虹
カミナリの一閃に、かいま見たホルスの顔。それは、つぎにはもう、ニコライにもどっていました。
間歇的に不規則に、瞬く雷光。髪毛いれず、心臓を割ってつらぬく雷鳴。一回一回の稲光に、大死一番と覚悟をしいられ、そのたびはぐらかされる、HDHリボルバー(多装弾)のロシアンルーレット。そりかえった傾斜は絶壁となり、奈落にむかう輪は、じょじょに縮まってゆく。かしいだ船は螺旋の壁にへばりつき、重力の定めた軌条を着実に下っていきます。死はおかまいなしに、ソルと戯むれていました。
彼は床スレスレのカンオンを、ひろい上げました。エネルギーの警告ランプか、赤が色落ちしたような、うすピンクの衣をまとっています。掌でかすかに細動し、か細い光線と、消え入るような警告音を発していました。いったんポケットにしまうも、間髪入れず、カンオンを窓になげつけました。
「ピシッ」
と、走る白い線。
なにがおきたか、なにをやったか、じぶんが理解できません。直後、来るおしさに、彼はハチ切れそうになります。
「ク――」
クソ! といいかけ、口をつぐました。今みんなを起こしても、なにもいいことは、ありませんから。
ソルは絶望感に、さいなまれています。ヤケになってしたことですが、みずからの行為と、その結果を引き受けかねていました。あわよくば、このまま海底に引きずりこまれても、船さえもてばと期待していたのに。これでは絶対に、たすかりっこありません。
もう、ムリだろコレ……。
力なく壁によりかかり、彼はすわりこみました。とりとめもなく、あたりを見やります。壁や天井や柱、内装の細部へと、じゅんぐりに目をうつしてゆきました。すやすや寝ている三人の顔が、うらめしく見えました。
なんでオレだけ、おきてんの?
理不尽に感じました。かといって、しらぬ間に奈落に飲みこまれるのも、それはそれでイヤでした。彼はバンジージャンプするくらいなら、スカカイダイビングの方がぜんぜんマシでした。イヤむしろ、やりたいくらい。彼がなにより怖いのは、四肢をもがれたような、選択肢のない無抵抗でした。
今チラッと、おかしな考えがよぎりました。バカバカしいので、すぐに頭から、かき消しました。そんなことより、まず優先しなければならないのは、具体的なことがらです。窓に入ったヒビ、これが問題でした。でもよく考えたら、わたしたちの常識からしても、ちょっとヘンかもしれません。ソルのいるクラランのようなところでは、なおさらヘンでした。
この船は、河川運行用のヨット型浚渫船です。このような小さな船には、たいてい金属の舷窓蓋はついていません。しかし船であるいじょう、万が一の沈没にそなえ、一定の水圧に耐えられねばなりません。そのため小型河川用といえど、窓には、強化アクリル樹脂が使われているはずでした。でしたが、それにヒビが入ったのです。それも、たかが子の力で!
これは普通ではありません。クララン市民たるものの、常識に反しています。安全面に係わるパーツで、これほど脆いのは、ダメージをやわらげるためか、端からそういう作りになっているのが仕様でした。しかし人命を担い、緩衝材としての役目もないものが、こうもあっさり壊れるなんて。たとえこの船が未就航(?)で、環境記念物としての、ただのお飾りだったとしても、やっぱりおかしいのでした。
この、やっすい作りは、これだけ例外か? この型の仕様か? 東亜の輸入品か? それとも今の、あらゆる《《しけた》》世相を反映した、デフレの優等生なのでしょうか? もしこれが事実なら、なんてキッチュ(意図しない悪趣味)な現実なのでしょう。
なにせこの船こそ、クララン社会のメンドウくささ、そのもの、その結晶ともいえる存在だからです。道義的でしかないが故に、もっともそうであらねばならない、そのさいたるものが、まさか手ぬきとは?
衝撃的な結末でした。ソルはこれまで、数々のソフト面での「いいかげんさ」に便乗してきました。子として、なんのかんのと社会を信頼し、あまえてきました。ですがここへ来て、とたんに怒りがこみ上げました。
「なんだよ!」
つごうのよい怒りかもしれませんが、じぶんの命が、かかっています。
「ピシャ!」
カミナリが海に落ちました。
ヌルっと、ゆかが滑って、ガクッと肩がぬけました。傾斜をつたって、表面張力でもり上がった水が、ながれて来ます。反射的にニコライを見ると、彼が水源ではありませんでした。
もう水が入ってきてる……。ソルは慄然としました。
「ピシャ! ゴゴゴゴゴゴゴ……」
また落ちました。
「ピシャ! ゴゴゴゴゴゴゴ……」
耳を裂くような音ではありませんが、強烈です。
なんだか、カミナリの落ちる間隔が、開いてきているような気がしました。なんとなく、光と音の間隔も、少し開いてきたような感じがします。けたたましい轟音も、弱まったような……。心なしか船の傾きも、若干ゆるくなったみたい。
ふいに、彼は立ち上がります。あさくなった角度に、ぎゃくに、ちょっとフラつきました。高い方の窓辺に歩みより、のぞきこみます。薄墨の空が、みるみる明るさをとりもどし、雲がびゅんびゅん東の空へ飛ばされていました。
まとまらない頭で、ドアレバーに手をかけたまま、しばらく彼は、じっとしていました。
「出るぞ」
と、口に出してから、外へでました。
ポッカリうかんだ満月。雲のすいた夜空に、くっきりとした輪郭の真円。そのザラついた表面は、モノとしての確かな像を結んでいました。
「いや、だからなに?」
ボソッと、つぶやきました。
ふかく空気を吸って胸にためこむと、じわり、体温が上がりました。ひさしぶりに新鮮な空気を、あじわった気がしました。
上空には、ところどころ、まだ雲が散らかっています。ずいぶん昔のことのようですが、バケツをぶちまけたみたいな星屑は鳴りを潜め、今は点々《てんてん》と、まばらに星が瞬いているだけでした。
目を落とすと、月あかりに照らし出された海は、みごとなグラデーションを見せています。遠方から黒、藍色、群青色、青、薄荷青となり、うす暗い透明、船影の黒になりました。
その画はどことなく、マックス・エルンストの「フンボルトの流れ」を連想させました。星のない黒い夜のしじま、おだやかな青い海、ランボーの陰画のような、海と融けあった月の光と影。類似の偶然の効果をねらい、板キレの目をハンコのように押しあて、潮目、波目を、描くことなく描いた作品でした。(あくまで、イメージです)
ゆらめく影がジャマをしています。のぞきこんでいる、じぶんの顔が見えました。光の屈折が、砂底を間近に見せています。白い砂が、サラサラ表をながれていました。
ほんとうに手がとどきそう。見わたすかぎりの砂漠が、水の中にひろがっているはずと、彼は身をのりだし、手をのばします。このままザブンと、海へすべりこみたくなる、あまい誘惑にかられていました。
チラチラするものがあります。じつは、かなり前から、気ついてはいました。月の照りかえしではなく、よく目をこらせば、海中ふかく広範囲に、ひろがっていました。
色のあるような、ないような。白いような、透明のような。トンボやカブトムシの翅の構造色みたいに、うすくやぶれそうな七色の輝き。
だんだん眩さをましてゆく、とりとめもなく、ながれるような色彩。虹の融け出したようなそれは、晩年に失明しかけたモネの、一連の睡蓮のようでもあり、ただの色の戯れのようでもありました。(あくまで、イメージです)
横にはった落水防止のバーと、縦柱をつかみ、あおむけになってギリギリまで、身をのり出します。足の先っぽを水につけようとして、ムダにおわりました。
水はあたたかく、ここちよさげです。うっとりして、なんとなく、そわそわするソル。この身を水に浸したい、あの光るものの側まで近づきたい、できれば……。彼は、せき立てられました。
船まわりをキョロキョロしますが、おりていけそうなところは、ありません。
「おりて、どうすんの? (笑)」
じぶんに、といかけました。
船内にもどった彼は、三人の前を素通りして、うろうろします。ころがっているはずの、じぶんのカンオンは見あたらず、みんなのカンオンも、どこにいったか分かりません。あっちこっち持ち上げたり、カバーを外してみたり、いろいろ物色しますが、役立ちそうなものは、なに一つありませんでした。ずっと気になっていた、ゆかのはしっこに目をやります。この切れこみのあるところだけ、まだ手をつけていませんでした。
ゆかと一体化しているそのカ所は、とりつくしまも、ないように見えました。なにか開けるための道具でも、必要な感じでした。見るからに手動式で、今まで避けていたのです。イジっているうち、指一個分の穴にスポッとハマり、カパッと、木目の金属カバーが引っくりかえりました。
穴の中のレバーをつかんで、ガタガタしても、ビクともしません。見ると、まっすぐだったのが、ななめにズレています。ズレた方にまわすと、かるく回りました。なにも、おきません。またガタガタやると、そこだけ、わずかに浮きました。力を入れても持ち上がりません。あやまちに気づき、じぶんの足を、どけました。足場を変え、ぐっと、ふんばって持ち上げました。
賃貸アパート一畳分ほどのスペースが、ごそっと開きました。パッと明かりが点くと同時、ホログラム・マニュアルが起動しました。
「ビンゴ!」
中にカッチリおさまっていたのは、作業用か救助用の、サラの白い水中服でした。説明がはじまりましたが、子のソルには、なにやらチンプンカンプン。取説なんて、いちども聞いたことありません。抽象的アイコンのお手本映像だけ、ながし見した後、ハイハイと同意しました。
宇宙服っぽいのが、うつぶせに固定されていました。セミのヌケガラみたいに、パックリ背中が開いています。興味本位でそこへ滑りこむと、パシュッと空気がぬけ、ブカブカが一気にフィットしました。
「わっ、まだ早いて!」
みうごきとれず、てんぱります。
「まだ、そんなつもりじゃ――」
床蓋が落ち、まっ暗に。
パニくるソル。
「ガンッ!ガクン、ガクン」
ショックと、ゆさぶり。
「バシュッ、バシュッ、バシュシュー……」
ギューと、しめつれけられ、気圧の変化で、耳がキーンとなります。
「ゴボゴボゴボゴボ……」
デクノボーで、みうごきとれません。
「バクン! ゴァゴァゴァーン」
一気に視界が開けました。
その景色を照らしていたのは、スーツのライトでした。彼は水中を降下していました。
なぜか自然と、足が下にむきます。何百メートの深海というほどでもなく、あっけなく海底につき、ヒザが自動制御でまがりましたが、コケました。ふわりと、白い砂がまい上がりました。
上をむいた矢印が、目の前でチカチカしています。アクアスーツの頭部は、後頭部からアゴにかけて、ななめに切られた台の上に、ドーム形状のプレキシガラスをのせていました。その内側のガラス面の表示が、まぢかでなく、手前の対象のように投影されていました。船の位置を、おしらせしているのでしょう。体のむきが変わるたび、せわしく矢印が回転しました。
アクアスーツはちゃんと機能しているのに、息ぐるしくて、しかたありません。彼は吸いこんで、ばかりいます。吐き出すのを、わすれているかのようでした。
ついに来た。とうとうこの日がやって来た。おそれていた深海だ。漆黒の暗黒世界に、身震いしながら足を踏み入れるソル。リサイクルの空きカンみたいに、ペチャンコにつぶされそうな高水圧を降りてゆくと、底は底なしのドロ沼。前進も転身もままならぬ中を、空気を浪費しながら、もがき足掻き、のたうちまわる。そこへ暗闇にまぎれて迫る、巨大な影。
七転八倒のすえ、からくも異形の深海生物から逃れると、アクアスーツを擦りつけ、険しい岩肌を這はい上がる。蒸れるスーツ内で滝の汗をかき、登りつづける。斜面は半ば融けた海藻で埋めつくされ、安心して足を降ろせる隙間が、毛ほどもなかった。
ホースが切れ、フーカー潜水(地上から空気を送る方法)からスクーバ(携帯タンク式)になったスーツは、もう空気がのこり少ない。気ばかり焦って、ただ先へ先へと、盲目的にやみくもに進でゆく。
だんだん空気がうすくなり、朦朧とした意識で彷徨いつづける。ヌルッと、足をすべらせた。体が宙に浮かんだ。濃密な数秒間。不幸にして、彼は我にかえった。空をつかむように水をつかみ、なすすべなく、大海溝の裂け目へまっ逆さま……
深く遠くへ潜行する、頭のサーチライトと、まわりを照らし出す、肩の広角ライト。二つの光源によって、風景が明るみに出されていました。
どこまでも光のとどくかぎり、なだらかな白い砂漠が、つづいています。フェアウエーみたいにノッペリとしたスロープと、小山をつらねた砂丘の峰々《みねみね》。あたりには、月影を落とした魚の影も見えませんでした。
「ふいー」
思い出したように、大きく息をはき出しました。とりあえずソルは、足を前に出しました。
背中を引っぱられ、ふりかえります。二重にドキッとして、ウミヘビかと思ったのは、ホースでした。それが天上の船影《船影》まで、国旗のポールみたいに、かしいで立っていました。空気ホースと、エネルギー、通信ケーブルを一まとめにした、がんじょうな命綱でした。
ちゅうちょしつつも、ホースのとどくかぎり、いけるところまでいってみようと、彼は思いました。水中なのに、いやだからこそ、かなりキツイ。うかないよう仕込まれた重りと、着ぶくれした水の抵抗が、前進をさまたげます。アクアスーツは、頭でっかちで下半身の貧弱な、宇宙人みたいでした。
いくら歩をすすめても、まばらに輝くものは、ふえもしなければ、へりもしません。一様にあたりをチラチラまっています。とおくのようにも、目の前のようにも見えます。今だ、と手を出しても、空を切るばかり。錯覚をうたがい、目を擦ろうとして「コツン」となりました。
たいくつな景色をバカみたいに歩きまわって、ぜえぜえ、息が上がりました。汗もかいています。おでこのあたりを拭おうとして、またもや「コツン」となりました。
「クソ!」
もどかしさのあまり、彼は砂をケリ上げました。
もあ~ん。
砂がまい上がって、視界不良になりました。するとなんだか、今までより、虹が濃くなった気がします。
もういちど、ケリあげました。
もぁ~ん。
気のせいなのか、やっぱり、輝きが増した感じがします。
またもう一回、砂を大きくケリ上げました。
もぁ~~ん。
さらに一回、またもう一回と。つづけざま、なんどもケリ上げます。
もぁもぁもぁもぁもぁ~~~ん。
煌めく無数の虹の破片が、よどんだ視界を、にぎやかに踊っています。なんとも形容しがたい、無色透明で多原色な、矛盾をはらんだ輝きでした。
しばし、むごんで考えこむソル。彼はある結論にたどりつきました。
「カンオンが……ない」
くるっとふりかえり、彼は船にむかって、のっそのっそ歩きはじめました。
ぐっしょり汗だくになって、船の真下までたどりつきました。不自由なアクアスーツで、ヒザをおって反りかえろうとします。胸がつまって、しりもちをつき、船を見上げました。
やおら立ち上がって、前かがみになり、ふりかぶります。せーのと、いきおいつけて、ジャンプ!
落ちながら足をバタつかせていると、足ヒレがのびてきました。底から2、3メートルの高さで、ジタバタ、ジタバタ。遅々《ちち》として上がっていきません。
きゅうに体がかるくなると、ずんずん上へ上へ、捗る捗る。まるで空を、とんでいるよう。背中のホースが、掃除機のコードみたいに収納されているだけでした。
あっという間に回収され、船橋にもどりました。パックリ背中がわれ、水中服から脱出しました。みんなを見ると、まだスヤスヤ寝ています。
「ちぇっ」
ソルはじぶんのカンオンをさがして、室内を見てまわります。アクアスーツをぬぐと、体がすこぶる軽く、まだ十分体力がのこっていました。思ったほど、たいして時間はたっていませんでした。
どこいったんだよ、このだいじな時に。エリゼの子には、カンオンと故障が、すぐに結びつかないのです。
しつこくさがしましたが、けっきょく見つからず、あきらめました。他にそれらしい船のコントロール装置がないので、舵輪柱についているミニモニターを弄ります。
「ええい、点けよ!」
ベタベタさわったり、パンパンたたいたり。
ポッチが赤く点りました。とりあえず、主電源だけは入ったみたい。
「なにか、おこまりですか?」
抽象的音声と、二次元のホログラム画面が立ちあらわれました。
「しー、しずかに」
小声でいうと、ボリュームモードが変わりました。
ヘルプ自動機能の手びきによって、モーターが始動しました。二段階にレバーを引くと、動力が待機から、シフトチェンジしました。
「ガガガッ、ガックン!」
あせって、ふりかえるソル。
よく考えたら、べつに、もうおこしたっていいか?
三人から視線をうつし、あらためて、ビショビショになった床を見ました。
ちぇっ、あとでなんかで、ふかなくちゃな。
彼は、ウンザリしました。
なんかオレ、後かたづけばっか、やってんな……。
「ウィィィィィーン。ガポポンッ」
「準備が、ととのいました」
「始動しても、よろしいですか? よかったらハイを。まだでしたらイイエを。停止のばあいは、ストップと言って下さい」
「ハイのばあいは、ハイといってから、お手もとのミドリのボタンを、おして下さい」
「えー、はい」
「……」
機械は沈黙しています。
「ミドリのボタンをおして下さい」
「?」
「ミドリのボタンをおして下さい」
「あっ、はい」
あわてて彼は、点滅してるボタンをおしました。
「ゴワンッ、ギギギー」
船がゆれ、さざ波が立ちます。船腹の水際から、アブクが湧きはじめました。
「ブクブクブク……ボコボコボコボコボコ……」
にえたぎった湯のように、まっ白に湧き立つ海面。いつか見たバミューダトライアングルの動画みたいに、アワで浮力をうしなって、沈没するんじゃないかと、ゾッとするほどでした。そう思ってたやさき、ぎゃくに、船が上がっていく気がします。じっさい、喫水線が下がってきていました。
しばらく彼は、アワがしずまるのを、まちつづけました。
「よし」
ソルは立ち上がりました。ねている三人をしり目に、アクアスーツにすべりこみます。閉じこめられる不快感をやりすごし、また海へ、なげこまれました。
海中は一変していました。砂のヴェールが覆って、一寸先も見えません。まばゆい虹のフラグメントがあふれんばかり、海中ならぬ地中を、埋めつくしています。
やぶれた蝶の翅、いびつな星型、すりガラスの放射線模様。多種多様な形で、砂の厚みを貫ぬいて光っています。興奮と恐怖心で、体がこわばりました。
虚をつかれたソルは、足よりヒザで着地して、もんどりうって倒れました。バウンドして、ゴツゴツしたものの上に、あおむけになりました。ショック状態がさめやらぬうち、おき上がろがろうとします。ガクンッと、手をかけたモノが下がり、また、たおれました。
つかんでいたのは、三輪車のペダルでした。密閉されているはずなのに、イヤな臭いがします。スーツの中にまで、侵入してきていました。たまらず、彼は息を止めます。すぐに苦しくなり、おもいっきり吸いこんでしまいました。
「ゲホゲホ、ゲホゲホホ……」
さっきまでの澄み切った海は消え、変電所の池の水を濃縮還元した、ヘドロのスープと化していました。
顔を下にむけると、中心が白く飛びます。強力なライトを、半分手でフタをしました。立ち上がってあらためて見ると、ソルは生活ゴミの、山の頂上にいたのでした。
砂の帳を素通りして、あらんかぎりの可視光線の色のスペクトルが、乱舞しています。無限色を飛散させる、万華鏡の中に迷いこんだみたいでした。幾何学的な花ビラ、唐草模様、ゴブランの綴れ織り、生きた貝殻の琺瑯質、蝉や蜻蛉の目と翅、イリデッセンス(透明な宝石の、わずかな裂け目にあらわれた虹)、ドブの水面にうかんだ油の滲み……。
それら虹の綾目のただ中に、巨大なシルエットが浮かび上がりました。前方にひかえたそれは、煌びやかで装飾過多な輪郭をもち、どことなくバロックというより、ロココな花瓶か水差しのようでした。あるいは華麗ではあるが、どこか人造的な睡蓮の蕾を想わせました。
ふしぎとソルは、こわくありませんでした。正体をつかもうと、ガンをとばすみたいに見つめていました。砂はいつまで立っても海中にとどまり、いっこうに沈んでくれません。もどかしい気もちで、視界が晴れるのをまちつづけました。
その形は、どう見ても龍でした。透明に透けた体に、七色に輝く鱗。羽をたたんで座りこみ、首を上げ、まっすぐこちらを凝視しています。
「マジかよ……」
しぼり出すよう、いいました。ソルはゴミの山の上に、両手をついて、しゃがみこんでいました。もう見つかっているし、今さら逃げたってしょうがないし……。にげないのでなくて、にげられなかったのです。でもなぜだか、それほど、こわくはありませんでした。しばらく、両者ともに、にらめっこしていました。
龍はずっと、こちらを見ていました。




