みなし児への意志
漢州の人、馬祖は師の南嶽懐譲に仕えて学ぶこと十数年。ある時、郷里に帰ろうとして途中まで行き、また引き返して焼香礼拝しました。そこで南嶽は詩を作って馬祖に与えました。
「勧君すらく帰郷すること莫れ、帰郷は道行われず。並舎の老婆子、汝が旧時の名を説かむ。」
「君に勧める、帰郷してはならない。帰郷すれば仏道は行われない。家々の老婆が、お前の昔の名を呼ぶであろうから。」
この偈=詩を敬って頂いた馬祖は、誓って言いました。
「われ生々にも漢州にむかはざらん。」
と誓願すると、生まれ故郷の漢州に向かって一歩も歩を進めず、江西の一所に自らを一寓したまま、諸方の修行者が彼を行き来したのでした。
馬祖は、ただ即心是仏(この心がそのまま仏である)と説くだけで、他には何も説きませんでした。
「その道理は、われ向南行するときは、大地おなじく向南行するなり。余方もまたしかあるべし。」
江西=馬祖は、どのようにこの教えを会得したのでしょうか。その道理とは、自分が南へ向かって行く時には、大地も同じように南へ向かって行くということです。他の方角でもまたその通りなのです。
――「正法眼蔵/行持/下/(30)」
著書/道元 訳者/吉川宗玄 「道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み」サイトより省略して引用しました。
病院から出ると、またもやソルは車上の人になっていました。
白っぽくて色のうすい綿のスーツ、あわい水色のシャツ、スジの入ったこいめのネイビーブルーのネクタイ。クルーカットばりの黒い短髪にイカツイ体つきの、いかにも軍人上がりといった風体の男が、黒塗りのリムジン、ロールス・センチュリーで彼をむかえにきていました。
「こんにちはソルくん。わたしはカトーです。」
おおがらな体をおり、あいさつしました。
「私はあなたのボディーガードけん、後見人です。あなたをまもり、お世話をするかかりです。」
と簡潔に言いました。
沈黙をつくらぬよう注意していたソルですが、さすがに、この展開にはついていけませんでした。あっけにとられ、うながされるまま、むごんで車にのりこみました。
要件を言いおわり、ソルの左がわにすわったカトーは、だまりこくってしまいました。まえの半自動運転席の人は、よく見えませんでした。
しずかな車内に、HNK交響楽団の午前のクラッシクコンサートがひびいていました。エアコンの温度は、それと分らぬよう、のりこんだときから、じょじょに上がっきていました。
「ニュースです。ただ今入った情報によりますと、クラランポートの岸壁から、ワンボックスカーと乗用車の、二台の車が転落する事故がありました。」
「引き上げられた車内には、男性八名が乗車しており、車内に閉じこめられたまま全員溺死したもようです。水上警察では、スピードの出しすぎにより、ハンドル操作をあやまったものとみています。」
「港湾局のカメラには、埠頭で蛇行運転をくりかえす二台の車が映っていました。」
また、クラッシック演奏にもどりました。
車内はしらけたような、おだやかな空気がながれていました。ソルはカトーと名のった左どなりの人物が言ったことを、あたまの中で反芻していました。しかしサッパリ理解できず、そのうちねむくなってきました。つかれと微細な振動(クララン市の車は、すべて内燃機関のエンジンではありません。ロードノイズでもなく、安全確保のため完全遮蔽でない車外音と、エアコンのシロッコファンの音)で、うつらうつらしてきました。しずかな音楽がねむりへいざない、その高鳴りとともに、ハッと目ざめる。そのくりかえしでした。
「――これから」
だしぬけに、カトーが語りはじめました。
「きみはこれから、ちがう解放区(学校)にゆくことになる」
「?」
「名前も変わる。きみの名前はソルではなく、今日からは×××だ。とうぜん、生体識別情報と同期した、マイナンバーも変更される」
「???」
「きみの安全のためだ。今むかっているのは、きみのあたらしい住まいだ」
「……」
「ご両親の了解はえている。マネーのことは心配しなくていい。生活に必要なものは、すべてこちらが用意する。きみのあたらしい名前名義の銀行口座に、毎月五日に支給される手はずだ。土日にかかるばあいは、くり上げられる。いじょうだ。なにか質問は?」
「……」
挽豆から抽出したコーヒーが出されました。密閉空間にアロマの薫りが立ちこめます。
「わるいが、昼食をごちそうしているヒマがないんでね (笑)。むこうについてから、じぶんでとってくれ。これは当面の生活費だ」
と、プリペイド情報の入った、現物カードをわたしました。
ソルはそれをうけとると、コーヒーをすすりました。彼はコーヒーが苦手で、紅茶のほうがすきでしたが、天然砂糖と本物の牛乳をたっぷり入れてのみました。
「……ブルックナーの交響曲第9番ニ短調でした。つづきまして、おひるのニュースです。」
ニュースのあいまの音楽がとぎれると、ソルは病院からついたカンオンをなぶりたくなりましたが、とりあえずやめておきました。さっきから、くびの後ろのガーゼをあてがわれたところが、ムズムズチクチク痛がゆくってしかたありません。いたくなりそうなので、手でかかず、ぎゅっとシートにおさえつけました。
「プップップッポーン」
正午の時報がなりました。
「おひるのニュースです。」
「今朝正午前、クララン市内の路上で、30代から40代ぐらいと思われる、人間二名がたおれているのが発見されました。二人は病院にはこばれましたが、搬送中に死亡が確認されました。二人はたおれていた道路の手前にあるホテルの屋上から落下したものとみられています。」
「ホテル側の説明によりますと、二人はホテルの客ではなく、また屋上のペントハウスのテラスの窓が、なにものかによって破られていたそうです。窓の外には3メートルの囲いがあるだけで、周囲には足がかりとなるものはなく、それをのりこえなければ、転落は不可能だとしています。」
「警察発表によれば、二人の体内から多量のアルコールが検出されており、二人は転落時、かなりの酩酊状態だったとしています。ただ、そうほうともに遺体の首から背中にかけての損傷がはげしく、またカンオンレスの自己証明のないまま、市内の高級ホテルの屋上まで入って来られたことなど、不審な点が多いことから、警察では事件事故の両面で捜査をつづけているそうです。」
「つぎのニュースです。――」
人通りの多いスクランブル交差点をこえると、車は大通りからわき道へ入りました。
青々としたアキニレの葉の壁をいくと、カトーは街路樹のスキマを指さしました。
「ここだ。」
ウィンカーがつくと、車は減速しました。
やく一か月後。
この一月ほど、ソルは検査やらなにやらですごしてきましたが、あとはきほんヒマでした(名前が変わっていましたが、べんぎ上、ソルのままでつづけます)。ときどきカトーが会いにきた日もありましたが、あとはずっとマンションに一人ぐらしでした。それだけは、彼を狂喜せました。なんだかこのためにだけ、今までの冒険があったかのようでした。
エリゼに行ったり、知人に会ったりすることは、禁止されていました。カトーはソルの目を見て、なだめすかすよう、しんちょうに、それを言いましたが、彼はべつになにも困りませんでした。前の生活圏にいくことも、ひかえるよう言われましたが、気にせず二三度、ホルスの家のちかくまで行ったことがありました。
一度タクシーでとおりぎわ(やむをえず、前の生活圏をとおる場合は、なるべくタクシーを利用するよう言われていました)、ホルスによく似た人を見かけました。金髪でなりが派手だったので、他人の空似だろうと思いました。
彼はまったくヒマでした。ヒマでヒマでしょうがないのに、なにもする気がおきませんでした。ちょっと前まで、アレもコレも、ほしいものがいっぱいあったのに、いざお金が手にはいったら、すべてが色あせて見えました。お金のせいというより、「時間の質」が変わってしまったみたいでした。日がな一日カンオンをなぶっているだけ、そんな状態で、とうとう三カ月いじょうすごしてしまいました。
秋。新年度のファーストシーズン(一学期)。
ソルはてっきり、アキニレのマンションちかくの解放区(学校)にかようものと、すっかりきめこんでいました。というのも、そのきんじょで一員(学生)らをよく見かけたからでした。そこらあたりは、さまざまな解放区があつまった一員街(学生街)でした。彼もときどきヒマつぶしに、ただしいいみで市民に無料解放されている、チンプンカンプンな共有(講義)に出たりしました。
やく一年いじょうまたされてから、そことはだいぶはなれた解放区へ転校しました。編入ではなく転校です。つまり、年齢どおりの共有年(学年)からのスタートでした。と、どうじ、夢の隠居ぐらしは終了しました。心底、彼は落胆しました。
ルーム(教室)にて。
ソルはみんなの前に立って、あいさつするよういわれました。キャッチャー(教師)のミユキーは一見コンサバ風(保守的)にみえて、そうでもないような、文脈のわからない、なんだかよくわからない人でした。フリルつきの白いシャツと、無地っぽい藤色の台形スカート。蝶むすびの黒リボンの上に、青い瑪瑙のカメオ、それにループタイをとおしていました。その浮彫には、石膏像のような、白い女性の胸像がかたどられていました。
その性質は、一方通行の正しい尺度をもちい、杓子定規にふるまうのがすきな人のようでした。下方にゆくにつれウェーヴがかかるロングの黒髪をゆらし、時代おくれのレーザーポインターを手に、つぎつぎ一員らの顔面をまじかにさす。そんなサディスティックな一面を持ち合わせていました。
名前だけいって、そそくさ空いているイスにむかい、ハン(班)のみんなにむかってアイサツしました。
やれやれ。この行事がいちばん気が重かったので、彼はホッとひといき。ここまでは想定内です。
「――あ、ども」
パートナーとなるむかいの女子に、うやうやしく慇懃に会釈され、ソルは、あせって言いました。エトゥコはちゅうとはんぱな長さの黒髪おかっぱ風ボブで、みょうに荘重典雅なふるまい、白すぎる肌と黒ずる睫毛、それにネイルをやっていたりと、チグハグでエキセントリックな印象をうけました。後になって、他にもチラホラにた雰囲気の子を見かけ、彼女だけでないのを知りました。
彼は内心これらの女子たちを、清楚オバケとよんでいました。ソルにとって、女子たちは一つの神秘でした。いったいどこから、そんなお金が出てくるのか? と、つねづね思うからでした。
となりの他ハン(他班)の男の子が、元気よくはなしかけてきました。
「オレ、ハル。まえ、どこいたの?」
と、やや寝グセぎみの髪でニコニコ。ソルも、ドギマギせいいっぱいの笑顔で、こたえました。
「……うん、なんていうか、外国に」
「どこ?」
「×××××」
「どこ、そこ?」
ボロの出ない、マイナーな国へ行っていたことになっていました。過去をふしぜんに欠損することなく、整合性をもたせ過去を断ち切るため、いっぱんの人の検証のむずかしいブランクをもうけたのでした。
ソルは俯瞰で、この会話の光景を見ていました。あいての声も、じぶんの声も、フィルターがかかったように、くぐもって聞こえていました。
「――あ、ひこうきの」
ふいにハルが、クツの小さな銀ピンをさしました。
「ははっ(笑)」
ぶきように半笑いのソル。
「なんの機体?」
「ええっと、スポーイ34」
「ふるっw」
ややポリティカル・コレクトネスに踏込ぎみの、積極型の対人接触ですが、奇異というほどでもなく、たんに今様の趣味の細分化と、陽性キャラなだけでした。
――けっきょく、友だちにはなれないだろうな。
と、このときは思っていました。それは屋上からの達観でなく、地階からの眺めでした。ものごとが収まるところに収まったという感じでした。
彼とて、純粋な〇〇(任意に埋めて下さい)なんてないことぐらい、しっていました。ただ「仮面の告白」のガラではないということです。より自然な欲求からくる連携演技にしたがい、生きられる時間を共有するもの。それが多数派でした。少なくとも、そのハンドルのあそびの内に、彼はいませんでした。その動機と持続性のための原理が希薄だったのです。ネアンデルタール人のごとき、彼の個性……。
体験が輪郭を、よりハッキリさせました。みずからの限界をみとめること。人格とは限界だということ。これこそ成長であり自己実現でした。あとは怒人のバンジージャンプ(通過儀礼)となんら変わりません。
もとからですが、ふれあい・なれあいの社交性や、現在進行形の中での思い出づくり、といった人生とよばれるものに興味をうしなった彼は、設計にとりつかれはじめました。どう生きるかより、いかに時間を処理するかに。どこまでいっても失いつくせぬ世間体と生存のため、存命中の余白をぬりつぶす作業にとりかかりました。
カンオンでひろったロールモデルの、換骨奪胎のオリジナル化をとおし、手さぐりしはじめました。ソルでないものとして、彼らしく生きてゆくために、だれにもジャマされず一人で生きてゆくために。ほんとうのいみでの、わがままな道への一歩目でした。
「ぴろろろろ~ん」
れんらくが入りました。ハルからです。
ここのところ、ソルはラジコンの飛翔体づくりに熱中していました。赤と白のツートンカラーがうつくしい、ハッセガーワの「RF35ドランケン」デーンマルク・スペシャルでした。
なんとか約束の日までつくり終えた彼は、それを大事そうにかかえ、せんようのバッグにおさめました。じつは昨晩完成し、いったんバッグに入れたものを、ながめるために出しておいていたのでした。
リモネンセメント(接着剤)のオレンジのかおりが鼻をくすぐり、くしゃみをしました。目的地にむかう間もくしゃみがとまらず、土手の太い幹の木のようすで、やっとその症状に気づきました。ソルは白いじゅうたんを踏みにじりながら、早歩きでとおりすぎました。
あとがき。
この状況下からの脱出のお話があるとすれば、それはまた、べつのきかいに。あさくひろくライト層をとりこんだ、デフレスパイラルな続編ではなく、まったくあたらしい物語として。
といっても、ものがたりを騙ろうが騙るまいが、だまりこくったっておなじこと。どうころんでも、われわれは死ぬまで自己正当化という贋金づくりから、おりられっこないからです。生きているかぎり完全な絶望がない、という絶望の中では。




