ダーティワーク 3 荷物
背中がかるく、体がうかび上がるようでした。スコップをもどしてからの帰り道、ソルは体がフワフワしていました。ささえがないと、そのままパタンと、たおれそうな気がします。小さいころに、おみやげでもらった、フェアトレードのしょぼいオモチャを思いうかべていました。テーブルの上で、すぐに仰むけにたおれて、足だけウインウインしているやつを。
町なみを一望する坂道までもどると、道のまん中で、ペタンと、すわりこみました。土まみれの上ずった手で、ペットボトルの栓を外し、トポトポ、かた手ずつ洗いながします。かたむけたビンから気管を直撃、むせかえって、アスファルトを黒くぬらしました。ゲホゲホ、なかなかやみません。
おぼつかない手で、なんども呷って、地面にこぼれた水は、坂道を細く下っていきました。うわぎは水をほとんどはじき、クビのすき間から入ったぬるい水が、オシッコみたいにパンツをぬらしました。それを不快にも感じず、あたたかい湯のような風に、しばらくつかっていました。
むねいっぱい空気を吸いこんで、なれてしまった潮の濃さを、からだじゅうで確認します。さっき見たはずの雲が、すぐにはみつからないほど、はなれていました。ぼんやり、けしきを見ているうち、下着はもう、かわいていました。
おわってしまえば、あっけなく、彼は空をあおぎ見ました。いつにもまして、雲の異質な存在感に目をみはり、見はるかす眼下には、家なみが広がっていました。その先は海。青い海が水平線で、ぷっつり切れていました。また、空を見上げました。しばらく、それをくりかえしていました。
もう、なにもすることがありません。いつの間にか、にもつを処分することが、彼の重大な任務と化していました。もはや、なんの義務もなく、かといってしたいこともありません。にもつから解放されたとたん、彼は支点をうしない、糸の切れた凧みたいに、どこか下流域へと、ながされてゆくようでした。生あたたかい風が吹くと、緑のヤツデの枯葉が、カサコソ坂道を下っていきました。
夏の陽は高く、ますます、さかんになろうしています。暑気の中に、かすかな冷気がまじり、彼を困惑させました。まだ、セミの時節ではありませんが、しずけさの耳鳴りがしました。
ときおり、思いだしたように風がふきます。子猫をあそばす母猫のシッポみたいに、道ばたの小さなアメの包みとたわむれては、すぐにやんでしまいました。
季節は、彼を置いてけぼりにしていくみたいでした。
「――あっ」
おもいだしました。
「なにやってんだよ、あいつ」
すっかり、わすれていました。カンオンのことです。
些事を係船柱にして、とりあえず彼は、日常に繋がれました。
指環を外し、かるく指先でなぞると、コロコロ、手のひらでころがしました。こんどはそれをつまみ上げ、目の高さまでもち上げました。
ブラック・シルバーのシンプルなOリング。その表面には、目には見えない微細な溝と、うすい薄片が、ウロコのように重ねられていました。少しずつ向きを変えると、複雑な色彩の斑紋が、パターンのように変化してゆきます。みずから発光してないのに、キラキラ輝くプリズム調の色面が、マボロシのように表面から浮かんでいました。
それを透かし、黒い地金が、ほの見えています。光の干渉によって、蛾か蝶の翅みたいな複雑な色彩を、それも明度の高い、個々《ここ》にまじりっけのない色をうんでいました。
ダイは、それに魅入っていました。
酸化鉄のような、マットな黒いシルバーからほとばしる、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、緑。とおざければ暗いシルバーのままですが、ちかづけると変化します。ななめにしたり、ひねったり、うごかすと、人間の目には不規則な、虹色の変化をしました。――と、あそんでいるうちに、白くハレーションをおこし、もとの黒にもどりました。色がついているという感じがなく、視覚が弄ばれているようでした。
それを左手の薬指にはめ直すと、すらりと伸びた白い指を、ピンとそらしました。また虚空にかざし、じっと、見つめました。
「ただのオモチャじゃねえか、こんなの」
と、つぶやき、
「今どき魔法少女のアイテムだって、もっと、ちゃんとしてんぞ」
と、はきすてました。
ダイは組んだ手を頭の下にしいて、ねころびました。もぞもぞ、ならすよう背中を畳にこすりつけ、えずくようノドを鳴らし、まぶたを下ろしました。帳の下りた暗闇に、チラチラ色ともつかないものが、あらわれました。
なじみの夜に身をおくと、きまって思いうかぶのは、ホルスや、おおじいさん、家族のことではありませんでした。いがいとガキ大将の面もあった、まあまあ楽しかった少年時代でもなく、すでに過去となった、はなやかなりし教祖活動のころでもありませんでした。現在から過去をとおして、彼にまつわる時間が、意識の俎上に上ることはまれでした。
ぼんやりしていると、自然とわき上がってくるのは、失われた未来、手に入れられるはずだった、未来の光景でした。鎮火し切っていない可能性の残り火が、つめたい熾火となって、彼の身をチロチロ焦がすのでした。
もともと彼の夢は、アイドルではなく、(自称)アーティスト志望でした。彼はあの手この手で、業界にアプローチを試みましたが、とうぜんというべきか、コネのない彼は、まったく相手にされませんでした。生活にこまって、アルバイトでゲイもののAVに、でっかいマスクをつけて出た黒歴史は、彼の中では無かったことになっていました。
ばくぜんと、しかし熾烈に、「(なんでもいいから)なにかになりたい」と、ヒップスターへの願望をむねに秘め、とうじの彼は、まいにちをモンモンとすごしていました。
そんなある日、一つの求人に目が止まりました。「人まえに立つのが好きで、わりの良い日払いのおしごと」というのが、うたい文句でした。そしてそれはたしかに、わりのよい仕事でした。
さいしょはノリノリでやっていた彼も、なぜか、だんだんと気のりしなくなっていきました。ある日、そんなつもりはないのに、ぽつっと不平をもらしたら、その月から、とつぜん給料制になり、福利厚生がつくようになりました。けっきょくのところ、それらが動機づけとなり、あきっぽい彼を、やめさせなかったのでした。
彼は後悔していました。たいして賃金が上がったワケでもないのに、それを選んでしまったことに。むしろ源泉徴収という名目で、へったくらいでした。身分の保証という、自由民(依存民)にとっての、縁遠い甘いひびきに、彼はまどわされたのでした。
どう考えたって、長つづきするような職種ではありませんでした。けっきょく、歩合の方が、わりがよかったのです。ありていに言えば、彼はだまされたのでした。
それをみとめると悔しくなり、みとめないと、なかったことになるので、もっと悔しくなります。でも今さら、どうすることもできません。どうころんだって、負けでした。そんなわけもあってか、彼は昔のことを思い出すのが嫌いでした。
それにくわえ、今でもうまく説明するのがむずかしいのですが、ハラが立つというより、なによりゲンナリしたのは、とうじ、彼の身のまわりにいた大人たちでした。
なんというか、その鼻持ちならない、玄妙さをよそおった、気どった態度。ほぼ全員が「オレだけが大局に立ち、俯瞰的にものごとが見えているんだぞ」という口のきき方で、慇懃無礼さをよそおった下に、それが透けて見えていました。
とくに彼のような、一見同列で、かつ下の立場の同性には、ポリティカル・コレクトネスを気づかうこともなく、いっそうそれが顕著になるのでした。もっともダイの方でも内心、彼らのことを一括して、「キモヲタども」と、さげすんでいましたが。
じっさいメンバー間でも、口ゲンカがたえませんでした。大方がカンオンもちで、自立民である彼らの特徴は、どんなにケンカになっても、けっして暴力にうったえないところにありました。それがまた、自由民そだちのダイを、イライラさせるのでした。
また、彼らの中には、かつてのメンバーとの訴訟をかかえている人も、少なからずいました。いちばん年下で、実質ペーペーのダイにすら、裁判費用のカンパをもとめられたときには、さすがに閉口させられました。
彼らは自らの言論的立ち位置を、超保守主義としていました。もしくは積極的後退とか、明るい中世とか、活発な原始などと、もったいぶって定義していました。彼らは論破というコトバをよく口にしましたが、それになんの価値があるのか、ダイにはサッパリわかりませんでした。
しかし、その主張のわりには、メンバー内のカーストの上位をしめるのは、より、めぐまれた高度共有者(高学歴者)たちでした。――めぐまれたというのは、本人の資質と環境、つまり生まれと育ちの運の要素と、彼が将来みずから習得するであろうペルソナ(社会的外面、身分)が、ほぼ変わらないからです――さらに有利なのは、見た目がスマートなものや、生まれつき他人から好印象を得やすい、タレント特性をもち合わせた人たちでした。クラランではありきたりの、評価型社会の縮図そのものでした。
おなじ高度共有でも、適正によって振り分けられた理系適正出身者が、文系適正出身者をこき下ろすのは常態で、おたがいの出身解放区を、古めかしい名でよび合ったりする、キザったらしいのもいました。
プライベートでも、彼らは安心していられません。その差異化は、趣味の範囲にもおよびました。各自の趣味の種類と、その村内におけるランクづけもあったからです。彼にはついていけない、微に入り細を穿った、セクトわけの細分化がされていました。おもしろいのは、金持ちほど自然派で、底辺ほど画面派なとこでした。
一方、とるに足らない趣味、にわか、深入りしすぎは、ヲタクとよばれる原因になりました。そんな烙印をおされるようなヤボったい人は、どんなに冴えた発言をしようとも軽んじられ、みんなから推されることはありませんでした。
彼らは、比較の虜となっていたのでした。彼らがもっとも意味嫌うルソーが、なにより問題視した、楽園追放による災厄の重荷に、だれかれとわず、みんな囚ていたのでした。
ダイにとって、現実が見えているか、いないかなんて、どうでもいいことでした。彼にとって重要なのは、「なぜ」ではなく「いかに」でした。リアリティよりアクチュアリティ、現実より現実味でした。それを心地よく、こころよく、あじわいたいだけでした。
ある時、ある幹部クラスのメンバーが、それを見すかし「行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。――エピクテートス」と、いいはなちました。キョトンとするダイ。彼を尻目にやつはナカマとクスクス。ワケがわからないので、はずかしくも、くやしくも、なんともありませんでしたが、じぶんが侮辱されたことだけは分かりました。彼はただ、デスノートにやつらの名を記しただけでした。だれもカンオンによるカンニングは、問題にしませんでした。
そんな彼でも時として、気にいらない原稿には、言いそびれるとか、滑舌をわるくするといった、無意識の編集をするのでした。
いよいよ当局の手がせまったとき、彼を逃がしてくれたのは、いがいにも、そんなヲタクとよばれる人らの、ポンコツ・リーダーてきな人でした。――おだててメンドウなことをおしつけ、ポンコツあつかいすることでしか上の立場をゆるせない、悪しき民主主義です――おなじヲタク実動部隊の中でも、バイトリーダーと、やゆされている人物でした。彼がすべてを手配し、要領よく、ダイを港まで手引きしてくれたのでした。人は見かけによらないと、今でも彼は、そう思っていました。
その分かれぎわ、彼に、こういわれました。
「むこうについたら、三人の男たちがいる。きみは、その三人のそばにいるだけで、それ以外なにもしなくていい。ただし、なにがあっても24時間、その指環だけは、けっして外してはならない」
――と。
ダイは寝ころんだまま、クルクル指環をいじくりまわしていました。べたべた指紋だらけにして、ためつ、すがめつ、それを、ながめていました。
陸での記憶はしだいにうすれ、憎しみは抽象化されていきましたが、その男の顔だけは、今でも鮮明に思い出せるのでした。




