凪
悪者。――「孤独なものだけが悪い!」とディドロが叫んだ。そこで直ちにルソーは致命傷を受けた気がした。
――ニーチェ全集7「曙光」(ちくま学芸文庫)
いけども、いけども、微動だにしない黒いタンカー。とおくから望む岩山みたいに、かたくなに、そのすがたを変えてくれません。白い陽射は影をうばい、かくれ家を消しさります。あまりの図体に、避難をあきらめた海の怪獣レヴィアタンが、おひるねをしているよう。赤いおなかを沈ませ、べったり寝そべっています。ばけものじみた容積をほこる船が、はるか沖合に停泊していました。
小さなヨットは、波をかきわけ走ります。帆のない船は、プレジャーボート然として疾駆します。まひるの太陽は影をしぼり、テラテラ海面を、水銀みたいに光らせます。空には雲一つありませんでした。
たった一つの目標物をうしない、後ろ壁のような地平線は海にのまれ、ぐるりと、見わたすかぎりの水平線。空と太陽と海。それいがい、なにもありません。風はそよとも吹かず、海鳥は鳴かず、魚一ぴき跳ねませんでした。
子らは、時間がなくなったような感覚に、おちいっていました。それぞれカンオンでゲームを立ち上げ、時間つぶしをはじめています。しだいに画がカクカクしてきました。クッソ重たくなり、やがて固まりました。みんな、しぶしぶオフラインに切りかえ、あそびをつづけました。
二度目の食事をはさむと、すぐにウトウトに、おそわれました。船橋の三人は、おひるねのまっさいちゅう。甲板のソルは、雲の形を言いあてるのに、もう、あきあき。しかたなく、五周目のローカルRPGに、とつにゅうしていました。
ゆうだいな自然のまったただ中で、虚構の異世界を無双するソル。いったいだれが、彼をわらえましょう? なんでもいいから、とにかく目あたらしいものを、志向物を、彼は渇望していました。それが人の性でした。
夜もとっぷりくれました。風は凪いでいます。潮のながれも止まったまま。さんざめく満天の星灯りの下、すべてが停滞していました。今日一日の落差たるや、午前中におきたことが、おなじ一日のできごととは、とうてい思えませんでした。星々のざわめきが、聞こえてきそうな夜。波が船腹にあたる音しか、聞こえませんでした。
星は黒い盤面に打ちこんだ、きらびやかな金釘。夜空の書割に描かれた黄色い満月。それへ、つきささるよう着陸した銀色のロケット。人面遺跡へとひた走る月面車。つきっぱなしの固まったスコア。ぬるっとすべるフリッパー。だいじなところで横切る、いじわるスパイダー。ソルは甲板に、ねころがっています。意地でも課金しない、やりあきたピンボールの画面を、無表情で見つづけていました。
ところでみんなは、一ばんだいじなことを、わすれていました。旅の目的、および目的地です。ソルはジュリたち他の三人に、まだそれを、たずねられていませんでした。聞かれたって、答えられやしませんが。なにしろ彼の目的は、出発することだったのですから。ゴールなんて始めっから、なかったのです。
どうせ、テキトーなトコで引きかえすだろう。てぢかな島にたどりつくだけだろう。よくあるミステリーツアーの茶番なんだろうと、みんなタカをくくっていました。たいくつな予定調和と見下しながら、ソルじしんも、けっきょくどこかで安心していました。
カンオンにゆだねることが最善の策であるとは、すでに実証済みでした。それは、ゆるぎようのない、たしかな結果であり、またその確率でした。今さら、ぼう大な一次資料に目をとおし、個々に検証し直すような酔狂な人は、もはや、いませんでした。そんな懐疑の季節は、とうにすぎさっていたのでした。
万全を期すため、今現在も検証がなされている、といわれています。ある証明がなされる時、それを視ているカンオンはべつのカンオンに視られ、視られているカンオンもまた、ちがうカンオンを視ている。カンオンはカンオンの監視者であり、監視対象でもあります。どのカンオンも判断する主体性をもち、かつその対象物でもありました。
人は聞かされていました。全体的個としてのカンオンによって、今も証明の証明がされつづけていると。そこに不確定要素である、人の入りこむ余地など、まったくないのだと。疑問をさしはさむ人は、そくざに問われます。安心と効率をすてるだけの価値が、いったいどこにあるのだと。その結果に、おまえは責任がとれるのかと。過剰な伝聞が短期的な受動的信仰を即製し、あらがいがたい空気となるのでした。
ようするに、だれもわるくはないのです。なまけることは、最善の選択でした。はじめは警鐘をならす人もいました。とうしょ、良識派を無邪気に自認する人たちは、すぐには浸透しないだろうと、楽観視していました。「人はそんなに愚かではない」とか。「歴史に学べ、人はカンタンには変われない」とか。「私は信じる人の良心を」とかなんとか。でもその期待は、すぐに裏切られました。カンオンによる全面サービスが施行されるやいなや、あっという間に、人はそれになれてしまいました。一部ですが、なぜもっと早くから、そうしなかったのか? という責任論さえ出るほどでした。
自己正当化が生きものの必然であるいじょう、それに積極的価値を見出す人たちがあらわれるのは、とうぜんのなりゆきです。「いい時代になったものだ。これからは一億総隠居の時代だ」とか。「柔よく剛を制す。受動的なものに積極的価値を!」とか。進歩と、とりちがえ「これは退化ではない、あらたな進化なのだ」とか。さまざま解釈がなされました。しらずしらず市民らは、ひくい木になったブドウを楽々手にいれたような、きみょうなルサンチマン(恥辱感の正当化)ぷりを、はっきしていました。――ちなみに、ここでいうルサンチマンとは、劣等感や、不正に対する怒りではありません。情念ではなく、愚劣な「解釈」のことです。自他未分の快楽原則の世界を生きつつ、強度の低い言葉と受動的な倫理を武器とし、自分につごうのわるい社会を、さかさまに、無責任にひっくり返そうとする試みです。わかりやすくいえば、赤ん坊の記憶を引きずったままの、そぼくな物質現実への反逆のことです。
とはいえ、人ができるような仕事だけは、たっぷりのこされていました。気づけば、抽象的な仕事につく人々は、自立民としてカンオンをもち、より具体的な仕事に従事せねばならぬ人々は、自由民としてカンオン・フリーな生活様式をえらんでいました。市民は、おのずと分かれていったのです。いつしか、かまびすしい議論も消え、カンオンは空気になっていたのでした。
みんながわるい時、わるい人は、だれもいなくなってしまいます。世間体というプロクルステスの寝台が、その社会の矯正装置が、働かなくなるからです。一人がおかしくなるのは、百分の一の確率ですが、みんなにあっては、いつものこと。個に悪の烙印をおせても、みんなで悪には、なれないのです。だって善悪って、価値なんですから。個が貨幣や言語をつくれないように、価値とは社会の意志そのもののこと。社会の自己正当化のこと、なんですからね。
だからそう、わるい人なんて、だれもいなかったのです。
二日目。
「ちょっとお、なにやってんの!」
とつぜんジュリが、おこりだしました。
「?」
びっくりするソル。
「水がないじゃない、水が」
「……は? だって、のんだじゃない、きのう」
「きのうのうちに、わかってたんでしょ!」
「うん、おまえもな」
彼はぐるつと見まわしました。マリもニコライも、カンオンが、あいてをしていました。
「みんな、そうじゃん」
「どうすんの、そのカバン(ナップサック)の中に、なんか入ってないの」
「ないよ」
即答するソル。
「どうすんの、もう食べもの、みんなないよ」
「いや、しってるけど。しってたでしょ?」
「しってる、しってない、とかじゃなくって。だから、どうすんの!」
「しらんよ。かえれば、いいじゃん」
「はぁ? どーやって」
「いや、しらんよ」
「もういいから、かえして。あんたが、かってにつれてきたんでしょ。もうじゅうぶん遊んだし、気がすんだでしょ? ハイハイ、もういいから。とにかく、はやくかえして」
「だから、さいしょっから……」
ソルは口をつぐみました。ため息をついてから、ナップサックを手にとると、ゴソゴソ中を物色しはじめました。すぐにメンド―くさくなって、さかさまにふりました。
他の荷物にまじって、ミネラルウオーター、ばらのキャンディ、子袋のビスケットが、ゆかにころげました。
「ほらよ」
「うっわ、サイテー。あるじゃない」
「ふひょー、くれくれ!」
のりだしてくるニコライ。
「ダメ! マリがさき」
たしなめるジュリ。
「じぶんさえ、よければいいの? じぶんさえ!」
「そうだよ。だからついてくんなって、いっただろ?」
「いついったの?」
「……」
ソルは絶句しました。こうなんだ。これがふつうなんだ。と言い聞かせ、気力をふりしぼって切りかえます。
「いいから、空のペットボトルに、みんなのぶん分けろよ」
「よかないわよ、マリには多めにだから」
「えー、ダイジョ―ブだよ。わたし」
こまり顔で、いちおう、ことわるマリ。
「いいの、あなたじゃなく、赤ちゃんのぶん。これは人命救助なんだから」
ほほえむジュリ。
ケッ、いちいち大げさ。一日くらい水のまなくても氏なねーよ。目の前のやりとりが、ソルには、おしばいのように映っていました。
「あと、かえるんだから、船もどして」
「まだ、あんのかよ、もうさぁ、すきにすれば……」
「いちばん、だいじなことでしょ。なにいってんの」
「しってるよ。だから……」
「あきれた。パスワード登録したのじぶんでしょ。あんたのいうことしか、きかないんでしょ。わすれたの?」
なかなか、うごかない、うごきたくないソル。
「船にいえばいいだけじゃない船に。カンタンでしょ。さ、はやく」
しぶしぶソルは、必要もないのに立ちあがりました。
「船をもどして。陸にむかって。もとのところに」
わざわざカンオンにむきなおって、滑舌よくいいました。
米粒大の青い光がカンオンに点ると、空中にうかんだワクの中で、赤いラインが跳ねます。それがパッと、グリーンになりました。(このアイコンはデフォルト仕様です)
「あとは、しらんよ」
たおれるよう寝っころがり、立てヒジついて、ゲーム画面に切りかえるソル。ジュリが仁王立ちのまま、しばらく、じっと見下ろしていました。
「じぶん、かって、なんだから」
なぜか彼女も滑舌のよい、すてゼリフをのこし、いってしまいました。
「へへ、おこられてやんの」
ニコライが小さく、ささやきました。




