ちて、黒い涙のあとになっていた。
「なんで今、その話が出るのよ。大学生に遊ばれた話なんて今しなくてもいいじゃない」
「いや、なんか思い出しちゃって」
私が笑うと、舞の表情も一瞬ほころんだ。そしてすぐにまた涙声になる。
「バカだって思ってるんでしょ。でも、あの時も今回も、私は本気だったの。本気で愛していたし、愛されていると思ってたの」
本当にそうなんだろうなと思った。舞はいつだって人の好意を疑わない。自分がこんなに好きなんだから、相手も同じだと信じているのだ。
「マイマイは、お人好しなんだよ。人間なんて顔は笑ってても、お腹では何を考えてるのか分かったもんじゃないんだから。私のことだって久しぶりに会ったのに頼り過ぎだし。きっと舞には想像もつかないだろうけど、私なんて腹黒じゃすまないくらい、妬みと僻みでお腹の中まっ黒なんだからね」
「なにそれ、怖い」
「怖いでしょう。妬み僻みが大きな蛇みたいに私の中で蜷局を巻いてるの。そんなものでいっぱいだから、私のお腹には赤ちゃんが来てくれないの」
冗談めかして言ったけれど、笑えなかった。
「そんなこと言ったら、私のお腹なんて、空っぽの闇だよ。赤ちゃんが来てくれたのに、追い出しちゃったんだから」と、舞も笑わずに言った。
信号が青に変わった。意識して真っ直ぐ前を見てハンドルを切った。舞も黙って窓の外を見ていた。女性ヴォーカルのCDアルバムが一周しても、私達は黙ったままだった。
県道を下りて、田舎道に入る。静かなドライブが続く。学生時代は毎日のように二人で登下校していた道を通る。古い公民館と、滑り台しかない公園。丸い電球がたくさんぶら下がった電照菊の畑を過ぎる。畑と畑の間に舞の実家はあった。陶器のシーサーが乗ったコンクリート二階建ての大きな家。舞の車は後日タクシーで取りに行くと言っていた。その車を停めてもあと二台は余裕で入る、広い駐車場に彼女を下ろす。
「相変わらず、すごいお家だね」
「オジイが土地持ちなだけだよ」
「え。舞のオジイ、まだ生きてるの!あ、ごめん。でもだいぶ年いってなかった?」
子供の頃、舞と遊んでいると、よく小遣いをくれたオジイだった。あの頃でも随分年寄りに見えたが、まだご存命とは。
「オジイは超元気だよ。今日も畑に行ってるはずよ。戦争を乗り越えた人たちはやっぱり強いよね。未華子のオバアもまだまだ元気でしょ?最近スーパーで見かけたし」
元気な老人達の話題で気まずい空気がだいぶやわらいだ。
それじゃあ、と帰ろうとする私を引き止めると、舞は家から大きなビニール袋二つを提げて戻って来た。受け取ると、ずしりと重い。
「この後、実家にも寄るでしょ?これ、オジイが作った冬瓜。実家用と未華子の家用あるから持って行って」
顔色が悪く、歩くのも辛そうな彼女から差し出された袋を無下に断ることもできず、ありがとうと受け取った。舞の家をあとにする。助手席に置いたビニール袋に目をやる。大きな冬瓜が二つ。舞のオジイが丹精こめて育てたそれを無駄にすることはできない。仕方なく実家にも寄ることにした。
舞の家から車で二分。木造に赤瓦の昔ながらの平屋が私の育った家だ。コンクリートブロックの塀の端に、父がホームセンターで買った二体で千円のシーサーが座っている。玄関の引き戸には鍵がかかっていなかった。不用心なのは、どうせ盗まれる物はないとタカをくくっているからだろう。
「ただいま」声をかけてから、仏壇のある居間に上がった。本を読んでいた父が、顔を上げ「お。未華子か。おかえり」と言った。エプロンで手を拭きながら、祖母も顔を出す。
「あい、未華子ね?誰かと思ったさ。なんで?今日仕事は?」
「近くに用事があったの。これ、冬瓜もらったから」
重いビニール袋をちゃぶ台に乗せる。祖母が袋を開けると、キュウリのオバケのような大きな緑色の瓜が顔を出した。
お茶を淹れに祖母が台所に戻ってしまうと、居間に父と二人きりになった。手持無沙汰に困り、テレビをつける。ちょうどローカルニュースが始まったところだった。県内のどこかの海岸で、女性達が潮干狩りをしている様子が映し出された。
「ハマウリ?」
テロップを読み上げる。聞きなれない言葉だった。父が読んでいた本から顔を上げた。老眼鏡をはずしてテレビを見る。
「ああ。ハマウリ。旧暦の三月三日に、女の人が海に入って身を清める行事だよ。浜に下りるって書いて浜下り」
国語の教師をしている父は、得意分野のウンチクを語る時は饒舌になる。
「ひな祭りみたいなもん?」
「三月三日の女性だけのイベントではあるけど、ひな祭りとは違うな。蛇の化け物の子を妊娠してしまった娘が、浜に下りてその身を清めたのが始まりだという伝説があるんだよ」
「その話は知ってるかも」
沖縄の昔話の絵本で読んだ記憶があった。美人で有名な娘のもとに夜な夜な美男子が訪ねて来るけれど、その正体はアカマタと呼ばれる大蛇の化け物なのだ。
「女の人達がごちそうを持って海に行って、海水につかったり潮干狩りしたりするんだ」
「ふうん。昔の女子会みたいなもんか」
私の乱暴な解釈に父は何か言いたげな表情を浮かべたけれど、また本の続きに戻ってしまった。私も流れ続けるテレビ番組に視線を戻す。頭の中では、蛇に騙されて妊娠してしまった娘の事を考えていた。浜下りの伝説は本当にありそうな話だった。イケメンに化ける蛇はフィクションだとしても、望まない妊娠をしてしまった娘が、冷たい海に入って子供を流そうとすることはありそうな話だ。その姿が、舞と重なった。
祖母が台所から戻って来た。お茶を淹れるだけにしては遅いと思っていたら、食事を乗せた盆を持ってきた。
「昼ごはんの残りしかないけど、あんた食べなさい」
豆腐炒め(チャンプルー)と、フライドチキン、ヘチマの味噌汁とご飯。気持ちはありがたいけれど、時刻は午後四時。
「オバア、こんな時間に食べたら夕飯入らないさ」
「大丈夫よ。あんた痩せ(ヨーガリ)てるから」
何が大丈夫なのか全然分からない。祖母とはいつも会話が噛み合わない。
「オバア、こういうのを『食べなさ(カメー)い食べなさ(カメー)い攻撃』って言うんだよ」
箸を取ろうとしない私に、しわくちゃの顔にさらにしわが寄る。
「はっさ!食べる(カマラン)な(ケー)って言う人がいるね。あんたは、ご飯ちゃんと食べてるねえ?ちゃんと食べないから赤ちゃんできないんだよ!」
恐れていた言葉が飛び出した。だから実家には寄りたくなかったのに。
「アヤちゃんもタークーも子供できたってよ。未華子も早く作らないと!」
同世代の親戚の名前が出る。早く作りたくても、なかなかできないから悩んでいるのに。それを素直に説明すればいいのかもしれないけれど、今度は治療や体のことを余計に詮索されそうで話したくなかった。
「母さん(アンマー)、未華子は仕事もしていて忙しいから、子供はゆっくりでもいいんだよ」
見かねて父が助け船を出したが、それが余計に年寄りの怒りに火をつけた。
「仕事はいつでもできるさー!女が子供作らんでどうするね!未華子はもう三十なるでしょ。早く産まないとお母さんみたいに産めなくなるよ」
父がパタンと本を閉じた。居間の空気が一変する。祖母も口をつぐんだ。二十年以上前に亡くなった母の話は、この家ではタブーだった。いつもなら、私もそれとなく話を逸らしたりしただろう。けれど、今の私は黙っていられなかった。長年胸につかえていた気持ちが、ぬるりと顔を出す。
「オバアはさ、もし私に子供ができなかったら、私なんていらないんでしょ。昔、お母さんにも言ってたもんね」
『男の(キ)子を産めない嫁なんかいらないよ』
あの頃、事あるごとに祖母が母に投げつけた言葉だ。なんでもズケズケと物を言う気の強い祖母と、すべてため込んでしまう母。嫁姑の折り合いは悪く、仏壇を継がせる男の子が欲しかった祖母は、私を産んだ後、子宮の病気を患った母に、ことさらに辛くあたった。何度も繰り返される祖母の辛辣な言葉に、母の心はとうとう壊れてしまった。家を出て、二度と帰ってこなかった。
「病気だったお母さんに、なぜあんなひどいことが言えたの。お母さんも私も、誰かのために子供を産む道具じゃないよ」
祖母は硬い表情で私を見つめた。私も負けじと、その顔を睨み続けた。
「もういいよ。オバアも悪気があったんじゃないさ。未華子のことが心配なんだよ」
父が割って入った。それでも、私は黙らなかった。
「悪気がなかったら何を言ってもいいの?オバアの言葉で傷ついたんだよ。私も!お母さんも!」
「分かったよ。オバアはもう何も言わないさ」
祖母はそうつぶやいて、私が手を付けなかった料理の皿を下げ、台所へ消えた。居間に父と私とテレビの音だけが残った。
溜息を吐いて、父が言った。
「オバアのせいだけではないよ。お母さんが体力的にも精神的にも衰弱してたのに、学校の仕事が忙しくて俺も支えてあげれなかった」
確かに、あの頃の父は学級担任や部活の顧問をしていて帰りが遅く、休日も家にいないことが多かった。
「仕事で忙しいからって、家族をないがしろにするなんて最低!」
我ながら、反抗期の子供のようだと思ったけれど、怒りが収まらなかった。
「あの時は、俺もオバアも反省してお母さんの実家に何度も頭を下げに行ったんだよ。でも、この家に帰る時間も体力もお母さんには残ってなかったさ」
母はこの家を出て、二年後に亡くなった。
「お母さんが亡くなってから、オバアは毎日仏壇に手を合わせてるんだよ」
それは知っていた。母の遺影はこの家にない。それでも祖母は仏壇に向かう時、そこで眠る祖父とともに、母の名前を呼ぶ。
「そんなので許されるわけないじゃない」
「まあそうだよな。でもそれはオバアとお母さんの問題だから、未華子は許してあげて。オバアは昔の人だから、本気で未華子に子供ができないのを心配してるわけよ。自分がお母さんを責めたように、未華子も佐久間の家でいじめられるんじゃないかって」
「なにそれ。子供子供ってうるさいのはオバアだけだよ。佐久間のご両親はそんなこと一言も言わないよ。まあ……思ってはいるだろうけど……」
「俺は未華子と健介君が仲良くやってたら、それでいいと思うけどね。オバアは未華子のことが可愛いいから心配なんだよ」
そう言えば、と父は立ち上がって、仏壇の下の引き出しを探った。白い紙袋を取り出して私に差し出す。
「未華子が来たら渡すって言ってたよ」
紙袋を開けると鈴のついたお守りが出てきた。子授けご利益で有名な神社のものだとすぐに分かった。多産にあやかって、ネズミのイラストがプリントされている。
「このお守り、もう持ってるし。沖縄市の神社のでしょ?こういうのがプレッシャーなんだって」
「まあそうだよな。プレッシャーだよな。オバアはお母さんにもこういうの、よく買ってきよったよ」
父はまた溜息を吐いた。当時も、祖母と母の間で板挟みになっていたのだろう。
紙袋には鉛筆で「みかこ」と書かれていた。クセのあるへたくそな祖母の字。小学生の頃、持ち物すべてにマジックペンででかでかとその字が書かれていて、すごく恥ずかしかったのを思い出した。それでも、母の代わりに私を育ててくれた祖母だった。
「言い過ぎた。ごめんって謝っといて」
「だめだよ。オバアも、もう八十余るよ。いつ何があるか分からないから、今日で仲直りしといた方がいいんじゃない?」老眼鏡の奥で、父の目が笑っていた。
深呼吸をしてから、台所を覗いた。古い板の間は長年の油汚れで空気まで黄ばんでいるようだった。私が育った家。何かの記念の古いボンボン時計と火の(ヌ)神様を祀る香炉。大きな食器棚と背の低い流し台。すべてが子供の頃の記憶そのままの場所で風化していた。
祖母は、時が止まったような台所の食台につっぷして、泣いていた。気丈な彼女が泣いているのを初めて見た。この人も、年をとったのだと思った。丸めた背中がますます小さく見える。
「オバア、ごめんね」
小学生のような言葉しか出てこなかった。怒りにまかせて、年老いた祖母にひどい物言いをしたことを後悔した。
彼女は顔を上げず「いいよ。大丈夫」と手をひらひらさせた。
「本当にごめん。心配させてるのは分かってる。でもこればっかりは自分でどうしようもないから、しばらく放っておいてよ」
祖母は答えなかった。その背中にそっと手を伸ばした。子供の頃を思い出した。
母が出ていってしまってから、寂しさに毎晩ふとんの中で泣いていた私。祖母は寝付くまでずっと背中をさすってくれた。今度は私がその背をさする。昔は太っていた祖母の体はいつの間にか痩せてしまって、ごつごつと背骨が浮いていた。
たまらなくなって顔を背ける。コンロの脇に置かれた白い香炉が目に入った。クロトンの葉が活けられた花瓶と、盛られた塩。沖縄の多くの家に置かれている竈の神様を祀る火の神様だ。
「私、赤ちゃんがほしいからこれからもできるだけ頑張ってみるよ。オバアも、私に早く子供ができるように、火の神様に拝み(ウートートー)してね」
「毎日やってるさー」
意外と力強い返事をもらって、思わず笑ってしまった。大丈夫だ。この意地悪オバアなら、あと二十年はピンピンしていそうだ。
「そうだ!オバア、浜下り行こうよ」
「浜下り?今からなー?」
急な提案に祖母が顔を上げる。その目に涙のあとは見えなかった。騙された気もしたが、正直少しほっとした。
「今日は無理だから、来週!」
「来週はもう浜下りの日じゃないよー?」
「いいのいいの。潮干狩りでもビーチパーティでもなんでもいい。とりあえず海に入ろう。そうだ!マイマイも呼ぼう。オバアも覚えてるでしょ?花城舞」
「花城?花城のオジイの所のね?あの不良娘のマーイー?」
そう言えば、舞は中学生の頃、コギャルに憧れて髪を茶色く染めていて、うちの祖母に不良娘扱いされていたっけ。不妊様と、意地悪オバアと、不良娘……。すごいメンツだけれど、こんな女達こそ海で穢れを落とした方がいいのかもしれない。
「よし、ハマウリ女子会しよう」
次の週。私は朝早くから実家の台所に立って、祖母の弁当作りを手伝った。稲荷寿司とフライドチキンと切干大根の昆布炒め。めちゃくちゃなメニューだ。これもチャンプルー文化の恩恵だろうか。祖母が出かける準備をする間、弁当箱におかずを詰める作業を買って出た。並んだおかずをスマホで撮影してみる。年季の入った食卓に並ぶ、茶色ばかりの弁当。悲しいほど写真映えしない。思い立って、庭の畑から祖母の育てたプチトマトを調達してきた。ついでに大きく育っていたゴーヤーももぎ、スライスしてかつお節と和え、サラダにする。見栄え良く弁当箱に詰める。茶色のおかずを彩る赤と緑。
写真を撮り直していると、長袖と長ズボンの完全装備に着替えた祖母が通りかかる。
「とお。上等さー」
弁当を覗き込むと、指でオッケーサインを作った。及第点がもらえたようだ。
「どこの海に行くのか?車出すか?」
父も顔を出す。
「一番近くの宇堅ビーチかな。車は、マイマイが迎えに来てくれるからいい。今日はハマウリ女子会だから、お父さんは留守番ね」
寂しそうな父のために、おかずを一人分の弁当箱に詰めてあげた。ついでに、もう一人分取り分けて夫へのお土産用にした。
約束の時間をだいぶ過ぎて現れた舞の車に乗り、私達は海を目指した。まだ四月の初めなのに、もうすっかり夏日だった。エアコン全開の車で十五分。目的地の宇堅ビーチに辿り着く。アスファルトで整備された駐車場から、白い砂浜が見えた。ビキニを着た色白の女性達が目につく。
「うわ。ビキニだ。観光客だはずね。こんな所まで来るんだね」
大抵の県民は日焼けの恐ろしさを知っているので、海で肌を露出したりしない。このビーチは、有名な観光スポットから離れているものの、県内出身のアーティストの曲のタイトルになったこともあるので、そのファンの人達かもしれなかった。
私たちの車はそんなビーチを通り過ぎ、隣接する電力会社のフェンスに沿って脇道に入って行く。大きな亀甲墓の前に車を停めた。雑草をかき分けて進んでいくと、さきほどのビーチとは岩で隔てられた、地元民のみが知る、小さな砂浜があるのだ。
祖母は生い茂る雑草をものともせず、さっさと砂浜に下り、レジャーシートを広げ、弁当箱をどすんと置いた。
「早く日陰作らないと、オバア死んじゃうよ」
祖母の笑えない冗談に、舞と二人顔を見合わせた。
私は支柱を組んで日よけのタープを張り、舞も慣れた手つきで家から持参したキャンピングチェアを広げた。子供の頃からよくビーチパーティやキャンプをしているので、やたらと手際がいい。作った日陰の下で荷物を解いて、水筒のお茶を飲み一息ついた。
「あんた達も水着着て、向こうのビーチで男を釣ってきたらいいさー。オバアが若かったらいっぱい釣れたんだけどねえ。漁師だったオジイに釣られちゃったからねえ」
今日も祖母は元気だ。
「ほら、浜下りしにきたんでしょ。オバアが荷物は見とくさ。行っといで」
祖母はレジャーシートから動く気はないらしい。
「それじゃあ舞、せっかくだから足だけでも海につけない?浜下りって海水で身を清めるって意味があるらしいし」
手を引くと、舞は素直に従った。私達は少女だった頃のように手を繋いで浜に下りた。
「知ってる?内地の砂浜って黒いんだよ」
舞が砂を踏みしめながら言った。
「あ、マイマイも内地って言った。前に私が言ったらバカにしてたくせに」
「あれは冗談だって。でも本当に、茶色とか灰色の砂って初めて見たからびっくりしたんだ。都会の砂は汚れてるのかと思ったの」
「成分が違うんだろうね。本土の砂は山から下りてきた砂。沖縄の砂は珊瑚や貝でできているから、海から生まれた砂だもんね」
その白い砂浜の上にサンダルを脱いで、素足で波打ち際に立つ。
「つめたっ!うそ。信じられない。観光客の人たちこんな冷たいのに泳いでるの?」
天気予報で見た今日の最高気温は二十七度。四月にしては、例年より暑いくらいだけれど、海水はまだまだ冷たかった。ちゃぷちゃぷと水を蹴り上げる。
「こんなんで私の穢れが落ちるかな」
私も思っていたことを、舞が先に口にした。
「私達には全然足りないね」
「穢れまくりだもんね」
目を見合わせて笑う。
私達は、幸せになりたくて頑張って、もがいて、それでも届かなくて。いつの間にか、恨みや妬みという穢れをお腹に抱えていた。
蛇の子を宿した娘のように、海水で身を清めなくてはいけなかった。
「ねえ、もっと沖へ行ってみよう」
今度は舞が先を行く。波が、たくし上げたスカートの裾を濡らしても、彼女は気にしていないようだった。じゃぶじゃぶと真っ直ぐ沖へ進んでいく。
「マイマイ!」
不安になってその背中に声をかける。舞は振り返らずに言った。
「寒いけど、腰まで海につかりたいの。着替えなら持ってるよ。あの人と会う時用に、車に置いてたお泊りセットが、まだそのまま乗ってるの。何組かあるから、未華子も付き合わない?私の勝負パンツ貸してあげるさー」
職場内不倫の準備の良さにあきれながら、いつも通りの舞にほっとした。
「びっくりさせないでよ。入水自殺でもする気かと思った」
冗談のつもりだったけれど、彼女は笑ってくれなかった。
「中絶手術を受けた日は、死のうかとも思ったよ。でも、自殺なんて許されないの。ちゃんと前向いて生きなきゃダメなの。お腹の赤ちゃんを殺してまで、私は自分の人生を選んだんだから」
そう言う彼女の頬は一週間でずいぶんやつれていた。肌の荒れと目の下のクマがファンデーションでも隠し切れていない。
「そうだね。ごめん」
彼女は彼女なりに背負って生きていく覚悟を決めているようだった。
陽の光が海面に反射してきらきらと眩しかった。舞が急に立ち止まり、自分のお腹に手をあてて、じっと動かなくなる。
心配になりその顔を覗き込むと、大きな瞳から涙があふれていた。その雫は彼女の頬をつたい、顎をしたたって海水と混ざった。
「どうしたの?お腹痛い?」
手を取って、声をかける。舞が波間を見つめながら、言った。
「未華子、ニライカナイって知ってる?沖縄の海のむこうに、神様が住む理想郷があるって話」
「ああ、なんか聞いたことある。人の魂は、海の彼方から生まれてきて、死んだらまた海に還るって……」
「今日の海は本当にそこに繋がっていそうじゃない?」
確かに、目の前に広がる景色はこの世の物とは思えないほど美しかった。
「私が殺してしまった赤ちゃんの魂が、そこに還れますようにってお祈りしてたの。勝手だとは思うけど、どうせならこんな綺麗な海に還してあげたいなって」
波は、私達のお臍の高さまできていた。
「そしたら、マイマイの赤ちゃん、ニライカナイで生まれ変わって、今度は私のお腹に来てくれないかな」
私の言葉に、舞が首を振る。スカートが水に浮いて波間に白い太腿が見えた。
「生まれなかった私の赤ちゃんは、私が一生忘れないでいてあげるの。未華子の赤ちゃんは、未華子の赤ちゃんでちゃんといると思うよ。きっといつか未華子のお腹に来てくれる。今はこの海の先で、その時を待ってるんだよ」
私達は繋いでいた手を離して、空と海の境界線に立ち尽くした。
私も、自分のお腹にそっと手をあててみる。夜の公園で出会った、大きな蛇を思い出す。いつのまにかお腹に抱いて育ててしまった、醜い感情。そんな蛇の子はもういらない。透き通る翠の波に解き放つ。
からっぽになったお腹に、次は温かい命を迎えられるといいなと思った。たくさんの命が生まれ、やがて消えていく波の間で、いつか温かい我が子を抱けるようにと切に願った。