ねむけ
存在するものを否定し、存在しないものを解釈するのが、時代を問わず哲学者の共通癖である。
――「新エロイーズ」第6部の手紙10へのルソーの脚注
万物の移ろいやすい本性を見抜くことにかけては、わたしは傑出していると自負するものだ。まことに奇妙な傑出ぶりであって、わたしのいっさいの歓びを、いやそれどころか、もろもろの感覚をすらそれが廃物にしてしまうのだ。
――「生誕の災厄」E・M・シオラン(紀伊國屋書店)
龍は、こちらを見ています。顔はまっすぐ前にむけ、微動だにしません。透明なヒゲや触覚が、ゆらめいています。脈打つたび、パターンを変える虹光線。動脈と静脈が、ゆきつ、もどりつ、ながれています。血流が内部を曝し、まばゆい発光体となって、外部を照らしていました。
少年は固まったまま、うごけません。無機物か鏡をあいてに、にらめっこをしている気ぶん。勝目のないワンサイドゲームに、こちらのライフポイントだけが、へっていくみたいでした。
ソルはあいての意向を、はかりかねていました。もう、とっくに見つかっているはずです。そう思ってか、なかば、開きなおっていました。ふるえるほどの恐怖心はなく、ただその見た目の迫力に、圧倒されていました。
目も眩まんばかりの輝きにも、だんだん、なれてきました。全体的な不透明感に、「くすみ」や「かすれ」ぐあいなど、今まで気づかなかった粗が、見えはじめてきました。ところどころ、ウロコのプリズムが、はがれ落ちていました。
にらみ合いが、つづきます。彼は、おなじ姿勢でいるのが、つらくなってきていました。いいかげん、らちがあきません。足場をおきかえるため、かた足をずらします。モワッと、黒いケムリが立ちのぼり、繊維状にほどけていたブルーシートが、もろく崩れました。
龍は反応しません。彼は直感的に「じぶんからは、うごき出さないタイプだな」と思いました。
「ちぇっ、もったいつけやがって……」
小声でブツブツ。
オレがなんかするの、まってやがんな。クソ……。
じっさいのところ、もったいつけているというワケではなく、それが龍にとっての普通でした。天敵がおらず、寿命もなく、なにに怯える必要もない龍は、ひどくアンニュイ(倦怠)でした。その緩慢で鷹揚な態度は、もはや生得的ともいえるほど、龍自身になっていました。
龍が成龍になってから、いったい、どれくらいの月日がながれのでしょう? 龍は、むかしを思い出せませんでした。いくら遡って、とおい記憶を呼びさまそうとしても、小龍としての自分は出てきません。星と海の誕生の永遠の一瞬が、想起されるだけでした。その創生の記憶を、バカらしいと自ら戒めるのにも、もう、あきあきしていました。
「おいっ!」
シールドにポツポツ、ツバが、かかりました。
水中で聞こえるわけありませんが、ソルはわかっていて、やっています。こんどは、示威的に見えてもかまわないくらい、大きく手足をふりまわします。
「おいっ!」
「おいっ!」
ヘルメットの中で大声を出し、ブウン、ブウンと水を切りました。
彼はこの時点では、相手を動物の一種とみなし、なめていました。どうせ聞こえっこないし、見えてもこっちは小さすぎるし、みぶり手ぶりの意味も分かるまいと。
「おーい!」
「ブウウゥン、ブウウゥン、ゴボボボボ……」
「おーい!」
「ブウウゥン、ブウウゥン」
「おーい」
「ブウウゥン、ブウウゥン、ゴボボボボ……」
アレ、もしかして、ぜんぜん気づいてないかも?
ますます調子にのります。
「おい! なんとかいえよ、コルァ!」
「おま――」
「ウルサイ」
ドン! とハチキレそうになるソル。風船爆弾みたいに、スーツの中で血が破裂しそうになりました。
「ゴボボボボ……」
呼吸が整うのを、まちます。
あたりは、しずかでした。
空耳かも?
おそるおそる、小石を投げるように、といかけます。
「おーい……」
「聞こえてるか……」
「お――」
「聞こえてる」
やっぱり龍でした。鳴き声ではなく、キチンとしたコトバで、かえされました。コトバが分かることより、ハッキリこっちを認知していることが、ショックでした。
「なんだ、気づいてたのか」
キョドリつつ、なにくわぬ顔のソル。
しばらく間が空きました。
「よごしてくれたな」
「あ……、うん……」
「臭うぞ」
「あ……、うん……」
「……」
あれ、なんで水の中で聞こえてんだ?
と、思ったとたん――
「お前が自分に、はなしてる」
すかさず、彼の中で響きました。
混乱。
「人間じゃないんだ、知っているだろう?」
?!
「そうだ、その龍だ。お前らのコトバなんぞ、話すわけないだろう」
今まさに思い当たるフシが、頭に浮かんだばかりでした。
現前と知覚する龍と、知識としての龍。その合一が体験として、ソルにおきました。ばくぜんと喚起された、龍にまつわる記憶群。そのうちわけである、不可解な生態と、神秘的な能力。龍なるものの意味が、結像しかけたばかりでした。
――じつのところ龍については、正確な実態像を把握するものは、まだ、だれもいません。科学的検証に耐えるほどのデータがとぼしく、カンオンいぜんのアナログ情報が、未整理なまま残っているだけでした。今なお伝承や目撃情報に、多くを拠っているのが実情で、その研究は、いっこうに進んでいませんでした。
とくに成獣のドラゴンにかんしては、極端なほど客観情報が少なく、のこされた古い映像は、つねに真偽の対象となっていました。近年にいたっては、単体での突然変異個体、もしくは、むかしの人の情報不足からくる心理的肥大化として、その実在性すら危ぶまれ始めていました。
科学的懐疑を受け、ドラゴンの歴史的記述を見直す気運が、歴史学会にも波及しました。歴史修正化の流れに危惧をいだいた人たちは、カウンターとしての反歴史修正主義を立ち上げました。すると、そのカウンターのカウンターとしての、反反歴史修正主義、積極的歴史修正主義がおこりました。そうなると必然的に、歴史中道主義もあらわれます。しだいに「なになに寄りの」とか、細かくセクト化していきました。
みんなでたがいの力をそぎ合い、泥沼のレッテルを貼り合い、口角泡を飛ばして舌戦を繰り広げる中、当の本人たちでさえ、どっちがどっちだか、時々よく分からなくなりました。
もはやロストドラゴン世代が現役世代の大半をしめ、ひさしく時がすぎています。龍について生々しい記憶をもつ人たちは、すでに鬼籍に入っているか、その順番をまつばかりとなりました。今の大人たちにとっての成龍像も、ソルのような年少の子らと同じく、間接情報によるものでしかありません。「知らないけど知っている」そんな懐かしさでしか、ありませんでした――。
「――つまり、どういうこと?」
うまく考えが、まとまらないソル。
「……」
龍は、だまったまま。
「――ん、だから?」
ぶしつけに答を、さいそくします。
「メンドウクサイな……」
イヤイヤといった感じで、龍は話しはじめました。
「お前らの頭は横着をする。わからないモノに出合うと、知っているコトバに挿げ替える。お前らの頭は、すぐに安心したがる」
イヤな仕事は早く終わらすべく、一気にしゃべりました。
「心をよんでいるの?」
「つまらないことを言うな。龍は人には合わさない。お前らに、わざわざ話しかけたりもしない」
「いってんじゃんw」
「出会わす、くらいはするさ。お前はウルサイ。こっちは、ただ指図している。あれだ、ようするにメンドクサイ……」
生アクビ。キバにとどまっていた気泡が、プクッと上がりました。
「べつに分からなくていい。お前の方で自重してくれ……」
やっと終わったとばかり、目を閉じかけます。
「ジチョ―?」
「なにいってんの? ちがいが、わかんないんですけど?」
瞑らせまいと、すかさず楔をうつソル。
「わからなくていい、といっている」
まだ、なんかあるのかと、イラつく龍。
「どけ、ジャマだ」
「石だ。石とおなじだ。かんちがいするな」
「石? 石になに、いってんの?」
「うごける石だ。お前からどけ」
「そんなもんないよw」
「どっちでもいい。お前らの問題だ」
「はぐらかすなよ」
「うごきたくないんだ」
そういったきり、しゃべらなくなりました。
龍の壁みたいな沈黙を前にして、彼もだまるしかありません。ゲームキャラクターが、えんえん、足ぶみするようなバグ状態。もどかしい時間が、すぎていきました。
とうとう、しびれを切らしたソルは、かるくツバを飲んでから、はなしかけます。
「ねえ……」
へんじは、ありません。
「ねえ」
無反応。
「ねえ」
以下略。
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ねえ」
「ね――
「ウルサイ!」
怒鳴る龍。
やっとのへんじに安心すると、小声でもう一度、うかがいを立てます。
「あのさ……」
「もういいかげん、返ってくれないかな……」
龍は譲歩するような刺激を、彼に差しむけました。
「きてよ」
「……」
「きてよ」
「……」
「きてよ、まちをこわしに」
「怪獣映画みたいに、まちをこわしに来てよ!」
「しらん……」
「そういうキマリだろ?」
「しらん」
「だって、そういう役じゃん」
「だから、しらん!」
「……」
「……」
心底ウンザリしたように、龍はタメ息まじりでいいます。
「お前らが選んだ結果だろう?」
「そのままつづければ良いじゃないか」
「なにが不満なんだ?」
「つづければ良いじゃないか。いつまでも、いつまでも」
「生きつづければ良いじゃないか。どこまでも、どこまでも」
「ただ、息をしつづければ良い」
しゃべり終えました。
「……いみ、わかんね」
ソル。
「わからなくていい」
と言った後、龍は思い出したように、きゅうに笑いました。
「ところで他の三人には、この世で最高のプレゼントを渡しておいたぞ」
「なに、いってんの?」
「眠りという、最高のプレゼントをな」
「だから、なにいってんの?」
「不思議だな、なんでお前は眠らないんだ?」
「なんかよくしらんけど、むかしっから、ねつきメチャクチャわるいんだけど」
「なんだイリヤか」
「なに?」
「なんでもない」
はなしを、もどす龍。
「気がついているか? お前らは、とっくに処刑されているぞ」
「はぁ? なにいってんの」
「だから、わからなくていい。といっている」
「もう、またかよ」
もったいつけやがって。いるよね、こういう大人。じぶんだけ、わかってりゃいいじゃん。じぶんだけ。ホントはなに言ってるか、じぶんでも、よくわかってないくせに。ブツブツ……
「お前らの罪状は、吝嗇だ」
「は?」
とつぜん、なにいってんだコイツ。
「出し惜しみ、堰止め、引き伸ばし――」
「ちょっ――」
クチバシを挟もうとするソル。
かまわず、つづける龍。
「ものごとの距離をちぢめ、へだたりを無くし、わずかな差異を利用し、それを消費する」
「みずからの幼さ由来の欲望を、偽善と結託し僻目で隠蔽。良心の呵責をマヒさせ、がめつく儲け貯めこみ、自分のところで流れを堰止める」
「甘やかされたプライドの低さと、逆恨みのヒステリーを爆発させ、ブチ壊すことで、性急にプライドを得んとする」
「差異自体を権威と目を光らせ、憎み嫉み、やっきになって失くすそうと、一見正しい合理的行動につっ走る」
「ストップ! ちょっとぉ、なに一人でいってんの?」
手を前に出し、遮ろうとします。
「なんのこと、いってんのか、さっぱりなんですけど?」
「お前の景色だが?」
「ハァ?」
「お前の目に移った、風景だが?」
「とにかく、オレ関係ないじゃん。大人たちが、前の大人たちが――
「お前が選んだ!」
さえぎる龍。
「こっえー、ぎゃくギレかよ」
「壊したきゃ、お前が壊せ。なんでも好きにすれば良い」
龍は口を閉じました。
「しらんよ……」
ソルは、なにも思いうかびません。
間のわるいデジタルな時間が、すぎていきました。
重たくなった空気を裂いて、彼はたずねます。
「ところで、あんたって、なに?」
かなり時間をおいてから、ようやっと、龍が口を開きました。
「なんで、へんじを期待する?」
「さいごだから、いいだろ」
彼は少しヒクツに、ニヤリとしました。
「エラン……」
「え、なに?」
「なんでもない」
「なんでも、なくない?」
「石だ。お前より大きい石だ」
つくづく、ガッカリするソル。
「そうかい、こたえる気はないってか。あんたの方こそ、ケチじゃないか!」
「こっちも最後だから教えてやる。お前の仲間が、一人減ったぞ」
「は?」
「一人死んで四人になった」
「はぁ~?」
「イヤもとから四人だし。なにいってんの? (笑)」
龍は、へんじをしません。
また、つごうよくダンマリかよ。やっぱりこのじいさん、モウロクしてる……。
どっと疲れました。終始はなしがカミ合わず、今までの苦労が、徒労に終わった感じがしました。
龍は目を瞑っていました。たおれるように、ゆっくり首が下ろされ、きれいにとぐろに巻かれました。そっぽをむいた形で止まると、ガクンと空気がぬけたみたいに、体が一段しずみました。
つづければいい。いつまでも、いつまでも。
それを最後に、龍の志向性(意志)はコトキレました。
「あっ、ずっりー。いい逃げかよ!」
気配が消えました。それっきりでした。
あたりはすっかり、月明かりがさしこんでいました。天井を透かして、月影がゆらめいています。ヘドロの雲が、落ちかけの緞帳のみたい、スソにゆくほ重く重なっていました。ゴミの頂きから一望する、黒い雲海。もうその中には、虹の切片の痕跡すら、見ありませんでした。
ソルは無言のまま、しばらく立ちすくんでいました。
「わあー!」
とつぜん、さけび声。
「おまえを、ぶっこわしてやる!」
密閉したヘルメットで、轟く声。
「クララン防衛軍つれてくるからな!」
水にむかって、がなりたてます。
「このまま、うごけないんだろ!」
「いつかおまえを、こわしにくるからな!」
「かえってきてやるからな!」
目の前には、白っぽくすすけた岩山があるだけでした。
「おぼえてろよ!」
龍は、ほんとうに、石になってしまいました。
哲学愛好家にまで落ちぶれた龍に見切りをつけ、ソルは船へとむかう帰途につきました。
サッと、蚊みたいなのが、視界のはしを横切りました。
動作と連動していないので、じぶんの影ではなさそう。キモチワルイ海の生きものかと思ったら、カンオンでした。
どういうわけか、こんなところにカンオンがいます。今まで、強烈な照明に、かくれて見えなかったのでしょうか。
これって、オレの?
だれかのと、入れかわった?
エネルギーターミナル(エネルギー充填装置)、船にあったっけ?
彼は目の前の状況に、半信半疑です。
船にもどると、氏んだように、ねむりつづける三人。耳をちかづけると、とりあえず寝息は聞こえました。
マジまだ、ねてんのかよ……。
ソルの前には、時計が表示されていました。さいごに確認してから、一時間もたっていません。実感と大幅にズレていました。
フワフワとしているのは頭なのか、それとも体なのか。ボーッとした感じのまま、かたづけをはじめました。ちらかったナップサックと遭難袋の中身を、機械的にひろっていきます。ペットボトル、おかしの袋、食糧のパッケージ、まるめたティッシュなど、もくもくと集めてまわりました。
ひととおり終えると、のこったのは、ビショビショになった床でした。ふれると、ヌルヌルします。ぜんぶカンオンで乾かすワケには、いきません。その前にエネルギー切れになってしまいます。どうしたものか。
「まあ、いいか。ほっときゃ、そのウチかわくだろ」
カンオンが赤く瞬いています。海底で見つけた時から、ずっとでした。もっと前からかも。気になっていましたが、緊急事態がつづいていたので、危険表示の赤に、なれっこになっていたのでした。
カンオンをあらためましたが、なんだかサッパリわかりません。か細い光線が顔にあたり、のけぞると、長イスの方にむかっていました。赤いガイドラインを目でおうと、マリの方へ。その足の間で止まっていました。
悪寒が走るソル。氏ぬほどイヤな予感。扇状の広がり具合からすると、そこしか水源は考えられませんでした。
息をコロシ、つめを手のひらに食いこませ、殺意で、身ぶるいしました。
「ぶはっ!」
と、はき出しました。
なにもかも、あいそがつきました。
人権もへったくれもなく、ただ、ただ、迷惑でした。
「またオレのせい?」
へへっと冷笑。
オレの番になると、いっつも!
じぶんがなにかをしようとすると、かならずジャマが入る。彼はそれが妄想とわかっていても、そう思わずにはいられません。
てめーら、いいかげん、おきろ!
と怒鳴りつけ、みんなを起こそうとして、やめました。なんども大きく深呼吸します。感情を整えようとして、やっぱりやめました。
なんで建設的になんなくちゃ、いけないの?
バカバカしいじゃん。
なにかしようとして、なにか考えようとして、メンドーくさくなってやめました。
足を引きずるよう端っこまでいき、ドサッと、こしを下ろしました。
「もう、しらねーよ」
とめどもなく生アクビが出て、なんだか、ねむくなりました。窮地に瀕した自我を守るため、自己が防衛反応しています。
ゴロンと横になりました。体をまるめ、腕で頭をはさんで、そのまま眠りに落ちました。おくればせながら、ようやくソルにも、睡眠がおいついたのでした。




