前夜
銀行屋にとって今回の失敗は、二度目の大きな挫折でした。彼はある事件をきっかけに、ささやかでも輝かしかった、みずからのキャリアに終止符をうたれました。その一度目の失敗にくらべたら、今回のそれは、一見たいしたことなく思われました。しかしそれは、おてんとうさんの陽のあたる、昼の世界での話しです。こんどのは陽のあたらない夜の世界、アンダーグラウンドでのことでした。
べつに確証はありませんが、これは命にかかわる、重大な過失にちがいありません。そしてそこには、いっさいの弁明を許さない、アウトロー特有の、雄の厳しさがあるはずでした。今や彼の運命は、死神の白い掌の上。後もどりできぬ時間を恨めしく思い、呪うのでした。
なんだってんだ、いったい!
けっきょく、どっちも不可抗力じゃねぇか!
クソ! クソ!
ただ、おれは巻き込まれただけなのに!
なんでいつも、こうなるんだ?
いつもそうだ! いっつも!
なんで、おればっかり!
クソ! クソ、クソ、クソが!
うめき声とともに、手ぢかなモノに当たりちらしていました。といっても、じぶんの予備のタッチパッドを、二三個こわしただけですが。
彼は銀行の駐車場に、ところどころ破れた一人がけソファと、電球の切れたコタツをもち出し、ダラダラ、ひとり飲みをはじめていました。夜空には星々がひしめいています。ときおり、おだやかな風が頬をなでました。5メートルほどの南国風の木が、さわさわ、ゆれています。白っぽい葉と樹皮のヤタイヤシは、ボサボサで手入れもされず、駐車場の屋根のように、頭上に覆いかぶさっていました。風が吹くたび、かさなった葉が鷹揚にそりかえり、いっそう星々を瞬かすのでした。
おじさんはひっきりなしに、柿の種に手をのばしていました。さいきんポテチから切りかえたばかりのやつを、ボリボリむさぼっていました。彼は大人なのに、ママのつくる所帯じみたつまみより、乾き物の方が好きでした。コタツに足をのせ、メヒコ産のうすいゴローナビールをかた手に、らっぱ飲みをつづけていました。
いくら飲んでも、それ以上酔えないのは、ニオイのせいかもしれません。ケミカルな焦げた基盤のニオイと、除虫菊をねりこんだ蚊取線香のニオイとが混じりあい、ケムリの微粒子が鼻腔をとおって、海馬に滲みこんでゆきます。その付着物は、永遠に消えそうもありませんでした。
オンショア号の船上にて。
ソルは甲板の上にねころんで、夜空をボンヤリながめていました。街灯も生活光も途絶えた港の上には、ハレーションをおこしたような、明るい星空がありました。
分単位、いや数十秒単位で、ながれ星がこぼれます。その中でも最大のものは、火球が空中爆発をおこしたもので、しばらく空の一角に、煙みたいな痕をのこしました。もしかしたら、なにかの流星群のおり、だったのかもしれません。
おびただしい星屑は、粉砕されたシャンデリア。巨大なミラーボウルを爆破させた、テロの後のよう。星座も判別できぬほど密集し、ちらばって、暗闇のカーテンにかかっていました。
れいの荷物をすててからというもの、ずうっと彼は、ぼーっとしていました。それまでのじぶんの人生に対する、なにか受身で無関心な態度とはちがった、なげやりでありながらも、なにか頑なな感じ。来るものはこばまないが、じぶんの方からは一ミリだってうごきたくない、といった風でした。
ソルは確固とした意志をもって、じぶんの人生の踏板を外しました。それは、やってみれば恐ろしくカンタンで、今さらながら彼は、他人ごとのようにおどろいていました。
オレが?
このオレがかよ?
だって、このオレだぜ?
「ふふんっ」
彼は微笑しました。
――ヘンだ。
どう考えたって、ヘンだ。
おかしい。
いや、おかしすぎるだろ?
宝クジにあたるより、ありえないことだ。
この世でもっともありえない、おかしなことがおきた!
彼は他ならぬ自分自身のことなのに、「それを自分がやった」ということを、信じられずにいました。
見上げたままの夜空は限りがなく、すいこまれそうでした。あいかわらず空は、いつものままでした。
しかし、パスカルのいう「無限の空間、その永遠の沈黙」が、刃を立てて彼のむきだしの心に肉薄することは、もはやなくなっていました。
ほんのちょっと前のことです。なにもかもが初めてだったころ、彼の杞憂をさそったのは、まさにその広大無辺でした。どこまでいっても対象物にぶち当たらない、ゆき先はてぬ視線の深度は、彼を脅かし畏怖させました。その風景も、今や日常となっていました。心休まるとまではいかなくても、美しさに転落した、見なれたモノになっていました。
でもそれも今だけ。とくべつな今だけ。という真実を、ソルはこの島に着いてから、いえ、もっとずっと前から、かたときも忘れたことはありませんでした。いつも心のかたすみに、(潜在的)疑念を持ち歩き、ありきたりな個性をもてあましていました。彼もまた、自動的確信[=生命根拠=生きられる時間:ミンコフスキー=生きるのに必要な妄想]なき人生を約束された、のろわれた詩人の一片でした。ぞくにいう不幸な人でした。
それはなにも今にはじまったことではなく、もともと彼には、安心できる逗留先などなかったのでした。彼の人生そのものが、一時しのぎのやっつけ仕事、終わりなき査証のない旅だったからでした。
高台にある灯台わきの荒地。チガヤの生えた砂地に車をのり入れ、まどに黒いブーツを組んでのせたチェロキーは、なにやら、ボソボソつぶやいています。
「だから、もう、おそいんよ」
「……ああ、焼けちまったよ」
「ぐずぐずしているからだ」
「だから、言ったろ」
「証拠?」
「……だから、証拠をつかむために動くんだろうが! まがいなりにも、そのための権力機構の末端だろう?」
「あやうく物的証拠以外の情報まで、失うとこだったんだぞ!」
「……よく言うよ、はなっから働く気なんかなかったくせに(笑)」
「だいたい、あのガキがいなかったら、どうしてたんだ? 指環だけアイツにもたせても、意味ないだろ」
「ハァ? 異動の季節ぅ?」
「だから、なに?」
「……終わったからなに? 今さら来てどうすんの? というか、来る気ねーだろ(笑)」
「いいよ、もう。縁側で猫抱いて、茶でもすすってるよ」
「じじいは、大人しくしてりゃいいんだろ?」
「……そのかわり、ちゃんとお給金の方は弾んでくれよ、たっぷり色をつけてな(笑)」
ダイは一つ所に定住することなしに、北サツマ通りの「ニューアンカー」そばの家屋を、転々《てんてん》としていました。とうぜん不法占拠になりますが、島には定期便もなく、ほとんどの季節は、封鎖されたままでした。
住民らは立ち退くさい、土地ごとのいっさいの所有物の放棄を、行政により認められました。それにより固定資産税が免除され、支援金が各世帯に、やく300万給付されました。また、資産価値がなくなっても、いすわりつづける人らに対しても、長引いた交渉の末、ゴネ得があたえられました。
ダイは洗面所の鏡の前に立ち、紙切鋏を手にしました。おもむろに伸びきった髪をつかむと、ザクザク大ざっぱに切りはじめました。たちまち洗面台は、黒い綿の山もりになりました。水は出ないので、そのまま放置。ダイは「ニューアンカー」に直行しました。
「ちょっとなにぃ、夜中よぉ?」
頭をさしながら、
「これのつづき、やってくれる?」
じつは他の二人も、時々のびすぎた髪を、ママに切ってもらっていました。ここなら水もお湯もありました。ママがいうには、そのむかし、美容院にアルバイトでつとめていたとか、なんとか……。
「なんども言うけど、やめておきなさい。知らないわよ、どうなっても」
ママは店の床に掃除機をかけていました。
あれこれ角度を変え、鏡をながめるダイ。
「聞いてるの?」
「いいんだよ、べつに。捕まったって、たかが、詐欺の片棒かついだだけだし」
「――それに、これ以上ここにいても、しょうがないしね」
「……でも、けっこう関わっちゃってるわよ、もう。もしかして、あんた最初っから利用され……」
「おれのより、自分のこと心配しなよ」
「アタシはここで、どんづまり。他に行くとこがないのよ。なにがまっていようと、ここがアタシの終着点。うけ入れるしかないわね(笑)」
ダイがちゃかすように、
「滲みるね~、演歌だねぇ~」
「まあー、ここの男たちって、ホント情緒がないのばっかり」
「まあ、そうゆうの選んで、よって送ったんじゃない? そういう耐性のありそうなやつ」
「あるぅ~。ありそうでコワイ~」
「いや、今テキトーに言ったんだけど……」
二人そろって沈黙。
「さて、そろそろ帰って、明日のために寝るとするか」
ダイは立ち上がりました。
「わざわざ不便なとこ、住まなくてもいいのに。ここに泊まっていけば? 前から言ってるように、そのまま住み着いたって、いいのよ」
「いいんだよ。あちこち転々《てんてん》としていたのは、どうやら本当は、ここに根を下ろしたくなかっただけ、みたいだから」
「でもそれも、もういい。終わりだ」
「――ほんと? 後悔しない?」
「するさ、するに決まってんだろ。いざ危険な目にあったら。だからって、いちいちぜんぶ勘定に入れて、生きていられるかっての」
「わかいって、いいわねぇ」
ママは、うっとりするように言いました。
「そういうこっちゃねぇけど……」
小声のダイ。
「それからこのことは、チェロキーには言わないでいてくれよ。とうぜん銀行屋にも」




